パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

「江戸時代の裁判の話」の続き

2023年02月28日 09時32分36秒 | 

先日の江戸の裁判の本の続き(もう少し読んだので)


裁判の経緯を読んでいると登場する人物に肩入れしたくなる
農民と商人がそれだが、どちらかと言えば農民の方を応援していた
それは現在進行中の我が市の行政訴訟が、なんとなく農民の立場で
訴えているのと似ている気がするからだ

商人がカルテルを組んで買取価格を低く抑えるようにして
それが書かれた文章が商人の間で回し読みされるものが
何故かバレてしまって、農民が怒りを覚えて騒動になったのが
この事件だが、読んでいくと農民の怒りもわかるが
農民の騒ぎ方も少し問題があったかもしれない

農民の訴えのリーダー的な人物の僧は、今でいうところの
クレーマーみたいな存在でこれ以外にもいろいろ騒ぎを起こしているようだ
(これなどは現在でもありそうな話だ)
商人のカルテルのような約束文書(議定書)は
そんなに悪意のあるものではないと商人は訴える(商人側の日記を残した武八)
そして判決を下す幕府側もその言い分を認める方向に進める
そして、和解とか示談に持っていこうとする
ところが農民は約束文書(議定書)の内容だけの問題ではなく
これが存在したことで後に影響があることを考えれば
軽く見ることはできないと訴える(農民側の立場の日記を残した新八)
だから幕府が勧める和解・示談には不満の態度を示す

ここからが江戸時代っぽいが、その不満の様子を見て
今度は武士が無礼だ!と怒る
お白州の場でも怒られただけでなく、身体を転がされたりしたようだ

江戸時代は幕府の収入もとである米をつくる農家は大事にされているはずだが
実際には、商人の力も強いし、何よりもエライのは武士で
そのメンツを潰すような許されないようだ

結局のところ田舎の農民・商人が江戸まで赴いた裁判は
十数回の両者が向かい合う形で行われ、
幕府側の勧めるとおりの示談・和解のかたちとなる
この結論に至るまでの江戸の滞在費用も裁判官に払う謝礼金も馬鹿にならなかったらしい
そこまでして、訴えた農民の気持ちを思うと少しばかりやりきれない思いもする

結論が出てからその後の事務的な手続きは、現在のそれと大差ないようで
数年前自分たちが経験した「結審の結果を待たない解決策としての妥協案」
を思い浮かばされた(庁舎用地外移転保障費騒動のこと)

なんだか今も昔も変わらないなあ、、というのが実感で
江戸時代も制度的には割合うまくできていて驚きも覚えたが
人が判断を行うということは、内容だけで判断する訳にはいかず
なかなか難しいものだと思ったりする

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下取り価格、あるいは買取価格

2023年02月27日 19時04分33秒 | 徒然なるままに

FBにオーディオの買取の広告があった
家の固定電話には頻繁に家電や貴金属の買取の勧誘がかかってくる
一旦家に入れてしまううと、昨今の事件絡みの心配があるので
心配なので全て断っている
だが今日は試しに連絡をとってみた

買取の対象物はレコードプレーヤーでノッティンガムのハイパースペース
多分新品だと絶対買えない価格の製品だ
たまたま中古品が見つかって手に入れたが、それでも結構高かった記憶がある

珍しい製品だったせいか早いうちに電話がかかってきた
当たり前のことだがものを見ないことには価格は出せない
やってきたのは予定よりも早い時間だった

今はそういう時代なんだな、、
彼はプレーヤーの写真を撮って本部に送った
直感的に〇〇万円以上と思う
と口にしたが、決定権は本部にある

実は新しくレコードプレーヤーを購入する店舗でも
下取りにそれなりの価格を公言している
〇〇万円以上と言ってたが、その価格は今日の業者と同じ価格だ

みんな同じなんだな、、
とホッとしたような、そういうものか、、という感じ
だが今日の業者の本部は直感の価格よりも低い価格だった
彼は不満そうな自分の顔色を見て
再び本部と幾らまでならアップできるか連絡をとった
すると彼の直感の価格に近づいた価格が提示された

さてどうしよう、、となるのだが
今日の業者の方は感じのいい人だった
常識的には安心感は圧倒的に地元の業者だ
待ちくたびれたラックスマンのレコードプレーヤーは
やっと出荷されるようだ

あれこれ揺れる思いだが、結局決めた
それにしてもこの製品が珍しくもなく普通の製品だったら
廃棄処分の費用がかかったに違いない
それがヴィンテージ扱いで少し助かる価格で買取・下取りできるとは
結果的に良いものを購入していたのかもしれない

実際のところ、このプレーヤーその実力は認めないでもない
確かにいろんな音を拾っている
でもそれが自分の好みかと言えば、、
実はこれに変わる前はトーレンスのプレーヤーだった
この製品ほど高価ではなかったが、安いとまではいかない
トーレンスはフローティングというシステムで
ガッチリ固めたものと違い、浮かして振動の影響を受けないようにしている
その音はそれなりに良かった、、という実感を持ったのも事実だ

キース・ジャレットのスタンダード1の中の「ゴッド・ブレス・ザ・チャイルド」
この演奏のベースの音が自分はトーレンスのプレーヤーの音のほうが好きだった

結局のところ、音は自分好みを追求するに限る
価格の高いものは無条件に良いのではなくて、
自分の感性を信じて好ましい音を選んだほうが良い

と、いろいろあったが、さて買取・下取りはどちらにしたか、、
どちらも同じような条件なので、どちらを選んでも差はないようだが、、

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将棋は先番が有利らしい?

2023年02月27日 12時03分47秒 | 徒然なるままに

将棋の王将戦、藤井さんと羽生さんが熱戦を繰り返している
勢いと可能性に満ちた藤井さんも愛知県人としては応援したくなるが
50代で頑張る羽生さんも気になる

今回は応援する人は藤井さんと羽生さんは半々らしい
いつか中年の星と言われた棋士が頑張り
その時も世の中年は同世代を応援したが、それと近い感覚だと思う

ところで現在のところいずれも勝利を収めたのは先番の時
昨日の藤井さんも先番だった
どうやら将棋は先番の方が有利らしい
次は羽生さんの先番でこれに羽生さんが勝利をおさめると
最後の勝負の後先はコマを振っての運任せになるらしい

囲碁の世界も先手が有利で、先番は6目半のハンディを負うことになっていて
それでやっと同等の条件になるらしい
江戸時代の碁の世界はコミがなかったので、白番で戦った人は可愛そうな気もする

話は将棋に戻って王将戦、先番ばかり勝って
最後も先番の権利を得たほうが勝ちというのは、なんかつまらないので
後手番で勝つという結果も見たい気がする

残念ながら将棋はよくわからないのでAIの形勢判断を見てるだけだが
(ハラハラしながらYoutubeを見てる)
棋士は冬でも対局中は額に汗をかいているらしい
その時の頭の中はものすごい抽象的な世界を彷徨っているのだろうが
なんだかそれも羨ましい気がする





 

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たったそれだけのことで、心がウキウキし始めた

2023年02月26日 09時21分06秒 | 子どもたちのこと

昨日の午後三時くらいから気分がウキウキしている
たったそれだけのことで体も軽く感じるのは
人は如何に心の状態に影響されているのかがわかる

昨日の午後、FBのメッセージの音がなった
スマホを見ると、2年前のGWから約一年
日本語の勉強の手伝いをしていた女の子からだった

お姉ちゃんと弟の二人は2年前の4月、新城(日本)から母国のブラジルに帰った
それまでは彼らと小学校の授業が終わってから日本語の勉強の手伝いをしていたので
せっかく覚えた日本語を忘れてしまいそうになるのはもったいなくて
ズームを使っての勉強を続けるように提案すると
5月の連休ころから日本では朝の7時半ブラジルは夜の7時半からの
文明の利器を使った交流が始まった
(それは約一年続いた)

彼らは去年の5月ころ再び日本に戻ってきた
ただし今度は新城ではなくて今度は隣町の豊川市だ
今は弟は豊川の小学校に、お姉ちゃんはブラジルの学校に
通うようになっているのはお姉ちゃんからFBのメッセージで知ることとなった

ただし、それからは気にはなっていたが、お互い交流はなかった
それが昨日、突然
「こんにちは先生、お久しぶりです。
 日本語能力試験N4を受験したことをお伝えしたかったです」
もう〇〇ちゃんとは呼べない、大きくなったお姉ちゃんから
こんなメッセージが届いたのだった
(合格の文字が入ってた画像も一緒に送られたきた)

体が軽く、心がウキウキし始めたのはこの時からだった
なんだか、とても嬉しくて
「こんにちは、エライ!よく頑張ったね」
と時間をあけず返信した
すると
「私は今、N3を試験するために勉強するつもりです」
とのメッセージが続いた

人の気持って通じるものだな、、
どこか漠然とした自己肯定感を感じて、それからずっといい気分でいられた

「先生は元気ですか?」
そんな気遣いのメッセージも続いて、とにかく連絡をくれたことが
嬉しかったと返信をした

子供の時の記憶は、残念ながらいつか忘却の彼方に消えてしまう
自分でも小学校とか中学のそれは確固としたものではない
お姉ちゃんと弟は、いつか、自分との交流も忘れてしまうかもしれない
でも、交流していたその時その時は楽しかったという漠然とした記憶は
残るのではないかとつい期待してしまう

ところで大きくなったら警察官になりたいと言っていた
ルービック・キューブの得意な弟は元気で学校に通っているらしい
またいつか会うことができたら、良いな

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江戸時代の裁判の話

2023年02月25日 09時45分36秒 | 

レコードプレーヤーという大きな出費を控えているので節約生活をしている
お金の使いみちの大きな部分を占めるのが本
(と言ってもそれほどの額ではないが)
そこで、図書館から借りてきた本、トライして挫折して積ん読状態になっている本
昔読んで面白かった本を読むことで出費を減らしている

図書館で借りた本は自分で購入した本ほど愛着がない
そこには自分の好みと違っているので思わぬ発見もあるが
まるで運命のように購入した本のほうがどうしても読む気になれる

数年前購入して積ん読状態になっていた本を引っ張り出してみた


これは数年前、地元の中日新聞にも紹介された本で、
江戸時代に奥三河で起きたトラブルと訴訟の顛末を、一次資料を中心に細かく扱われている
この地区は幕府には時に米ではなくて、楮、柿、莨(たばこ)を納税することになっていた
ただし、そのものではなく今でいう商社的な組織に一旦販売してそこで得たお金を納めていたようだ

ところがある時、この商社(商人)たち数人がカルテルを組んで買い上げの金額を安くすることにして
その約束を文章にしたものを該当者で回覧をすることにしていた
これがどういう訳か農家の人々にバレてしまったのだ
それを知った農家の人々は当然のことながら怒りを覚え、大人数で商人たちに文句をいったり
今でいう行政訴訟みたいなものを起こしたというのだ
その時の中心物だったひとの日記などが時系列に沿って書かれている

読み始めて直ぐに挫折したのはこの部分の文章が「候文(そうろうぶん)」で
内容が直ぐにわかることにはなれなかったせいだ
確かに揉めているのは分かったが、これを最後まで読むのはできない、、と
悔しいがほっぽりだした

だが不意にお金の節約のために、もう一度挑戦しようかと本棚から探し出してみた
今度は、資料としての候文のところではなく、本の中程からの現代文の解説の部分を読み始めた

すると、なかなか面白い
そこには江戸時代の裁判、訴訟のシステムが紹介されていた
江戸時代の裁判らしきものは落語の「大工調べ」でもでてくる
この落語では質屋には資格が必要で、その資格がないのに質屋まがいのことをしている
強欲な大家さんをとっちめるホッとした結論となる

また地元でも江戸時代に裁判が行われていたことを、数年前、地元の歴史研究会の講演で知った
それは2つの地区は自分のところから近いが、作手(つくで)と矢部(やべ)の村人の
ある土地の所有権の争いで、それに絡んでいたのが大岡越前だったという話だ
そしてその記録としての看板みたいなものが、今も自分が卒業した東郷中学校に残っているというのだ

話は逸れたが江戸時代でもちゃんとした訴訟のシステムが存在していたことにすこし驚く
また訴訟は今の様に、刑事訴訟と民事訴訟と分かれていて
特に民事のほうは和解とか示談が推奨されることが多かったようだ
また訴訟の手続きが面倒なのは今も昔も同じで、江戸まで出かけて訴訟を行うには
該当者は宿屋に泊まって口頭弁論の日を待つことになっていたが
この手続きとか、今でいう準備書面みたいなものの作成が面倒で
それは手慣れた宿屋が行うのが常だったそうだ
(つまり、宿屋が弁護士みたいな役割をしたということ)

少数者の支配としての江戸時代は、明治維新として大きく変わることになってしまったが
260年ほどのあいだ大きな内戦はなかった江戸時代は、社会システムとしても
こうした訴訟システムとしても、また文化の面からももう少し見直したほうが良いのかもしれない

こうした訴訟を取り上げたわかりやすい江戸時代の読みものは無いものかな!
と思ったりする(今なら夢中になって読めそう)
ぼんやり思い出すのは帯の紹介文を読めば大阪の炭問屋の話がそれだったような気がする
この本は途中で放り出して積ん読状態扱いになっているはずだが、探せば見つかるかな





 

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そろそろ来ても良い頃なんだが!

2023年02月24日 09時11分59秒 | オーディオ

少しばかりグレードダウンは仕方ないとして
ラックスマンのアナログプレーヤー注文したのは1月の初め
担当者からの話では納品は2月初旬くらい
それまではCDで我慢している現在の音楽接触

そのせいもあるのだけれど、棚に飾りっぱなしの楽曲も
引っ張り出している
レコードとの比較がないと、音はこんなものか!
若干の不満を覚えながらも妥協してしまう

そろそろ来てもいい頃なんだが、まだ納品の連絡はない
待つ時間は長い!
これはサッカーで一点差で勝ってる時の試合のようだ
ドイツ戦、スペイン戦のアディショナルタイムの長く感じたこと

納品の遅れは世界的な半導体の供給が原因なのだろうか?
世間がレコードブームと言っても需要の絶対量が多いわけでもないので
注文が入ってから生産しているのだろうか

そろそろ待ちくたびれた
こんな時ふさわしいのは
「探すより謗れ」の一言かもしれない
悪口を言っていると、その人物が現れる
という実感から出たものだが、
不平不満を言ってれば納品の連絡が来る、、かな

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「暇と退屈の倫理学」(国分功一郎)を一気読みした

2023年02月23日 08時15分58秒 | 

仕事(のストレス)から開放されて、悠々自適な生活が確保されている年金生活
だが実際にその生活を経験してみると、思いの外つまらないと感じている人は多いのではないか
何かをしなければならないことがなくて、あるのは余りあるほどの時間
忙しそうにしている人間、しなければならないことがある人間を見て
どこか羨ましく感じてしまうのは「毎日が日曜日」の人間にはありそうなことだ

暇があることは退屈・苦痛につながると深い考察を面白く考察しているのが
「暇と退屈の倫理学」 国分功一郎著だ

日曜に名古屋の丸善で見つけて購入し一気読みした
帯には「東大・京大で一番読まれた本」とあるが、それが理由で購入したのではない
以前、国分功一郎氏の本を読んで良い印象を持ったからで
書店でパラパラと拾い読みして面白そうと感じたので購入した

人が持て余す時間、、暇というものはどういうものか?
そもそも人は何を求めているのか?
こうした問を実感を込めて著者は考察していく
そこにはパスカルを始めとしてハイデッガーやハンナ・アーレントなどの
哲学者が登場するが、興味深いのはそれが各哲学者の解説に終止していなくて
「ここは違っている」とツッコミを入れていることだ
著者は過去の哲学者の思考を追いながらも、実感を込めて彼なりの視点で「退屈」を考察する
このように他人の考えを理解するだけでなく「自分で考える」ことが哲学の実践で
そうすることこそが退屈から逃れる方法かもしれない、、としている(ような気がする)

人は自由だとか、好きに使える時間がある方が好ましいと建前上は思ったりするが
実際は、何かに支配されている方が楽ちんだと考える傾向がある
この本では出てこなかったがフロムの「自由からの逃走」では
全て自由な判断・決断ができる人間は却って迷うことになり
むしろ別の誰かが決めてくれた行動をしたほうが精神的に楽で
ついそうしたものを求めてしまう
これは「カラマーゾフの兄弟」の有名な大審問官の言い分にもあって
暇と自由の違いはあるが、選択の幅が多くあるということはなかなか辛いということだ

暇と時間を持て余すのは人の傾向かもしれないとハイデッガーの考察が多くのページをさいて
解説してあったが、一気読みしたので、このところはイマイチ理解できなかった
不意にハンナ・アーレントの「人間の条件」で取り上げられた労働・仕事・活動と分けられた概念も
実は観念的でどこか理想主義的な要素に過ぎるような気がした

この本を一気読みしたのは、暇を持て余す人々の行いが自分の日々の行いとか考えにそっくりだからだ
つまり、「自分のために書かれている」と錯覚しそうだったからだ

この本の最初の方に「うさぎ狩りに行く人は本当は何が欲しいのか?」と題された章がある
今からうさぎ狩りに行こうとする人に、獲物であるうさぎをプレゼントしたら
狩人はどんな思いをするかという思考実験で、その他にも
ギャンブルに向かう人間に、ギャンブルで得られる報酬をギャンブルしなくても
与えられたらどんなことになるかを論じたものだ
つまり彼らが欲しているのは成果物としての報酬(うさぎ・お金)ではなくて
一種の苦痛とか暇つぶしを求めているに過ぎない、、と解説している

このように頭の中の抽象的な話と思いきや、少し笑えてしまうそうなエピソードに溢れているので
読み始めた人は自分と同じ様に一気読みするものと思われる
(ただし、このタイトルで購入する人はそれほど多くないと思ったりする)



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猫の日に寄せて

2023年02月22日 11時48分34秒 | 徒然なるままに

222がニャンニャンニャンと連想されるので、今日22日は「猫の日」だそうだ
でも「猫の日」だけじゃない
甥っ子の誕生日だ
妹に似てとても優しい人間で、時々我が家にも差し入れをしてくれる
朝早いうちに同居人が、忘れないうちにと言ってお祝いの電話をかけていた

叔父として覚えていることは、映画「戦場のピアニスト」に連れて行ったことと
サッカーの試合「清水エスパルス対浦和レッズ」に連れて行ったことくらい
彼の下の甥っ子は「ジェラシックパーク」と豊橋の「のんほいパーク」に連れて行った
ことを覚えている(彼は覚えているだろうか?)

犬猫は飼っていないが、自分は犬派だと思っていた
ところが最近は猫も良いかも、、と思うようになった
何よりも勝手に生きてる感じが、手間がかからなくて良いと思えたりする
それはミュージカル「Cats」の影響があったかもしれない

行くつもりでいるが、まだチケットの申込みをしていない名古屋の「Cats」
20年以上前、初めて見た時の衝撃が大きかった
コーラスの声の迫力、アンドリュー・ロイド・ウェバー素晴らしいメロディー
今まで知らなかった充実した世界がそこにあった
有名な「メモリー」は劇場でつい楽譜を購入してしまうほど魅了された
この時のグリザベラが志村幸美さんで、体全体からにじみ出るオーラが凄かった
だから名前はしっかり覚えておいた
(彼女は若くして亡くなってしまったのが残念で仕方ない)

この「Cats」がアンドリュー・ロイド・ウェバーの作品を見続ける
(聴き続ける)きっかけとなった

ライブの後、直ぐに購入することになったCDの「メモリー」は
志村幸美さんの歌でいつも圧倒されてしまう
その歌がこちら↓

Cats Japanese cast- Memory




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類は友を呼ぶ

2023年02月21日 09時15分09秒 | 徒然なるままに

日曜日のN響のコンサート帰りの出来事
名古屋駅の2番線のプラットホーム、6時に15分前くらいのこと
コンサート会場で配布されたチラシをもって並んでいると
並んで列車を待っていた同年齢か少し上の人が話しかけてきた
「良かったですね、ブラームス
 チラシを持っていらっしゃるから行かれたのと思って」

急だったので少し驚いたが、穏やかそうな印象の人だ
「そうですね、でも旋律とかメロディがあるのは聴きやすいですね
 前半のシマノフスキの音楽などは実演でないと
 絶対聞き終えることのできない類で、ブラームスはそれと比べて
  聴くにも楽でしたね」
会場で感じたことなどをそれとなく話した

そんなことで始まった会話
電車が来るまでコンサートの話など続けた
「ブラームスでは4番が一番好きなのです」
「そう言われる方多いですね、自分は一番は良く実演で聴いたことがあるのですが
 4番は滅多に聴いたことがなくて」
「話は変わりますが、ブラームの4番の最終楽章は演奏が悪いと
 なんか突然終わった感じがして、変な気持ちになりますが
 フルトヴェングラーのだとちゃんと終わったという気がします
 Youtubeではフルトヴェングラーの4番のリハーサル風景があがってますが
 これは本当にすごいですよ リハーサルというよりは本番みたいにみんながムキになって」
「そうですか、一度調べてみよう」

そうこうするうちに列車が来た
この日は乗客は多くなくて楽勝で座席を確保することができた
先程の人とは相席で座ることができるようになり、座るとそこからまた話が始まった

いろんな話があっちへ行ったりこっちへ行ったりした
「この年齢になるとモーツァルトがますます良くなって
 最近はモーツァルトばかり聴いています
 実は自分は名古屋モーツァルト協会のメンバーなのです」
名古屋にモーツァルト協会などというものがあるのは知らなかったが
モーツァルトに親しみを覚える気持ちはわかる

「先日はオールモーツァルトプログラムのコンサートに行ってきました
 フルートとハープのための協奏曲、久しぶりでしたが良かったです」
こうしたモーツァルト絡みの話から、宗次ホール、スタジオ・ルンデ
しらかわホールの話やらびわ湖ホールの話などに花が咲いて
その他には、最近は若い人がクラシック音楽に関心がないようで会場は
年寄りが多いといった嘆きもあった

帰りの電車の偶然の出会いだったが「類は友を呼ぶ」という諺は
こう言うときのために存在するような気がした
親しく話せただけではなく、彼は自分に似ている
そんなふうに思えてしまったのだ
モーツァルトが好きなのも、あの感覚が好きなんだろうな、、と想像できた

彼は岡崎で下車したが、その前に名刺を頂いた
そこにはモーツァルト協会幹事の肩書があった
自分も参加したい!と思ったが、流石にいきなり口にすることはできなかった

人との出会いは不思議だ
これから先、彼とは繋がりをもつかどうかはわからない
でもあの一瞬だけだったとしても、それはいつまでも記憶に残るエピソードとなるだろう

その人とはその後、携帯のショートメールで連絡をとったが
その人も「自分と似ている雰囲気」を感じたと思われる

時々、自分を変人と思うことがあるが
こうしてみると必ずしもそうではないかもしれない
と思えてきた
 

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名古屋でのNHK交響楽団定期演奏会

2023年02月20日 09時52分15秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

一階で前から7列目 少し右より
こんな席でオーケストラを聴いたのは本当に久しぶりだった
この場所が音響的に良いのかどうかはわからないが
その席でしか見えないものや音響があるのでそれを楽しむことにした

名古屋芸術劇場コンサートホールで行われたのはNHK交響楽団

少し前まではチケットは購入したものの、大勢の人の中にいるのは怖くて
行かずじまいの判断をしていたことが多かった
だがそれも流石に我慢の限界にきて、出かけることにしたのだった
(久しぶりだから席も良いものにした)

プログタムは前半がドヴォルザークの序曲「スフ教徒」
ついでシマノフスキの交響曲第4番「協奏交響曲」

後半がブラームスの第4番の交響曲だった
指揮は(現場で見ると)アンドラーシュ・シフに似た容貌のヤクブ・フルシャ
ピアニストがピョートル・アンデルシェフスキだった

前半の2曲は聴いたことがない
聴いたことがない曲はそれはそれで楽しみがある
何事も最初の印象は大事で、その時感じたものは一番素直に心に響いたものだろう
そしてそれは、どこに向かうかわからない連想の連鎖につながる

フス教徒は、音楽の展開は音楽の内的な必然性に基づいているのではなく
おそらく外的な要因(台本があってそれに従っている)と感じてしまった
つまり描写的な音楽と感じたわけだが、あとでプログラムの解説を読むと
演劇用の音楽として作曲依頼を受けたものとのこと
それで音が音を呼ぶというよりは、物語の説明的な音楽になったと思われる
そのように自分が感じたことはあながちハズレでもなかったことが
すこし嬉しい感じだった

シマノフスキの音楽は生で聴いてよかったと実感した
この曲を録音媒体で聴いたならきっと途中で聴くのを止めただろう
後期ロマン派よりも後の時代の作曲家で
音楽の重要な要素の一つであるメロディーは
美しいというよりどこか精神に引っかかりをもたらすようなものになっている
音響も同様で、大音響でなっている音は秩序の中の音というよりは
何か(例えば苦痛)を表現する音響のように感じたりした
この音響は何に似ているのだろう、、と思い浮かべながら聴いていたが
バルトークかな、、と勝手に思ったりした
こうした連想の羽ばたきがライブは面白い

後半のブラームスになると、普通の旋律があるということのありがたみを感じるのだった
メロディというよりは短いモチーフかもしれないが、
少なくともシマノフスキよりは数段聴きやすい
4番はブラームスの交響曲の中では一番好きな曲で
秋から冬になると必ず聴きたくなる曲だ
メランコリックなモチーフが演奏楽器を変えて展開していく
昔は少し女々しいと思ったが、今はその女々しさの理由もわかる気がして
むしろ共感を覚える感じだ
この曲はナマで聴いていても、良いことではないかもしれないが
ついついフルトヴェングラーの凄まじい演奏と比べてしまっていた
第1楽章終わり近く、楽器同士が競うように鳴らしあったあと
ヴァイオリンに任された部分がフルトヴェングラーの演奏では
ものすごいスピードにテンポアップしてハラハラ・ドキドキするのだが
その演奏を知った後ではどこか物足りなくなってしまうのだった

と言っても、録音媒体ではよく聞こえない音・フレーズが良く聴こえるのは
ナマならではのこと、やはりナマは違う

あれっ、と驚きを感じたのは第3楽章の音が出た時だ
音が揃っているのか、気合が入っているのか、、とにかく今までの音と違う
不意にオーケストラメンバーはこの楽章を徹底的にリハーサルしたのではないか
と妙な確信をもってしまった
その勢いは最後の楽章まで続いて、ナマならではの音楽の高揚感がもたらされた

この4番の交響曲の最終楽章は演奏がまずいと(あるいは解釈がまずいと)
終わった気がしない音楽になってしまう
何か中途半端に放り出されたまま急に終わってしまった、、
という気分になってしまう
流石に聴き慣れてきているので、この演奏ではそんなことはなく
ブラボーの声がでるくらいの熱演だった

チケットの料金と満足感とそれに要する時間
最近は自分にとって料金の基準はなんだろうか?と考えてしまう
田舎から交通費をかけて名古屋まで出かけて
安くないチケット代を支払って、、、
でもそれが価値あるものと感じるのは
今の年齢へのご褒美なのかもしれない

今実感しているのは
何事も行ける時に行っておかないと行けなくなてしまうということ
来月も何か選んで行くことにしよう

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