制作に入る前は、ある程度先達の歴史、伝統にある程度殉じるつもりでいたのが、登場人物、構図、すっかり別物になってしまった。一番大きな理由は私が被写体を自ら作る人形制作者であり、写真制作の時、その頭部の造形、表情を第一に優先、生かすことだけを考えており、構図も全てそれに基づいて決まる。 雪舟の『慧可断臂』はそれが覚悟を示す、という言葉となっている割に、慧可の表情は悲しげである。私は慧可を最前に持って来て正面を向け、雪舟作では主役の達磨大師を、4メートル程後方で、達磨さんが転んだ、のようにこちらを振り返っている。洞穴の岩肌も、その構図を生かすようにする。つまり二刀流のメリットなどということではなく、被写体制作者が被写体を生かそうとするとこうなる。それだけのことであろう。絵師の描いた物と違うのも当然である。これが写真なのかどうなのか、まあどうでも良いことである。各作品が具体的に頭に浮かびつつあるが、そのためには、どんな卑怯な手でも用いる所存である。私の写真は私のマコトだけ写っていれば良く、後は全て嘘っぱちで良いのである。いやそれが良いのだ。