人間には性分というものがある。常に行き当たりばったり、よくいえば柔軟性があるはずの私も、案外融通が効かないところがある。陰影を出さない、と決めたなら、以後それで通すべきだ、というところがあり、おかげで、半裸の女性に行燈の光の『ゲンセンカンの女』の時は同時に逆遠近方も取り入れようと無理をして身を捩るように苦しみ、粘りに粘ってグループ展の会期中に2回作品を差し替える、という醜態を演じた。 浮世絵や、明治ごろまでの日本画を図書館に行っては眺め、この自由さを私の写真作品に取り込めないものか、と考えていた頃、気になったのが、新版画の川瀬巴水であった。これらはむしろ浮世絵が踏み込まずにいた陰影や水の表現を特に強調している。 三遊亭圓朝を作ろうと思った時、明治時代、東京にそこら中にあった寄席を再現してみようと思った。そこで新版画調にしてみた。思考錯誤しながらも思ったような背景になった。しかし川瀬巴水も、陰影があったり、なかったり、案外自分の都合で塩梅している。乱歩チルドレンたる私も、整合性云々いってないで創作上の快楽を優先すべきであろう。という訳で、次のターゲットは中国の山水図である。
牡丹灯籠