年度末のこの時期、「あいさつ推進運動」年寄りメンバーに向けて
小学生からのお礼の作文集が回ってくる
一番の関心は近所の子たちの書いたもので、それ以外の子のものは
つい、さっと流し読みをしてしまう
ところで、毎年同じような感想を持つことがある
それは6年間という時間の凄さだ
一年生の書く作文はA4の用紙にひらがなの大きな字で
気持ちだけは溢れているだけだが
5年6年になると字の上手さが際立ってくるし
文章も経験した事実を混じえて客観的な表現ができるようになっている
6年間でみんながこれだけ進歩・成長するのか!
と珍しいものを見るかのように驚きを覚える
今年は近所の子の4人の作文を見つけた
2年のKちゃん、4年のAちゃん、六年のRちゃんとKくん
それぞれの顔を思い浮かべながら読むと
この4人の作文は他の子の作文と少し違う印象を覚える
それは内容が具体的であるということ
他の子のはパターン化された、先生から感謝の念を書かされた
という感じがするものが多いのだが、この4人のものは
自発的な自分が感じたものが書かれているように感じる
もっとも、そうなるのは少し理由があって
自分は校門まで一緒に歩いていき、その間におしゃべりをするのだが
他のメンバーは自宅の近くとか校門で、挨拶の声がけをするお役目だからだ
ウォーキングもを兼ねて一緒に歩くのは自分の心の健康にもなるし
通じない会話自体も面白くて、自分にはお役目というよりは楽しみになっている
でも、怖いな!と思うことも今回の作文の中にあった
それは子どもたちは意外に色んなところを見ているということで
一人は右側通行するために道を横断する時に、車に一旦止まってもらって
みんなが横断するようにして、ドライバーに軽く会釈しているのだが
それをちゃんと記憶していて、安全に通学できることを感謝していたこと
もう一つは、一緒に登校する月木曜日は可燃物の収集日なので
道の途中にはカラスに突かれ袋からはみ出た食べ物のゴミが散乱していることがある
しょんないなあ、、と思い、はみ出たものを少しだけきれいになるように
したこともあったのだが、そのことを子どもが覚えていて
それを良いこととして書いたあったのだった
子どもたちは大人の行動をちゃんと見ている
それも想像以上に良し悪しの判断を持って
こんなことを思い知らされてしまった
子どもは人の背中を見て育つといわれる
とりあえず、自分は変な背中でなかった!と思えることにホッとしたが
それにしても子どもの観察は実は恐ろしいのかもしれない
来週の水曜日は6年生の卒業式
月木の近所の子供たちとの校門までウォーキングもあと少しになってきた
通学を仕切る班長さんや並ぶ順番は、新学期に向けて変わってきている
「おじさん、あのね、IくんとDくんがおしゃべりに夢中になって
列から遅れることがあるから、二人は離れるように言って」
「並ぶ順番は決まっているのかな」
「うん」
IくんとDくんはブラジルにルーツのある子どもで、まだ日本語が心もとない
だからこそ、二人は普通に話せるポルトガル語でおしゃべりをしてしまうのだろう
さて、頼まれたものの、その日本語が通じるかは不安だ
そこで、スマホアプリで「列から遅れないように歩こうね」と音声入力をした
すると、それをみていた一年生の女の子が
「歩きスマホはダメだよ!」の一言
これにはつい苦笑してしまった
一年生は物事がわかっているのか、わかっていないのか
会話が通じないところも、妙に大人びた話をするのも
このアンバランスなところが面白い
寒いときは手をこちらの袖の中に突っ込んで(当然の権利があるように)
あったかい、、とつぶやき、校門までそうしている
先日は「どうせYoutubeからの情報でしょ」
とツッコミもあったが、本当に1.2年生の頃はみんな無邪気そのものだ
こうした無邪気な子も時間が経過すると徐々に話さなくなる
4年のAちゃんも、以前は今のIちゃんみたいに無邪気なお喋りをしていたのだが
今は必要なことしか口にしなくなっている
なんだか寂しいが、それは大きくなるということで仕方ない
何年か前、家のチャイムが鳴って
「おじさん、一緒に遊ぶ時間ある?」
と4年の女の子と一年の男の子が誘いに来て
彼らと外でかくれんぼを付き合ったことがあった
また、数人が我が家にきて、一二階の部屋をまるで自分の家かのように
かくれんぼをしたこともあった
それを同居人も笑って受け入れてくれた
それどころか同居人は遊んでいた女の子に
自分で作った小さなアクセサリーをプレゼントした
今でもその時のことを話すことがあるが
「きっと彼女たちは覚えていないね!」でいつも終わる
小学校の記憶は自分でも怪しいものだから、ずっと覚えているとは思えない
でも、少なくともこちらは覚えている
それも楽しい思い出として
歩きスマホはダメ!
この大人びた警告もちょいと楽しい思い出になりそうだ
子どもたちのためと言うよりは、自身の心と体の健康のために
行っている月曜日と木曜日の小学校校門までの付き添い
小さな子と話すのは話が通じないことも面白い
今朝は、笑えることがあった
「まだ口の中にレーズンパンの残りがある」
「朝ご飯は、パン?ご飯?」
「パン」
「パン一択でしょう」
「パンと牛乳か」
「私、牛乳大嫌い」
「卵は目玉焼きと卵焼き、どっちが好き?」
「目玉焼き!」
「目玉焼きには何かける?塩、醤油、ソース?」
「塩」
「塩コショウ」
「そうだね、シンプルなのが良いかもね」
「卵、白いとこは好きだけど、オレンジのところは嫌い」I
「ゆで卵もそう?」
「うん」
「あのね、卵を割って黄身と白身に分けて、白身の方を思いっきりかき混ぜて
泡立てて、それをご飯の上にかけて黄身を乗せて醤油をかけると
いつもとは違う卵かけご飯になるそうだよ」
「どうせ、youtubeからでしょう?」
あらら、突っ込まれてしまった
先日、生まれたときからYoutubeがある子どもたちの生活ぶりの驚きを覚えたが
今朝もまた驚いたというか、笑えてしまった
今日はみんな饒舌だった
「鼻毛が伸びてる」
「君たちが小さいから鼻の中が見えるんだよ
ほら、こうしてかがんで見ると鼻の中は見えないでしょう
先生の鼻の中も見える?」
「見えないかな」
「白い鼻毛が見える」
またもやツッコミ
「うーーん、歳だから仕方ないかな」
こんな会話がとても幸福な時間を感じさせてくれる
そして無邪気な子どもたちが、そのまま素直に育ってくれることを
気負いもなく思う
未来の大人たちへの責任は、今の大人にあると身にしみて思う
月曜日と木曜日、子どもたちは木曜のほうが機嫌がいい
月曜日と木曜日は近所の子どもたちと小学校校門まで歩いていく
挨拶が目的のボランティア活動だが、ウォーキングを兼ねて
健康のためにここ数年続けている
今日の子供たちは機嫌が良かった
おしゃベりしたのは1.2年生の女の子だったが
月曜日のそれと比べると、いつも木曜日の方がハイテンションの感じだ
月曜日は休み明けで、エンジンがかかっていなくて調子が出ずどこか不機嫌
でも木曜日は学校生活のリズムに慣れて、登校は普通にこなす行事のようだ
寒い今朝は、まるで権利のように1年生の女の子が袖の中に手を突っ込んでっくる
冷たい手が触れる
そうくるだろうと予想していて自分の手はなるべく暖かくしておく
お互いの手の感触を感じながらおしゃべりしながら歩く
どういう経緯か忘れたが桃太郎の話になった
桃太郎は何から生まれた?聞いてみると
男の人の大事なところから生まれたんだよ、、
と笑いながら1年生の子が答える
大人の反応を見計らっているようだ
子どもは何故うんちとかこうした話が好きなんだろう
しばらくして1年のIちゃんが物語を始めた
あるところに、KちゃんとIちゃんがいました(2年生と1年生の子の名前)
二人は学校に向かって歩いていきました
一緒におじさんも歩いていきました おしまい
ふたりとも笑いながらおしゃべりを続ける
ふたりとも大きくなったら何になりたい?
話題を変えて聞いてみた
1年の子はデザイナー
2年の子はお菓子屋さんとか花屋さん、先生が良いと答える
校門近くになって5年生の男の子に聞いてみる
Hくんは?きっとYoutuberかな
彼は満更ではない感じ
そこに門で待っていた校長先生も会話に参加する
Youtubeは誰もやっていないモノにしないと駄目だよ
もうゲームの実況も料理もいっぱいあるし、、
すると、それを聞いていたいつもは時間ギリギリに投稿する男の子が参加した
チャンネル登録が500以下は駄目みたいだよ(運営として扱ってもらえない?)
登録者が1万あると、〇〇円儲かるみたい
なんか驚いてしまった
小学生がこんな話をするとは!
確かに、子どもたちの将来なってみたい職業にYoutuberがあるのは知っていたが
こんなに身近なものだったとは
時代の流れとは言え、すごいなあ、、
そう言えば、以前、こねて焼くだけのパンの話になった時
4年生のAちゃんは、「こねて焼くだけのパン」で検索すると良いよ
とアドバイスがあった
デジタル社会は彼らにとってもう当たり前のものになっているようだ
ほんと、凄いな!とまたもやため息がでてしまう
校長先生に「リテラシーの勉強が必要ですね」と声をかけると
「もうそれは始まっています」との答え
いやはや凄い時代になっているものだ
月曜日と木曜日のルーティン 小学校までの付き添いウォーキング
あまりおしゃべりしない2年生のKちゃんが急に聞いてきた
「おじさん、おもらししたことある?」
「そうだな、あるかも、小さい時はおねしょしたことがあるかな
Kちゃんは?」
「うんとね、ずっと、ずっと、ずっと、ずっと前にしたことがある」
これを聞いていた手を繋いでいる1年生のIちゃんに聞いてみた
「Iちゃんは?」
「わからん」
「そうか、都合の悪いことは覚えていないもんね」
Iちゃんは、「あったかい」と言って最近は手を繋いできている
そんなことを話していて、頭に浮かんだことがあった
「みんな今までで一番古いことで覚えていることは何かな?
おじさんは〇〇西保育園のすべり台でスーパーマンみたいな格好で
滑って降りたことを覚えているなあ」
「〇〇保育園って?」4年生のAちゃんが聞いてきた
「今の小学校のすぐ裏にあったんだよ」
「私、知っている」
今度は最近ふっくらし過ぎの5年生のHくんが
「俺はユニーに行ったことを覚えている」
と、体を触りながら答えてきた
そして「ちょっと太り気味じゃない?」
とからかいながら言ってくる
「それを君から言われたくないなあ
最近、僕は痩せてきたんだよ」
それから、自分が小さかった頃の話をした
お弁当のこと、薪をもって小学校に行ったことなど、、
こんな感じで校門までの時間はあっという間に過ぎていった
こんな他愛もない話がとても幸せな気分にしてくれる
彼らは大きくなった時、これらのことはきっと覚えていないだろう(と思う)
でも、どこか記憶の片隅に残っていてくれたら良いな
今日嬉しかったこと
夕方、庭の木に水やりをしていた時、
近くのアパートに住むブラジル人の家庭の方々が車で出かけようとしていた
「こんにちは」と奥さんの声がする、彼女はまだ小さな女の子を抱っこしている
彼女は朝に子どもを送り出す時も顔も見ると「おはようございます」と挨拶をしてくれる
先日は女の子のおでこに擦り傷があったので聞いてみると
転んで怪我してしまったとのこと
かわいそうに、、
気をつけてね、、と女の子に話しかける
話しかけたのはどこの誰かわからない人かもしれないが
表情は不安そうなものではなかった(と思う)
お母さんの声に続いて男の子の声が聞こえた
「こんにちは」
ずいぶん元気のいい声だ
声の主は月木の校門までのウォーキングに出会う子だ
かれはその時は面倒くさそうに小さな声で「おはようございます」というだけ
ところが、今回は予想外の大きな声
ちょいと驚いた
そしてそれはなんだかとても嬉しかった
いつも行っているあいさつ運動は、役に立っていると実感できて
そして彼は知らない近所の日本人は信用できる
と感じているのだろうと思えて
これらは錯覚かもしれないが、
子どもたちが安心して話したり相談できる人間としてみてくれたら
こちらも幸せな気分になれる
「〇〇さん、今までありがとうございました
(ブラジルにルーツを持つ)Lくんは先週が最後で、引っ越しました」
小学校の校門で待っていた校長先生が挨拶がてら声をかけてきた
その10分ほど前では、彼の家のベルを鳴らして
「Lくん、行きますよ!」と呼びかけたが
どこか生活感のない雰囲気だったのがそれでわかった
「岡崎の方に引っ越すそうです」
なんだか拍子抜けした気分になった
なかなか上達しない日本語に心配が募ることが多かったが
それでも、こちらの言う事はわかっている雰囲気はあった
彼はこの10ヶ月間、幸せだったのだろうか?
不意にそんなことを考えた
異国、慣れない環境、話せない日本語、彼は何を感じていたのだろう
だが「先週が最後で、最後の2日間は泣いていたようです」
この話を聞いて、少しホッとした
彼はみんなと別れるのが辛かったのだ、、と
そして彼がここにいた10ヶ月間
時には校門でグータッチして送り出した日々は
彼にとっては辛い日々ではなかったのだと思えると
どこか救われたような気もした
彼との一番最後の会話は先週の木曜日
「L くん、背が高いね、クラスで一番大きい?」
と聞いたことだった
「うん」と答えて、もう少し何か言いかけたが口ごもって聞き取れなかった
もう少し記憶に残ることをしておけば良かった
と思うが、人生っていつもそんなものだ
そんなことを思い出しながらPCに向かっていると下の方で声がした
「おじさん、ただいま!」
小学生5年の男の子Hくんが大きな声で家に向かって叫んでいる
そこで窓を開けて「おかえり」と応える
今日は妹のIちゃんもお兄ちゃんに誘われて「ただいま」と叫んでいる
彼女は2階にいるのを見上げて、もう一度「ただいま!」と言う
「あれ、どこ?」
Hくんは声はすれども姿は見えず状態だったようだったので
もう一度「おかえり」と言うと、
やっと2階の窓から顔を出している自分を確認した
ここ最近、Hくんの下校時はいつも家に向かって(車があって在宅を確認して)
「ただいま、、」と大きな声で挨拶をしてくれる
こうしたちょっとした毎日のこと
そうした喜びがLくんの10ヶ月の生活の中にもあったのだろうか
無理矢理にでもそう思いたい気がした
「Hくん、昨日ありがとうね、『ただいま!』って大きな声で言ってくれて」
「うん、おばさんが『おかえり』って言ってくれた」
最近、毎日のように続いている5年生のHくんの下校時の挨拶
これが最近は日常になりつつある
そしてこれはとても心が軽くなる
月木の朝のルーティン、子どもたちとの校門までのウォーキング時のおしゃべり
子どもたちは機嫌が良い日もあれば、元気のない日もある
「おじさん、はみ出さないで!」
道路の右端に引かれた白線内を一列に並んで歩くのだが
ちょっとはみ出したところ、4年生のAちゃんに言われてしまった
「ごめんごめん、怒られちゃった」
白線内に入って、Aちゃんに話しかける
「前にね、ねえねにも怒られちゃったことがあるんだよ
道に煙草の吸殻が落ちていて、ねえねが
『おじさん、帰るときまでにこれ片付けておいて』
と頼まれんだけど、忘れてしまっていたら
『おじさん、やってない!」って怒られちゃった」
それを聞いた、Aちゃんに笑顔が浮かぶ
しばらくして「やってないほうが悪い」の声
最近は仕切り屋さんになっているAちゃん
ようやく少し不機嫌気味が通常に戻る
話やすい子もいれば、そうでない子もいる
できる限り多くの子と話すようにしている
こうした会話はすぐに忘れられるものだが
子どもたちは案外覚えているかもしれない!と思うこともある
年度末には子どもたちの「あいさつ運動の皆さんへ」と書かれた感謝の作文集が
回覧で届くのだけれど、そこには、決まり切ったような感謝の言葉が多く
書かされている!と思えるものが多いが、近所の子たちの作文は
普段の会話がどこかにじみ出て他の作文とリアリティが全然違う
子どもたちは言語化出来ていないが、それでも何かを感じている
ということは間違いなく実感する
ということで、今朝のおしゃべりは怒られてしまった思い出を
妹さんに伝えたってこと
同居人にこの話をすると、笑っていた
それは幸せな時間
今日で多分4日目くらい
また「おじさーん」と叫ぶ大きな声が聞こえた
車が泊まっていて自分が家にいることを確認して
3時から4時くらいのころ
5年生の彼は学校から帰ってきたよ!
と知らせるために今日も我が家の庭に入って大きな声で叫ぶ
「はーい」とその声に応える
昨日は2階にいたので窓を開けて「おかえり!」
と声を掛ける
彼は驚いて「2階か!」と顔を見上げる
今日は1階にいたので窓を開けてすぐに
「おかえり!」と応えると
「ただいま!」と彼は応える
こうした時間はとても心がどこかホッとする
彼は無邪気にこちらを信用しているようだ
彼には月木の朝は
「靴はちゃんと履いて!(いつも踵の部分を踏んでいるので)」とか
「忘れ物はない?」が定番の言葉
ちゃんと聞いているのかわからないが
それでもこのような行動をしているから何か感じているようだ
男の子はおぼっこいな!と思う
彼は年下の女の子にいつも叱られている
こうした小さな出来事が幸せを感じる瞬間
彼らが泣くようなことがあっては(社会であっては)いけない、、
と心から思う
「〇〇くん、落とし物!」
少し前を歩くブラジルにルーツを持つ男の子に向かって
一年生の女の子が声を掛ける
手にはハンカチのようのものを持っている
男の子は当たり前のように黙って受け取る
「ありがとうは?」
試しに聞いてみる
「ありがとう」
と素直に応える
「エライ、エライ」と褒める
今度は拾ってくれた女の子に聞いてみた
「ありがとうって言われたら?」
「どういたしまして」
一年生でもこのくらいのことは常識となっているのか
「エライ、エライ」
女の子も褒めてみる
すると、この話を聞いていた4年生の女の子が
「そんなの当たり前じゃん」
「でもね、ありがとうって言える子も、どういたしましてと言える子も
おじさんはエライと思うな」
月曜日と木曜日の朝のルーティン
小学校までの近所の子どもたちとのウォーキング
今日の会話はこんなのだった
子どもたちはそうした方が良いと思われることをまだ素直に実践している
その姿を見るとホッとする
そして心が洗われる
でも、今の世の中はどうだろうか、、
子どもたちは思春期を迎えても、大人になっても
ずっとこうした会話ができると良いなと思う