仙谷官房長官の昨21日の記者会見。《議員歳費の大幅カット法案 仙谷官房長官は否定的》(asahi.com/2010年7月21日21時26分)
仙谷官房長官がみんなの党が用意している議員歳費3割減、ボーナス5割減などを柱とする法案に否定的な見解を示したという。
仙谷「『引き下げデモクラシー』みたいなことが(歳費削減の)論争の中にあるとすれば、気をつけて議論をお願いしたい。みんなが低い方に合わせるように足を引っ張り合うことがいいのかどうか」――
「引き下げデモクラシー」とはインターネットで調べてみると、恵まれている待遇・境遇を恵まれていない待遇・境遇の水準にまで引き下げさせて平等を謳うデモクラシーらしいが、時代によって引き下げる対象が富裕層の待遇・境遇であったり、国会議員、高級官僚といったエリートの待遇・境遇だったりするということである。
記事は仙谷の言わんとしていることを、〈民主党は議員歳費や定数の削減をはじめとする政治改革を参院選マニフェストの柱に据えたが、歳費については大幅な削減にまでは踏み込まない考え 〉を示したものだと解説している。
この発言の整合性についての記事の解説は、〈ただ、民主党はマニフェストに「政治家自らが身を削ることで国民の信頼を取り戻す」と明記。歳費の日割り化や国会の委員長手当などの見直しで、「国会議員の経費を2割削減する」とうたっている。菅直人首相も選挙戦で「議員自らが血を流す姿勢をきちんと示す」などと強調しており、仙谷氏の発言はこうした党や首相の方針との整合性を問われそうだ。〉となっている。
仙谷官房長官の発言には別の整合性の問題が生じる。例え注意の促しであったとしても、「引き下げデモクラシー」と言っていることの整合性、あるいは、「みんなが低い方に合わせるように足を引っ張り合うことがいいのかどうか」と言っていることの整合性である。
その前に発言箇所に関わる民主党のマニフェストを見てみる。
〈参議院の定数を40程度削減します。衆議院は比例定数を80削減します。国会議員の歳費を日割りにするとともに、国会の委員長手当などを見直すことで、国会議員の経費を2割削減します。〉と謳っている。
次にみんなの党の「アジェンダ」(選挙公約)
〈国会議員が自ら身を切る
1.国会議員の数を大幅削減し、給与をカットする
a.. 衆議院議員は300人(180減)、参議院議員は100人(142減)に。参議院には都道府県知事など地方を
代表する議席枠を創設。将来的には憲法改正時に衆参統合による一院制を実現。
b.. 国会議員給与を3割、ボーナスを5割カットを即時実施。
2.議員特権を廃止する
a.. 無料パス(JR、民営鉄道、バス)、無料航空券を廃止。
b.. 衆参議員宿舎を売却。
c.. 議員年金を完全廃止(現行は在職10年超の議員には選択制で年金を存続)。〉――
それぞれの党の削減値は、まあ、大体この程度は削減できるだろうといった大まかな予想、あるいは、他の党よりも削減幅を大きくしなければ国民の支持を得られないといった自己利益の思惑で決定した数値ではあるまい。これだけ削減しても十分に活動していけると確かな根拠に基づいて妥当な線として弾き出した削減値であるはずであり、そうでなければならない。
いわばすべての削減値はそれぞれに確かな根拠を具有している。あるいは具有していなければならない。大体が確かな根拠に基づかないまま妥当な内容だとする政策、法案など自己矛盾そのもので、存在しようがないし、存在してはならないはずだ。
それとも日本の国会議員というのは根拠を持たないまま「引き下げデモクラシー」を競って、「みんなが低い方に合わせるように足を引っ張り合う」程度の低い人種だということなのだろうか。仙谷は自分だけはそういった程度の低い人種ではないと思っているのかもしれない。
すべての政策、法案がそれぞれの党なりの根拠に基づいて打ち出したものであり、そうでなければならない以上、それを以て「引き下げデモクラシー」と言うのは、正当な理由を持たない根拠の否定に当たる。当然、注意喚起は不必要なお節介となる。
また、「みんなが低い方に合わせるように足を引っ張り合うこと」は起こりようがない。もし起こったとしたら、自他の根拠の妥当性を論じないまま、自己の根拠を正当とし、他の根拠を否定することになるからだ。
各党それぞれの政策、法案には各党それぞれの根拠を具備している。問題はそれぞれの根拠の妥当性であろう。どの党のどの政策、法案が最も妥当な根拠に基づいているか、根拠に誤り・欠陥はないか、その適不適切の検証・議論が必要になる。
それぞれの根拠の妥当性を問う検証・議論を経ること自体が「引き下げデモクラシー」を無縁とし、当然、「みんなが低い方に合わせるように足を引っ張り合うこと」は起こりようがなくなる。
検証・議論の場で「引き下げデモクラシー」を許した場合、日本の国会議員は根拠の妥当性を問う検証・議論の技術を持つまでに成長していないことになる。成長しているのは仙谷のみとなる。
いずれにしても国会の場、あるいはテレビ討論等の場で政策、法案の根拠を問う検証・議論から始め、そのような検証・議論の中で根拠の妥当性を明らかにしていくプロセスを待てばいいことで、それを待たずに、「気をつけて議論をお願いしたい」は子どもでもない大の大人である国会議員に言うべき発言ではないはずだ。
《仙谷官房長官:議員歳費など「厚遇」批判に反論》(毎日jp/2010年7月21日 21時56分)では仙谷官房長官の発言は次のようになっている。
仙谷「みんなが低い方に合わせるように足を引っ張り合うようなことが果たしていいことなのか」
仙谷「『引き下げデモクラシー』みたいなことには気を付けて議論しようとお願いしたい」
仙谷「人間、カネだけでは動かないが、それなりの処遇、金銭的に評価されることは相対的には正しい。『この水準は高すぎるから、みんなが今の所得の中央値まで引き下がればいいんだ』みたいな議論は大問題ではないか」――
最後の発言だけが上記「asahi.com」記事には登場していない。記事は「引き下げデモクラシー」なる言葉は政治学者の故・丸山真男氏の言葉の引用だと解説している。
いくら「相対的には正し」くても、それを「正しい」とすることができる、国民が納得する根拠の提示が必要となる。「この水準は高すぎるから、みんなが今の所得の中央値まで引き下がればいいんだ」が妥当な根拠に基づいた合理的な判断であるなら、決して「大問題」ではない。
必要なのは根拠の洗い出しであるにも関わらず、仙谷は“根拠”の視点がないまま自身の議論を正しいとしている。頭でっかちに出来上がっているからではないだろうか。
各党とも、それぞれの根拠を持って戦っているのである。根拠と根拠の戦いである以上、根拠の妥当性を問う検証・議論を待つしかない。
菅首相の「議員自らが血を流す姿勢をきちんと示す」にしても、民主党マニフェストの「政治家自らが身を削る」にしても、消費税増税に対する代償行為と位置づけているからだろう。国民のみに犠牲を強いたのでは不公平感を拭えず、政治不信を高めるばかりである、政治家も何らかの犠牲を払って、国民の犠牲に応えなければならないと。
みんなの党のアジェンダ(選挙公約)も最初に、「増税の前にやるべきことがある!-まず国会議員や官僚が身を切るべきだ-」と謳って、消費税増税に対する代償行為と位置づけている。
どの党のどの政策、法案が代償案として明確な根拠に基づいて構築されているか、その妥当性を問う検証・議論を経た最もふさわしい政策、法案を国会が採用できなければ、いわば議員歳費の適切なカット、適切な定数削減が実行できなければ、消費税増税もやめるべきだろう。
実行できないまま消費税税増税を行った場合、国民にのみ一方的に犠牲を強いる政策となり、国会議員にも犠牲を求める代償策を実行しないままの不公平を残すからだ。