パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

民主主義のつくり方(読後現時点での感想)

2018年07月30日 08時12分00秒 | 

時々思うのだけれど世の中には説明・解説がとてもうまい人がいる
それらを聞いたり、読んだりすると急に賢くなった気がするが
そこは凡人の悲しさ、、すぐに忘れてしまう

昨日一気読みした「民主主義のつくり方」宇野重規 著

この本は、とても読みやすくて、わかったような気にさせる本だった
わかりやすかった理由は思想の歴史を説いていき、次に生まれる思考が必然であったことを
自然と感じさせられたからで、時の流れとか時代の雰囲気、その中で理解をすることは
いきなり難しい概念を理解しようとするよりは無理がない
このように思考(思想)の歴史をたどってわかりやすく解説されたるのはかつて読んだ佐伯啓思の一連の本も
そうだった(そこではニヒリズムの生まれる必然性やら現象学、実存主義等のやはり生まれる流れが解説されていた)

あまりにも興味深かったので、付箋もつけず飛ばし読みをしてしまった
だからもう一度読み直さねばならないだろう

ただいろんなことが実感としてわかった
ヨーロッパ人にとって大きなショックだったのは第一次世界大戦の出来事(佐伯啓思の本によれば)
アメリカ人にとっては南北戦争(この本に述べられている)
日本では安易に素晴らしいもの「民主主義」と理解されているが、この民主主義は昨今の日本の
政治体制を見渡してみると、やっとかなり危うい不完全なものだとういことという理解が始まったようだ

民主主義の反対語は君主制(という考え方がある)
フランス革命によって政治を仕切るのが君主から庶民の手に渡ったが
その結果、数年後にはあまり好ましくない状況に陥った
この経緯を踏まえて保守という人々は安易な民主主義、理性のみを拠り所にするその主義(民主主義)に疑問を呈した

日本はこの理性のみを拠り所にする危険性をあまり大きく考えず、一見素晴らしく響く「民主主義」を
万能のものとしているような雰囲気だ(という印象を持ってしまう)

アメリカ人は南北戦争で痛い思いをした
南北のそれぞれの人たちが、それぞれの信念に従って正直に戦い
ある人はその戦いに参加しなかったことがトラウマにまでなってしまった
自分自身の声に素直に従ったのに、このような何十万人も亡くなる事態になるとは、、
そのどこが悪かったのか
理念心情に従い、他のそれを認めないとしがちな一神教的な考え方がそもそも間違いだったのではないか
ならば、その解決策は、あるいは世界や人間存在の捉え方の再検討は、、

アメリカは移民の国で最初から国王がいない
今でこそ恐るべき階級社会になっているが誕生した頃は、平民ばかりの国だった
そこでの共通項は「努力したことは報われる」「現在の良い立場は努力したおかげの神様からのプレゼント」
みたいなマックス・ウェーバーが言いそうなことと、ヨーロッパの思考方法のような思弁的ではなく
実証可能な現象を見てのそこから推察されることをベースに形成されている
その一つの方法として「プラグマティズム」があって、この本はそのことを歴史的な要素を踏まえて紹介している

他人と自分、社会と自分、そうしたくくり方が現代社会の中に落とし込んで
その再定義のようなものはなかなか興味深いが、この本で何故か出てきた日本の島根県の小さな島の海土町の
地域活性化の話題がリアルで面白かった
日本の地方都市の例に漏れず、ここでも高齢化人口減少に陥っていたが、あるきっかけで人口増にシフトした
これは有名な例で、度々色んなところで取り上げられ、自分の住む新城市での議会でも紹介されたことがあったが
この本を読んで一番印象に残ったのは、復活ができたのは「危機感の共有」がなされたこと
誰かが困った状態を、まるで手品のように解決してくれるのではなく、開き直って自分たちの手で
「1人でできること、10人でできること、100人でできること、1000人でできること」を町民の徹底的な
討論の中で決定し、それを実行しようとした
誰かがやってくれるのではなく、結局は自らの力でやるしかない、、、
その開き直りに近い思いは、今の自分の住む新城市も日本という国も同様に感じてしまうが
実際はこうした体験に基づく過程で得たものが民主主義というものなのかもしれない

日本の(大げさな言いようだが)民主主義は、ちゃんと経験すべきことを経験せず
観念的にいいとこ取りをしたような、、いつもの、、日本的な真似事っぽい、真に身につかない言葉だけの
民主主義になっているのではないか、、という思いをまたもや覚えてしまった

いろんな刺激を覚えるところが満載だったが、この本が実生活に役立つかどうかは別として
その知識は各種の判断の基礎ともなりうるだろかから
ぜひとも地方自治体の首長・行政の方々、議員さんにも読んでほしいものだ
と余計なお世話だが、、そんな思いが頭に浮かんだ

でも、もう一度読んだら、別の印象を持つだろうな
(それはそれで仕方ない)

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ワークショップ

2018年07月29日 09時07分35秒 | あれこれ考えること

新城市や新城市議会が主催する会合に、ワークショップが設けられることがある
つい最近では議会報告会で、その前には市民まちづくり集会で、その前には地域自治区ごとに
行われた「公共施設」についての検討会(?)でも、当たり前のように、なんの疑いもなく行われた

その方法は何人かが幾つかの机に分かれて座り、目の前に置かれた小さな色分けしたシート(小片の紙)に
検討事項を、各人が思いつくまま書いて、目前の大きな用紙にペタペタと貼っていき
貼り終わったあとで似たような考えや視点を一括りしして、考えからを整理していこうとするもの
これは昔、仕事の本を読んでい時目にした「KJ法」という方法だと思う

で、少しばかりへそ曲がりな自分は、この方法があのような会議で有効な、成果のあるものだろうか
と考えてしまう
ます第一の大きな不満は、やった本人の達成感がまったくない
考えが似たようなものの集合として、ある種概念化されるとしても、そしてそれはまとめ方としては
素晴らしい方法だとしても、どこな「なにか違う」という気持ちを抑えきれないのだ

なら他に方法があるのか、、と言われると、思いつかないのが辛いところだが
少なくとも新城市で行われた「市民まちづくり集会」でのワークショップ
市議会で行われた「公共施設に関するワークショップ」は、約一時間を費やしたものの果たして
それが真に何かに役立ったかといえば、、、
その後の報告もあまりないし、、ちょいと疑問

KJ法は確立された素晴らしい方法らしいが、前提となるのが優秀なまとめ役のファシリテーターの存在
過去のワークショップにその様な人物がいたるところで存在したかと言えば、、
みんなそれぞれ自分の感覚で、、、
以前牧之原市の市長だったと思うが、市ではファシリテーターの資格を取るように進めていて
現実に何人かの有資格者が生まれた、、との講演会での発言があった
ワークショップを実行するなら、そうした下地が欲しいものだ

でもこのワークショップの方法で果たして本当の考え、要望が見つけられるか、、が
どうしても疑問に残る

結婚式の祝辞では「耳が2つあって、口がひとつなのは、人間というのは人の話をよく聞いて
声に出すのは控えめにしたほうが良い」という例えで使われるが、この耳が2つあっての部分
人の話をよく聞く、、反論のためにではなく、ただただ言わんとすることを理解しようとする努力と
その理解力というのが、ある職業の人たち(行政や議員さん)には特に必要だと思われるが、
このワークショップというステップを踏むことで、それらは行われているとされそうで
なんだかよく言われる行政のアリバイ作り、、みたいな印象を持ってしまうのは、、偏屈すぎるか

人のはなしを直に聞く、行政の人も議員さんも市民の声をしっかり聴く
そのしっかり聞いた話は実体験として深く記憶に残り、様々な判断の基準となる
ワークショップで得られた結論を文書で読んで理解するのと、誰かの声を直接聞くというのは
きっとその影響力は大きく違うだろう
できることなら、市民の声を聞く、、という行為は、ワークショップでシャンシャンでお終いではなく
地道にやってほしいもの、、と思ったりする、、


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庶民の思い・感情

2018年07月28日 08時13分54秒 | あれこれ考えること

戦時中のポスター、そのコピーに一文字(素)を入れただけで、全く意味が反対になる有名な落書きがある
「贅沢は敵だ」が「贅沢は素敵だ」がそれだが、きっとこっそり誰かがわからないようにやったに違いない
当時の庶民は上からの教条的な忍耐とか我慢とか根性とか精神力とか、、、そんな言葉にうんざりしていたのではないか
それでつい本音がポロリというところかもしれない

戦時中の、その時代に対する批判的な庶民の落書きは、他に特高警察が探したもののなかに

● 戦争をヤメロ 俺たちに自由を与えよ
● 国民に平和とパンを与えろ
● 東条の邸宅30万円
● 国家の美名に隠れ、戦争で儲けているのは軍人と官僚だ
● 貧乏神の東条内閣 一将功成って国民滅ぶ

がある
なんとなく今現在をも彷彿とさせるようで、それはそれで困ったものだが
こういう公式文書には残らない庶民の声というのが自分は気になるし
こうした資料は大切に保存され、十分に検討されるべきだと思っている

それでつい連想ゲーム風にいろんなことを思い出した
その一つが、万葉集の貧窮問答歌(たしかこんなのがあったぞと思い出しググってみた)

原文は難しいので現代語に訳したものは、こんなだ


風交じりの雨が降る夜の雨交じりの雪が降る夜はどうしようもなく寒いので,塩をなめながら糟湯酒(かすゆざけ)をすすり,咳をしながら鼻をすする。少しはえているひげをなでて,自分より優れた者はいないだろうとうぬぼれているが,寒くて仕方ないので,麻のあとんをひっかぶり,麻衣を重ね着しても寒い夜だ。私よりも貧しい人の父母は腹をすかせてこごえ,妻子は泣いているだろうに。こういう時はあなたはどのように暮らしているのか。

 天地は広いというけれど,私には狭いものだ。太陽や月は明るいというけれど,私のためには照らしてはくれないものだ。他の人もみなそうなんだろうか。私だけなのだろうか。人として生まれ,人並みに働いているのに,綿も入っていない海藻のようにぼろぼろになった衣を肩にかけて,つぶれかかった家,曲がった家の中には,地面にわらをしいて,父母は枕の方に,妻子は足の方に,私を囲むようにして嘆き悲しんでいる。かまどには火のけがなく,米をにる器にはクモの巣がはってしまい,飯を炊くことも忘れてしまったようだ。ぬえ鳥の様にかぼそい声を出していると,短いもののはしを切るとでも言うように,鞭を持った里長の声が寝床にまで聞こえる。こんなにもどうしようもないものなのか,世の中というものは。この世の中はつらく,身もやせるように耐えられないと思うけれど,鳥ではないから,飛んで行ってしまうこともできない。

はっきり言えば底辺の人の愚痴だ
律令国家が形成され、優雅なイメージのするこの時代(万葉集の時代)でも現実の庶民は、本当に今も変わらない感じ
教科書に出るような政治の表や政権闘争ばかり眺めていては、人というものの生き様はわからない
素朴な人の、少々根性のない、横着な、感情豊かな庶民、、それらの人々が感じた世界、、
それらは、今いる自分たちにとっても感じる何かがあるはず

次に思い出したのが(本当に不意に思い出した)二条河原の落書き
どんな内容かは覚えていないが、そういうものがあった、、ことを思い出して
現代の最強の武器を用いて、その内容を調べてみた

原文はやはり難しいので訳文を探したら、このページが見つかった
モジカの犬  【現代語訳】二条河原落書

これまた呆れるような怒りを覚える落書きで
残念なのはこれらを読むと、これまた現在を思い起こさせることだ、、

昔も今も何も変わっていない、、
物質文明は進んだとしても、少なくとも人と人に関することはほとんど進歩・変化は見られない(みたい)
だからこそ、昔の庶民の素直なストレートな感情の発露としての、こうした体制批判の声は
今こそ振り返ってこれからに活かす何かとすべき、、と思ったりする

しかし、それにしても今の時代はひどいな(考える度に落ち込みそう)
この落書きに相当するのもは、現代では批判的な投稿のツイッターが該当するかもしれない
だがツイッターも批判勢力だけでなく、妙な数の力で空気づくりを企む人々もいるようで、、、
その評価はなかなか難しい

後世の時代の人は、現在をどのように把握・理解するのだろうか
その前に、願わくば不幸な未来にならないことを、、、、


 
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古事記(入門編)を読み返した

2018年07月27日 11時08分36秒 | 

体調は相変わらずの状態
腰が悪いのか股関節が悪いのか、、とにかくそのあたりが痛いかの重苦しいのか
とにかく違和感がひくことはない
あまりゴロゴロしてばかりなのは体に悪いと昨日軽めの運動(水中ウォーキング)をしたが
これが失敗だったかもしれない
軽めになった違和感が復活したようで、、、ほんと困った

ゴロゴロばかりはいけないので、幸い暑くない二階で、やっぱりゴロゴロしながら
本を引っ張り出した

夏は真面目に本を読む気になれないでいるので、手元に放かりっぱなしになっている軽めの本

古事記は真面目に読んだことはなく、この様なエッセンスを集約した本ばかり眺めている
でも何冊か読むうちに曖昧な知識や記憶も少しづつ形になっていく
おまけに、それらの本を読んで(?)から時間が経っているせいで却って記憶が整理されたようで
なかなかおもしろく読み続けられた
(相変わらず漢字表記の神様の名前は覚えられないが)

ところで「美しい日本」と枕詞を並べて日本だけを賛美するある種の方々
彼らはこの手の本をじっくり読んでいるのだろうか
神武天皇の存在を疑いなく信じている人は、彼のお母さんはどの様な人か説明できるのだろうか
(なんとなく、そこまでは関心なさそうな印象を持ってしまうが)

日本には神社検定というのがあるそうだ
最初は常識的な神社にお参りするときの話とかが問題になっているらしいが
上の段階になると古事記のことについての知識も問われるらしい

どの国にも神話がある
人には作話機能という傾向があり、それでもって社会の安定を図る傾向があるようだ
(ベルクソンの道徳と宗教の二源泉にあったような記憶が、、、)
神話自体の存在は、その内容も含めて面白いが、そのまま一方的に信じてしまうのは
やっぱりどうかと思ってしまう

ところで自分が古事記に関心を持ったのは、人はいかにして嘘をつくか
事実をごまかすか、、ということに興味があったから
歴史は当時の権力者が公文書等で残す物語で
本当かどうかは、いまいち怪しい
だから最初から疑いの目で見たらどんな印象を持つか自分で納得したかった

先日読んだある時期発刊禁止となった「古事記と日本書紀の研究」津田左右吉は
大真面目で科学的に、いろんな可能性を踏まえて解読していたが、これは面白かった
だが、こうした本が発刊禁止となり、その結果(このせいばかりではないとしても)
悪い方向に世の中が進んでしまったが、無条件に日本を礼賛する傾向は
多様な解釈をも否定しそうで、、、ちょいと心配

でも、少しばかりいい加減な感情的な神様が動き回るこの古事記は
思いの外面白いと感じるのも事実
それにしても、名前が覚えられない、、、のが情けないが

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怒りの沸点

2018年07月26日 07時50分00秒 | あれこれ考えること

なかなかコントロールしにくいのが怒りという感情
最近では「きれる」という言葉で、瞬間湯沸かし器のような反応が
若者だけでなく、いい歳をした大人までにも見られるようだ
怒りは人を攻撃するあまりよろしくない面もあれば、
時には否定的な面ばかりでなく、あるきっかけの発端となるような
少しばかり肯定的に捉えられそうなこともある

最近、裁判と政治倫理審査会の傍聴という滅多にお目にかかれない経験をした
裁判は一年半ほど前からのものだが、やっと証人が法廷に立って、テレビドラマ風の
ドラマチックな真実の追求のような様相を見せるようになった
もう一つの政治倫理審査会は、ある議員が議員としてあらざるべき行動をしたのではないか
という疑いで、市民から条例に基づき政治倫理審査会の開催を求められたもので
この2つを傍聴して、フト感じたのは「怒りの沸点」ということ

2つの傍聴を通しての共通の感情は、問題となっている事件(対象)の杜撰さへの怒り
裁判は「知ってることは包み隠さず、嘘は言わない」と証人が宣言し
裁判長からも偽証罪に問われることがあるから気をつけるようにと諭されるわけだが
それでもやはりというか、先日の裁判では明らかに原告側と被告側の証言は異なった
原告側は、問題となっている件について被告側から相談を受けたと証言しているが
被告側はそんなことは全くしていないと証言した
この日は原告側証人が一人、被告側が二人で、相談の有無を否定したのは被告側の二人
嘘は言わないように、、とされているが、話が全く違うとされているので、普通に考えると
誰かが嘘を言っていることになる(あるいは記憶が飛んでしまっている、、)
まさかこの様な場で多数決による判断(相談はなかったという)はないだろうから
裁判官という人たちは、この様な時何をもって判断をするのだろうかと、、興味をもった
(話している人の表情、話しぶり、その他経験上の印象で判断するのだろうか、、)

もっとも、これらのことは想定・予想どおりの展開で、おかしいと思いながらも
それほど腹の立つことはなかった
ところが、その先の被告側証人の、その答弁のひどいこと、これには心底腹がたった
証言が嘘をいってると思われるから腹が立つのではなく、正直に話しているだろうと思われるその内容が
(市の事業の決済に関する段取りが)、あまりにも無責任極まりない
たった四人の組織のなかで、その課の重要な案件について組織内での共有ができていないとか
重要な報告書を一番の上司が見ていなかったり、最終的な決裁文書も記憶にないとか、、
これが、誰かをかばっているかどうかは別にして、他の証人との話とも食い違う点があり
いったいこの組織は何をどのように判断をしていったのか、市の大切な税金を使うというのに、、
このいい加減さはなんだ、、と
ステップは一応踏んでいる、しかしその実態は、こんなにいい加減で進められていたのか(証人の話を信じるとすると)
そんなことを思うと、怒りと同時に不安が湧き上がってきた

細かな事実を知っていくうちに、怒りを覚える様になったのは政治倫理審査会の傍聴でも同じ
新城市の今回の政治倫理審査会は公開で行われているので、しっかりその内容を確認できるのだが
まずは事実認定として様々なチェックが行われた
申請者の言い分を元に、他にも委員会の議員さんも手持ちの資料から想像されることをベースに
委員全員の共通認識を図るのに時間をかけられたのだが、この共通認識としての、事実があまりにもひどい
普通ならありえないことの連続だ
見積書の宛名が違う、見積書がFAXで送られたものを使用している、業者からの支払請求書がない
傷害保険の保証期間が事業が過ぎてからになっている、、などなど他にも呆れるくらい
これらを傍聴の席で見聞きすると、単純に怒りが目を覚ます
それは市がこの様な杜撰な書類で何もかも了解してしまったことに対する怒りではなく
何故、こんな杜撰な書類で通そうとしたのか、、、ということに対する怒りだ
市は対象となっている事業は善意の行動ということで最初から疑いの目をもって審査はしない
然るべき書類があれば、多少の不備はあっても、まあまあというところが現実と思われる
しかし今回はその様子がかなり違う
そこで感じられるのは(思い込みかもしれないが)悪意
市のアバウトな審査を前提とした、見つからないだろうとの意図で提出された書類
そのように感じられても仕方のないようなことの連続

「怒りの沸点」
裁判でも政治倫理審査会でも、目前行われる事実の羅列を知れば普通の人は
「怒り」を覚えるのではないか、、と思う
いくらのんびりした人でも、知らないうちにこのようなことが実際に行われていたとは、、と
知れば、腹を立てるに違いない(と思う)

知らない人は怒りを覚えない
でも知ってしまった人は怒りを覚える
怒りを覚えた人がその後どの様な行動をするかわからない
でも、少なくとも一旦その様な事実を知ってしまったからには
いろんな問題に対しておおらかに眺めるだけではダメだという意識が芽生える
怒りは、きっかけになる

怒りを推奨するわけではないが、普通の常識的な感情をもった人が
なにかおかしい、、と感じたものは、たいがい本当におかしい、、とされるが
自然発生的に生じた怒りは、、、多分、、同様に正しい反応で世の中にとっても必要な反応
と思えてしまうのだが、、、さて

ところで、裁判と政治倫理審査会の細かなことについては機会があれば、より具体的に取り上げるつもり
現時点では、いつものように思わせぶりに終始するが、、
それこそ怒りが沸点に達したら、洗いざらいに、、、ということになる、、、かな

 

 

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おかしなNHKのグラフ

2018年07月25日 07時47分48秒 | あれこれ考えること

保守からもリベラルからも偏向していると批判されるメディア(テレビ報道)
つい最近、腹の立つことがあった
たまたまツイッターの投稿で知ったのだが、それはNHKが作成し放送したこのグラフ

IR誘致についての調査で、どんな母集団を対象にしていたのかはこれではわからない
だが、はっきり言えるのはこのグラフはおかしいということ
賛成・反対の合計が59%となっているのに、グラフは半分を越していない
それに反対よりも、数字は小さいのにどちらともいえないの面積のほうが大きく見える

それでエクセルでこの数字でグラフを作ってみた

反対の黄緑の存在感が大きい
問題はNHKの報道したグラフが、ちょっとした間違いか、それとも意図的か、、という点だ
人は視覚から得る情報が圧倒的に多いと言われる
NHKのグラフは数字が書かれている、しかし大半の人はグラフを見て時間をかけず理解した気になる
この一種の早とちり、錯覚を意図的に利用しようとしたか、、どうかが問題だ

NHKに就職するのは大変なことで、論理的におかしいことはすぐに気づくだけの知恵を持っている
人たちの集合に違いない
なのに、あのグラフがおかしいことに気づかず、放送してしまったのか

気づかなかった、、と思うほうが、不自然で彼らは確信犯的にこのグラフを用いたのではないか
と想像する方が無理がない
それはこの法案を通そうとした現政権への忖度、、、、

些細なことだが、いろいろと細かなことでおかしなことが起きつつある
ずっと前にはNHKのニュースの冒頭に森友・加計学園のニュースを連続して使うな、、とか
どこかの党から圧力があったとか
その他、報道されてしかるべきなことがされなかったり、、(伊藤詩織氏への諸々の出来事)

本当に最近は不安になることが多い
大衆の無関心は気になるが、それはある程度昔も今も変わらない面がある(と思う)
しかし判断の目安となる事実の理解が、このように恣意的に変えられられたりしているとすると、、、

今回のNHKの問題は、もう少し大きな声で抗議すべき事のように思われる



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男泣き

2018年07月23日 06時04分39秒 | 徒然なるままに

大相撲は御嶽海の優勝で暑い名古屋場所が終わった
優勝を報じる新聞に「男泣き」の言葉があった
ふと、「男泣き」があるのだから「女泣き」も聞いたことはないがあるのか?
と思って、ググってみた
すると同じようなことを思う人はいるもので、検索結果の上位にその質問のページが有った

男泣き
やたらには泣かないはずの男が、こらえ切れず泣くこと。
男が抑え切れずに泣くこと。

男は泣くもんじゃない、それでも出てしまうのが男泣きなのだが
この「男は泣くもんじゃない」というのはいつ頃からそうなったんだろう
百人一首とか和歌などは、男でも結構泣いていて、枕びっしょりだったか袖が濡れてとか
そんな描写がしっかりある(西行の歌にもあるぞ)
そしてそれを恥ずかしがるでもなさそう

すると、やせ我慢を強いられたのは江戸時代くらいか
きっとモノ好きな人がこんなことを必死になって調べているだろう

もっとも最近は、男も無理して我慢することはなく、泣いても良いという風潮に変わってきたらしく
「男泣き」の言葉自体が死語になりつつあるとも言われている

年令を重ねると(男でも)涙腺が緩くなる
ということはすぐ泣くことの多い女に近づいていく、、ということ?

男泣きの言葉は死語になっても、女の涙は最強の武器という言葉は
きっと無くならないだろうな、、
そんなのを見せられた時、男はオロオロするばかり、、

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7月

2018年07月21日 04時52分14秒 | 徒然なるままに

とんでもない暑さが続く7月
この7月は自分にとっては最悪の月だった
ひと月間、ほとんど何もせずグータラしていた
いやグータラしかできなかった

肝心な7月18日の大事な行事までには治さねば、、、(何を?)
そのためには、グータラするしか手はない、、、

幸いサッカーワールドカップがあって、暇を弄ぶことなかかったし
本質的に横着者なので、グータラは苦にならなかったが
治るのか、、という不安だけはいつも頭をよぎった

とりあえず、恥ずかしい格好(松葉杖)をしながら移動した7月18日の大事な行事(裁判傍聴)は
座っていて我慢できるか不安だったがゴソゴソと何度か体勢を変えてなんとか無事終了
現在はまるで各駅停車の列車並のスピードで、回復しつつあるような気がするような、しないような、、

つくづく健康第一を実感
さて次回の大事な行事(裁判傍聴)は8月1日
普段の状態に戻れているかな、、、

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裁判ごっこ

2018年07月19日 05時54分22秒 | 徒然なるままに

裁判などという非日常の現場を見ることがあったので、つい以前に裁判ごっこをしたのを思い出した

それは自分がサッカーのコーチをしていた時のことで、確か3.4年担当のときだった
サッカーが好きなのか、みんなでワイワイするのが好きなのかわからないが
毎週楽しそうに来ていたと思っていたが、それでも子どもたちはよく喧嘩をした
あまりにも多いので、一つ一つ理由を聞いて対処するなどということはなかったが
心配はいらず、彼らは喧嘩していても数分後にはお互い笑いあっているなどということはザラで
彼ら子供の頭というのは記憶力というのはないのか、現在起きていることへの対応しかないのか、、
などと思ったものだ

ある時、双子の兄弟が喧嘩した(いつものこと)
彼らは元気ないたずらっ子タイプで、感情のコントロールなんて得意じゃなかった(子供だから仕方ない?)
練習も一段落するときだったので、フト、裁判みたいなことをしてみようと思った
彼らを対面して座らせ、周りを他の子どもたちが見守り、彼らの言い分を交互に聞いて
その言い分が兄弟どちらの方に分があるかを周りの子供達に決めさせようとした

その目論見は案外うまくいった
交互に話すということは、当事者も納得して、まずはAくんから喧嘩のきっかけを
次にBくんに同じように聞く
案外うまくいったというのは、周りの子どもたちも興味深く聞いていたし
当事者同士も相手が話しているときは口を挟むなんてことはしなくて
とりあえず交互に話すことは確保できた

さてその内容がどうだったか、肝心なところは忘れてしまったが
どちらかが先に手を出したが、その前に手を出すような怒りを覚えさせる口での攻撃をした
ということだった、、ように思う

交互に話すと言っても子供のこと、何回目には同じことの繰り返しになった(それは仕方ない)
で、周りの子どもたちは、どちらを支持したかも残念ながら覚えていない
(どちらもあったような気がするが、手を出したほうが悪い、、という方が多かったかな)

残念ながら覚えているのは、このようなことをしたという事実と
自分が彼らに伝えたこと(確かこの様な話をしたという記憶)
「言葉は人の心に傷を与えるから暴力にもなるよ
お父さんやお母さんから言葉で叱られただけで、ぶたれなくても悲しくなったりするだろう
そして落ち込んでしまうだろう
言葉は体のどこかを傷つけることはないかもしれないけど、気をつけなくちゃいけないと思うな」

果たしてこの後、子どもたちがどの様な反応をしたのか、、覚えていない
面白そうだったけど、飽きちゃった、、喧嘩も言い分を口にしたら、もういいや、、、みたいな
感じだったのではないか、、と思う

でも、子どもたちとの練習は本当に楽しかった
いつものように列を抜かしたからと言って喧嘩をし、ゲームで失点したキーパーを情け容赦無く責めたり
お互い服を掴んでボールの取り合いをしてしても相手方のファウルだと言い続けたり、、
褒められたくてまとわりついたり、褒められたのが嬉しくて練習後の後片付けも積極的に手伝ってくれたり、、

今思いだすと、あの時自分はコーチをしていたのではなく、子どもたちに遊んでもらっていた
という気がする、、それも、時間がたつに連れてますますその思いは強くなってきている

こんな可愛い子どもたちの一人が、先日新聞で高校野球のキャプテンとして頑張っているのが紹介された
あの〇〇が、、あのときのイメージとはだいぶ違うが、こういう話は嬉しいものだった



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流れを決めたPK判定(どうもVAR判定は、、、、)

2018年07月16日 07時51分54秒 | サッカー

ワールドカップはフランスの優勝で幕を閉じた(フランス4-2クロアチア)
決勝トーナメントは片方の山は強豪がズラッと並び、まさにつぶしあい
片方の山はどこにでもチャンスがありそうな様相だったが
それでも延長を3試合も勝ち残ったクロアチアは決勝に出るに値した

あれだけ戦って、休養日も一日少ないクロアチアに判官びいきで応援したくなるのは人情
しかし、やはり甘くはなかった

立ち上がりいきなりフランスがプレスを厳しくかけてきたが
慌てることもなくクロアチアはパスの交換を行った
まるでスペインの選手が細かなところで、狭いスペースでパスをするように
一人ひとりの技術がそれこそ半端ないというところ

そうこうするうちにフランスがフリーキックを得た
クリーズマンの絶妙なキックをマンジェキッチがオウンゴール
マンジェキッチは先の準決勝で決勝点を叩き出した選手
その選手が肝心な試合でオウンゴール
かわいそうな仕打ちのような運命だが、こういうことは何故かよくある
今まで活躍してみんなを引っ張ってきた選手が、ご褒美ではなく試練のような時をプレゼントされる
日韓の決勝戦でオリバー・カーンのミス
同じく日韓の大会のホン・ミョンボの三位決定戦でのミス
何故彼らがそういう運目を甘んじて受けなければいけないのか、神様のさじ加減は人間には理解しがたい

この試合こんなのでフランスが固く守ってお終いなんだろうか
フトそんな思いが頭をよぎった(それじゃ面白くない)

だがそれから同点にしたクロアチアは素晴らしかった
相手のミスと言うよりきちんと点をとった
浮玉を左に持ち替えて正確なシュート
思わず声が出た
これでも面白くなるぞ、、

しかしそのあとでフランスのコーナーキックからの攻撃でクロアチアの選手にハンドの判定
最初はハンドの判定はなしだがVARで確認してPKとなった
確かに手には当たってる、、でも故意じゃない、、特別有利になっているわけでもない
この大事な試合ということを考えれば、エンタメ要素も混じえてPKはないと願ったが
審判はPKポイントを指し、クリーズマンの冷静なキックでフランスの勝ち越し

正直なところ、これで決まりと想像した
VR判定はサッカーの流れをぶった切る
良いも悪いも含めてミスの多いサッカーというゲームにおいて人間的な審判のミスも
ゲームの中の出来事の一つ、、とするほうが、自分には納得がいく

後のポグバとエムバペのゴールはおまけみたいなもの
ただフランスのキーパーのマンジェキッチにプレスをかけられてゴールを許したのは
緊張感を欠いていたし、どこかこのゲームの全体的な落ち着きの無さを現していた

しかしクロアチアは、つくづくすごいな
一人ひとりが上手い
イングランド戦の同点ゴールはそれなりの高さのボールを頭じゃなくて足で決めている(イブラヒモビッチみたいに)
東欧のブラジルと言われたのは旧ユーゴスラビア
そのユーゴスラビアが分かれて誕生した国がクロアチア
見ていて面白かったのはフランスよりクロアチアだった

そう言えば、急に思い出したがドイツが優勝したイタリア大会の時
マラドーナのアルゼンチンとストイコビッチのユーゴスラビアの試合は面白かった
ユーゴスラビアの監督はオシムさん
ストイコビッチはまだそれほど有名ではなかったが、この日の彼はすごかった
確かユーゴスラビアは一人退場ということになったが、その中でもストイコビッチは幾度もチャンスを演出
サビチェビッチが決めさえすれば、、、そんなシーンが何回かあった
解説の加茂さんもこの選手(ストイコビッチ)はすごいですねえ、、と舌を巻いていた
だが勝負は延長でも決まらず、PK戦に
ここでまたサッカーの神様の不思議なさじ加減が登場する
あれだけ頑張ったストイコビッチがPKをバーに当てて失敗する
そして敗戦

ロシアのワールドカップはこれで終わった
でも果たして優勝の資格のあるチームが栄誉に輝いたか
将来のサッカーのためになる様なチームが優勝したか、、と考えると少し疑問符がつく
20年前フランスが優勝した時のチームは、その資格があると感じた
なんともバランスが良く左右のバックスの攻撃が速いし力強いしすごかった
現にその後のユーロでも優勝して、それも無理からぬ事と思えた
だが今回のチーム、若手が多くてさらなる熟成が予想されると言うが
このまま勝ち進められるか、少し疑問を感じる

ほんと判官びいきだが、苦労の多かった小さな国クロアチアに勝たせてあげたかったな

さてにわかサッカーファンの増えた日本
暑い中Jリーグが再開される
レベルの高い試合を見た後だけに見劣るのは仕方ない
でも、実際にスタジアムにでかけて応援し、批判し
時間をかけてみんなで選手を戦術を育てていく、、という気持ちがないと
「足りないなにか」はつかめないのではないか
足りない何かは選手間だけにあるのではなく、ファンとかサポーターの中にもあるような気がしてならない

うまくなったり強くなるのは、時間と悔しい思いが必要ってこと、、

コメント
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