明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



タバコを止めてから随分経つが、久しぶりに置きっぱなしだった以前使っていたパソコンの前に座ってみると、隅にタバコの灰が薄っすらと。夜中にタバコを切らし、足元に落ちている一本を見つけて喜んだのを想いだす。 タバコは十代から吸っていたが、18の時に沖縄に行ったおりコーンパイプを買い、以来、パイプも併用していた。パイプは何かあるごとに買い足して行き、シャーロック・ホームズで知られる瓢箪の一種で作られたキャラバッシュパイプなど、色が付くのを楽しみにしていたが、20年を越え、当初のレモンイエローから赤に変わるあたりで止めることになった。パイプは銜えたままで街を闊歩するには、それなりの貫禄が必要だが、長時間火を絶やさずに吸うのは難しく、初心者はしょっちゅう火を点けることになる。しかしそれも雨の日など傘がないと、パイプを上下逆さまに銜えて歩くくらいで、相当な上級者になっていた。 その甘い香りは喫茶店で吸っているくらいなら、店の向こうから女子高生の「良い匂いがする!」という声が聞こえることもあったが、私が思うに最大の欠点は、大豆関係の食品との相性がすこぶるつきで悪いことである。つまり味噌、醤油とはまったく合わない。和食の店、居酒屋などでは周囲に迷惑なだけである。今時はそんな人もいまいが、そういう店でパイプ、葉巻の類をくゆらすような輩はどんな紳士に見えようと馬鹿だと思って間違いはない。もしくは味噌、醤油がなくとも生きられる野蛮人であろう。 そこで煙管(キセル)に転向した。煙管の良いところはタバコ自体は紙巻タバコと中身は変わらないから匂いを気にすることがないし、紙を燃やした煙を吸わずに済む。止めてみると良く判るが、この紙のにおいが結構臭い。紙巻は一度火をつけると最後まで吸ってしまうが、煙管は数服で終わる。歩きながら吸うものでもない。私の場合はきざみタバコ(針のように細かく刻まれている)がキツイので、パイプ同様、煙を肺にいれることなく、ふかすだけであったが口中や鼻の粘膜から充分ニコチンは吸収される。今は知らないが、大リーガーが口中に詰込んでほっぺたを膨らませて噛みながらツバを吐いていた噛みたばこや、鼻から吸引する嗅ぎたばこも、肺を通さずに吸収するわけである。 止めた理由は父親が心臓を患って亡くなった直後、たまたま腹を壊して美味しくなかったことに乗じて一回で止めた。それには友人の止めるなら一回目だ、という言葉も大きい。彼は未だに禁煙を繰り返している。確かに禁煙後一週間はすぐ経つ。禁煙など案外簡単である。いつだってできる。だったら今じゃなくても。と思うのだが、これが実は禁断症状にさいなまれている状態だった、と気づいたの禁煙後のことである。今でも飲酒時など香ばしい香りが懐かしくなり一本もらうことがあるが、とても肺にまで煙を入れる気にならない。

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