小田原市立中学校数学教師体罰と橋下市長体罰論に見る言葉の能力不在

2013-02-03 09:54:21 | Weblog

 前々から体罰は言葉の問題だと書いてきたが、数学教師の体罰に於ける言葉の能力不在の考察に入る前に二つの記事の紹介から入ることにする。

 一つは、昨日2013年2月2日、NHK朝の『週刊 ニュース深読み』で、「なぜ起きる? どう防ぐ? 学校での体罰」のコーナーを設けていて、そのHPに投書欄があるから、体罰は言葉の問題という観点から、「なぜ体罰は起きるのか」と題して投書した自身の記事。400字制限であるために2回に分けて投書したが、少し訂正し直して、体罰を言葉の問題としてどう把えているのかを知って貰うためにここに掲載してみる。

 二つ目は橋下市長が学校に於けるスポーツの場での体罰は厳禁だが、生活指導の場ではどうするのかと問題提起していて、その発言を伝えているマスコミ記事の紹介。発言自体が体罰を言葉の問題と把えていないために、どちらに正当性があるか、判断して貰うことにする。 

 「なぜ体罰は起きるのか」(「NHKニュイース深読み」HP投書/2013年2月2日 朝)

 少なくとも日本に於いては教師と児童・生徒を上下関係で律した暗記教育が原因。暗記教育は教師が教科書の知識・情報をほぼそのとおりに上下関係そのままに児童・生徒に伝え、児童・生徒は教師が伝える知識・情報を上下関係に従ってほぼそのとおりに受け取って暗記する構造の教育。

 そこには教師と児童・生徒、さらに児童・生徒同士がお互いに考えを言い合う、あるいは意見を述べ合う水平双方向のプロセスを存在させていない。もし存在させていた場合、考えを言い合う、あるいは意見を述べ合う点に於いて教師と児童・生徒と、さらに児童・生徒同士は対等な関係を築くことになる。

 存在させているのは精々教師が伝えた知識・情報の中から伝えた通りの答を求めるぐらいで、当然、教師が伝えた知識・情報に従うことに他ならないから、上下関係に縛られた知識・情報の交換ということになる。

 職業上の(あるいは立場上の)上下関係にあっても、そこに考えを言い合う、あるいは意見を述べ合うという水平双方向の対等な関係が存在しなければ、職業上の(あるいは立場上の)上下関係にある下の者が上の者に対して自分の考えや意見をぶつける機会にも訓練にも恵まれないこととなって、そういった意思疎通の技術が身につかず、慣習化しないことになる。

 いわば言葉の訓練が教師にしても児童・生徒にしてもできない。

 上の者にしても、単に自分の知識・情報(=自分の考え・意見)を下の者に伝える技術しか身についていず、下の者の意見や考えを聞く訓練をしていないことになって、そういった意思疎通が慣習化していて、自身の意思が通じない場合、相手の言葉を求める慣習がないから、先に手が出たり、足が出たりすることになる。

 最初から教師や部活顧問の言うことをただ単に聞いて、それに言いなりに従うのではなく、児童・生徒にしても部員にしても自分の考えや意見を述べる対等な水平双方向の意思疎通の関係を築いていたなら、人間関係に於いても信頼関係に於いてもより発展的な関係ヘと進むことができ、体罰自体が必要なくなる。

 教師は授業に於いて教師が伝えた知識・情報の答を求めるのではなく、議論すること(=意見・考えを述べること)を求めなければならない。議論が児童・生徒と教師の間だけではなく、児童・生徒同士の間に交わされる習慣が当たり前となって、いわば自由な意見交換・自由な思考交換を日常的に可能とさせたとき、築き上げた上下関係の上の立場を利用して誰かをイジメたとしても、下の立場に立たされてイジメを受けた児童・生徒にしても、相手に対してイジメを拒絶する、あるいは間違っていると指摘できる自身の意見や考えを述べる勇気を持ち得るはずである。

 《【桜宮高2自殺】生活指導「体罰認めるか、出席停止を」 橋下氏が発言》MSN産経/2013.1.31 23:37)

 1月31日定例会見――
 
 橋下徹大阪市長(生活指導の現場での体罰について)「ある程度の有形力の行使を認めるか、それとも一切禁止の代わりに生徒を出席停止とするのか、どちらかの大きな方向性に行かないといけない。

 (生活指導での体罰の必要性について)何が許されて何がだめなのかは、正直、僕も分からない。(桜宮高体罰問題発覚以降)小中学校の生徒が調子に乗って(何かあったら)『体罰だ』『体罰だ』と言っており、クラス運営で先生が相当悩んでいる。

 (体罰を一切認めない場合は)出席停止やクラスから放り出すような措置をやったらいいじゃないか」

 記事解説。〈橋下市長はスポーツ指導での体罰は絶対禁止とする一方、全市立学校の調査を行い実態解明が終わるまでは生活指導での体罰について判断を保留しているが、具体的な方策を例示したのは初めて。〉

 「小中学校の生徒が調子に乗って(何かあったら)『体罰だ』『体罰だ』と言って」いるという意味は、教師が体罰を行ったために「体罰だ」、「体罰だ」と騒いだということではなく、クラスの誰かが答を間違えたりのちょっとした失敗をすると、懲らしめに体罰を加えて言うことを聞かせろ、体罰に相当するという意味合いで、児童・生徒が「体罰だ、体罰だ」と騒いでしょうがないということなのだろう。

 橋下市長自身は「何が許されて何がだめなのかは、正直、僕も分からない」とは言っているものの、体罰指導を一つの条件としている以上、生活指導の現場に限っては明らかに体罰容認の衝動を抱えている。

 生活指導の場で体罰容認の姿勢でいるなら、なぜスポーツの現場での体罰は厳禁なのか、矛盾することになる。

 要はスポーツの現場で体罰を受けて一人の生徒が自殺していることから、体罰容認とは言えないというだけのことではないかと疑うことができる。かつては体罰を容認していたのである。

 ホンネはどうであっても、橋下市長はスポーツの現場での体罰にしても、生活指導の現場での体罰にしても、言葉の問題とは把握していない。

 では、小田原市立中学校数学教師の体罰の経緯を見てみる。

 2月1日、50代数学教師の6時限目の授業で、16人の2年生男子生徒が授業開始に遅れた。その理由を質したところ、一部の生徒が「バカ、死ね、ハゲ」と罵った。数学教師は誰が言ったのか、名乗り出るように求めたが、誰も名乗り出なかったので、16人の男子生徒を廊下に正座させ、再度、誰が言ったのか名乗り出るように求めたが、やはり名乗り出なかったために全員の頬を1回ずつ平手で叩いた。

 授業終了後、50代数学教師が校長に報告。1月2日朝、校長や教師本人、その他が生徒と保護者に謝罪。

 橋下徹は大阪府知事時代の2008年10月、「言っても聞かない子には手が出ても仕方がない。どこまで認めるかは地域や家庭とのコンセンサス(合意)次第だ」と発言していたことからすると、数学教師の体罰は橋下徹の容認の範囲内の基準とすることができるかもしれない。

 先ず、「NHK NEWS WEB」記事から発言をみてみる。

 数学教師「自分の発言には責任を持つようにと指導したかった。体罰が問題になっているにも関わらず申し訳ない」――

 だが、自分の発言に責任を持たせることができなかった。いわば言葉で説得することができなかった。

 これは明らかに言葉の能力の問題、その不在を意味するはずだ。

 「毎日jp」記事。

 数学教師「許せなかった。正々堂々と名乗って欲しかった」

 生徒の正々堂々と名乗らない資質という問題もあるが、50歳を超えるまでに人生経験、社会経験を積んだ数学教師の名乗らせるだけの言葉の力を持たなかったという言葉の能力不在も問題としなければならないはずだ。

 「asahi.com」記事――

 過去、「ハゲ」とバカにされたときの対応。 
 
 数学教師「差別はいけない。言ったことの責任を持たなければならない」

 だが、この言葉にしても説得力を持たせることができなかった。言っただけで終わった。

 「バカ、死ね、ハゲ」とバカにしたのは、あるいは罵ったのは、16人の生徒のうちの誰かである。16人全員を自席に座らせて、数学の授業を中止、先ず、誰が言ったのか名乗り出るように求める。誰も名乗り出なかったなら、クラス全員を相手に、「ハゲは悪いことのか」、あるいは「ハゲのどこが悪いのか」と生徒全員に尋ねる。16人に気兼ねして、誰も答えようとしないに違いない。

 生徒一人一人を順番に名指しして、「ハゲは悪いことのか、ハゲのどこが悪いのか」と尋ねて、答を求める。「分かりません」と逃げる生徒が出たなら、次のような言葉の応酬を用いる。

 数学教師「中学2年生になっても、そのぐらいの判断もできないのか。中学生2年生という年齢歳相応の判断能力も持てないでは、成長していないということで、ハゲよりも悪いではないか」

 さらに次のような質問を試みる。

 数学教師「ハゲであるかどうかで、人間が判断できるのか。身体の特徴がその人間の能力を決めるのか。全然目が見えなくても、機会を与えることによって、世界的に有名なピアニストになることができた人間は全盲であることがピアノの才能を決めたわけであるまい」

 誰も答えなかったなら、やはり一人一人を名指しして、順番に答えさせる。暗記教育で言葉の訓練ができていないから、答えようと試みたとしても、満足には答えることができないかもしれないが、教師の側が議論を求めることによって、それが度重なると、例え生徒が答えなくても、教師の議論を求める言葉が刺激となって、少なくとも徐々に言葉自体を頭に記憶していくことになり、記憶に対応して頭の中でその答を見出そうと努力するようになる。

 あるいは生徒を強制的に2班に分けて、1班を「ハゲは軽蔑の理由になる」と、身体の特徴で人間は判断できると肯定する生徒の集まりとし、もう1班を、「ハゲは軽蔑の理由にはならない」と、身体の特徴で人間は判斷できないと否定する生徒の集まりとして、班同士でディベートするのも、人間に対する価値判断はどうあるべきかの言葉の能力獲得のキッカケとなるはずである。

 ご存知のように肯定・否定の班に分かれたディベートは肯定派は常に肯定の言葉をつくり出し、否定派は常に否定の言葉をつくり出して、言葉を闘わせ、どちらが説得力があったかで勝敗が決まるが、その過程で言葉の能力の獲得に併せて正しい価値感を学んでいくはずである。

 16人の生徒のうち、誰かが「バカ、死ね、ハゲ」と罵ったのに対して名乗り出るように求めたが、名乗り出なかったために「自分の発言には責任を持つようにと指導したかった」から叩いたと理由を言っているが、叩く前に、「自分の発言には責任を持てないのか、持てないまま発言したのか」と問うことができなかったことも、数学教師の言葉の能力不在を物語っている。

 数学教師「名乗り出る勇気もなく、バカにしたのか。名乗り出るだけの勇気がなかったことを後々後悔することがある。今度先生をバカにするのは、名乗り出るぐらいの勇気と覚悟を持ってからにして貰いたい。名乗り出ることを前提としてバカにして貰いたい」

 数学教師「君たちのうちの誰かが、『死ね、バカ』と言われたら、どう思う。『死ね』と言うのは相手の全存在を否定することではないのか。生きている価値はないという意味となるからだ。生きている価値のない人間はこの世に存在するのか。何かしら生きている意味を持ち、生きている価値を持っているものではないのか。よく考えて貰いたい」

 但しこの言葉を発するには数学教師として、少なくとも教えている過半数以上の生徒から数学教師として役に立っているという支持を得ることが必要となる。生徒は数学を教える能力という一面でのみ、教師の価値判断をしがちだからである。

 以上の発言は頭の中で考え捻り出したものだが、最初にバカにされたとき、今度はどう対処しようか、理論武装しなければならないはずだ。

 理論武装することによって、教師自身も言葉の能力を獲得していく。勿論、ただ単に生徒を打ち負かす言葉の能力であってはならないのは断るまでもないことである。生徒にも言葉の能力を植え付け、その成長を促す言葉の獲得でなければならない。

 私自身には無理だが、生徒相手に学校の教師をしている宿命上、当然の務めとしなければならないはずだ。だが、言葉を獲得するに至っていなかった。言葉の能力不在そのものを示したに過ぎなかった。

 言葉の能力の介在という認識なしに体罰の必要性・不必要性、さらにはイジメる生徒に対する有効な戒めを語ることができるのだろうか。

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