文章を目で追いかけていても、一向にその内容が頭に入らない
先日、このような少し悲しい経験をした
東三河の中心都市、豊橋では新アリーナ建設問題で揺れている
建設反対を訴えて当選した市長は公約通り建設の中止の作業に
入ったのだが、急遽議会からでてきたのは
「豊橋市議会の議決すべき事件を定める条例の一部改正する条例」
という議会提案
一体何のことか?と思われるが、簡単に言えば
新アリーナ建設の契約解除については、違約金に大きな金額を要するから
議会の議決が必要というものだ
結局、この改正の条例はアリーナ建設推進派の多い議会によって昨年末可決された
ところが、この議決自体(条例自体)が法令違反なのではないかとの疑いがあるようで
その法的な説明会が先の日曜日、豊橋駅前のビルの一室で行われた
(主催はアリーナ反対のグループメンバーによる)
講師はこの分野に詳しい南山大学の榊原秀訓氏
冒頭の文章を追いかけても内容が頭に入らないというのは
講師の説明・解説のことで、ぼんやりとわかったような気もするが
正直なところわからなかった!という感じ
講演は、法的な解釈とかこうした条例の他市の例とか
国の方針などが一気呵成に行われたので理解が追いつかなかった
これを理解するのは、それなりのあらかじめの知識が必要だったが
それらが全く不足しているし、豊橋市議会の現実のやり取りも
市外の人間なのであまり良く知らない
つまりは簡単に理解できる状態ではなかったということだ
でも、それはちょいと情けないので、自分なりに少し勝手に考えてみた
(法的に適切かどうかはさっぱりわからないが)
現状は議会は推進派が多く、現市長とは対立している構造がある
前市長は推進すべしとして議会の議決を経て、昨年委託業者と契約を交わした
その契約書には契約解除の場合について項目もあって
業者側からの契約解除の場合、市側からの契約解除の項目があって
市側からの場合は何ヶ月前に連絡するようなことが書かれている
この契約内容は市議会も認めて可決している
そこで問題となると自分が思うのは、市議会は契約解除について書かれた
契約書を認めているにも関わらず、市長が事務的に契約書通りの手順で
行おうとしている契約解除に異議を求めることは矛盾していないかということ
契約解除には多額の賠償金(違約金)が発生するから議会の承認が必要
とする理屈なのだろうが、その前に多額の金額が必要だから必要とされたのは
契約にいたる議決だ(法的にも必要とされている)
つまり計画(建設)金はかかるが、もし契約解除する時も
契約書にかかれた手順で行うことに既に賛成していて、あとになって
もう一度お金のことで議決が必要とするのは何か変だなと思ったということ
(多額なお金が違約金としてかかるとしても、それは建設費と比べると
圧倒的に小さな金額で、市が損するというものではなさそう)
この市議会が求めた条例が法的に問題ないとされるなら、議会は対立する市長に対して
本質的な問題と言うよりは、政争としてどんなこともできてしまいそうな気がする
首長と議員の役割は同じように選挙で選ばれるとしているが役割は少し違う
首長は予算編成権とか執行権、議会はそのチェック機関的な要素があって
力関係は現状では首長のほうが大きな力を与えられている(ような気がする)
だが、市議会の方は自分たちの正当性を弁護士の協力を得て確信しているようだ
つまりは法の解釈は、違法、違法でないとの2つの考えが存在して
それを決めるのは誰か?という段階になっているようだ
ややこしいなあ、これじゃ、豊橋市民は置いてけぼりだな!
と感じてしまうが、つくづく残念なのは、というより議会の一番の失敗は
白黒はっきりする住民投票をしないと決めたことだと思う
ところで少し残念に思われたことは、日曜日の講演会の出席者が
それほど多くなかったこと
面白そうな話ではなく、面倒くさそうな感じがするが
それでも市民の多くが進行中の出来事を理解するのは大事だと思う
でも、現実はこんなものか!
※豊橋市議会は市長の再議の要請をうけて29日臨時議会を開催し
再度採決によりこの条例は可決された
今後は市長が県知事に法的な判断を仰ぐ手続きに入る可能性が伝えられている
月曜日と木曜日、子どもたちは木曜のほうが機嫌がいい
月曜日と木曜日は近所の子どもたちと小学校校門まで歩いていく
挨拶が目的のボランティア活動だが、ウォーキングを兼ねて
健康のためにここ数年続けている
今日の子供たちは機嫌が良かった
おしゃベりしたのは1.2年生の女の子だったが
月曜日のそれと比べると、いつも木曜日の方がハイテンションの感じだ
月曜日は休み明けで、エンジンがかかっていなくて調子が出ずどこか不機嫌
でも木曜日は学校生活のリズムに慣れて、登校は普通にこなす行事のようだ
寒い今朝は、まるで権利のように1年生の女の子が袖の中に手を突っ込んでっくる
冷たい手が触れる
そうくるだろうと予想していて自分の手はなるべく暖かくしておく
お互いの手の感触を感じながらおしゃべりしながら歩く
どういう経緯か忘れたが桃太郎の話になった
桃太郎は何から生まれた?聞いてみると
男の人の大事なところから生まれたんだよ、、
と笑いながら1年生の子が答える
大人の反応を見計らっているようだ
子どもは何故うんちとかこうした話が好きなんだろう
しばらくして1年のIちゃんが物語を始めた
あるところに、KちゃんとIちゃんがいました(2年生と1年生の子の名前)
二人は学校に向かって歩いていきました
一緒におじさんも歩いていきました おしまい
ふたりとも笑いながらおしゃべりを続ける
ふたりとも大きくなったら何になりたい?
話題を変えて聞いてみた
1年の子はデザイナー
2年の子はお菓子屋さんとか花屋さん、先生が良いと答える
校門近くになって5年生の男の子に聞いてみる
Hくんは?きっとYoutuberかな
彼は満更ではない感じ
そこに門で待っていた校長先生も会話に参加する
Youtubeは誰もやっていないモノにしないと駄目だよ
もうゲームの実況も料理もいっぱいあるし、、
すると、それを聞いていたいつもは時間ギリギリに投稿する男の子が参加した
チャンネル登録が500以下は駄目みたいだよ(運営として扱ってもらえない?)
登録者が1万あると、〇〇円儲かるみたい
なんか驚いてしまった
小学生がこんな話をするとは!
確かに、子どもたちの将来なってみたい職業にYoutuberがあるのは知っていたが
こんなに身近なものだったとは
時代の流れとは言え、すごいなあ、、
そう言えば、以前、こねて焼くだけのパンの話になった時
4年生のAちゃんは、「こねて焼くだけのパン」で検索すると良いよ
とアドバイスがあった
デジタル社会は彼らにとってもう当たり前のものになっているようだ
ほんと、凄いな!とまたもやため息がでてしまう
校長先生に「リテラシーの勉強が必要ですね」と声をかけると
「もうそれは始まっています」との答え
いやはや凄い時代になっているものだ
まるで共時性の一例のように、昨日ここでとりあげた想像性についての
面白いニュースが報道された
それは予想外の観客数の伸びを見せている映画の紹介で
その映画はアニメで、全くセリフがないそうだ
観客は表情・仕草を見て想像して楽しむのだそうだ
この不便と思われる情報不足が却って一人ひとりの自由な解釈を生み
それを人に伝えようとする行為が、映画の観客の広がりを生んでいるのだそうだ
これはわかりやすさとの対極にあるのかもしれない
人は受動的に楽しむよりは能動的に楽しむほうを好ましい
と感じているかもしれない
ただし、面倒くさいと思う人も否定できないが
話は変わってフジテレビのゴタゴタ
2回目の記者会見は16時から始まって、終えたのは深夜の2時過ぎ
自ら招いたこととは言え、ちょいと同情も禁じ得ない
その中で本質とは関係ないことが話題となった
それは質問者の態度というか質問の技術のこと
市の意見交換会・議会報告会でもよく見られる光景だが
質問者の話が長すぎたり、質問なのか意見なのか
それとも怒りの発散なのか、そうしたものが入り混じって
口調もきつくなってしまうという事態がそこでも見られたらしいこと
流石にこれは一般の人からも評判は悪かったようだ
もう少し整理された質問をすべきとか、論点を絞って質問をするように
運営を図るべきだったとか、つまりはカオス状態は異常だったとする考え方だ
しかし、こうしたカオス状態はある程度許されるべきものだとする考えもあるようだ
行儀よく進められてしまうと、この手の進行になれていない人は感情の発散場所が
ないとか、世間に蔓延している空気感を伝えることができない
とかの弊害もあるとする考え方だ
それは記者クラブに見られるおとなしい従順な態度に対する一つの抵抗だ
要は常識の範囲内で行われれば良いのだが、これが思いの外難しい
怒りは一種の個性で、それがあるお陰で世の中が是正されるということは
現実にあるし、その例を自分も見ている(自分は怒りっぽくないので怒ったのは別の人だが)
こんな風にあれこれ考えていると、今の人に必要なのは
自分の考えを上手くまとめて人に伝えるという技術ではないかと思う
技術より肝心なのは思いかもしれないが、伝えるという点においては
習得することのできる技術は有効と思われる
実際のところ、それをどこで、どうやって身につけるかが問題だ
学校で?それとも自分で? さて!
リヒャルト・ワーグナーの楽劇の中に、上演が4日間にわたる作品がある
「ニーベルンクの指輪」と呼ばれる連作「ラインの黄金」「ワルキューレ」
「ジークフリート」「神々の黄昏」がそれで、それぞれが結構な時間を要する
物語は小人や巨人がでてきたり、ライン河に住む乙女がでてきたり
欠点の多い神様がでてきたり、人間がでてきたりする
映画になった「指輪物語」と同じように(愛を諦めたものが作った)指輪は
世界を支配する力を持つとされ、それを巡っての権力闘争とか
その過程で迷うことの多い人間同士の愛とか嫉妬とかが
物語をより深い作品たらしめている
これらは、いかようにも解釈可能な原型(プロトタイプ)で
ワーグナー自作の脚本には、想像上の生き物としての小人、神々、人間が現れる
この解釈の幅が大きい作品を、思いっきり現代劇のように読み替えた演出があった
ライン河に住み、時々河の近くにくる生き物をからかったり誘惑したりする乙女が
居酒屋の女性となり、神の中で一番の力を持つとされるヴォータンはタキシードを
着た人間として登場するものだ
自分は見ていないのでこれ以上のことは紹介できないが
1976年にドイツのバイロイトに訪れた時
そこで行われたバイロイト音楽祭で一番の問題となったのはこの画期的な演出だった
思いっきり現代の世相の反映とした演出はフランス人のシェローという人のアイデアだった
この年はバイロイト音楽祭100周年ということで、指揮者にフランス人のブーレーズ
演出にシェローを抜擢したのだが、バイロイトにいることができた自分は
その時、街にあふれるブーイングを肌で感じることができた
実はその前の数年の演出は、これと全く正反対の独特な演出で舞台は、ほぼ真っ暗
家も木も岩も具体的なものはなし、動きもそんなに多くない
つまりは日本の能のような世界だったらしい
(リヒャルト・ワーグナー孫のヴィーラントワーグナー演出)
そして勝手に想像することの方が好きな自分は、それを見たいと思ったものだった
世界でチケットを取りにくいとされていたバイロイト音楽祭が
最近はどうもそうでななさそうとのことだ
原因は過度の読み替えによる演出が評判が良くないせいらしい
つまり神様がタキシードを着たり、酒場で女性と戯れたりする
一見わかりやすい演出は、それ故につまらないと思う人が出てきている
ということではないだろうか
先日とりあげたハン・ガンの「すべての、白いものたちの」は
具体的な事件というより、想像の羽を広げるきっかけづくりの描写が多い
そしてそれは自分にとっては心地よいものだった
自分としてはプロトタイプはプロトタイプとして提供してほしい
そこから現代社会を想像するかどうかなどは、こちらに任せてほしい
と思うのだった
世の中のことは具体的ではなくても、想像することで
いろんなことに当てはめることができる
それは過去の出来事を現在の教訓として捉えることもできるはずだ
大事なのは、そうした一見関係なさそうなことも
今と関連づけることのできる想像力と思ったりする
相変わらず、まとまらない話
強いもの(豊昇龍)が優勝した大相撲
勢いだけでなく本当に強いものが勝つというのは良いものだ
(金峰山の千秋楽以外の負け方は優勝の資格はないと思われるものだった)
大相撲の番付は将棋のそれと似て実力に応じていて
本当に身についた力がないと上には行けない
ところで大相撲の解説者は、声で誰かわかるのと同様に
話す内容で分かることがある
元旭富士、白鳳はその指摘とか解説の細かいことで群を抜いている
特に最近はいろんな事情で解説者として登場しない白鵬は
力士の技術的な指摘が本当に細かった
立会の足の位置とか動きの中の腕の使いかたとか
彼は現役時代にこんなことを考えながら取り組んでいたのか!
と驚きを覚えるほどだった
そして彼の一番の武器(強み)は頭の良さに違いない!
と思うのだった
照ノ富士の親方、元旭富士も技術に関する指摘が細かい
あの部屋の力士がそれなりの成績を残しているものわかるような気がする
話は飛んで、イチローがアメリカ大リーグの殿堂入りの満票に一つ足りなかった
ことに関して、「満票でなかった(不完全な)ことは良かった」とする発言と
多少の悔しさにユーモアを交えた、投票しなかった人とお酒を飲みましょう
という提案は彼の知性を感じさせるものだった
大谷さんもその人間性を始めとして、話すこと一つ一つが味わいのあるものが多い
それは知性を感じるものだ
つまりは結論としてアスリートも上位になるには「頭の良さ」とか
思いを言語化する能力がないとだめなんだろうな!と思えてならない
大相撲なら、形を持たなければだめだとか、ひいてはだめだ
で終わる指摘に飽きたらないモノを見つけ出して言語化する能力
野球なら自己の状態(いろんな意味で)を客観視する能力
必要なことを洞察し、それを人にわかるように話す力(憧れるのはやめましょう)
そうしたことは、きっと自分との日々の対話で育まれていくのだろう
どの分野も上にいる人は、それなりの考えとか表現力を持っている
それらは充実した自分との対話の中から生まれてくる
と想像するので、庶民においても自分との対話は大事にしないと駄目だな(きっと)
久しぶりに小説を読んだ
年令を重ねると作り物はリアリティがなくてしんどい!
と感じる人も多いようだ(友人がそうだった)
確かにその傾向は自分でも見られるかもしれない
その代わりに読むものは現役世代ではないのでハウツウ本とか
自己啓発本ではなく、小難しい本となっている
読んだのは「すべての、白いものたちの」ハン・ガン著
手にした理由は、ノーベル賞レベルの質感を確かめたかったからで
受賞した作品とそうでない作品、その違いはどんな印象をもたらすのか?
に興味があった
この本は不思議な本で、余白が多い
一つの章は一ページちょっと(多いものでも数ページ)
つまり文字が少ない
最近の事細かな描写が多い類とは全く違う
でもそれで情報量が不足しているかと言えば、そんなことはない
余白部分は読み手の想像力にお任せ!という感じで
このような読み手の想像力に任せる方法は結構好きだ
例えばクラシック音楽も、能を楽しむのも受け手側の想像力に依存していて
作品自体は説明的ではない
このように勝手な連想が可能な作品は、説明的なのよりも個人的には好きだ
ただし、短い文で書かれたものがすべて想像力を触発するか?といえば
決してそんなことはなくて、そこにはセンスとか文章の技術が必要
なのだろうと思われる
この作者の書いたものは、その喚起力が相当なものだったので
これがノーベル賞レベルかと一人納得した
過去に読んだ本と比較するような楽しみ方は、本当は良くないかもしれないが
この本を読んでいて思い浮かべたのは西脇順三郎の詩?(禮記)だ
何か似ていると!とすぐに頭に浮かんだのだが
似ているのは短い文で構成されているということだけだ
だが想像の世界を刺激する方法は共通している
(西脇順三郎のこの本を読もうとしたのは外国人に面白いよ!
と奨められたからなのが少し残念だが)
深い余韻のような静寂とか悲しみ
そうしたものが本全体から感じられる
だが、このような世界観(美意識)の本が現在の殺伐とした社会で
存在意義を持つことができるのだろうかという不安が頭に浮かぶ
〇〇パといわれる効率を求めたり、過剰に勝ち負けに拘る世界
法に抵触していないからと言って、平気で常識のブレーキを無視する世界
そうした世界に、これらは何らかの力を持ちえるのだろうか
それは読んだ人と読んでいない人の判断とか考え方の違いを
比較することで実質的な効果は確認されるかもしれない
何かのCMを引用して、人は読んだものから(体験したものから)できている
とするなら、人はなるべく良質な体験をすべきだと思う
フジテレビと中居正広氏のニュースが連日続いている
その中で何に関心を持つか?が受け手の個性の現れだが
自分が印象に残ったのは
「今回の騒動を受け、フジテレビの労働組合では加入者が
80人から500人に激増したとされた」との報道
ピンチになった時には、みんな我がこととして考え
自らの意志を反映する機会をもてる行動に移る
それは人として必然の行動のように思える
理不尽なことに声をあげたり、一人では効果がないと思われるなら
集まって行動する
このような経過は特に変わった(危険な)人たちのなせることではなく
ごく当たり前の行動と思う
権威とか立場の強い人に対して、声をあげるのはいつの間にか
日本では珍しいこととされたり、反動的な思想の持ち主とされた
(国のことに関して極論を言えば、こうした人たちは反日と決めつけられた)
でも、声をあげること、行動すること
それは本当に必然的で当たり前の出来事だと思う
労働者主体の共産主義的な考え方が生まれたのも
歴史の必然であったのではないかとも想像することができる
(そんなのは前から言っているという人たちがいそうだが
やっと実感としてそう感じたということ)
やはり切羽詰まらないと人は行動には出ないのか?
と情なく思ったり、それで間に合うのか?との不安もある
でもこの事件だけでなく、今の世の中はもっと声をあげるべきことが
多いように思えてならない
モラルの低下、権威主義的に追従する姿勢、すべてが自己責任とされる社会
「今だけ、自分だけ、お金だけ」が現実論としてまかり通る社会
このような何かがおかしいと感じる人は相当数いるようだが
その分析と方法論は人それぞれだ
その中で違和感を持つのは「個人主義批判」の概念
伝統主義者とか保守と言われる人たちは
かつて日本人が持っていた価値観が、西欧流の「個人主義」によって
破壊されたと考える傾向にある
日本こそは長い歴史があって、それは個人に立脚した社会ではなく
公に従う社会構造だったし、それに従うべきものとしている
でもこの時の個人主義という言葉の使い方は「個人の利益主義」
という意味で、「個の確立」から生まれる全人格的なものでなない
個人主義は、自分の個人の権利を実現してほしいと思うだけでなく
あなた個人の権利も保証するといった狭義のものではなく
リベラルアーツを学んで個が確立した(全人格的な)人間の
判断することは、必然的に公の分野まで及んでいる
という考えには至っていない
回りくどい話になったが、要は人はそれなりの教養とか倫理感とか正義感を
学習するだけでなく、自らとの対話を通して身につけたり醸成しないと
アカンのではないかということ
「何を言うかは理性
何を言わないかは品性」
以前知ったこの言葉が重くのしかかる
一歩間違えば独裁者となってしまうトランプさん
既に人事権とか司法に関することまで影響を与えつつある
そんな中、ニュースとなった2つの勇気ある行動に目が奪われた
一つは大統領就任関連行事の一つとして行われたワシントン大聖堂での
マリアン・ブッデ司教の勇気ある発言
司教はトランプ氏が進めるLGBTQ(性的少数者)を標的にした政策や
強硬な不法移民対策を打ち出していることについて
「おびえる人々にも慈悲の心を持つように」と諭した
さすがにカチンときたらしく、トランプ氏は直ぐ様、司教に謝罪を要求している
と最新の報道では伝えられている
トランプ氏に小言を述べた時の司教は、緊張感に溢れていて
どこか恐れるような、そして覚悟をもった様子だったと紹介する話もあった
(彼女は危険な状況にならなければ良いのだが)
もう一人、勇気ある発言をした人がいた
それはトランプさんが国会議事堂を襲撃して服役している人たちに恩赦を
与えたことが報じられているが、その中のひとりが
「私は間違っていた」「恩赦はすべきではない」と訴えたのだった
時間が経って「自分が間違っていた」と確認したり
過去の自分を否定するのは誰でも難しい
でもその人はちゃんと自分と向かい合い、自分の非を認め
深く反省の言葉を公にしたのだ
過去の自分を否定するのは想像以上に難しいと思うのは
日本での兵庫知事選で、軽いノリと熱狂に煽られて
一方的な正義感に支配されてしまった人たちが
時間をおいて自ら反省をした様子がないと思われるからだ
自分が少し不思議に思うのは、何故そんなに自分の考えに
自信を持てるのだろうか?ということ
自分は小心者だから、いつも自分の考え方が合っているのか?と不安になる
だから正当化するためにいろんな裏付けを探したり
考え方が変わるかもしれないと思いながら反対の意見の人と話す
そしてこれで良し!と覚悟を決める訳だが、それでも不安はいつまでも残る
自分のことを一般化するつもりはないが、自分がそうだから
自分の考え方を変えない人というのは、意志が強いと言うより
凝り固まっていると思えることがある
ところで話は変わるが、ここ最近問題となっている中居正広とフジテレビの件
自分が思う一番の問題点は「現実はこんなものだ」と開き直って
悪しきことも内緒で行っていたのではないかという点
つまりは接待文化(それは性的なものも含む)は現実的手段として
行われていたのではないか、、と感じられること
現実的な対応はアメリカのGAFAでもトランプさんが大統領に返り咲くと
あっという間に彼の軍門にくだって寄付金とかSNSのルールを
トランプさんに都合良いように変えている
現実社会で生き抜くというのは、こう言うことだ
とこれらの対応を見ると、先にあげた二人の行為がとても貴重なものに思える
結局、読み終えなかったが今になって気になるのが「権威主義の誘惑」という本
世界は民主主義国家よりも軽い独裁国家のほうが増えているとの報告もある
現代社会は、まるで誰かに命令されたい!と望んでいるかのようだ
人が自分で判断し、その思いを表に出す、、というあたり前のことが
難しかったり、現実的でないと思えるような社会は生きにくい世の中だと思えてしまう
今朝、新聞折り込みの中に市会議員からの活動報告のチラシが入っていた
2つのテーマ、中学校の制服についてと福祉従業者のことについて
わかりやすく解説されていた
2つうち気になったのが、中学校の制服が来年度からブレザーデザインのものに
かわることに至った過程だった
この記事が心に引っかったのには理由がある
2年ほど前、あいさつ運動で小学校校門まで一緒に歩いていた女の子が
中学生になったある寒い朝、その服装を見て久しぶりに会話を交わした
「スカートで自転車に乗って通学は寒そうだね
下はジャージじゃいけないのかな」
「うん、でも校則できまっているから」
納得はしていなくても仕方ないと思っているようだった
(実は校則はそれほど固定的ではなく、もう少し自由度があったようだ)
だったら校則を変えればいいのに!と、その時すぐに浮かんだのは
少し前に「あなた自身の社会 スウェーデンの中学教科書」を読んだからで
その本には「給食が美味しくない」と不満を持った中学生が
それを解決するために行動を起こし、そこで何らかの成果を得る経験が
紹介されていたからだ
スウェーデンの彼らは行動して何かを解決することができた
その成功体験はとても貴重で、若い人には「動けば何かがかわる」ことを
自らの知恵をして自身の宝のもとして定着したと思われる
今回の制服の件は自身が卒業した中学校の生徒が提案したらしい
「女子もスラックスをはきたい」という素朴な理由の訴えから
そのうちに「制服を変えたい」という根本的な問題となり
ついには「制服検討委員会」という組織で充分に論議されることになった
中学生も自分たちの意見を反映してほしい!
と思うのは当然で、大人たちが選んだデザインの中から選ぶだけでは
不満を覚え、実際にデザインに関わることを求めたようだ
それでも制服の色、制作コスト、時間経過による飽き等の
中学生では想像し得ない大人の知見を中学生は耳にして
若干視野が狭かったことも自覚し、それでも中学生ができることを
彼らは頭を振り絞って形にしたようだ
制服が変わることになった結果よりも、この過程に中学生が参加して
それなりの満足を得る経験(成功体験)をしたことは本当に大きなことだと思う
ところで、なぜだか自分が望んだものはゆっくりだが実現していく
というような気分になることがある
この制服の件では、実は市の教育委員会のメンバーの中に知り合いがいて
彼に「あなた自身の社会 スウェーデンの中学教科書」を手渡して
なんとかここに書かれている良いことは実現してほしいと伝えたのだ
その後、彼に会うと手渡した本は教育委員会のメンバーのなかで
回し読みされることになったと口にした
それがあったからこのような結果になったとは思わないが
何故か、自分が望んだ何かが達成されたような気がして
どこか救われた気がしたものだった
「動けば(言えば)変わる」という個人的な経験はある
それは「日本語プレ教育の実施」の要望で
最近、新城市では外国をルーツに持つ子どもたちが急激に増えている
そうした子どもたちに、一定期間日本語の教育を専門家が行うという制度で
外国人の多い他市では採用されている制度を、新城市でも行ってほしいと
数年前の市長との意見交換会で述べた
それが翌年には予算計上されて実施されることになって今に至っている
何かを言ったり行動したことは、直ぐにでないにしても
少しづつ実現していくものだなというのは実感としてあるので
人は不平不満とか批判(それはそれなりに必要だとしても)を表に出すだけでなく
あるべき姿への提案も必要だと思う
ところで、一度読んでもらいたい「あなた自身の社会 スウェーデンの中学教科書」
はこんな本↓
見ると幸運が訪れると言われるドクターイエローが役目を終える
確か、京都駅で写真を撮ったはず!と思い出してライブラリーから探してみると
これがあった(2017年 2月8日だった)
写真好きの知人は、走っているドクターイエローを撮影し
それを拡大したものを地区の文化祭に出品している
どうやって走るドクターイエローを撮影できるのか尋ねたところ
彼らは何らの方法で走る時間を知っているらしい
何でもその道に凝る人は情報通になるようだ
ところでこの日、自分は何をしに京都に出かけたのか?
と記憶をたどるため、その日に撮影した写真をパラパラを見てみると
訪れたのは伏見稲荷、東福寺、清水寺、そこから三年坂を通って石塀小路だった
修学旅行コースみたいだが東福寺が少しマニアックかもしれない
東福寺に行ったのは作庭家 重森三玲の庭を見たかったからで
東西南北にそれぞれ異なったテイストで作られており
2回目のその時は前に見たときよりもすんなりと良いな!と感じたのだった
「花より団子!」は確かに動かしがたい事実で京都での楽しみは食べ物もある
ただし、金額がのすものはあっさりパスで、にしん蕎麦とかお雑煮とか
その程度の金額で済むものしか手を出さない
この時は、今はもう無くなってしまった錦小路の「杵つき餅や」でいただいたのが
白味噌仕立てのお雑煮と安倍川餅のセット
お雑煮は鰹節の香りとか出汁が効いていてとても美味しかった
でもひとつだけでな満腹にならないので、安倍川餅のセットにした
昔はよく歩いたものだと、今は思う(この時以上に歩くことが多かった)
最近は京都に出かけても、1.2箇所いけばそれで充分となっている
その代わり知識が増えた分、一つ一つを楽しむことができるようになっている
昨年は「光る君へ」で京都の年だったが、一度も行かなかった
今年は行けるようになるかな(気分的にも)