朝青龍にはなく、かつてあったとする藤原正彦「国家の品格」を信じる日本人の言語力

2010-02-11 10:52:30 | Weblog

        ――民主党に衆・参両院過半数のチャンスを与えよう――

 2月9日付「msn産経」の「福島保」なる記者の署名記事――《【すぽーつサロン】誰が横綱の品格を問えるのか》(2010.2.9 21:07)は、「土俵では鬼になるという気持」(朝青龍)で闘争心をかき立て、強くなりたい一心で「品格」など眼中にないまま、最高位に上り詰めた奔放な朝青龍は最後まで「横綱の品格」を理解できなかったのではないのか、そんな朝青龍に「品格」なるものを教え込むのは師匠の高砂親方の役目だったという声があるが、大関止まりの高砂親方では無理というなら、協会全体で教育すべきだったという批判もある、しかし、〈国ごと「品格」を失ったのだ、誰が教えられたろう、この国で「品格」を問われ、たじろがない人がどれくらいいるだろう。〉、といった言葉の展開で品格のない点で朝青龍も日本も同罪だと断じている。

 要するに「品格がない」という批判は朝青龍だけではなく、日本、もしくは日本人自体に向けるべきだというわけである。

 ではなぜ日本は〈国ごと「品格」を失った〉のか、その理由を次のように書いている。

 〈今、この国では「品格」は死語に近い。お茶の水女子大の藤原正彦名誉教授が指摘するように、戦後日本は経済成長と引き換えに、国を挙げて「品格」を捨ててきた。忍耐、誠実、慈愛、勇気、惻隠…日本人の美徳の多くを失ってきた。〉と――

 いわばかつて存在したが、戦後の経済成長と供に失ってしまった、そのとおりだと藤原正彦の言葉を借りて言っている。

 そう言えばかなり前になるが、藤原正彦なる学者だか何だかが「国家の品格」だとかいう著書があって、それがベストセラーになっていて、よくテレビに出て、「品格」だ、何だと喋っていたなと思い出したが、言っていること自体の胡散臭さから喋っている本人にニセモノの人間性を感じ取っていたから、司会者が感心頻(しき)りといった納得顔で頷くのを馬鹿げた話だと無視してきた。

 藤原正彦著「国家の品格」は読んでもいないし、腹が立つだけだろうから読むつもりもないが、インターネットでどれくらいのベストセラーとなったのか調べていると、「藤原正彦の品格、国家の品格」《読んで ムカつく 噛みつき評論》)に出くわした。

 私などは足許にも及ばないなかなかの文章だが、横着で無責任であることを承知で、「国家の品格」への批判はそちらに任せることにした。

 大体が自己利害の生きものであることを本性としている人間に「品格」を求めること自体が土台無理な話なのは利害と「品格」とは相容れない価値観だからだ。相撲取りにとって勝負こそが自己利害のすべてであって、「品格」が最大の自己利害である勝負の決定権を握っているわけではない。

 プリウスのリコール問題で記者会見したトヨタの豊田社長のユーザーの視点を言いつつ、企業防衛を自己利害の優先事項とさせた態度は決して「品格」ある態度とは言えなかったはずだ。

 要するに「品格」とは自己利害と関わって、その変数として存在するに過ぎない。決して「msn産経」記者が言ってるように、〈国ごと「品格」を失っ〉ているのだから、無理のない話しだとすることはできないはずだ。  

 当然のこととして、「戦後日本は経済成長と引き換えに、国を挙げて「品格」を捨ててきた」〉わけでも何でもないことになる。身も蓋もない話だが、「日本の美徳」だとする「忍耐、誠実、慈愛、勇気、惻隠」〉にしても、何らかの自己利害の一致を見た場合の発揮物でしかないと言える。

 但し、「品格」を表向きの態度として演ずることはできる。自己利害が命じた場合の必要性から自身への装わせとして身につけることは可能である。

 上記記事に次の一文が挿入されている。

 〈国技といわれる大相撲の横綱は、単なる相撲の王者ではすまされない。若くして、心技体の充実を求められ、土俵上でも私人としても「品格」を期待される。

 栃若時代を築いた栃錦、若乃花(初代)、柏鵬時代の柏戸、大鵬にはそれぞれ横綱としての威厳があった。同時に地位への使命感、緊張感が漂っていたように思う。「横綱の品格」とは、一種、抑制の美しさではないだろうか。〉――

 「『横綱の品格』とは、一種、抑制の美しさではないだろうか」とはうまいことを言っているが、大相撲が国技だ、日本の伝統だ、文化だ、「神事」が原点だ、内館牧子の場合は「土俵は俵で結界された聖域である」だ、要するに聖なる領域と俗なる領域が俵で仕切られている神聖な場所だと言うなら、「品格」を横綱にのみ求めるのではなく、幕内力士や十両、幕下、三段目、序二段、序ノ口等々のすべての力士にも求めるべきで、そのためには相撲部屋に新規に入門した新弟子当時から即座に「品格」教育を施すことを土俵に上がる準備とすべきだが、それを「横綱の品格」のみを云々するのはそもそもからして無理があり、矛盾している。

 なぜすべての力士に「品格」を求めないのか、その理由は多分、相撲部屋に入門してから即座に「品格」教育を施した場合、「品格」に囚われるあまり、いわば記事が言っているところの「抑制の美しさ」に囚われて、それが自分が持っている相撲の力の抑制に働いて、一人ひとりが持つ持ち味を殺してしまい、「品格」を競う競技と化し、スポーツとしての面白みも意外性もない、単なる儀式と化してしまうからだろう。

 だが、一番強くなった横綱にこそ、「品格」を求めやすい。横綱という最高位に就いている意識がそれ相応の貫禄を与えることと大関以下の力士との力の差が「品格」を演ずる余裕を与えてくれるからだ。

 このことを裏返して言うと、横綱以外の例えば大関の場合は一般的には横綱に対して力の差があり、他の大関や幕下上位に対しては力の差が生じない勝負もあることから、なり振り構わず精一杯にぶっつかっていくしかないために「品格」を演じている余裕はないということである。

 このことは前頭以下のすべての力士にも言えることで、「抑制の美しさ」を決め込んで「品格」を演じたりしていたら、その分、自分から力を殺ぐことになるだろう。

 だとしても、すべての力士に「品格」を求めないのは土俵は聖域だ、神事だといった大相撲の位置づけを大相撲自身が裏切る矛盾であることに変わりはない。それを横綱にのみ求める矛盾の無視自体が大相撲の自己利害に立った「品格」要求であることを物語っている。

 大関にしてもそうだが、横綱が年齢や体力的な疲れから力が衰えてくると、貫禄だけで横綱の体面を保とうとする。だが如何せん、負けが込んできた横綱は土俵入りではそれ相応の「品格」を演じて見せることができても、横綱の体面上も最大の自己利害に相当する勝負でそれを満足させることができなくなってきた場合、負けて土俵上で相手力士に頭をうなだれるようにして“礼”の挨拶する態度には自らを情けないとする心情は汲み取れても、「品格」を感じ取ることはできない。

 また弱くなった横綱に、「引っ込め」、「引退しろ」と罵声を浴びせる観客がいるが、このことは観客にとっても最大の自己利害が横綱の「品格」なのではなく、勝負であることを証明している。多分、横綱が何か問題を起こしたときだけ求める「品格」ではないだろうか。

 だが、厳密に言うと横綱にしても土俵上で常に「品格」を演じているわけではない。「品格」を求められるから堂々とした態度を取るが、土俵上の勝負自体に関しては相手のタイミングを外す手のつき方をしたり、待ったをしたり、時には格下力士に対して右に飛んだり、左に飛んだり、「品格」とは無縁の勝負優先の自己利害に走ることもある。既に言ったように、「品格」が最大の自己利害である勝負の力となるわけではないからだ。

 また、横綱が「品格」を備えているとしたら、親方になってもその品格は失わないはずで、失って横綱時代のみの「品格」であったなら、見せ掛けの「品格」と化す。

 相撲協会の理事の多くが元横綱で占められているにも関わらず、理事選挙で一門間で立候補者の数を絞ったり、票の割り振りをしたり、投票ではなく話し合いで決めたり、一門の話し合いに反して立候補した者に対して破門を言い渡す、あるいは破門の形で排除する内向きの閉鎖的な組織運営や親方株をときには億という単位で売買する、あるいは親方や力士が問題を起こすと率先した自浄作用よりも組織防衛に走る自己利害からは横綱時代に身につけたはずの「品格」を窺うことができないばかりか、その「品格」が横綱にならないまま引退した他の理事に何ら影響を与えていない結果としても生じている「品格」のない組織運営であることからすると、横綱時代に身につけたとする「品格」が見せ掛けのであったことの証明としかならない。

 2007年6月に15代時津風親方が部屋付きの新弟子に対して部屋の力士に稽古と称して暴力を揮わせ、自身もビール瓶で頭を殴ったりして死亡させたリンチ死事件の相撲協会自体の真相解明に当時の北の湖理事長が当たったが、あるとしたら、「品格」とはこういったときにこそ毅然として発揮されるべきだが、組織防衛を最大利害としたその迅速とは程遠い事勿れな対応に元横綱の「品格」を見た者が果たしていただろうか。

 そもそもからして、「お茶の水女子大の藤原正彦名誉教授が指摘するように、戦後日本は経済成長と引き換えに、国を挙げて「品格」を捨ててきた。忍耐、誠実、慈愛、勇気、惻隠…日本人の美徳の多くを失ってきた」とする論理展開は藤原正彦が発した情報を自らの頭による、あるいは自らの考えに従った検証を経たのかどうか分からないが、そのまま従属した情報として提供しているものであろう。

 その言っていることを問うと、既に言及したように戦前の日本は 「国を挙げて」「国家の品格」を持ち、「忍耐、誠実、慈愛、勇気、惻隠」等々の価値観を「日本人の美徳」としてきたと、戦前の日本国家、そして戦前の日本人を優越的に価値づける内容を裏返しとしている。

 だが、ブログやホームページに幾度か引用していることだが、戦前の戦争を例に取れば簡単に分かることで、大日本帝国が果して日本国民に対してもアジアの外国や外国人に対しても「忍耐、誠実、慈愛、勇気、惻隠」等々の「美徳」を自らの価値観として国民に向けた恩恵とし得たと言うのだろうか。また、多くの日本人が国家と一体となって、侵略行為に加担し、アジアの国民を弾圧しなかっただろうか。

 アジアに対しても日本国民に対しても国家主義という名の権威主義をのさばらせるのみで、どこにも「国家の品格」は存在しなかったはずだ。武力を通した侵略や支配と「国家の品格」は相容れない道徳観だからなのは言うまでもない。

 また、『日本疑獄史』(森川哲郎著・三一書房)には明治・大正・昭和50年代までの藩閥大物政治家に始まってその他政治家、軍人、官僚、豪商、財閥等が相互に絡んだ汚職、贈収賄、スキャンダル等々がゴマンと列記されている。

 決して「戦後日本は経済成長と引き換えに、国を挙げて「品格」を捨ててきた」わけではない。言っていることの裏返しとして存在させている、民族的優越性に位置づけているような戦前の日本が「国家の品格」、あるいは日本人としての個人的な「品格」はマヤカシに過ぎない。
 
 江戸時代に於いても、年貢取立て代官たちの百姓に対するワイロ請求は彼らの職務の一部として存在し、手に入れたワイロはより上級の武士へのワイロとして流れていったと言うし、小中大名たちの形式的飾りでしかない天皇付与の官位を求めるため、将軍の認定を左右する取り次ぎ方の老中に対するワイロの差出しのために老中宅前はいつも小中大名たちとその供の者たちで賑わっていたと言うことも、「戦後日本は経済成長と引き換えに、国を挙げて「品格」を捨ててきた」わけではないことを証明している。

 大体が百姓という人間集団を搾取の対象とし、生活の点でも人間的取扱いの点でも苦しめ、その苦しみの上に武士の生活を成り立たせていたこと自体が人間として「品格」ある行為とは決して言えず、「国家の品格」がないということなら、封建時代から今に受け継ぐ「国家の品格」のなさでなければならない。

 藤原正彦の『国家の品格』は270万部かそれ以上のベストセラーだと言うことだが、少なくともその殆んどはテレビに出て展開した発言、あるいは新聞や雑誌等に寄稿した主張を情報源として、それらに従属する賛成の立場から著書を求めるに至る経緯を踏んだはずである。

 改めて著書と向き合って自分の頭で、あるいは自分の考えで論理的な判断能力を働かせてその情報の正当性を取捨選択する次の経緯を踏んだはずだが、「お茶の水女子大の藤原正彦名誉教授が指摘するように、戦後日本は経済成長と引き換えに、国を挙げて「品格」を捨ててきた。忍耐、誠実、慈愛、勇気、惻隠…日本人の美徳の多くを失ってきた」云々と藤原正彦の情報を上の価値に置いてその情報に自分の情報を無条件に従わせる権威主義に囚われて、そこから抜け出せないでいる。

 「戦後日本は経済成長と引き換えに、国を挙げて「品格」を捨ててきた」を「品格」欠如の論理的な根拠としているからこそ、その反動として藤原は著書で戦前の日本及び日本人を「品格」を備えた存在とするために明治・大正時代の日本を訪れた外国人の日本に対する賛美を利用することになったのだろうが、上記紹介のHP「読んで ムカつく 噛みつき評論」「藤原正彦の品格、国家の品格」には、〈明治期の東京帝国大学の教師であったチェンバレンは日本人の特徴として「付和雷同を常とする集団行動癖」をあげており、褒められた話ばかりではない。〉と先進外国人の日本評価、あるいは日本人評価が賛美一色ではないことを言っているが、この「付和雷同」は上の位置、立場にいる強い者、あるいは上の位置、立場にいる有力な者の命令・指示、情報を上位の価値としてそれに無条件に従属して自分の情報とすることにも当てはまる権威主義的な集団性であって、「品格」とは決して相容れない価値観であるはずである。

 以前、NHKのクローズアップ現代「“言語力”が危ない~衰える 話す書く力~」(放送日 :2009年11月25日(水))をブログで取り上げて、番組が大学生以下の若者の「言語力」の低下を最近見られる現象だとしていることに対して、大人の言語力の欠如を受け継いだ、その反映としてある「言語力」の欠如に過ぎないと書いたが、番組が言うとおりに「言語力とは外からの情報を整理し、それを基に自分の考えを組み立て、そしてきちんと根拠を示しながら論理的にモノを考え、表現する力」だとするなら、「国家の品格」にしても日本人の個人的な「品格」にしても、戦後失ったとする類の情報はまさしく「言語力」を欠いた情報処理となる。

 しかもその欠如は日本人の大人のものとしてある。決して若者のみの問題ではない。

 最後に作家村上龍の「JMM」が発行しているメーリングリストの<《NEW YORK, 喧噪と静寂 / 肥和野 佳子 「朝青龍の引退 日本の外から見えること ~リスク管理:「品格」より規則の欠如が問題」》が朝青龍の引退を違った角度から把えていて参考になると思うが、「毎週火曜日にバックナンバーを追加掲載」ということで、まだ掲載されていないが、まだ読んでいなくて興味がある方がアクセスできるように一応アドレスをつけておきます。

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