パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

「男と女の違い」と「本質的なことから考える」ということ

2024年07月10日 10時32分40秒 | あれこれ考えること

今回の都議選のポスター掲示板とか人物像がよくわからない石丸氏の
予想外の投票数は、自分は同じ問題だと感じている
両者とも今まで社会にあった緩やかな常識とか倫理観などが
ものすごい速さで破壊されていると言う感覚だ

そしてもう一つの問題は、男の凝り固まった価値観による判断が
時代についていけないにもかかわらず、それなりの民意として
形になっていることだ

後者の問題は想像の世界で、確たる証拠はないとしても
当たらずとも遠からずと想像するが
少し前取り上げた蓮舫氏の出身に関する抵抗感は
男どもに多くないだろうか、、
それは東国原氏とか太田光氏の発言にも現れているし
SNSで蓮舫氏を批判するアカウントは男どもが多い
彼らは蓮舫氏の政治的な能力というより出自のみで嫌っているように見える

例えば国会中継で蓮舫氏の質問を見たならば人はどのように感じるだろう
短い質問をテンポよく続け、質問の道筋は無断なく的確に進められている
これを見る限り国会議員としての彼女の実力は、出自に関係なく素晴らしいものと
自分は感じる
だが自分に都合が悪かったり、国籍のアイデンティティにとらわれる人や
嫌悪感を感じる人は、何が何でも嫌いの一択だ
そして発信力のある人はそれが世間に影響を与えていることを自覚している

男に関する問題点は、あるイベントが女性の間では行われたが
男の社会では実現されなかったこともそうだ
それは以前森喜朗氏が「女の話は長い」とバカにした発言をした時に
女性蔑視と総スカンを食ったが、この事件の後、女性陣は有識者とか
メディア関係の人々が集まり「わきまえない女たち」とのタイトルで
女性が現実社会で受けている差別などを語り合う機会を設けた
これはYoutubeで見たが、本当に参考になった
だがその時彼女たちから出たのは、こうした問題は女性のみに存在するものではなくて
男性社会にも存在するものだろうとの共通認識で、「わきまえない女たち」のあとには
「わきまえない男たち」と言う対談が計画されることになった
しかし、それは自分が想像した通り実現されなかった
男の社会は無言の力が働いて、自由に語ることは難しいだろうと自分は思ったのだが
結果的にその通りとなった

男はもしかしたら女性より世界的な感覚において遅れているのではないか
と思うことがある
それは世界旅行の経験の数は男と女ではどちらが多いか?
を考えてみると、身の回りでも女性は世界を見て回っている人を多く見かけるが
男は女性ほどフットワーク軽く出かけているように見えない
それが問題ではないかということだ

外に出ると人は自分が持っていた価値観なり常識が違っていることがあると気づく
そして外に出た女性は、感覚的、実践的にその思いを実感する
だが内向きな男は世界標準の実感をできないままでこの国の中だけで生きる
そしてそれはナショナリティとかアイデンティティと言う言葉に集約される

明治維新後、外国を回ることになった人たちは、皆が皆外国を目標にしよう
とはならなかったらしい
文化とか社会制度に圧倒された気弱な日本人は、その精神的なバランスを保つために
自国の良さを過度に信じようとした
この心理的傾向は多分昔も今の変わりないだろう

つまりは経験不足の男どもは、自らを守るために自らの出自や文化を過度に
信用しようとする心理作用に支配される

自分が思う違和感のもう一つは社会主義に対する日本社会の嫌悪感だ
何故、そんなに嫌われるものなのかは、正直なところわからない
国会の質問でも共産党の議員の質問は、問題意識に満ちていて
なれあいの与党同士のそれよりずっと参考になる

だが、共産党は共産党であるために、それだけで否定され
何故かそれはそれなりの社会常識となっている

でも、本当に共産主義(社会主義)は間違いなのだろうか?
と考えてみると、コロナ禍ではある程度国家による方針の決定とか
強制力をもった政策は必要とされた
つまりは、ある程度の社会主義的なものは必要と実感していたと言える

貧民が多く生まれている時、社会主義的な考え方が勢いを持つのは
人の社会ではごく自然と思う
これはよく調べないといけないが、例の2.26事件の精神的なバックボーンは
北一輝の思想にあったとされていて、それは社会主義的な傾向があったものらしい

つまりは共産主義とか社会主義は,簡単に全否定されるものではなく
一度は立ち止まって、良い悪いを検証すべきものと思われる
こうした歴史とか物事への精緻な検討がなされず、単なる選挙における
戦術論だけで物事が語られる社会は、、、どうだのだろう

冒頭にあげたの掲示板とか、知らないまま人物を面白がって投票する
そして本質的な問題提起を自らは発しないで、なんとなく人と同じことをする
ことで安心感を覚える人々
オルテガの「大衆の反逆」フロムの「自由からの逃走」の問題提起は
今も深刻なもののように思われる
そして今、本棚から引っ借り出してきたのは「全体主義の起源3」ハンナ・アーレント
これは読まなければならない、、と何故か何かに導かれているような気がしている

またもや、まとまらない話


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