明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 




普段、ひとたび寝ようと布団をかぶったら、おそらく十~二十秒で寝ているであろう私も、喝!といっている臨済宗宗祖、臨済義玄を作っていたら、布団をかぶっても寝られず、二時間ほどで目が覚め、すぐに義玄の首に手を伸ばして確認する始末。穏やかにお休みなさい、とは行かないモチーフである。 人形を作って写真作品にする醍醐味の一つは構図であろう。作っている時に効果的な構図を考えながら作っている。日本画、浮世絵の自由さを取り入れたい、と自由を疎外している元凶を陰影と定め、排除した石塚式ピクトリアリズムだが、古典絵画は、こと構図に関しては話が違う。古典絵画の肖像画と来たらほとんど斜め45度、たまに真横か真正面である。 友人が、どうせなら水墨画調にモノクロにしてはどうか、という。「モノクロなんて、自分で被写体を作ってないから、やれることで、せっかく色塗って、モノクロなんかでやれるかよ。」構図も同じことで、せっかく作っておいて、挙げ句に斜め45度だけ、なんて冗談じゃない。



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喝!  


ディアギレフはコクトーに「私を驚かせてみろ。」といったが、私は私に驚き呆れている。何で臨済義玄などという千年以上前の人物を作っているのか。今の所、頭の中には言い訳すら浮かんでこない。ただ欲望のままに作っている感じであるが、まあ来年秋の個展までに言い訳を考えれば良い。言い訳はしでかしてからで良い。 肝心の寒山と拾得はまだ作り始めてもいないが、それでも100メートル前方には背中が見えて来ている。やはり頭さえ使わなければ、なんとかなるものである。 最近、遙か昔の絵画を観ることが多いが、中国も日本も、先達の作品を写して来ている。それはアイデアをパクろうなんて了見ではなく、山河を写生するが如く、自然から学ぶのと変わらない姿勢のように思える。なので写した作品すら名品だったりする。



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