季節の中で 暮らしの中で -Through the seasons and daily life-

現代の都会でプチ昔&田舎暮らし
-old & country style in modern urban life

尾根

2010-02-10 10:17:27 | 心と体 Mind&Body
ひとつのピークにいます。
一週間に入試が3回。
今日は息子が私立の試験に臨んでいます。

一年ほど前から徐々に受験生モードにしてきた我が家。
子ども達と話し合いながら塾のこととか進路の事とか考えてきた。

受験。子ども達が生まれた時から気になっていた事柄だ。
自分がそれを体験して思うことが結構あるので。
できれば、日本のこの受験を体験させないで大きくなれないだろうかと考えていた。
それでも子ども達の意志もあって「普通に日本の子どもとして育ちたい」と言うことだったのでこうなった。

私が一番気になっていたのは、人間生活として受験勉強はとても偏った能力を発達させる勉強だと言う事だ。
いくら科目数を多くしてもそれは変わらない。
テストと言う形式で計った点数ですべてを判断するのが原因だと思う。
なぜかと言うと答えは決まっていて、それにどれだけ合わせることが出来るかそしてどれだけ早く解き進められるかが問われているからだ。
テストと言う形式の中で「作法」みたいなものがあって、それを塾で教えてもらう事でそれがまた飛躍的に伸びたりする。
これをまあ6年間集中してやるのである。

これはこれで私は否定しない。スポーツをするときに筋トレをやるのと似ているかも。
それでも「過適応」という言葉があって、その方法に適応してしまいすぎると人間生活全体が脅かされる危険性がある。

なぜなら、一旦受験と関係ない世界-人間生活に戻ると、それだけでは不都合が生じてくるからだ。答えって誰かが持ってるって限らない。そういうときのほうが少ない。
外に答えがあって自分は不完全で、そのやり方を完全に身に付けて手本と同じ答えを出せたらほぼ完璧ってのは、受験勉強の範囲内だけで通用するにはいいけど、それが考え方や生き方にまで影響してくると生きづらくなる。
他の人の意見は参考にいろいろ聞いて、一つ一つ一瞬一瞬、自分の感覚と勘で感じて探っていって、自分の中で「ここ!」って決めたらそれがその人のその時の「答え」だ。それさえ場合によって時と共に変化する。

子育てだって仕事だって人付き合いだってそうだ。
たぶんファッションもスポーツも。信仰だってそうかもしれない。
私がしている手仕事はお手本がないので、自然とそういう風に出来上がるようになっている。

私は勤勉かつ優等生で受験勉強にとても適応していたので、そこからのリハビリには大変な年月と労力を要した。頑張るんじゃなくて力を抜く、自分の外も内も感じ取る訓練。
子ども達の存在と手仕事がなければ、元の「外の答えに合わせることに秀でた人」のままだったろう。

だから一年前、受験生活に入る前に私がまず中心に置こうと思ったのは
点数やどの学校に行くかはこの人たちの存在の一部だと認識しよう。と言う事だ。
受験期ってそれがその人の存在のすべてって勘違いしやすいから。
生まれてこの世に生きている、その大切さに目を向けるようにしよう。その輝きを忘れないようにしよう。と心に決めた。
それと同時に彼らが進みたい道があるなら、全力で応援しようと決めた。
その中で一番私に出来る事は食事を作る事だと思ったので、この1年は食事を作る事を頑張っている。

もう終盤に差し掛かって子ども達はずいぶんこの状況に慣れてもいるようだし、疲れてもいる。それでも頑張って取り組んでいるので私はもうしばらく全力で応援します。

さあ、今日息子が帰ってきたらオヤツに何を食べようかな?







Comments (2)
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