立体を造形するということは、陰影を自ら作り出すことに他ならない訳だが、図書館で浮世絵、かつての日本画を眺めながら、陰影を取り除けば、これらの自由さを写真に取り入れられるのではないか、と思い付き実行するまで時間がかかってしまった。これは私が被写体制作者と撮影者という二刀流のせいである。左手と右手で一人ジャンケンをするような物かもしれない。 しかし自由に仙人など造形していると、このモチーフを手掛けるようになって、再び陰影を炙り出したい欲求にかられている。 被写体から陰影を除く、私の大リーグボール3号たる石塚式ピクトリアリズムだが、小学生の頃、巨人の星を見ていて、一人に打たれたからって、他の連中は打てないのだから、打者によって投げ分ければ良いじゃないか、と思った。そんな場面も僅かにあったが、確かにつまらない。 いい加減なくせに、私も大リーグボール3号を始めたなら、以後他の球は一切投げない、といいたがりの所がある。しかし仙人に手を染める程?の人間となった今、何を四の五のいっていやがる。と三本脚のガマガエルにイボイボを着けながら思うのであった。