――民主党に衆・参両院過半数のチャンスを与えよう――
亀井静香金融・郵政改革担当相が3日の参院本会議で自民党の松村祥史議員に永住外国人地方選挙権付与法案について問われて次のように答えている(《代表質問詳報・政府答弁》47NEWS/2010/02/03 22:32 【共同通信】から)
「わが国は植民地的支配をした歴史があり、多くの方々が移住されたが、参政権の付与は別の問題だ。選挙は過熱する場合がある。参政権の付与で民族感情が刺激され、対立が生まれる危険性がないわけではない。参政権を望む方は帰化で対応していただきたい」
亀井が言っていることは、帰化して日本国籍を取れば、民族間の利害対立から選挙が過熱した場合でも、「民族感情が刺激され、対立が生まれる危険性」は生じないとの断言である。
例え相互に民族を違えても、両者間に利害の相違が生じなければ、対立は起きない。
帰化して日本国籍を取ったからといって、その者が持つ民族性は抹消されるわけではないだろう。意識は本質のところで親から受け継いだ民族感情、あるいは親から受け継いだ民族的文化性を宿しているはずだからだ。
この場合の“親から”というのは、親が所属した社会から受け継ぎ、親自身の個人性として付け加えた民族感情や民族的文化性も含まれる。
女性が結婚して戸籍が変わったからといって、親から受け継いで本質のところで特性化したその女性特有の感情や文化性をまるきり捨て去るわけではないのと同じであろう。
この親から子への継承は当然のこととして多くが代々の継承となり得る。例えば親自身、あるいはその子自身が被差別を直接経験しなくても、親や子が所属した社会が経験して、何らかの学習を通してその経験を意識化したとき、その意識化した経験はそれぞれの民族感情、民族的文化性と化して次の世代にへも継承されていくはずである。
戦争を語り継ぐことが民族感情や民族的文化の語り継ぎの形式を踏むのはこのためでもあるはずである。
例えば自身が経験しなくても、被差別の歴史を学習することによって自身をその中に置くのも民族感情や民族的文化の語り継ぎの形式を踏む最たる例の一つであろう。
勿論、継承の濃度に個人差が生じる。自身も自らが所属する社会で直接経験した場合、それが初めての経験であっても、学習して意識化した経験が触発されて直接経験と合わさり、そのことに対する意識の濃度は増加し、より強い経験となる。
要するに帰化が民族感情からの対立を抹消をする万能薬とはなり得ないのだから、亀井静香の言っていることは愚かしい戯言(たわごと)に過ぎない。
例えば日本と韓国の間で竹島(韓国名、独島)の領有を巡って対立しているが、もし日本のどこかの市議会が竹島は日本の領土だとする決議案を議会に提出した場合、日本に帰化した韓国人、場合によっては帰化した北朝鮮人も含めて、“民族感情”を刺激しない保証はない。対立とまでいかなくても、決議案に反対だ、独島は韓国の領土だと叫ぶ韓国系日本人、あるいは北朝鮮系日本人が出てきたとしても不思議はない。
あくまでも帰化しても消える保証のない民族感情からの利害の相違が何らかの対立や反対を生むのであって、亀井が愚かしくも言っているように帰化しないことが生む問題点ではない。
対立的な民族感情は往々にして一つの民族から別の民族に向けた全体的な民族間の差別、そのことから生じた貧困、あるいは民族や一つの階層に全体的な現象とし現れた貧困を民族全体の無能力と看做して逆に生じせしめることとなった差別といった何らかの社会的矛盾に対する反動を起因して出来する。それらは過去に遡った歴史を引きずって受け継いでいる感情の場合もあるはずである。
かつての激しく燃えた中国の反日感情は中国人の戦争被害の記憶を歴史的に受け継いだ感情からのものであろう。
次に挙げる例は人種対立であるが、差別や貧困などの反動として生じた例としてロス暴動がある。この暴動は帰化していないこと、アメリカ国籍を取っていないことが原因した暴動では決してない。「Wikipedia」から引用。
ロス暴動
1992年4月末から5月頭にかけて、アメリカ合衆国・ロサンゼルスで起きた大規模な暴動。新旧の人種問題、陪審制の難しさなど、暴動の背景にある多くの問題が浮き彫りになった。
潜在的要因
日本における報道でロス暴動はロドニー・キング事件に対する白人警官への無罪評決をきっかけとして突如起こったかのような印象を受けることが多いが、その潜在的要因としてロサンゼルスにおける人種間の緊張の高まりが挙げられる。アフリカ系アメリカ人の高い失業率、ロス市警による黒人への恒常的な圧力、韓国人店主による黒人少女(ラターシャ・ハーリンズ)射殺事件とその判決に対する不満などが重なり、重層的な怒りがサウスセントラル地区の黒人社会に渦巻いていた。そこにロドニー・キング事件のロス市警警官に対して無罪評決が下されたことが引き金となって、黒人社会の怒りが一気に噴出して起きた事件であるといえる。
人種間の緊張の高まり
事件の重要な要件として、暴動がはじまったサウスセントラル地区の人口比率の変化が挙げられる。サウスセントラルはかつて黒人地区であったが、ヒスパニック系が居住者として取って代わるようになり、一方では韓国系アメリカ人がそれまで黒人の所有していた酒屋や雑貨店などを買い取って商売をはじめていた。国勢調査によれば、歴史的に黒人居住地区であった場所におけるヒスパニック系住民の増加率は119%に達していたという。こういった地区では商店などの経済競争が人種間の憎悪を高めていった。それまで黒人が一手に引き受けていた単純労働は、半分の賃金で働くラテン系移民へと移っていった。また、韓国人(コリアンアメリカン)による極端とも言える黒人蔑視などもあり、韓国人商店と客である黒人住人との関係のみならず、黒人社会と韓国人社会全体が明確に断絶していた。黒人住民たちは韓国人商店の客扱いが酷く商品が値上がりしているとの不満を持っていた。
この様な状況の中、1989年のスパイク・リー監督の映画『ドゥ・ザ・ライト・シング』ではこうした人種間対立を題材に扱い、上記の様な黒人社会と韓国人社会の対立も描きながら、人種間対立が暴動へと発展する様子を映画として発表した。 また、ラッパーのアイス・キューブは1991年10月に発表したアルバムで、黒人社会と韓国人社会間に存在する軋轢をBLACK KOREAという曲において韓国人を攻撃する歌詞という形で表現している。
ロドニー・キング事件、およびその裁判
1991年3月3日、黒人男性ロドニー・キングがレイクビューテラス付近でスピード違反を犯し、ロス市警によって逮捕された。その際、20人にものぼる白人警官が彼を車から引きずり出して、装備のトンファーバトンやマグライトで殴打、足蹴にするなどの暴行を加えた。たまたま近隣住民が持っていたビデオカメラでこの様子を撮影しており、この映像が全米で報道され黒人たちの激しい憤りを招いた。
この事件でビデオに映り身元が分かる白人警官3人(ステーシー・クーン巡査部長、ローレンス・パウエル巡査、ティモシー・ウィンド巡査)とヒスパニック系警官1人(セオドア・ブリセーノ巡査)の計4人が起訴された。裁判の結果、警官達の“キングは巨漢で、酔っていた上に激しく抵抗したため、素手では押さえつけられなかった”との主張が全面的に認められ(実際はおとなしく両手をあげて地面に伏せたキングが無抵抗のまま殴打され、医療記録によるとあごを砕かれ、足を骨折、片方の眼球は潰されていたとされるが、裁判では認められなかった)、事件発生から1年経過した92年4月29日に陪審員は無罪評決を下した。これについては、白人住民の多かったシミ・バレーで法廷が開かれ、陪審員に黒人は含まれていなかった事も原因の一つであるといわれる
ラターシャ・ハーリンズ射殺事件
ロドニー・キング事件のわずか13日後となる1991年3月16日、持参したバックパックに1ドル79セントのオレンジジュースを入れ、手に支払いのための小銭を握っていた[1]黒人少女(当時15歳)であるラターシャ・ハーリンズを、韓国系アメリカ人の女性店主、Soon Ja Du(当時49歳)が射殺したのである。事件の様子は防犯ビデオに収められており、2人は揉み合いになったのちに少女が店主の顔面を4度殴打、店主は床面に激しく転倒させられた。店主は少女に椅子を投げつけた。
その後、件のオレンジジュースをカウンターに置いて店から歩いて出て行こうとする少女に対して、韓国人店主は背後から銃を向け、その頭部を撃ち抜いた。Duは逮捕され、事件の判決は同年11月15日に出された。陪審員は16年の懲役を要求していたにもかかわらず、判決は5年間の保護観察処分、およびボランティア活動400時間、罰金500ドルという第三級謀殺としては異例に軽いものであった。この判決は黒人社会の怒りを再び煽ることとなり、無実の黒人少女を射殺するというこの事件により、黒人社会と韓国人社会間の軋轢は頂点に達した。
暴動勃発
1992年4月29日、ロス市警の警官への無罪評決が下されたこの日、評決に怒った黒人たちが手の付けられない暴徒と化し、ロサンゼルス市街で暴動を起こして商店を襲い、放火や略奪をはじめた。
また、小規模な暴動及び抗議の動きはロサンゼルスだけではなくラスベガス、アトランタ、サンフランシスコをはじめとしたアメリカ各地、およびカナダの一部にまで波及したようである(「本部長は辞任せよ」「4人の警官は全員有罪だ」「暴力警官からバッジを取り上げろ」のプラカードを掲げて抗議デモをしたグループもあった)。
この暴動が勃発した初日、LA市内をトラック輸送仕事でいつも通り走行していた白人トラック運転手、レジナルド・デニーはフローレンス通りとノルマンディーアベニューの交差点で信号待ちをしていた際、主に若者を中心とした暴徒化した黒人らにキャビンから引きずり出されて暴行を受けた。その内容は、コンクリート塊でこめかみを強打したり、倒れた被害者の頭部に数十キロの鉄の塊(エンジンブロック)を投げ落とすなどだった。またこの様子は地元TV局の取材ヘリから空撮されており、この衝撃的なシーンは幾度となく繰り返し全米にTV放送され、彼はロス暴動におけるもっとも著名な被害者となった。なお、暴行を受けた後、彼はTVニュースでその暴行のライブ中継を見ていた地域住民の黒人によって助け出され、病院で開頭手術などを受け一命を取り留めている。
主な襲撃目標となったロス市警は自らを守るだけで手一杯の状況となり、暴動を取り締まることはまったくできなくなっていた。その証拠に前述のライブ中継されたレジナルド・デニー集団暴行事件でも最後まで警察は現れる事はなかった。
この時、ロス市警は現場に黒人警官のみを行かせるよう編成をしており、現場近くにいた白人オフィサー達には「現場に近づくな」との命令がディスパッチャー(通信司令)を通して発せられていた。
そして4月30日、当時の市長トム・ブラッドリー(黒人。翌93年9月末退任)は非常事態宣言を発令した。
もうひとつの主たる襲撃目標となったのが韓国人商店である。襲撃による被害額の半分弱が韓国人商店のものであるともされる。韓国人商店主らが防衛のために拳銃を水平発射しているシーンも幾度となくテレビにおいて放映された。ちなみに彼ら韓国人店主らの多くはベトナム戦争の帰還兵だった。ベトナム戦争に参加した韓国人帰還兵に米国政府が移住許可を与えたため、70年代に韓国系移民が4倍も増えた。彼らは主に競合相手のいない黒人街で商売を始め、従業員には黒人でなくヒスパニック系を雇い、閉店すると店を厳重にガードし、そそくさと韓国人街へ帰るというスタイルで商売していた。黒人の間では「自分達を差別しながら商売する連中」というイメージが定着し、そうした黒人による日頃からの韓国系への鬱憤が、暴動時の韓国人商店襲撃へと結びついたといわれている。また、当初は韓国人商店が襲撃されたが後には他のヒスパニック系/白人/黒人の店も襲撃されるようになった。
暴動鎮圧のために州兵は元より、4,000人を超える連邦軍(陸軍、および海兵隊)部隊までが投入され、さらには司法省が、公民権法第7篇、人種差別行為禁止規程違反容疑でのFBIによる再捜査をアナウンスするなどの努力によって、6日間に渡った暴動はようやく収束を見た。しかし、暴動による被害は死者50~60人、負傷者約2,000人を出し、放火件数は3,600件、崩壊した建物は1,100件にも達した。被害総額は8億ドルとも10億ドルともいわれる。韓国人街は市警が暴動鎮圧に消極的だったと厳しく非難した。また彼らは『無実の我々が犠牲を強いられた責任は市当局にある』と述べた。
この事件での逮捕者は約1万人にものぼり、そのうち42%が黒人、44%がヒスパニック系、そして9%の白人と2%のその他の人種が含まれていた。これは当時のロサンゼルスの人口比率とほぼ同じで、最終的には黒人による暴動というよりは、街を挙げての略奪騒ぎになったと考えるべきだろう。
影響
a.. 暴動後、ロドニー・キング殴打事件の再審理を求める世論が盛り上がり、FBIが公民権法違反で再捜査を行った。再審理の結果、指揮を執る立場にあったクーン巡査部長と直接関与したパウエル巡査の2人が有罪評決を受けた(ブリセーノ巡査とウィンド巡査は無罪)。ロス郡の連邦地裁陪審団は同市に対しキング氏に約382万ドル(当時レートで約3億9700万円)の賠償金を支払うよう評決を下した。キング氏側:「警官の暴行は人種的な背景によるもので、頭部を殴打されたため脳に回復不能の障害が残り視力低下や頭痛、集中力欠如などの後遺症に苦しむ」と主張。この評決が下される際も、暴動が再発するのではないかと緊張が走ったが、事前の警備が万端であった上にほぼ順当な判決が下されたこともあり、暴動が起きるようなことはなかった。
余談だがロス暴動後に同じロサンゼルスでおきたO・J・シンプソン事件をめぐる裁判では容疑者のO・J・シンプソンが黒人であったため、ロス暴動の再来を恐れた裁判所側が陪審員に黒人が多い地区からの選出を認め、検察側の人種感情を強く問題視するなど過剰とも取れる配慮をおこなった結果、裁判の過程に大きな影響を与えたという経緯がある。
b.. ロドニーキング事件は報道で誇張され、「警官は悪だ」とのイメージが定着して警官に対し不信感を持たれ、全米で警官の志願者が減少し、警察署は10%ほどの人材不足に頭を悩ませている。
c.. この事件によりコリアンアメリカンと黒人社会との確執が決定的な物となり、その後一時期緊張が緩和されたものの、コリアンアメリカンに存在する黒人社会への露骨な差別感情から、未だ両者に摩擦があるのが現状である。(経緯についてはコリアンアメリカンの項を参照)
d.. ラターシャ・ハーリンズ射殺事件は一人の韓国系住民の犯行が原因だが『韓国人ほど冷酷で愚劣で無分別で、しかも侮辱的で傲慢な人間に会ったことはない』、『韓国人は最も距離を置きたい人種』などと新聞にかかれた。M・カルフーン博士は『日本人と韓国人は全く似て非なる人種。韓国人は妥協するとか、相手の意見を聞こうとしない点で日本人とは大違い』と発言していた。またいくつかの韓国系の店の前には「黒人立ち入り禁止」とかかれた紙が置かれるようになった。このロス暴動は韓国人と黒人の間の溝をまた大きく空けてしまう結果となった。コリアタウンには黒人の姿は見かけないといわれている。これほどまでに韓国人全体が憎悪の対象になったのは、窃盗罪で執行猶予中だったキングの事件とは正反対に、全くの無実で殺されたラターシャハーリンズ事件の怒りの矛先が韓国人に向けられているためと思われる。(以下略)
以上見てきたことから理解可能なことは対立的な民族感情を和らげる手段は先ず第一に社会的矛盾として存在する貧困や差別の解消にあるということであろう。決して帰化すること、国籍を取ることが解消手段となるわけではない。
次に中国や韓国に対しては、戦争被害の記憶を逆撫でしないことが必要となる。
今はどうか知らないが、日本が高度成長期半ばの1960年代前後に日本のヤクザの多くが在日韓国人・在日朝鮮人で占められていると言われていた。それは彼らに対する差別、特に就職差別の反動によって生じた現象であろう。諸々の差別によって日本の社会が彼らを快く受け入れることをしなかった反動としてヤクザ社会に流れていった、いわば“就職”していったことによって生じた過密化であったはずである。
ヤクザ社会に流れず、辛うじて日本の社会にとどまっていた彼らはその多くが満足な就職機会を得ることができずに貧困を強いられた。
ロス暴動からも窺うことができるように、彼らに対する差別・貧困が、あるいはその記憶が逆に彼らの民族感情を先鋭化させる銃の引き金として内在させている恐れも否定できないはずはずである。
人間を学歴や職業、収入、家柄、民族的出自等を上下で価値づける権威主義が差別意識を生み、差別される側は同じ権威主義に則って上下の価値観で判断し返し、それが民族間の遣り取りであった場合、そこに民族的感情の対立が生じる。
この対立は相互の権威主義性を排除しなければ、帰化した、国籍を取ったで解決する対立ではないことは断るまでもない。