安倍晋三「体罰は日本の伝統ではない」は合理的判断能力ゼロの真っ赤なウソ

2013-02-23 09:56:41 | Weblog

 今日3月23日深夜のあさひテレビ「朝まで生テレビ」で体罰問題を扱っていたから、何年ぶりかで途中から視聴した。なかなか面白い指摘があり、また基本的な誤解を犯していると思われる個所もあった。録画しておいたから、そのうちボチボチ取り上げてみようと思っている。

 10年前だったら、1日ぐらいかけて、放送の最初から最後まで一気に文字に起こしたが、10年経った72歳の今日、そんな元気はない。取り敢えず今日は予定していた安倍晋三の体罰の認識を記事にしてみる。一国の首相の体罰認識は重要であるが、このことは最後にまわす。

 2013年2月18日の参議院予算委員会で小野次郎みんなの党議員が体罰について安倍首相に質問した。 

 参議院予算委員会(2013年2月18日)

 小野次郎「みんなの党の小野次郎です。安倍総理を、6年ぶりに総理としてお迎えをして質問することについて個人的には思いもありますけども、今日は安倍政権の隅々、コーナーを突いて、その存念をお伺いしたいと思いますので、ここからが純粋野党の質問時間ですから、是非、心してテキパキとお答えしていただければと思います。

 先ず、あの、学校やスポーツの現場での体罰の問題について質問させて頂きます。私は二つの面からショックを受けました。それは最初報道されたものが氷山の一角に過ぎなくて、次々といろんな社会の隅々にまだ体罰があるということが一つ目のショック。

 そして二つ目には、私はこれは抵抗できない立場の人間に対するパワハラであり、見せしめ、で有り、陰湿なイジメだと思ってますけれども、世の中には、この体罰を何か受容するかのようなコメントをする風土がある。これまた2つ目の大きなショックでありました。

 未だに体罰が根性を鍛えるとか、日本の伝統だ、という観念は現在の国際社会で全く受け入れられるものではないし、日本社会から払拭しなければならないもんだと思います。

 (下村文科相が席に座ったまま手を挙げる)下村大臣には適切にコメントしているのをテレビで見ておりますので、実は私の親族はかつて博文館に通っていられて、教育者としての大臣のコメントを敬意を持って聞いておりますが、今日は是非総理から、と言うのは、社会の隅々にそういうものが残っておりますから、是非、体罰が日本の伝統とか文化とか無縁のものであり、絶対許されないとのだということを国民各位に改めて伝えていただきたいと思います

 ※下村氏は早稲田大学教育学部に入学後、早稲田大学雄弁会に所属し、4年生の時、友人らと共に小学生対象の学習塾「博文館」を開設。「Wikipedia」

 小野次郎議員の親族が博文館という学習塾に生徒として通っていて、そこで学習塾の先生をしていた下村博文の教えを受けていたということなのだろう。


 安倍首相「只今小野議員の質問を拝聴しておりました。かつて小泉内閣の一員として私が副長官として、小野議員が総理秘書官、として一緒に汗を流させて頂いた日々のことを思い出していた、わけでありますが、この体罰、については、学校やスポーツ指導に於ける体罰は、断ち切らなければならない悪弊であると、そのことははっきりと申し上げておかなければならないと思います。

 そして学校に於ける体罰については、教室内や部活動など、様々な場面に於いて、何が体罰として許されない行為か、についてはですね、認識されていないのは、事実で、あります。

 えー、最初体罰というのは悪弊でありますから、断ち切っていく。今、小野議員が指摘されたように、それはもう日本の伝統なんだ、という考え方はですね、それは間違いであります。

 このため、政府として体罰の考え方なり、具体的に示すことなどを通じて学校現場の過度な萎縮を招かないことにも配慮しながら、体罰禁止の趣旨の徹底を図っていきたいと、このように考えております」

 小野次郎「総理がまた過度な萎縮など言い出すからですね、萎縮しないような遣り方があるのかみたいなに思うんで、スパっと体罰はいけないんですよと一言言って頂いた方がよく分かるかと思うのですが、それ以上のコメントないですか」

 安倍首相「基本的には体罰はダメなんですね。これは。しかし、それは、その中に於いてですね、政治の意思の政策の方向性がですね、え、結果として混乱を招くこともあるのも事実、であって、教室での指導、えー、いわば教室の中でですね、クラスの一体性、あるいは授業を進める上に於いて、著しく進行を、まあ、乱す、児童がいたときの指導については様々な考えがあるんだろうと思いますよ。

 また、あの部活動に於いて、部活動に於いて、例えば時間に遅れてきたから、部活動に於いてですね、じゃグラウンドを二周三周というのは、まあ、よくある、え、ことで(苦笑いしながら)ございますが、これをどう考えるかということについてはやっぱり様々な知見を集めていく、必要があるんだろうと、え、このように思います。

 ですから、学校が混乱しないように正確な基準を示していくことが我々には求められているんだろうと思います。

 繰り返しになりますが、基本的には勿論、この体罰、は、悪弊であり、これを断ち切っていく。え、断ち切っていく。混乱のないように断ち切っていく必要があるんだろうと、このように思っております」

 小野次郎「今日はこの程度にして、次の質問に移らせて頂きたいと思います」 

 小野議員は、「体罰が日本の伝統とか文化とか無縁のもの」と言い、安倍首相も日本の伝統・文化ではないと否定している。

 但し体罰に関して小野次郎議員のように絶対反対ではなく、「クラスの一体性、あるいは授業を進める上に於いて、著しく進行を、まあ、乱す、児童がいたときの指導については様々な考えがあるんだろうと思いますよ」と言って、時と場合に応じた一定程度の身体的強制力を持たせた体罰の部分容認の姿勢を取っている。

 この姿勢は橋下大阪市長の姿勢に通じる。

 1月31日(2013年)定例会見――
 
 橋下徹大阪市長(生活指導の現場での体罰について)「ある程度の有形力の行使を認めるか、それとも一切禁止の代わりに生徒を出席停止とするのか、どちらかの大きな方向性に行かないといけない」

 二つの選択肢を示しているが、「ある程度の有形力の行使」を選択肢に入れている以上、体罰部分容認の衝動を持っていることに変りはない。
 
 但し、部分容認の例として部活に遅れてきたからグランドを何周かさせる懲罰を上げて、肯定的な体罰とするところは相変わらず合理的認識能力を欠く判断となっている。

 この場合の遅刻は通勤電車が急に停まったといった本人の不注意や怠惰からではない遅刻は除外する。

 一般的には二、三周程度なら体罰にならないだろうが、逆に二、三周程度のグラウンド走行で遅刻の責任を果たすことができることになって、そのことがその部活に於ける遅刻に対する責任履行の基準となりかねない。

 あるいは遅刻が続けば、二、三周が三、四周になるかもしれないが、例えそうなっても、続けて遅刻する方は続けた場合の基準だと本人も心得ることになるだろう。

 いわばグランド走行を遅刻した場合の責任履行の基準としたなら、遅刻に関わる責任感の判断はグランド走行に向かって、部員それぞれが求められている部活動に必要な秩序に関わる責任感に対する肝心の判断が育たない恐れが生じる。

 例えば日曜日の早朝から行われる部活で、なかなか布団から出ることができない、ええい、もう少し寝よう、遅刻してもグランドを二、三周すればいい、先週も遅れたから、三、四周になるかもしれないが、それで済むとすることになって、他の部員に迷惑を与えることの責任や自身が部活動で担っている責任は疎かになり、そのような疎かさは当然、責任を判断する力の疎かさにつながっていき、自分で責任を判断して行動することがいつまでもできないことになる。

 責任感を自分で判断できない人間は部活動に於いても教師の指示に従う動きはできるだろうが、教師の指示によって馴らされていたのとは異なる、咄嗟に臨機応変の動きを求められた場合、自分で判断する力が育っていないから、臨機応変に応じたプレーは満足にできないことになるだろう。

 プレーに失敗した場合、部活顧問は遅刻のときはグラウンド二、三周の走行で済ませていたが、カッとなって殴るか罵声を浴びさせる体罰に走る確率は高い。

 なぜなら、部活顧問は部員の遅刻でさえ、その責任を部員自身に判断させるだけの自らの判断能力を備えていなかったのである。あるいは部員自身に判断させる習慣をつけさせる判断能力を発揮し得なかったのである。

 判断の構築は深く言葉の構築にかかっている以上、部活顧問は部員に責任感を植えつける言葉を満足に持たなかったことになり、この言葉の不在に対応して部員も自らの果たすべき責任に関わる言葉を育て得なかった。

 当然、部活顧問が言葉を持たない以上、その場でプレーの失敗に対する懲罰を与えようとしたら、何らかの体罰以外にないはずだ。

 安倍晋三は部活顧問や部員の判断する力・考える力、あるいは言葉の能力を問題視せずに、「学校やスポーツ指導に於ける体罰は、断ち切らなければならない悪弊である」などと言っているのだから、表面的に把えただけの「悪弊」としか思えない。

 小野議員は、「体罰が日本の伝統とか文化とか無縁のもの」と言い、判断能力ゼロの安倍晋三は「それはもう日本の伝統なんだ、という考え方はですね、それは間違いであります」と断言しているが、私自身は体罰は日本の歴史であり・伝統であり・文化だと固く信じている。

 封建時代の詰め腹を切らせる形の切腹は究極の体罰であるはずだ。家来に切腹させて、殿様の体面やお家の体面を守った。

 あるいは取調べの役人が犯罪容疑者に対して膝の上に重たい石を乗せて苦痛を与えたり、竹刀や木刀で叩いたり、寒い冬に水攻めの苦痛を与えたりする拷問も体罰に入るはずだ。

 戦前、親は自分の子どもを簡単に殴った。殴って言うことを聞かせた。教師は児童・生徒を簡単に殴った。殴って言うことを聞かせた。軍隊では古参兵が新兵を根性を入れると言って簡単に殴った。新兵が古参兵になると、次なる新兵に対して、同じく根性を入れると称して簡単に殴った。

 警察も取調べで自白させるために容疑者を簡単に殴った。冤罪など、ゴロゴロと転がっていたはずだ。

 戦後、大日本帝国軍隊は消滅したが、親が子どもを殴る体罰、教師が生徒を殴る体罰、警察が取り調べで容疑者を殴る体罰は戦後も続き、現在も問題となっている。

 取調べの可視化が問題になるのは単に威し言葉で供述を強要したりするだけではなく、何らかの暴力行為が未だ存在することも理由となっているはずだ。

 以上を以て体罰が日本の歴史・伝統・文化ではないと誰が言うことができるだろうか。

 いわば体罰という行動性は日本人の精神や血に深く巣食っていたのであり、現在の民主主義の人権尊重の時代に於いて、少なからず巣食っていることになる。

 このことは、かねてから言っているように日本人自身の行動様式・思考様式としている日本的な権威主義に拠る。

 勿論、外国にも権威主義者が存在する。その典型例として白人至上主義団体のクー・クラックス・クラン(KKK)を挙げることにしている。

 白人を絶対的存在、絶対的正義の存在とし、有色人種を蔑視すべき価値なき存在として下に見る人種観に立っている。人種単位で上下の価値観で価値づけているから、人種から離れてそれぞれを相互に自立した個の存在と見做すことができない。当然、自分たちも個の人間として自立した存在とはなっていないことになる。

 日本の場合は上の立場の人間を絶対とし、その絶対性を以って下の人間を従わせる権威主義性を戦前程色濃くはないにしても、戦後もかなり残している。

 戦後の権威主義と区別して、戦前の権威主義を威嚇権威主義と名付けている。天皇の絶対性、軍人の絶対性、警察官の絶対性、父親の絶対性は威嚇性を体現していたはずだ。怖いから従った。

 戦前の教師の権威主義も同じように威嚇性を備えていて、児童・生徒は面白くない授業でも体罰が怖いからじっと我慢をして教室におとなしく座っていた。

 当然、日本人は時代を遡るに連れ、上に従う存在となっていて、自立した存在ではなく、戦後から現在に至るに連れて個人でいるときは自立した存在になり得ても、対人関係に於いて上下関係を未だに引きずり、必ずしも個人として自立した存在とはなり切れていない。

 だから、学校で体罰やいじめが起きても、校長が隠す態度を取ると、上に引きずられて止む無く隠蔽に協力するといったことが起きる。

 自立するためには上の立場の人間の判断、その言葉、あるいは力ある者の判断、その言葉にただ従うのではなく、個としての判断、個としての言葉を持って、どちらが正当かの決定を行わなければならない。

 最初に体罰問題を取り上げたあさひテレビの「朝まで生テレビ」に触れたが、番組冒頭で安倍首相が1月24日の「教育再生実行会議」初会合で次のように発言している場面を流していた。

 安倍晋三「教育は経済再生と並んで日本国の最重要課題であります」

 一国の首相が体罰は日本の伝統ではないとする立場を取った場合、「教育再生実行会議」委員、あるいは委員ではなくても会議外の他の誰かが日本の伝統だとする立場を取ったとしても、首相に遠慮して、体罰は日本の伝統ではないとする認識で一致させ、そこから問題解決に進む可能性も否定できない。

 当然、認識の見当違いは問題解決の方向性を違えたり、あるいは表面的な解決で終らせかねないことになる。

 一国の首相の体罰認識が正確であることの重要性がここにある。

 だが、安倍晋三は元々が合理的判断能力ゼロなのだから、認識の正確性を期待しても始まらないのかもしれない。

コメント (4)
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