舛添要一の哲学なき自民執行部批判の悪循環

2010-02-25 09:21:57 | Weblog

   ――民主党に衆・参両院過半数のチャンスを与えよう――

 次の首相に誰がふさわしいかで国民的人気の高い自民党の舛添要一参議院議員が2月17日に研究会を立ち上げたと《舛添新党の足場に? 新勉強会に中堅・若手約30人出席》asahi.com/2010年2月18日1時5分)が伝えている。

 研究会の正式名は「経済戦略研究会」。郵政民営化推進など小泉構造改革路線を旗印にしているというが、舛添が自らの人気に重ねて小泉人気にもあやかろうということなのだろうか。

会合には自民党の中堅・若手約30人の議員が出席。名前の通った主な顔ぶれは副会長に就いた塩崎恭久元官房長官と菅義偉元総務相、その他中川秀直元幹事長や茂木敏充元金融相、河野太郎元法務副大臣、山本一太元外務副大臣といったところらしい。勿論会長は日本政界唯一最大のホープ、舛添要一。その挨拶。

 「自民党が(総選挙で)負けたのは改革が不十分だったから」

 「富を増やすことなく再配分だけやれば、国家はつぶれる。政府の間違いを正し、私たちが日本をリードする」

 誰も言うことは勇ましい。

 そして研究会のスローガン。七つの基本事項を確認したそうだが、記事はその二つしか書いていない。

 「経済成長こそ、社会保障充実、格差縮小への基本」

 「官から民への流れを推進」

 記事は次のことも伝えている。

 〈会合には舛添氏との連携を模索する鳩山邦夫元総務相も出席したが、「確認事項の『真の郵政民営化』とは何か。結局、官がやらないと(郵政のサービスが)隅々まで行き渡らない」と反論。郵政民営化路線とは相いれないとして途中退席した。〉――

 いつでも話題を提供してくれる鳩山邦夫といったところか。

 リーマンショックによる大不況で失ったものの、戦後最長景気(2002年2月~2007年10月)は戦後最高益の「富」を軒並み大企業にもたらした。その「富」は一般国民には「再配分」されなかったために賃金の上昇が抑えられた個人消費低迷の「実感なき景気」と言われた。

 このことは当然、所得格差を生じせしめることとなった。企業は製品コスト削減と企業利益増のために人件費抑制を図って非正規雇用を大量に採用、正規社員と非正規社員との間の所得格差をつくり出した。こういったことの最大集約が戦後最長景気と言うゴールだった。

 こういった一連の功罪は小泉内閣の“2001年4月26日~ 2006年9月26日”の在任期間が戦後最長景気期間(2002年2月~2007年10月)とほぼ重なることによって証明することができる。

 すべては「官から民への流れを推進」した小泉改革の成果だった。小泉内閣はまた「歳出改革」を掲げ、社会保障費の自然増を年2200億円に抑制する方針を打ち出した結果、真に必要な者に対しても“生活保護剥がし”を謀り、自殺に追い込んだり、餓死に追い込んだり、あるいは障害者を社会的に自立させる法律だと称して「障害者自立支援法」を2005年10月に成立させ、障害者に福祉サービスにかかる費用の原則1割負担を課し、多くの障害者の生活を圧迫して、ただでさえ存在していた健常者と障害者の生活格差、所得格差を一層拡大せしめた。

 要するに小泉改革とは与党や官僚、大企業等を主たる構成員とした国家が栄え、国家の実質的中身、実質的構成世要素たる一般国民が栄えない、利害を明確に二分した改革であった。「官から民」と言いつつ、国民の「民」ではなく、民間企業、それも主として民間大企業の「民」を利益獲得のターゲットとした、両者間で利害を正反対とする、それが正体の「官から民」であった。

 舛添は小泉構造改革を利害の概念で検証する哲学も持たず、小泉構造改革路線の継承を掲げている。その一方で他の政治家の哲学を悪しざまに俎上に上げている。

 《舛添要一氏:「首相」宣言 新党結成は否定》毎日jp/2010年2月5日2時30分)

 記事は2月10日に出版する予定の舛添の、古典や歴史を引き合いに首相の資質を論じているという著書「内閣総理大臣」(角川書店)を取り上げ、舛添の動向を伝えている。

 02年の著書にその後の政治情勢や閣僚経験を加えた増補版だそうだが、「時期が来たら私自身がリーダーシップを取ることを拒否はしない。首相に必要な能力を持つよう努力している」と書いてあるという。

 日本の首相はカネ集めとその力を借りたヒト集めと巧みな見せ掛けの弁舌を資質とすることで実現可能とすることもできる。政治哲学の資質を欠いていたとしても、日本の首相になり得るということである。このことは安倍晋三や麻生太郎が証明している。

 上記三要素のうち、舛添に欠ける資質はカネ集めとその力を借りたヒト集めであろう。巧みな見せ掛けの弁舌だけは有り余る程に所有している。

 著書はさらに次のようなことに触れているという。 

 新党結成の可能性について、「(自民党)内部で喧嘩しながらやっていくつもりだ」と否定。

 首相に必要な資質。

 「国民の琴線に触れる言葉、ビジョンを政策として提示する能力」

 カネ集めとその力を借りたヒト集めと巧みな見せ掛けの弁舌を挙げるはずはない。

 鳩山由首相について――

 「圧倒的に欠けているのがビジョンの提示力」

 小泉元首相――

 「国民に夢と希望を与えられなかった」

 安倍晋三、福田康夫、麻生太郎の3首相――

 「哲学の素養は欠落していた」
 
 舛添自身には「哲学の素養」があると自ら認めたということである。

 自民党について――

 「幹部に危機感がない。歴史的使命は終わった」

 党の再生を訴えているという。

 但し記事は最後に、〈自分を棚に上げるかのような批判的な言動には「注目を集めたいだけ」との批判も党内には根強い。〉とお返しの一太刀を浴びせている。

 首相に必要な資質である「国民の琴線に触れる言葉、ビジョンを政策として提示する能力」は哲学の必要性の指摘であり、鳩山首相の「圧倒的に欠けているのがビジョンの提示力」も哲学欠如の指摘、小泉元首相の「国民に夢と希望を与えられなかった」も哲学の欠如を原因とした結末の指摘となっている。

 いわば首相となる人物は何よりも政治的哲学を必要とすると言っている。

 では、「国民に夢と希望を与え」る哲学を持たなかった小泉首相の構造改革路線の踏襲を訴えているのはなぜなのだろうか。リーマンショックが打ち砕いてしまったものの、小泉改革は与党や官僚や大企業には「夢と希望」を与える哲学を有していた。

 舛添に言わせたなら、小泉改革の負の面を改め、正の面の改革を徹底的に進めていくと言うだろうが、その徹底化が小泉構造改革を利害の概念で検証する哲学を持たないまま進めて、「富を増やすことなく再配分だけやれば、国家はつぶれる」、あるいは「経済成長こそ、社会保障充実、格差縮小への基本」だと「富を増やすこと」=「経済成長」を最優先課題に掲げた場合、小泉改革と同様に、その路線の踏襲を言っているのだから当然のことだが、官僚、大企業等を主たる構成員とした国家の栄えを第一利害とするだろうから、国民の利害を疎かにした小泉改革の二の舞を演じる危険性を抱えることになる。

 小泉改革が「国民に夢と希望を与えられなかった」と言うなら、現在必要とされているのは企業の利益を圧迫することになるものの、従業員の目に見える賃上げとそのことによる個人消費の増加が結果的に企業の利益増につなげる企業の利害と国民の利害のバランスをつくり出す政治哲学の創造であって、それを欠いた「経済成長こそ、社会保障充実、格差縮小への基本」といったスローガンのみでは小泉改革のように「経済成長」はあったが、逆に「社会保障充実、格差縮小」を否定要素とした結末を招かない保証はないということである。

 企業の利害と国民の利害の異なりは小泉改革を引き継いで現在でも、輸出関連の企業を中心に中国やその他のアジアの新興国向けの外需の伸びで企業業績が増益へと向かって景気が少しずつ回復しているが、依然として個人消費は伸び悩んでいる状況に現れている。

 あるいは景気回復に向かっている企業の動向に反して将来の生活に依然として不安を抱えている国民の姿に現れている。

 そもそもからして舛添は自民党執行部を過激に批判、悪者にすることで国民の自民党批判とマッチして自身の人気を上げてきたに過ぎない。政治哲学豊富な政策の提言で名を馳せたわけではない。

 だが、その過激な自民党悪者視が国民の自民党批判を煽って昨年の総選挙での自民議席減に手を貸した面があることに気づいていない。自身が参議院に籍を置いていることも総選挙期間中も気楽に自民党を批判、悪者視できたといったこともあるだろう。

 野党に転落した現在も自民党執行部を過激に批判、悪者視することをやめようとしない。

 《審議拒否で執行部批判=舛添氏》時事ドットコム/2010/02/22-21:29)

 自民党が党が衆議院で2010年度予算案の審議を欠席したことについて――

 「基本的にはやっぱり審議の場で相手を追及することが必要だ。政治とカネについて、もっと前の(攻撃の)タイミングがあった。戦略の組み立てが戦を戦っている執行部とは思えない」

 執行部が夏の参院選比例代表候補に前衆院議員を公認したことについて――

 「衆院の小選挙区で10万票取った人は、10分の1の票が出れば御の字だ。それぐらいに全国区は厳しい。人材発掘をもっとやるべきだ」――

 話し合いの中で進言するのではなく、声高に批判することで自身の人気を高めることはあっても、その批判が自民党執行部悪者視のため、民主党鳩山政権が「政治とカネ」の問題で支持率を下げているにも関わらず自民党自身の政党支持率が低迷している状況に却って打撃を与え、支持率が一向に上がらない悪循環を招いている。

 このことは舛添と自民党の人気が逆比例していること自体が証明している。

 上記「毎日jp」記事は舛添の新党結成の可能性について、「(自民党)内部で喧嘩しながらやっていくつもりだ」と否定したとしているが、自民党の悪口を言うことで自己を善なる存在に見せかける、そういった反作用を利用して自己を成り立たせている関係上、自民党そのものを常に必要存在としているのだから、状況が余程変わらなければ、自民党を出て新党を立ち上げるといったことはないに違いない。

 両者の関係を譬えるなら、美人が自分を目立たさせるために不美人をそばに置くような関係であろう。

 離党したなら、野党同士の批判合戦、お互いが食い合う関係となるから、野党である自民党批判は効果を失う。与党民主党批判に転ずることになるだろうが、会合に出席した30人が30人とも共同行動を取るとは限らないから、新党という少数集団の立場で民主党を参議院選挙で議席減に追い込んだとしても、自分が出た自民党が相対的に議席を伸ばした場合、そことの協力は出たことの国民の理解を失うし、少数集団の中にいたのでは首相のチャンスはなかなか訪れない。

 舛添に哲学があるとしたら、既に触れたように身近な他者の悪口を言い募って、自身を善なる存在に見せかけることぐらいが見るべき哲学といったところだろう。

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