正月の風物詩、ウィーンのニューイヤーコンサートを少しだけ見た
音響が素晴らしいムジークフェアラインで行われるが
音楽をみっちり楽しむというよりは雰囲気を楽しむ感じなので
集中力を要しないでいられる
その分つまらないので流し見ということになる
ウィーンフィルの奏者の中には女性がいた
かつてのウィーンフィルは男ばかりの団体だった
それがジェンダー平等の傾向に従って女性奏者も増えることになった
男ばかりを貫いていた時、女性ピアニスト、マルタ・アルゲリッチは
そのようなオーケストラとの共演は断っていた
ところで個人的には男ばかりのオーケストラもあっていいと思う
男の感じ方とか演奏の傾向とか、そこから生まれる音響は
個性的になって、それは一つの価値ではないかと思うからで
ブルックナーの音楽を男ばかりと女ばかりのオーケストラで演奏したら
随分違う印象を得られるのではないかと勝手に想像した
話は変わって小学校の学芸会(学習発表会)があったころ
小学一年生の合唱を聞くと本当に感動して涙が滲んだことがあった
音程がどうのとか上手く歌おうとか、そうした気遣いは全く無くて
ただただ大きな声で元気良く歌うその姿と音響は
本当に汚れがなくて清らかで、何も知らないことの可能性に満ちていて
知ったかぶりの大人の心を揺さぶるものだった
つまりは音楽は奏者の年齢とか感性によって違う印象を与えるということだ
昔、変なことを思いついて、だれかその試みをしてくれないかな!
と思ったことがあった
それはベートーヴェンの3番の交響曲「エロイカ」の演奏を
ベートーヴェンがこの曲を作曲した時の年齢の奏者ばかりを集めて
演奏したらどんな音になるか知りたいと思ったのだった
大家といわれるそれなりの年齢の音楽家によるものでなく
作曲家と同じ年齢ならば将来にたいする希望や挫折など
曲に込められたそうしたものを、リアルに現実的なものとして
表現できるのではないか、、と思ったのだった
作曲家が若い時の音楽と熟成してからの音楽
個人的なことを言えば、自分は若い頃、作曲家が晩年の音楽に惹かれた
ベートーヴェンでは32番のピアノソナタとか弦楽四重奏曲14番だとか
ブルックナーでは9番とか、モーツアルトではクラリネット五重奏だとか
それらからは達観した何かが感じられて耳を傾けたのだった
ただし今はその時とは違う感じ方をしている
それは自分の感じ方の変化を重ね合わせて全てを振り返るようになっている
自分は若いときに老成した音楽を求めた(?)が
反対にそれなりの年齢になった今は
作曲家が若い時の音楽に惹かれる
小学生の合唱みたいに可能性に満ちた音楽は
それだけでとても価値があると思えてしまう
(モーツアルトのディベルティメントK136とか
ベートーヴェンのピアノソナタ一番とか弦楽四重奏曲一番とか)
誰にでも若いときはある
そしてそれはとても貴重な出来事
その貴重な時間経過を他人が見守るみたいなこと
それがいい歳をした人のなすべきこと
年始にちょいと真面目に思ったりした
昨日ボケ防止の日課、今年2回目をアップしようとしたら
管理画面から少しも動かない
写真のアップもできない
さては、、
とgoo絡み(NTT絡み)でなにか起きているかと検索すると
豈図らんや、どうやらサイバー攻撃に遭っているらしかった
そんな兆しはすでにあった
普段はあまり閲覧する人の多くない自分のページが
ここ数日、規則性のない時間に急激に増えていた
なんでだろう?
そんなに受けることは書いていないのに、、
と思ったが、これで納得した
つまりは、攻撃対象になっていたということだ
そういえば前年もこの時期あったような印象がある
つくづく世の中には変な人がいるものだと思う
昨日は初詣に鳳来寺山に出かけた
どうせなら「どうする家康」の年にいけばよかったのだが
そうでないところがどこか抜けている自分らしい
十年以上前に訪れただけの鳳来寺山の東照宮
駐車場は予想外の金額1,100円
繁忙期は高い価格設定になっている
(そういう世界だ)
駐車場から東照宮まで歩いている途中でお隣さんに出会った
教員をしていた方で退職後にいろんなところで働いていて
最近は鳳来寺山の駐車場の料金所にいるとは聞いていたが
ここで年始に会うとは!
聞くところによると勤務は6時までとか
結構長い時間で退屈しそう、、と余計な心配をしてしまう
道の途中、高いところからの写真を撮ってみた
こうした光景を見ると、もっと高い山に登っていた頃を思い出す
槍ヶ岳から雲海が「雲の海」という状態で見られた朝の時間
京都の龍安寺の石庭は雲海の中に浮かぶ山をイメージしたが
今はもうそうした光景は生では見られない
(体力不足と腰痛で登山はできない)
仕方ない、、と思いつつ東照宮へ
家康のお母さんの於大の方が鳳来寺山に子を授かるように祈ったところ
寅年に家康が生まれたと説明の看板に書かれてあった
でもちょいと地味な印象は拭いきれない
自分が来た頃(10時くらい)は駐車場はスキスキだったが
帰ることには満車状態になっていた
自宅に着く前に、桜淵公園の左岸でで行われているバイクのイベント
ニューイヤーミーティングの様子を見に行った
相変わらずのバイクの台数
バイク好きが勝手に集まって
勝手にバイクの話とか共通の話題で盛り上がるイベント
同じような感性の人と話すのは楽しいだろうな(と想像がつく)
ということで、午後に親戚が集まった何かと忙しかった1日
いきなり日課ができなくなった2日はこんな風に過ぎていった
まるで運試しのように今年最初に聴く音楽は慎重になる
昨日のうちから少し考えていた
バッハのお正月付近のカンタータとか
モーツアルトのフルート四重奏曲とかホルン協奏曲とか、、、
でも、なんだか気分にフィットしない感じで
結局選んだのが年始には珍しいジャズのレコードの「サムシング・エルス」
聴いたのは有名な「枯れ葉」のあるA面ではではなくて、タイトル曲の入ったB面の方
理由はよくわからないがこのレコードはB面のほうが気に入っている
奏者同士の掛け合いとか主張とか、それらの音色がバランスよく混じって気持ちいい
これは聴いていて、今年の選曲は当たり!と自己満足した
聴いている途中に次の曲を選んでいた(まるでカラオケの選曲のよう?)
その結果はキース・ジャレットの「ケルン・コンサート」一面
この演奏はCMにも使われたことがあるピアノの音が美しい演奏だ
静寂と白熱が入り混じって曲自体は即興によるもので
ゆっくりした左手のシンプルな伴奏に、右手が単音ぽいフレーズで感情を込めて
演奏する部分は何度聴いても惹きつけられる
シンプルな音だけで惹かれることがあるのはモーツァルトのピアノ協奏曲22.23番の
緩徐楽章でも同じこと
難しいことをするのではなく、少ない音で聴き手の心を鷲掴みにする
そういうことってあるものだと今更ながら思う
この2つはレコードで聴いたが、今年も聴き初めの曲の選択は正解だった
と自分は納得している
これで安心していろんな曲を聞聴けるようになる!とホッとした気分
(最初はどうしても慎重になってしまったということ)