安倍晋三の靖国神社とアーリントン墓地を一緒くたにするトンチキ・粗雑な歴史認識、その頭の悪さ

2013-02-26 11:43:45 | Weblog

 本題に入る前に、昨日のブログで民主党が海江田万里を新代表に選出しても一向に政党支持率が改善しないばかりか、ジリ貧状態で、今夏の参院選の展望が開けない以上、離党した生きのいい植松恵美子女史に復党を願って、代表に据えるサプライズ人事を行ったなら、少しは展望が開けるのではないのかといったことを提案した。

 海江田代表は参院選に破れたら2月24日の党大会で辞任する意向の発言を行なっている。

 海江田代表「代表にしがみつく気は毛頭ない。刀折れ矢尽きたと思った時は潔く代表を辞める」(YOMIURI ONLINE

 だが、参院選で議席を減らしてからでは遅い。党勢回復はなお困難な状況に陥ることになるだろう。

 自身の代表としての力量が先行き展望の改善に役立っているのか、刻々の世論調査に於ける政党支持率、参院選比例投票先支持率を見れば、十分に参院選投票結果は読めるはずだ。

 それを読まずに、あるいは目を閉じて、結果を見ての進退としているところに判断の遅さがあるように思える。

 勿論、歴代トップの失態が影響している苦境であって、海江田代表一人に罪がなくても、現時点での代表である以上、力量を見極める責任をも負っているはずだ。

 自らの力量を見極めることができずに延々と権力の座にしがみついて不評を買った菅を見習うべきだろう。

 植松民主党代表提案のついでに生活の党の小沢代表が自らのカネに関わる国民の不信感を消滅させる起死回生の手を打つことができなければ、森ゆうこ議員に代表を譲ったらどうかと書いたが、起死回生の手とは生活の党がHPで提示している、「国民の生活を立て直す」とか、「原発ゼロで経済成長を実現する」、「安心・安全を実感できる社会を確立する」、「全員参加型社会を構築する」、「地域が主役の社会へ転換する」、「自立と共生の外交を展開する」といった抽象的、タテマエ的な誰もが言っているような題目ではなく、誰もが目に描くことができ、実現可能性を思わせるような具体性を持った国の形、社会の形を約束する個別ごとの政策の提示を指す。

 個別ごとの政策でありながら、政策ごとに有機的な総合性が働き、全体として豊かな国家形成の政策となる優れた個別性を抱えた政策の提示である。

 提示することによって、さすが小沢一郎だと国民を唸らせる以外に国民の不信感を消滅させる方法はないはずだ。

 では、本題に入る。

 2月7日(2013年)衆議院予算員会で前原民主党議員に、「二度目の総理になって靖国神社に参拝するつもりか」と質問され、次のように答弁している。

 安倍首相「私の基本的な考え方として、国のために命をささげた英霊に対して国のリーダーが尊崇の念を表する、これは当然のことだろうと思いますし、各国のリーダーが行っていることだろう、こう思っています。その中で、前回の第一次安倍内閣において参拝できなかったことは、私自身は痛恨のきわみだった、このように思っております。

 そして、今後、では、いつするのか、しないのかということについては、これは従来から申し上げているのでありますが、今の段階で行く、行かないということは差し控えたいと思います」――

 参拝時期の言及は差し控えたいとする発言は以後のブログ記事に譲ることにして、参拝正当化の理由の一つに、「各国のリーダーが行っていること」だとしていることをここでは取り上げる。

 安倍晋三の頭にある「各国のリーダーが行っている」参拝とは特にアメリカのアーリントン墓地に対するアメリカ大統領や重要閣僚の参拝なのは2006年7月20日初版の自著『美しい国へ』の74ページ、ケビン・ドーク米国ジョージタウン大学教授の言葉を借りた記述が証明している。

 ケビン・ドーク「米国のアーリントン国立墓地の一部には、奴隷制度を擁護した南軍将兵が埋葬されている。小泉首相の靖国参拝反対の理屈に従えば、米国大統領が国立墓地に参拝することは、南軍将兵の霊を悼み、奴隷制度を正当化することになってしまう。しかし、大統領も国民も大多数はそうは考えない。南軍将兵が不名誉な目的のための戦いで死んだとみなしながらも、彼らの霊は追悼に値すると考えるのだ。日本の政府や国民が不名誉なことをしたかもしれない人びとを含めて戦争犠牲者の先人に弔意を表すのは自然であろう」――

 安倍晋三は一見尤もらしく聞こえ、説得力有りげに見えるこの言葉を以って靖国神社参拝正当性の根拠としているのだから、安倍晋三自身の考えとイコールとなっているということであり、言葉の論理そのものを受け入れていることになって、論理に何ら疑いを差し挟んでいないことにもなる。

 そして安倍首相は日本時間2月22日訪米、日本時間23日未明のオバマ大統領との会談に先立ち、ワシントン郊外のアーリントン国立墓地を訪れて無名戦士の墓に献花した。

 ワシントンを訪れた日本の首相はアーリントン墓地に献花するのが慣例となっているということだが、他の首相もそうかもしれないが、特に安倍首相からしたら、靖国参拝もアーリントン墓地参拝も同次元のこととしている関係上、首相の靖国参拝正当化の意味を持たせたアーリントン墓地参拝・献花であるはずである。

 「大統領たちも同じようにこのように参拝しているのだから、なぜ靖国参拝だけがいけないのか。なぜ日米の戦死者を差別するのか」という思いがあるに違いない。

 だが、その思いは戦前の日本という国家の内容・姿を問わない無定見によって成り立たせた正当化に過ぎない。

 先ず、安倍晋三が靖国参拝正当化の根拠の一つとしているケビン・ドーク米国ジョージタウン大学教授の言葉を見てみる。「米国のアーリントン国立墓地の一部には、奴隷制度を擁護した南軍将兵が埋葬されている。小泉首相の靖国参拝反対の理屈に従えば、米国大統領が国立墓地に参拝することは、南軍将兵の霊を悼み、奴隷制度を正当化することになってしまう。」と言っているが、当時から奴隷制度は南部に特有な制度であって、北部が一切関わりを持たなかった制度であるというふうに南部と北部の境界線で画然と区切られていた奴隷制度であったわけではないはずだ。

 いわば北部も制度としていた奴隷制度であるということであって、南部一人を悪者にしていい奴隷制度ではない。

 「Wikipedia」によると、〈黒人の95%は南部に住んでおり、南部の人口に対しては3分の1に達していたのに対して北部に於ける黒人の人口比率は1%に過ぎなかった。 〉と書いているが、南北戦争開戦の時点で南部の人口は約900万人、内黒人奴隷人口は約400万人、北部の人口は約2200万、内黒人の人口比率は1%に過ぎないと書いてはいるものの、南部の400万人に対して220万人は存在し、全部が全部黒人奴隷ではないにしても 決して少なくない黒人奴隷を利用し、搾取していたはずである。

 どちらが時間的にも精神的にも肉体的にも過酷な状況で利用していたのかの問題は残るとしても、南部よりも圧倒的に数が少ないから、その分罪が軽いとすることはできない問題であって、奴隷制度自体を存続させ、黒人奴隷を白人の所有物とし、その人権を抑圧・制限していたという点に於いて同罪と見なければならないはずだ。少なくとも南部・北部の問題ではなく、アメリカ全体の問題であり、アメリカ人全体の問題として横たわっていたと見るべきだろう。

 また南北戦争の発端が南部各州奴隷制度擁護対北部各州奴隷解放意志の対立の決着にあったとしても、「Wikipedia」は、奴隷制度が社会的な悪であり、行く行くは廃止すべきという考え方が広まったのは、イギリス本国との独立戦争(1775年4月19日~1783年9月3日)の間だと解説していることからすると、独立戦争当時から湧き上がった奴隷制度を社会的悪とする北部の意識が決着を見るのは独立戦争終結後から78年後の1861年からの南北戦争終結の1865年まで待たなければならなかった。

 その間に1863年1月1日のリンカーンの奴隷解放宣言署名があるが、奴隷制度の実質的廃止は南北戦争終結の1865年であろう。

 いわば北部は南北戦争終結の1865年に南部の奴隷制度廃止に決着をつけただけではなく、と同時に北部の奴隷制度にも決着をつけたのである。黒人奴隷制度という点に関して、北部・南部の産業構造の違いから独立戦争当時から北部は改め始めたとしても、初期的、あるいは中期的には同罪であったと言うべきだろう。

 だとすると、米国大統領の国立墓地参拝は奴隷制度に同罪という点で北軍と南軍を分ける理由を失い、過去の黒人奴隷制度を反省材料として北軍・南軍将兵戦死者を同等に追悼してもいいわけで、何ら問題はなく、「小泉首相の靖国参拝反対の理屈に従えば、米国大統領が国立墓地に参拝することは、南軍将兵の霊を悼み、奴隷制度を正当化することになってしまう」は理屈に合わないことになり、安倍晋三が理屈に合うこととしていること自体、頭のごく悪いトンチキ・粗雑な歴史認識と言わざるを得ない。

 勿論、ケビン・ドーク米国ジョージタウン大学教授にしてもアメリカ人でありながら、南北戦争を例に取って靖国神社参拝とアーリントン墓地参拝を同等視する歴史認識は粗雑そのものである。
 
 次に南北戦争は英語で「American Civil War」と表記するそうで、内戦(= Civil War)として扱っている。

 だが、日中戦争・太平洋戦争は八紘一宇・大東亜共栄圏の名の下に正当化していった外国に対する侵略戦争である。しかも当時日本は天皇主義・軍国主義体制下にあり、国民の自由――基本的人権や言論の自由等が制限されていた。

 日本の対外的侵略戦争をアメリカの内戦である南北戦争と同一に扱い、当時の日本という国家の内容・姿を問わないまま「お国のために戦って命を捧げた」と追悼する参拝をアーリントン墓地の参拝と同等視する。あるいは同価値行動とする。

 南軍兵士にしたって、「天皇のため・お国のため」を口実に兵士を弾避(たまよ)けに使い、犬死にさせてしまうような国のために戦ったのではない、同じに扱うなと苦情を言うだろう。

 アーリントン墓地の参拝と比較しない靖国神社単体の参拝のみであっても、その参拝正当化は戦前の日本という国家の内容・姿を問わない無定見によって成り立たせた正当化に過ぎないと指摘することができる。

 逆に「お国のために命を捧げた」とすることによって、命を捧げた対象である戦前の日本という国家の内容・姿――軍国主義国家・天皇主義国家を正当化しているのであるし、正当化することができる。

 いわば戦死者の戦争行為を否定した場合、国家の戦争行為も否定することになることからの戦死者を正当化することによる国家の正当化ということであろう。

 暴力団という組織のために生命(いのち)を投げ捨てたと形容することさえできる日本の戦前の国家の内容・姿であったはずだ。

 安倍晋三は戦前の日本という国家の内容・姿を問わない参拝となっているばかりか、靖国神社とアーリントン墓地を一緒くたにして靖国参拝を正当化するトンチキ・粗雑な歴史認識に支配されている。

 何という頭の悪さだろうか。

コメント (18)
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