――民主党に衆・参両院過半数のチャンスを与えよう――
「Wikipedia」の朝青龍の項目に次のような記述がある。
〈2001年1月場所に新入幕し、翌年7月にモンゴル出身の力士として初めて大関に昇進し、同年11月場所、翌年1月場所に連続優勝して横綱に昇進した。ただし2002年9月の貴乃花戦に敗れた際、花道を引き上げる際に「畜生!」と大きな声で叫んだり、支度部屋で「怪我をしている左足を狙えばよかった」と発言したりするなど、当時からその品格が問題視されていた。〉
〈2003年、モンゴル人女性と結婚し、またこの年、長女が誕生した。同年5月場所、モンゴルの先輩旭鷲山との対戦で敗れた際土俵上で審判に対して物言いを要求、肩がぶつかった旭鷲山をにらみつけ、さがりを振り回した。さらに翌7月場所の対戦では髷を掴み反則負けとなり、取組後の風呂場で口論となった後に旭鷲山の車のサイドミラーを破壊。この場所は頸部挫傷により途中休場した。〉――
確かに問題児ではあった。闘争心というよりも、スポーツマンシップから外れた敵愾心の間違った発露となっている。
15歳でモンゴル相撲を始めて少年の部で優勝を果たし、17歳で日本の高校に相撲留学した朝青龍が自分以外はすべて見知らぬ日本人を向こうにまわしてモンゴル相撲少年の部のチャンピオンとして見せなければならなかった過剰な気負いからの闘争心が歪みを放って過剰な敵愾心と化したものなのか、それとも朝青龍を子どもの頃から支えていた、生まれつきの過剰なまでの敵愾心だったのか。
2004年1月場所から2004年7月場所まで4場所連続優勝したときの2場所連続優勝後(3月場所終了後)の横綱審議委員会で内館牧子委員が懸賞金を受け取る際の手刀を左手で切るのは大相撲の伝統に反しておかしいと異議を申し立て、当時の理事長の北の湖に右手に統一すべきだと進言したという。
初日は天覧相撲だそうで、「陛下の前では変えるかもと思っていたけど、最悪」とか批判したそうだ。
“右手に統一すべき”だと言うことは内館牧子の自分では正しいとする価値観であって、それを全体の正しい価値観とすべく意志を働かせたことになる。
勿論、マスコミが取り上げて、そのことが問題視されるようになったが、朝青龍は左手で手刀を切り続けた。だが、朝青龍が手形を左で切り続けることへのマスコミの番組を面白くするための左手手刀悪者説にウエイトを置いた中立性を欠いた是非論の世論誘導等に押されたのか、翌2005年3月場所の3日目とかで初めて右手で手刀を切って懸賞金を受け取った。
因みに手刀を左右どちらの手で切るのかの明確な決まりはないそうだ。「Wikipedia」の「逆鉾」の項目に次のような件(くだり)がある。
〈朝青龍が左手で手刀を切ることをある横綱審議委員が問題視したが、逆鉾も朝青龍と同じく左利きでずっと左手で手刀を切っていた。当時はこれを問題視するものはいなかった。〉――
但し「Wikipedia」の「懸賞 (相撲)」の項目に、〈あまり各力士の手刀の切り方がまちまちなのを見かねた元双葉山の時津風理事長から、「右手で、左、右、中央と手刀を切るのを原則とする」との通達が出されたことがあり、見方によってはこの理事長通達が現在も有効とすることもできる。〉との一文が記入してある。
何月何日に出した通達か記述がないが、この時津風理事長とは元大関豊山の1998年2月から2002年1月まで在位した時津風のことだと思う。
名横綱双葉山の初代時津風理事長の通達と仮定した場合、その在位は1957年5月~1968年12月までだから、それ以降も通達が生きていたはずで、1992年9月場所で引退した逆鉾の左手手刀が少なくとも問題とされたはずであるが、問題とされなかったということは初代時津風の通達ではないのではないだろうか。
元大関豊山の時津風理事長がその職を退いたのが2002年1月。朝青龍が関脇に昇進した場所に当たるから、それ以前の土俵上の朝青龍の姿を目にしてるはずである。左手で手刀を切っている朝青龍のことが頭にあった通達なのか、それとも右手で切ることが一般的であったから、その固定観念から「右手」としたのか分からないが、朝青龍が左手で手刀を切る続けることを内館牧子が伝統を楯に異議申し立てするまで当たり前のこととして許していたことは通達が空文化していたことを物語る。
朝青龍にしても内館牧子が言い出すまで何の指導もクレームもなかったから、左利きの人間として当たり前のこととして左手で手刀を切っていたのだろう。身体の一つ一つの動きは全体のリズムとして統一される。例え勝負から離れた場所での左手から右手への矯正であっても、身体の全体のリズムは勝負を離れた一般的な的な生活の場所でも有機的な連動性を持って機能するはずだから、そこに微妙な狂いが生じない保証はない。
それを伝統の名で強制的に矯正しようと謀り、一つの形に当てはめようとする。
さらに精神的な影響も考えなければならない。朝青龍が誰かに教えられて逆鉾の手形の切り方を知ったなら、逆鉾が問題にされないのは日本人だからなのか、俺が問題にされるのはモンゴル人だからなのかと疑って不信感を抱いたととしても、人間の自然な感情の流れとしてある猜疑心であろう。
こういったことが元々の素地としてあった過剰なまでの敵愾心に尚のこと火をつけて一層過剰たらしめたとしても不思議ではない。それが多くの者をして顰蹙を買わせることとなった数々のダメ押しや土俵の真ん中で相手を無理やり抱えあげて土俵に叩きつけるといった荒技となって現れていたということも考えられる。
人間は何かに対して、あるいは誰かに対して激しい敵愾心を持つと、往々にしてその何かが所属する全体的なものに対して、あるいはその誰かが所属する全体的なものに対してまで激しく攻撃的になることがある。
マスコミが朝青龍の手刀の切り方を品格のない良くない行為として連日取り上げることで朝青龍自体を悪者視する雰囲気の把え方をして大騒ぎしたことが、マスコミ全体に対しての嫌悪となり、そこに敵意に満ちた攻撃的な感情を抱くに至ったとしても自然な流れであろう。
また、その攻撃的な感情がマスコミの人間が所属する日本人全体に向かうこともある。
そういった過剰な敵愾心からの攻撃的な感情を常に抱いていると、その攻撃性は往々にして是非を考える余地を与えない瞬間的な荒々しい発動となって現れる。
2006年7月場所後に腰痛等の診断書を出し、夏巡業を休む形でモンゴルに帰国、そこでサッカーに打ち興じたことが問題とされ、マスコミから散々にバッシングを受けてニ場所出場停止、モンゴルへの帰国を禁止され、日本国内での腰痛等の治療を命じられると、解離性障害(心的外傷への自己防衛として、自己同一性を失う神経症の一種。自分が誰か理解不能であったり、複数の自己を持ったりする。「Wikipedia」)に陥り、モンゴルでの治療を許可されて帰国している。
夏巡業を拒否してモンゴルに帰国したことの処分を受けて解離性障害に陥ることになった経緯は、夏巡業を拒否したことが朝青龍の中ではあくまでも間違っていない正しい選択であって、逆に相撲協会の処分とマスコミのバッシングは間違っていると受け止めていたからこそ発症した症状であることを物語っている。
自分は正しいとしたとき、当然、正しい自分を批判する者は正しくなく、そういった者に対する攻撃的な感情は逆に強まっていく。
マスコミへの嫌悪感から発した日本人全体に対する攻撃的な感情で息が詰まる思いをしていたのではないだろうか。そこから逃れたいが、職業として選んだから本場所を拒否するわけにはいかず、本場所以外は拒否したい思いが身体の不調をいいことに、それを口実として夏巡業の拒否へとつながったとも考えることができる。
何か飲食している場所でのテレビ局のインタビューらしく、朝青龍は言っていた。
朝青龍「俺は従わなくてもいいと思うんだよね」
――何に?
朝青龍「日本の遣り方に」
ここに日本的なるものへの拒絶意識を象徴的に窺うことができる。
だが、「日本の遣り方」に従うことを日々強制された。日本の伝統・文化の名のもとに型にはまることを押し付けてきた。
型にはまってしまったなら、強さをなくしたのではないだろうか。良くても悪くても、過剰な敵愾心からの激しい攻撃性が強さの源泉だったはずだ。
型にはまるまいとした代償が場所中の夜中に泥酔して人を殴って引退へとつながったことに現れた。
例え敵愾心を素地としたものであっても、相撲の勝負に限ってこそ発揮すべき攻撃的な感情を相撲以外の場所、相撲以外の人間にも常に向けていたからこそ、横綱の立場を忘れて簡単に喧嘩という間違った形でその攻撃性が発揮されることになったのではないだろうか。
喧嘩が横綱朝青龍の引退の直接の原因ではなく、日本の伝統だ、文化だと言って一つの形にはめようとした陰湿な攻撃が真の原因であるような気がする。