香川県綾川町立中学1年パキスタン国籍男子生徒(13)がイジメられ、足をかけられて転倒、左足に重傷を負ったという。
《中1パキスタン人男子生徒「いじめで大けが」 香川県警に告訴》(MSN産経/2013.2.18 21:02)
昨年、2012年3月に母親らと来日。日本語が理解できず、4月の入学直後から同級生の男子生徒3人(他の記事では4人)に日本語や英語で「国へ帰れ」などの暴言を受け、5月には足を蹴られるなどの暴行を受けた。
11月に廊下を小走りで移動していたところ、別のクラスの男子生徒に足をかけられて転倒、左足などに重傷を負う。
父親が何度も学校に相談したが、改善されなかった。
そこで男子生徒両親が2月18日、県警高松西署に傷害容疑で生徒1人を告訴。町教育委員会に対してイジメ調査と、関与したとされる複数の生徒への指導を求める申入書を提出。
父親「息子は『いじめが怖い』と話している。いじめが広がる前に解決してほしい」
昨年4月の入学直後からイジメが始まったということは学校はほぼ1年間、イジメを放置していたことになる。
この記事は触れていたないが、「asahi.com」によると、11月(28日)の生徒が廊下を走っていた時に足をかけられた故意行動は、〈生徒は顔から廊下に倒れ、ひざ付近を強く打ち、現在も松葉杖で通学している〉と書いている。
学校校長(記者会見)「子供たちのふざけ合いや偶発的な事故と把握していた。申入書を真摯に受け止め対応したい」――
要するに調査の末、イジメではない、「ふざけ合いや偶発的な事故」だと判断していた。
だが、イジメが「ふざけ合いや偶発的な事故」を装うことは過去のイジメが教えているはずだ。イジメる側が装うこともあるし、イジメられる側に強制的に装わせることもある。
後者の場合、装わなかったときの報復を恐れて、粉飾に従う。
実際には一方的に技をかけるプロレスを使ったイジメであったにも関わらず、プロレスごっこだと装う。あるいは殴られて顔に傷を拵えられながら、自転車が転んで怪我をしたと偶発的な事故を装う。
学校は過去のイジメから学習して、そこまで調査したのだろうか。
大津市立中学2年男子生徒(当時13歳)が同級生からのイジメに耐えかねて2011年10月1日に自殺した事件をマスコミが取り上げて問題としたのは自殺から9カ月後の2012年7月に入ってからであった。
その後大津市教育委員会が滋賀県教育委員会に最初に提出の「自殺に関する報告書」が滋賀県教育委員会から「不十分」と再提出を要求され、2012年7月20日にメールで再提出している。
「事件等の経緯」
「アンケート調査等により、3人の生徒から当該生徒に対していじめがあったことが発覚した」
「当該児童生徒に関すること」
「プロレスごっこなどでふざけあっている場面が何度か見られた。ふざけ過ぎる場面では担任が注意したり、当該生徒に声をかけたりすることが数回あった。その際はいずれも『大丈夫』等の返答であった」(以上毎日jp)
イジメが疑われていた自殺事案であるにも関わらず、以上の記述しかなかったというその責任感は素晴らしい。
以後、学校、市教育委員会共に自分たちに都合の悪い数々の情報を隠蔽していたことが判明することとなったが、イジメをイジメと見ずに、「プロレスごっこなどでふざけあっている場面」と見て、過去のイジメを何ら学習していない姿を曝している。
小学校6年生の頃からイジメが少し始まり、中1となってからエスカレートしていき、中2になってさらにエスカレートして、中2の1994年11月27日深夜自殺した大河内清輝くんは自殺の1カ月前の1994年10月22日、担任が清輝君とその仲間がプロレスごっこをしているのを目撃し、過激だったのでやめさせたとしているが、それまでもイジメと疑わせるサインを把握していたことと併せて、プロレスごっこがふざけ合いを超えて過激であった状況からイジメだと直感するだけの判断能力を持ち合わせていなかった。
あるいはイジメだと疑いながら、面倒や責任を恐れて、イジメという事実から目を背けたのかもしれない。
より詳しく経緯を見るために中1パキスタン人男子生徒記事をもう一つ見てみる。《傷害容疑:「いじめで重傷」告訴…パキスタン籍の中1両親》(毎日jp/2013年02月19日 01時29分)
〈昨年4月の入学直後から同級生4人に肌の色の違いを言われ「汚い」「国へ帰れ」など人種差別的な発言〉を受けた。
父親「担任や教頭に何度も改善を訴えたがかなわなかった」
綾川町教育委員会「いじめはなかった」――
イジメはイジメる側とイジメられる側の一方的な上下の支配関係の固定化があって初めて生じる。誰もが認める両者間に横たわる関係構造であるはずだ。
支配・被支配の関係を持たない対等な力関係からはイジメは生じない。
自民党の「いじめ防止対策基本法案」(仮称)の骨子案は「いじめ」を「学校に在籍する児童や生徒に対して一定の人的関係にある者が行う心理的、物理的な攻撃で、児童らが心身の苦痛を感じているもの」と定義している。
「心身の苦痛」を与え、与えられる関係であることは言うまでもないことだが、「一定の人的関係」といった漠然とした抽象的な関係構造と把えるの生ぬるい。
イジメは一方の人間がもう一方の人間を支配する人間支配の関係と見なければならないはずだ。それぞれに自由であるべき喜怒哀楽の感情から自由であるべき精神や行動まで支配し、抑圧する。
イジメを受けている本人にとって心身すべてに亘る支配と抑圧が臨界点を迎えたと感じたとき、その支配と抑圧を自殺によって解放する。
最低限、イジメはイジメる側とイジメられる側の一方的な上下の支配関係の固定化があって初めて生じるという関係構造を取るということを把握できるだけの認識能力を備えていたなら、あるいは支配・被支配の関係を持たない対等な力関係からはイジメは生じないと解釈できる判断能力を備えていたなら、このような関係構造を「ふざけ合い」を行なっている両者関係に当てはめれて見れば、その「ふざけ合い」がイジメかどうか判断できたはずである。
そのふざけ合いがプロレスごっこであっても、ドッジボールであっても、あるいは鞄持ちであっても、常に勝者と敗者が決まっている一方的且つ固定的な力関係となっていた場合、そのふざけ合いは固定的な一人を標的とした攻撃(大勢が二人とか三人を対象とする場合もあるが)以外の何ものでもなく、真のふざけ合いとは言えない。
なぜなら、勝者となったり敗者となったり、勝者・敗者がその時々で入れ替わる一方的且つ固定的な力関係を免れていたとき、初めてふざけ合いと言うことができるからだ。
校長が「ふざけ合いや偶発的な事故」だとするなら、あるいは綾川町教育委員会が「いじめはなかった」とするなら、パキスタン人の中1男子生徒と彼をイジメたとしている4人の生徒との間の何らかのふざけ行為が、お互いにふざけたり、ふざけられたりの対等な関係にあったか、証明しなければならないはずだ。
もしそういう関係にあったなら、昨年11月28日の廊下を走っていた男子生徒に同級生が足をかけ、松葉杖をつく程の怪我を負わせた出来事も、ふざけるつもりで足をかけたが、行き過ぎてしまった「偶発的な事故」だとすることができる。
但し、実際にふざけたりふざけられたりの対等な関係の中で生じた「偶発的な事故」であるなら、パキスタン人両親は生徒一人を傷害容疑で告訴することはないはずだし、父親が何度も学校に相談することもなかったはずだ。
そこに一方がふざけ、もう一方がふざけられる一方的な人間関係の固定化があったからこそ、告訴という手段に出ざるを得なかったと見ざるを得ない。
実際にはふざけ合いではなかったとすると、松葉をつくことになった「偶発的な事故」にしても、例え廊下に転倒させて笑ってやろうとしたふざけであったとしても、一方的な人間関係の固定化を利用した、優位に立った立場からの一方的な行為となって、イジメではないと否定することはできなくなる。
父親が「息子は『いじめが怖い』と話している」と言っていることから判断しても、4人の生徒が怖い存在となっていて、精神的に支配されている状況を窺うことができる。
過去のいじめ事件から、そこに存在するパターンを学習するのも客観的判断能力が関係する。判断の構築は深く言葉の構築が必要なのは断るまでもない。
言葉が構築した判断の力によって、過去のイジメ事件からそのパターンを学習し得ていたなら、単に「子供たちのふざけ合いや偶発的な事故と把握していた」と説明するだけでは許されるはずはなく、あくまでも両者間の人間関係が固定化されていたか固定化されていなかったか、そこまで説明を踏み込まなければならないはずだが、人間関係抜きの説明であるところを見ると、過去のイジメ事件から何ら学習していない姿しか見えてこない。
学校教育者である以上、過去のイジメ事件に真摯に向き合わなければならないはずだし、向き合っていれば否応もなしにイジメのパターンを学ぶはずで、当然言葉によって構築したイジメに関わる判断能力は万が一自身が管理する学校にイジメが疑われる事例が発生したとしても、構築した言葉を駆使することで適切に対応できるはずだが、パターンも学習していない、イジメが疑われる事例にも適切に対応できていないのは、イジメが自分の学校に発生した場合の責任を恐れて、イジメそのものに逃げの姿勢でいるとしか見えない。
学習もしない、逃げの姿勢だと言うのでは、学校教育者としての意味を全く失う。
学校教育者としての意味を失った学校教育者が学校教育の現場に立ち、生徒と対峙している。恐ろしい逆説だ。