明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



私のもっとも苦手な片付けをした。もちろん一日では片付いたのはホンの一部であるが、やることはやったという気分に満たされている。一日ウツラウツラとしかしていないのだからすぐ寝るだろうと思ったら、これが寝られない。そういうことなら、と出土した戦利品を一本開けることにした。しかし寝不足である。その栓をゴミ箱につい放りこんでしまった。拾って洗う気もおきない。鞘を捨ててしまった佐々木小次郎の如しである。 気がつくと泥のように寝ていた。さあ今日はようやく御馳走である、エドガー・ポーの三体目に取りかかれる。これから私にどれだけの快楽が訪れるか、お盆休みの人々には理解できないことであろう。などとほくそ笑む私。昨日苦手なことをこなし(こなしきれていないが)弓の引き絞りは充分である。あとは飢餓状態でかぶりつくだけである。なのに余裕をかまし、わざわざ自分を焦らすようにインターネット。 さてそろそろ始めようか、と思ったら芯に使う盆栽用アルミ線が見当たらない。在るべき所にない。これだから部屋の片付けなどするものではない。太いのを使うので、最近はホームセンターでも入手できない。結局大騒動で探したあげく、意外なところからでてきた。私の中に蓄積するダメージ。腰まで痛くなって来た。始まりでケチがついた。かぶりつくのは明日からにしよう。戦利品二本目。今日はちゃんと栓をした。

※世田谷文学館にて展示中

過去の雑記

HOME



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




昨日のブログでワイルドなところを披露してしまったが、東京は案外安全な場所であることを身をもって証明したことになる。20年以上住んでいるが、ほとんど家にいるのに、チャイムの音で出てみると誰もいない、ということが5回くらいあり、その間、階下に中国人の泥棒が入ったくらいである。 部屋を片付けよう、と思ったとほぼ同時に制作意欲が湧いてしまう。逃避行動という奴だが、それを繰り返していてバチが当たり、結局昨日から寝ずに片付ける羽目になった。今日は絶対粘土に逃げないと決めていたが、水周りの業者が来る時間が近づいて来ると、耐えられず手を出してしまった。 制作中のエドガー・ポーだって、おそらくそんな所のある人物であるのは以前書いた通りである。『黒猫』や『告げ口心臓』等読めば良く判る。妻を殺してしまったが、首尾よく壁に塗り込めたのに、何も発見できずに帰る警官を呼び止め、自信たっぷりに塗り込めた辺りをステッキで叩いてみせる。何故そうしているか自分でも判らない。やっと得た仕事も、必ず経営者と喧嘩になり、止めたらどうやって生きて行けばいいんだ、と思えば思う程、激高していったに違いない。そして自己嫌悪のやけ酒。私はやけ酒などもったいないことはしないが。 遠藤周作は、何かをしなければならない時、他のことをせずにいられない人を怠け者という。といったが、しなければならないことではないかもしれないが、何かはしている訳である。つまり私の作品は、この部屋の状態が支えている、といえなくもない。結局流し台の下が腐食し、わずかながら水漏れがあった。無事修理が終わり、苦役の御褒美は発掘された6本の酒類であった。

※世田谷文学館にて展示中

過去の雑記

HOME



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




2体目のポーも乾燥に入ったし、3体目を始めるか、または台風が接近している。『大鴉』が嵐の日という設定なので撮影にでかけようか、と考えていた。私の場合、世間が休んでいる時は制作がはかどることになっている。さぞ清々しく制作に集中できるだろう。と思っていた矢先、昨日階下に水漏れがあった、と不動産屋から連絡が来た。私は昨日、流しを使った覚えがない。そうはいっても相手があること、知りませんというわけにはいかない。明日業者が見に来るという。困った。玄関には自転車2台に様々な物。キッチンにはさらに様々な、とても様々な物が積んである。あれを片付けなければならない。そして本日様々な、とても様々な物を捨てていると、探していたハーモニカホルダーや眼鏡、読みかけの小説など出てきた。こんな所に置いていたのか。しかしそんな物より、とても懐かしい物が出て来た。家の鍵である。最後に見てから2年以上は経っている。 これを読んでいただいている方は、まさか?とお思いになったであろう。そのまさかである。最近ネットで鬱にならない人はこういう人だ、というのを読んだ。私の知人が私をネタに書いたのではないか?と疑ったものである。いやこんなことを書いている場合ではない。余計なことばかりして、まだ片付けが進んでいないではないか。

※世田谷文学館にて展示中

過去の雑記

HOME



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




上半身の、しかも写るところしか作っていない。被写体制作者と撮影者が同一ならではの芸当である。小津安二郎じゃあるまいし、写りもしない抽き出しの中の物にまでこだわっていられない。とりあえず3体を考えている。ポーは黒尽くめを好んだらしい。黒マント姿もカッコ良いだろう。なにしろ頭部だけで何ヶ月も手こずらせてくれた。文豪然としていようったってそうはいかない。江戸川乱歩のように作りながら御遺族の顔が浮かんでしまうこともない。色々過酷な目にもあってもらう。 1カットのために1体作っていたら大変だが、全体を作ってあるものは、以後の撮影で活躍してもらわなければならない。西洋人のポーに合う背景さえあれば、人形を国定忠次のように捧げ持ち、片手にカメラの“名月赤城山撮法”も可能である。街を行きながらシャッターを切り、人間大の人物がその場に居るかのように撮れる。背景と被写体に同じ光線が当たっているのだから、違和感がないのは当然である。欠点は常に人物が手前に配され、足を鷲掴みしているのだからそこから下は入れられない。しかしなんといっても最大の欠点は、撮影中の姿が恥ずかしいことであろう。私一人、ファインダーの中では、いかにも人物がそこに立っているように見えているが、傍からはカメラをおでこに当てて、人形を持ってあっち向いたりこっち向いたりしているのだから耐えられない。よって何か事情があるように見せかけるため、必ずヒマな人物を付き合わせ、私は不本意ながらこんなことをしている、もしくはさせられている。という光線を発しながらの撮影となる。

※世田谷文学館にて展示中

過去の雑記

HOME



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




わざわざ観た方が良い、と電話をくれた人までいた『ゴジラ』。2Dの字幕版を観た。結論からいうと、私にはまったくつまらない映画であった。世界中で興収1位というのが理解できない。確かに原爆、放射能と、ゴジラ本来のテーマに戻り、破壊のシーンは震災を彷彿とするリアルさで、ゴジラが水面下を進んだり、最後の入水するシーンなど観るべき箇所はあったが、杖ついたカマキリみたいな怪獣と戦わせるなど、『モスラ対ゴジラ』以来の陳腐さ。『パシフィックリム』ほどではなかったが、やはりアップばかりでゴジラの全体像はわずか。これもまた画面が夜か曇天ばかりでメリハリがなく飽きて来る。造形的にも、あちらの連中はどうしてもイグアナ風にとかしたがるが、今回のゴジラのツラは噛み付き亀であった。出演者も渡辺謙を別にすれば華がない。女優にしても、かつては水野久美、星ゆり子の艶やが怪獣の恐怖感を下支えしていたものである。司令官?の俳優は昔お前、原爆製造のリーダー、オッペンハイマー演ってなかったか?と余計なことまで気になる始末。兵器他の進歩とともにゴジラも巨大にせざるをえないのだろうが、これでは自然災害の怖さであり、怪獣は人間が握り潰され噛み砕かれるサイズの方が怖かった。 かつて幼い私にはゴジラと力道山は完璧なフォルムに見えたものである。もう愛想も尽きた。『大魔神』のリメイクでもないかぎり、この手の映画を観ることはないだろう。 クライマックス前に退席してワイルドなところを見せても良かった,が、満席ならともかく4、5人しか入っていないので止めた。

※世田谷文学館にて展示中

過去の雑記

HOME



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




こうなると、江戸川乱歩とエドガー・アラン・ポーを対面させることもできるし、かつて撮影した旧乱歩邸書斎の椅子に、ポーを座らせることも可能になったわけだが、そんなことを考えるのは後にして。乾燥中のポーは、炎天下に2日さらしても、芯までは完全に乾かないが、猛暑の中、乾燥機を使う気になれないので、かまわず仕上げを始める。 このまま順調に進めば、ポーの第一作目は、“全裸のレスパネエ穣がベッドの上で、オランウータンに剃刀で切り刻まれようとしているのに、カーテンの陰でパイプをくゆらせながら、黙って立っている名探偵デュパン”の図が完成することであろう。 世界中のポー像が、“前年に最愛の妻を亡くし、返す刀で某婦人に求婚したら酒を止めるという条件で受諾。と思ったら飲酒がばれて破談になり、自分も翌年死んでしまう”頃の、こみ上げる胃液を我慢している調の例の写真を元にした怪人じみたものばかりである。 私のポーは、余計なゴミが入らないように上澄みを救い取り、ハンサムといえばいえなくもない。こうしておかないとどう撮っても怪人にしかならない。怪人にしたければ照明や演出でするべきである。これが立体像撮影の醍醐味であり、平板な顔の日本人と違い、色んな演出ができるはずである。

※世田谷文学館にて展示中

過去の雑記

HOME



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


大鴉  


『大鴉』はポーを一気に有名にした作品であり、詩人としての評価も高まった。 嵐の夜。亡くなった恋人レノーアを忘れようと読書に集中する男。これでやけ酒を飲ませたらポーそのものであろう。夜更けに読書なのでガウン状の物を着せる予定だが、『大鴉』の1作目の構図はポーのアップにしようと決めているので、作るとしても横隔膜のあたりから上で充分であろう。当然写らない背中は作らない。 ポーは酔うと、酒場だろうとどこだろうと自分のヒット作である『大鴉』を詠んだそうである。自意識過剰気味なポーは、特に美しい御夫人の前では身振り手振りを交え、陶酔したようになったに決まっている。 当初バストアップのポーの表情と、背後にハラス(アテナ)像の頭の上にとまる鴉。という構図をイメージしていたが、さらに一番手前に、大げさな悲劇俳優のような仕草の手を配置する。ということを思いついた。その方が背後でじっとしている鴉が生きてくるのではないか。昨日思いついたのは、最前でもっともアップとなるこの手を、たった4センチほどの人形の手を使わずに、T千穂の常連Fさんの手を使うことである。以前からこの手は気になっていた。私はホント、無駄に飲酒しているわけではないな、と改めて思うのであった。

※世田谷文学館にて展示中

過去の雑記

HOME



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




エドガー・ポーの2作目は『大鴉』を予定している。愛する女性を失い、忘れようとしている男。そこへ窓を叩く音。一匹の鴉であった。最初にイメージした構図通りだと、寄りの画になるので、ポーは写る部分しか作らずに行けるだろう。ここであるアイデイアが浮かぶ。自分のイメージの為には、どんな手でも使う私である。 何度か書いていることであるが、江戸川乱歩同様、生まれつき“夜の夢こそまこと”体質の私は、まことを写す、という意味の写真という言葉に抵抗がある。というより蛇蝎の如くに嫌っているといって良い。そこで画面の中にまことなど入れてなるものか、とファイトを燃やすのであるが、万が一ということもある。そこで最終手段となるのが、油性顔料をブラシで叩き付け、絵画的調子をもたらす、アナログもいいとこの写真の古典印画法、オイルプリントである。そもそも人形というウソに、デジタルというウソを重ね、さらにまだ足らず、最後に駄目押しのもう一ウソ。結果1回転でんぐりかえって私なりのまことが現れてしまったら、それはもう微笑むしかない。

※世田谷文学館にて展示中

過去の雑記

HOME



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


煙草  


エドガー・アラン・ポー全身像乾燥に入る。 ポーを名探偵オーギュスト・デュパンにしようといっても、特にデュパンらしく作ったわけではなく、ポーがただ立っているだけである。デュパンは暗くした部屋でメアシャム(海泡石)パイプをくゆらせ思索することを好むので、そんなパイプを銜えさせるのも良いかもしれない。 パイプといえばシャーロック・ホームズもトレードマークだが、確かヒョウタンの一種の,キャラバッシュパイプで、これは20年以上かけて黄色から赤に近い色まで色付けたパイプを持っている。湿気を吸い取る分、味は一番であった。禁煙後も集めたパイプは手放し難い。 昔、雑誌のロンドン特集で、雨の中傘をささず、濡れないようパイプを逆さに銜えて歩いているイギリス人が、あまりに格好良かったが、真似てみることなく止めてしまった。パイプ煙草や葉巻は大豆食品(味噌・醤油)とすこぶる相性が悪い。よって居酒屋などでは迷惑なだけなので外では煙管煙草に転向した。紙が燃えた煙を吸わないで済むし、パイプ煙草同様きついので肺まで吸い込まず、くゆらすだけでも口や鼻の粘膜から充分ニコチンが吸収できた。パイプや煙管で肺に入れない癖が付いていたおかげで禁煙は一度で成功したが、禁煙がこんな簡単なら、何も今じゃなくて良いのではないか?と度々思った。あれが禁断症状に苛まれた状態だったと気づいたのは禁煙後であった。

※世田谷文学館にて展示中

過去の雑記

HOME



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




エドガー・ポーの創作した探偵デュパンの影響を受け、後にコナン・ドイルのシャーロック・ホームズや江戸川乱歩の明智小五郎が生まれる。ポーの作品にはアルコールに依存した男や悪夢に取りつかれた男、その他自分を反映させたと思しき人物が登場するが、デュパンも明らかに天才的洞察力、分析能力などポーの要素を持った人物である。よってポーの一作目は『モルグ街の殺人』における名探偵デュパンに扮してもらうことにした。すでに完成している『モルグ街の殺人』の背景は、オランウータンに襲われるレスパネエ穣という設定で、暑苦しいほど毛むくじゃらのオランウータンと全裸の女性という、名探偵がいなくても充分なシチュエーションではある。そもそもそこにデュパンがいては、娘が野獣に殺されるのを物陰から黙って見過ごしている名探偵という画になってしまうわけだが、イメージ作品ということで。 それにしても前作の泉鏡花が着物がどうの何がどうした、と描写が細か過ぎて大変であった。その点ポーは、登場人物の容姿などあまり細かく描写しないのでありがたい。江戸川乱歩の時も、本来乱歩を明智小五郎にするところ、明智がもじゃもじゃ頭ということで、若い頃から禿頭の乱歩を使うことを断念したことは前にも書いた。

※世田谷文学館にて展示中

過去の雑記

HOME



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


   次ページ »