パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

Facebookは女同士の会話?

2011年05月31日 21時40分41秒 | Weblog

Facebookの画面を見ながらフト思った

頻繁にやり取りして

誰かと繋がっている感覚をありがたがるのは

なんだか女(同士)の会話に似ていると!

 

正直、Facebookでの気楽なコメント「いいね」ですら

知っている人間でも自分にとっては

どうでもいいかな!と思わないでもない

 

それはもしかしたら自分という個性のなせる技かもしれないが

自分が男であるせいかもしれない

通常男は会話には費やした時間の分だけなにがしらの結論を欲しがるが

女は話しをしたという充実感で、別段結論を出さなくてもいいらしい

 

確かに知り合いの誰かが何をいいと思ったり

何をしているか、何を感じているかを知ることは

無駄ではないとは思う

しかし、それをいつも知る必要は少なくとも自分にはない

 

その気になれば知ることもできる

その程度で何ら不満はない

つまりオンデマンドで情報を確保さえ出来ればそれでいい訳で、

いろんな情報が得られるからと入ってテレビをだらだら見るみたいなのは

なんだか面倒くさい

 

言い換えれば人との交流はこちらが望めばできるくらいで

充分な気がする

知っている人が薦めてくれる情報の信憑性は

そうでない場合よりも間違いのないものだろうけれど

知り合いの全てを知るのも何か違和感がある

 

というわけで、現時点ではFacebookにはあまり関心がない状況だ

便利かもしれないけれど

何か自分にフィットしない

 

ところでプロフィールの画面を他人様と比べてつくづく思ったことは

自分の関心領域は随分人と異なっているということ

やっぱり少し変人かな?

と再確認できたのは良かったかもしれない

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地元の古民家

2011年05月25日 19時35分43秒 | Weblog

名前だけは知っていたが行くことのなかった望月家住宅

「釜屋建て」民家の実物。国指定重要文化財で

新城市、つまり思いっきり地元の宝物

ヒョイと思い立って出かけてみた

門からして風格があって美しい

中に入ると

おくどが、、、

子供の頃、我が家にもあった(温める箇所が3つあって真ん中は左右からの熱でまかなっていた)

やっぱり、チョットいたんでる

元禄2年の頃建てられたそうだ

ここのご主人、温厚な趣味の良い方で庭にもいろいろ工夫が

鶴が羽を広げたところ

その下には亀を模した石が組んである

 

それにしても、こうした古いものを見るたびに思うのは

昔の人は、決して文化的に遅れているのではなかった

ということ

 

釘を使わず、地震に対応する、長持ちする、

再利用の可能な家を作り上げている事実は

今我々が向かおうとしている方向そのもの

 

「昔のものだから良い」のではなく

「昔のものでも良いものは良い」

 

現代の便利で安易に商品化される品々を思うと

なんか考えてしまう

 

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思い上がりはしっぺ返しを食らう

2011年05月23日 20時38分38秒 | Weblog

去年は記録的に暑かった

今年の冬は何十年ぶりにこの地方でも雪が積もった

そしてとんでもない地震

アイスランドでは火山の噴火が続いているし

アメリカではハリケーンの被害が、、、

 

今回の原発の件もそうだけれど

人間は少し思い上がっていたのでは!

と思っても仕方ないような気がする

 

自然も科学も人間がその能力を発揮すれば困難は

克服できると思っていたが

どうしてどうして自然はそんなにヤワではなかった

というか想定外ばかり

 

フト思い出すのがバベルの塔の話

人間たちの思い上がりを一気に粉砕するのだけれど

本当にもう少しいろんなモノに謙虚になったほうがいい

 

確かに人間の力は凄い

偉大な建造物、蓄積された知識に基づく科学と道具などは

人間に限界はないのでは!と錯覚さえ覚えさせる

 

しかし、残念ながら

それじゃいけない!

どこまでがバランスの良いかは判断に迷うけれど

もう少し全体の調和を考えるというか

根本のところで自然に対する畏敬の念とか

無限のものに対する謙虚な気持ち

そんなモノが必要な気がする

 

震災からの復興

それは価値観も含めて変化せざるをえないものとなっていくに違いない

(しかし、はたして市場万能主義、経済万能主義からの脱却出来るか?)

 

 

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Facebookへの疑問点

2011年05月21日 08時34分30秒 | Weblog

去年はTwitter、今年はFacebook元年なのだそうだ(日本では)

 

Twitterはなるほどお手軽だし

今回の震災に於いても情報の伝達に充分有効なことは

多くの人が実感して利用者もグンと増加している

 

とりあえず始めた自分だが、知人の行動や考えていることなどが

簡単にチェックできるし、興味ある分野の情報も呆れるくらい

手に入れやすい

おまけにフォローする人を選べば有益な情報も得ることができる

 

ところでFacebookの方だけれど、残念ながらイマイチ使い勝って

良さが分かりにくい

友達の数が少ないことによるものかどうかはわからないが

ここでちょっとした疑問が!

 

友達へのリクエスト、果たして出身校が一緒だからと言って

友だちになってくださいとは言いにくいじゃないのかな

現実に友達へのリクエストは現実に知っている、付き合いがあった人で

今は簡単に連絡が取れない人、もしくは普段から付き合っている人に限られることはないのかな

 

つまり知っている人との久しぶりの交流の機会を得て

それから継続的に連絡がとれる状態になっている

ということ

 

Twitterはフォローする人はその人のつぶやきの履歴を見て

自分にフィットしそうかどうか判断して決めるが

Facebookはその判断材料が実名による社会的基盤に

重きを置かれている(?)

勿論、その人の発言をたどれば人となりを判断できるが

と言って、知らない人に

「あんたが気に入ってから、自分はこれこれいうものですが友達になってください」

とは自分の年令及び性格からは言い出しにくい

 

しかし、若い人はそんなことは全然なくて

気楽に交流を図れるメンタリティーを持っているのかもしれない

ひところ言われたように、

「芸能人同士は一回会えばお友達2回会えば親友」

みたいな感覚で

 

匿名と実名

実名でのメリットが圧倒的に多く

使い方に応用がきくという点で

Facebookが全世界から支持されているけど

いろいろ問題はあるけれど匿名の利点も多い

 

確かに匿名の発言は無責任

しかし、匿名だとしても知っている人はそれが誰かは

知っている人もいて全くの匿名の存在ではないことが多い

だからそんなに目茶な発言がされるわけでもないし、、、

 

ここまで来るとFacebookへの否定的なニュアンスが感じられるかもしれないが

ついでに言ってしまえば

仕方ないとはいえチョットウンザリ気味なのは広告の多さ

そしていろんな機能、サービスのお知らせ

 

でもこれらは頻繁に使って便利さを実感すれば

なんてことなくなるのかもしれない

 

Facebook元年、果たして自分は、、、

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昔は良かった?

2011年05月18日 19時50分27秒 | 音楽

「懐かしい!」の一言が思わず口から出た

何気なくテレビを見ていたとき耳に入ってきたのは

高校時代に帰りの電車を待つ間レコード店で聴いたメロディー

ポールマッカートニーがプロデュースしてメリー・ポピンズが歌った「悲しき天使」

 

いやあ、ほんと懐かしい

 

駅前の狭いレコードショップでゴソゴソしていたシーンを

なにやら実感を持って思い出す

 

この曲は原題「Those were the days」

「あの頃はよかった・あの頃がなつかしい」という意味であり、

歌詞は、壮年期の人間が青春時代を思い返してロマンティックに美化している場面を描いている。

(ウィキペディアより)

 

この時代は今みたいにポジティブという言葉が独り歩きしていなくて

チョットばかりセンチメンタルに過去を振り返ったり

失恋を歌う曲が多かったような気がする

 

ついでに連想したのがシャルル・アズナブールの「帰り来ぬ青春」

シャーリー・バッシーの歌唱も素晴らしいが

これも過去を賛美(?)懐かしむ曲

YOUTUBEを探してたらこんなのも見つかった

アズナブールとエルトン・ジョンのデュエットで歌われた「帰り来ぬ青春」

 

エルトン・ジョンは元々こうした叙情的な曲にシンパシーを感じる人で

初期にはこれらの曲と相通じる「ハイアントンの思い出」がある

この曲のカバーのYouTubeはとても好きな動画

もしかしたら原曲よりも好きかも

 

話は戻って、「悲しき天使」をCMソングに選んだ人は

どの世代の人なんだろう?

とフト考えてしまった

我々と同じくらい?

それともバリバリの若者?

 

 

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欲しがらないのは

2011年05月17日 22時20分03秒 | Weblog

今の若者が必要以上にものを欲しがらないのは

物心ついた時から景気のいい話を経験したことがないから

ついつい慎重になって貯金などして我が身を守る癖がついたからなのか

それともほしい物は既に手元にあり、また適度に努力すれば手に入ってしまうから

あえて物欲には走らないからなのか

いったい大きなウエイトを占めるのはどっちなんだろう

 

ただ言えることは確かに団塊の世代の価値観、生き方とは大きることなるという点

どちらがいいとかいう問題ではなく

変化している事実だけが存在する

 

震災以後の考え方、生き方の基本となるものは果たしてどのようになるのか

どっこいそんなに簡単に日本人の性格なんて変わらないのかもしれない

 

でもどちらかと言えば今までの消費万能、経済万能の価値観からの離脱

それが出来れば!と思っているのが本当のところ

さて、果たして日本人は変われるか?

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結局は個々のレベルをあげるしかない

2011年05月16日 21時59分15秒 | Weblog

確かに今の民主党も酷いけど

窮状の元は自民党のせいでもある

そして残念なことには、その自民党の長期政権を選んできたのが国民

となると国民が悪かったことになる

 

これは自分も含めて認めなければならない

肝心なのはこれからどうするか?という点

民主党はやっぱりダメで自民党に戻れば解決するといった問題ではない

 

国民が思い知ったのは、

自分たちの代わりに、あるいは代表として自分たちのために働いていてくれる

と思った人たちは、こちらがちゃんとチェックしたり

ある程度専門的な知識をもたない限り

まともには働いてもらえないという事実

 

これはニュースの扱いでも同じことが言える

大手マスコミが揃いもそろって同じ報道をするから

信用したりするのだが、メディアは右に習えで

言いだしっぺに続いているだけで

実は信用するに値しないことだって多々あるのだ

 

要はやっぱり自分らで力、知識をつけるしかない

情報リテラシー能力を高め、自己判断能力をつける

それは誰かについていけば良いといった

今までの生き方とは一線を画す

 

我々は知るべきなのかもしれない

物事はすべて簡単に説明できないことがあることを

芸術作品等を理解したり深く味わうためには

それなりの知識や経験が必要となるが

これはたぶんすべての分野にも言える

つまり、政治や報道される事柄についても

ちゃんと判断を下すにはそれなりの知識、経験が必要

 

その意味ではやっと昔から言われてきた

「個の確立」が実際問題として必要となった世界に

日本の国がなってきた、ということなのかもしれない

 

そして総合的な判断を誤らないためには

個々の全人格的な人間力を常々高めるしかない

 

この分野が今まであまりにもおろそかにされてこなかったか

この国では

さて今度の震災で人はどのように変わっていくのだろうか?

 

 

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右目と左目

2011年05月15日 19時13分30秒 | Weblog

視力が極端に違う

左目は網膜剥離の手術もしたからか疲れやすいし

視力も裸眼で0.1くらい

右目は1.2くらい

利き目はどうやら左のほうらしいが

本を読むには右目は老眼になって字が読めない

だから眼鏡なしで左目で読むのだが、その疲れること疲れること

ブルーベリーでアントシアニンを採取しても間に合わない

それで今朝は、眩暈を感じてしまった

とにかく昨日の時点で左目はとにかく疲れていた

と理由を並べて、今日のブログはここまで

しばらくはパソコンのにらめっこは控えなければ、、、

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やっぱり何かが違う

2011年05月09日 21時20分40秒 | Weblog

少し贅沢してしまった

さすがに70何万も出してM9を買うわけにはいかないので

ライカでもX1にした

手に入れてやってみることと言えば、お試し撮影

出勤前、明るいのをいいことに忙しい中で庭をいつもの角度で撮影

モニター画面は暗い、ピントもなかなか合わない

その辺りは了解済み、とにかくなんでもいいからと無闇矢鱈とパシッ

とったら確認したいのは人情

さて、どうかな、、、↓X1

 

パソコンの画面に現れた我家の庭は

あれっ、なにか違う!

くっきりしてる、空気が写ってるみたい

表情があるみたい、、、

これらは洗脳されているからか?それとも本当にそうなのか?

 

でも違いは存在する

それはレンズのせいなのか、フルサイズのCCDのせいなのか

 

たしかに国産のものと比較すれば使いやすいカメラとは言えない

しかし、なにか期待できそうな、自分が上手くなっているみたいな気にさせる

そんな悩ましいカメラだ、

さすが、、、

↑リコーGR2

撮影時期、時刻が少し違うので純粋な比較はできないが、

何か違うように思えるのは思い込み(じゃないと思いたい)

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右近の橘、左近の、、、

2011年05月05日 09時39分39秒 | Weblog

「左近は桜」だと思っていた

ところが昨日、大覚寺で見かけたのは「左近の梅」

もちろん右近は

お雛さんの花は、桜だったか梅だったか、いやそれとも桃だったか

男は駄目だな、花に全然関心がいかない

(もとい!自分は花に興味がなかった)

 

京都は深い

いつもなにがしらのの発見がある

今回は清涼寺と大覚寺、いわゆる嵐山近辺の探索

 

ゴールデンウィークの昨日

人出はまずまず、でも外国人の旅行者はいつもより少ない感じ

(バイタリティーに溢れた中国の方も見かけなかったような気がする)

 

さて京都のお寺さん

単に渋いだけじゃなく、門跡と言われるものはどことなく品がある

何故そんな風に感じるのかわからないが、垢抜けした感じが漂う

そうした中でいつも羨ましくも美しく感じるのは回廊(廊下?)

いずれも大覚寺

雨の時は濡れて大変だろうな、と思いつつも

こんな美しいところで日常の生活が出来る方々を嫉妬してしまいそう

 

禅宗の神秘的な静寂、侘び寂びだけでない

上質な趣味の良さが門跡の寺院には見られる(気がする)

京都の人々はこうしたものを普段から目にするので

良い趣味、鑑識眼を身につけるのだろうか

 

こうしたお寺さんを見るといつも思うのは

どうやってこの建物を造りあげたのか、という点

機械もコンピュータもない時代、しかも材料も限られている

ただただ凄いな!と思うだけ

清涼寺の本堂の廊下(?)をの板 厚くてこれだけの木(板)を集めるのも大変だったろうに

屋根だって板を重ねて造っている

職人の腕、技術、そして根気のいる仕事

昔は文化的に低かったとは安易に言えない

 

ところで京都のお寺さんは、山よりの自然豊かなところにあるので

なんというのか知らないが蝶がのんびりと舞っていた

今回はお金を使う理由があったので(日本経済のため?)

いつもより少しばかり贅沢は昼ごはんをいただいたが

そのくらいのことしかできないのが情けない(悪いな!と思いつつ)

 

ところで京都、やっぱりすごいな

何十回と行っているけれど益々はまっていく自分がいる

次に行くのは夏か、それとも紅葉の時期か

 

 

 

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