橋下徹大阪市長が1月27日日曜日(2013年)朝日テレビ「報道ステーションSUNDAY」に大阪局から中継出演して、桜宮高体育科系入試中止の正当論をペラペラと熱弁した。
その熱弁発言どおりに入試中止に正当性があったのか、見てみる。
その前に入試中止の正当性との関係から、桜宮高部活動再開のニュースと、入試中止の正当性とは関係しないが、上記番組の中で取り上げている桜宮高男女生徒のインタビュー発言から、彼らが学校や教師に如何に依存しているか、見てみる。
その依存関係が体罰を許す一つの土壌となっているはずである。
依存関係とは非自立の関係とイコールする。
日本人の行動様式は上が下に従わせ、下が上に従う権威主義的上下関係を行動様式・思考様式としていて、そのような非対等性が相互に自立し得ない人間関係を築き上げると書いてきたが、まさに彼らの発言は権威主義的上下関係の体現を物語っている。
異なる場面の発言だが、一つに纏める。
男子生徒「今までの先生と生徒、結構仲いいんで、全員替わったら、2年も1年もパニックになると思うんですよ」
女子生徒「私達の深い絆を癒してくれるのは同じ傷を味わった先生にしかして貰えないことだと思います。
大人の方が今やろうとしていることって、その子の命をムダにしてしまうことだと思います」
「その子」とは自殺した生徒のことだと思うが、入試中止まですることは、その子の本意ではないと思うといったことなのだろうか。
男子生徒の発言だが、小学校から中学校、中学校から高校学校と先生はガラリと変わるし、友だちもその多くが替わる。中学から高校へ進学するときに一度経験していることであって、教師が替わることによって今までと違う世界が体験できるといった発想がないのは教師に対して依存した関係を築いているからだろう。
もし自立していたなら、学校の危機管理の無責任な怠慢から一人の生徒を自殺させてしまったことを考えて、教師総入れ替えという厳しい環境を乗り越えていこうと心決めなければならないはずである。
女子生徒の「私達の深い絆を癒してくれるのは同じ傷を味わった先生にしかして貰えないことだと思います」は、これ以上はないというぐらいの教師に対する依存関係にどっぷりと浸り込んでいる。傷ついたというなら、自らの力で立ち直ろうと決意する自立心を発揮してもよさそうだが、教師に癒しを求める依存状態に陥っている。
生徒自身の教師に対する依存心が強いから、体罰指導まで受け容れることになり、体罰指導を当たり前として依存することになる。自立していたなら、自らの主体性を恃(たの)むことになって、主体性を無視することになる体罰での強制に嫌悪感を感じるはずである。
次に部活再開の記事。《桜宮高校運動部再開へ 一部顧問は交代》(NHK NEWS WEB/2013年2月5日 22時47分)
大阪市教育委員会は2月5日、体罰常態化が疑われたバスケットボール部、男子バレーボール部、サッカー部の3部活の顧問交代等と体罰根絶に向けた誓約書の提出を前提にすべての運動部の活動再開を決定。
1月6日、校長が生徒に説明した上で運動部の活動を再開。
勿論、在校生に対しては授業カリキュラムでも体罰に依存しない、自主性・主体性に基づいた行動能力の学習を用意することになるだろう。成果は先のことであるにしても、教育環境ということでは異常な環境から曲がりなりにも正常な環境へと転換できることになる。
そこに新入生がストレートに加わっては悪い理由はないはずで、逆に積極的に参加させても何ら障害はなく、と言うことなら、わざわざ入試を中止してからストレートに参加させるというのは意味もない面倒を受験生に課すことになる。
大体が在校生やその保護者がその学校の体罰容認の風潮を黙認、馴染んでいくのは入学してからのことであって、学校の教育環境を変えることによって回避可能となる風潮である。
入試中止を持ってくるのではなく、教育環境の改善を持って来さえすれば解決していく問題であった。
勿論、改善を定着させることができるかどうかは教師や在校生徒のみならず、新入生徒の態度にかかっている。生徒が教師の指導に言いなりになる自立から程遠い依存関係しか築くことができなければ、あるいは教師が生徒の自立心を促す指導ができなければ、教師は部員に自ら能力を伸ばそうとする姿勢が期待できなくなって、教師が望む結果を出さないと、苛立って手が出たり足が出たりの体罰につい走って、元の木阿弥とならない保証はない。
では、「報道ステーションSUNDAY」の橋下発言を見てみる。発言の間に挟んで、適宜批評を加えたいと思う。
橋下徹「暴力というものがある意味常態化し、そして周りの先生の誰もが止めることができなかった。
このまま体育科を何の問題もなかったかのように入試を継続するなんていうことは、まっーたく僕はそれは教育という観点からしても、間違っていると思っています」――
学校は決して「何の問題もなかったかのように入試を継続」するわけではあるまい。あれだけ大きな問題となったのだから、学校内から体罰を根絶しなければならなかったし、例え入試を継続しても、体罰を根絶した学校へと迎えることになるはずだ。
体罰根絶は市教委が決めたように部活顧問に体罰指導はしないとする誓約書を書かせて、以後、学校が監視することによって可能となる。
橋下徹「生徒はね、先生を絶対的な存在にしてしまう。それはいいことだけれども、しかし危険と隣り合わせです。それがずうっと積み重なってきて、だーれも止められなくなってしまった。その結果、一人の生徒が命を断ったわけです。
それをホントーにキッカケとして、トコトン徹底して改めていくと、いうことが、僕はね、亡くなった生徒に(対する)本当の思いだと思いますね」――
「先生を絶対的な存在にしてしまう」ことが「いいこと」であるはずはない。「危険と隣り合わせ」ではなく、自立した精神の確立という点で危険そのもの、毒薬にしかならない。教師を絶対とし、自身を非絶対とすることから教師に言いなりの状態をつくり出し、体罰に関しても言いなりの誘発を行なうことになる。
長野智子キャスター「入試中止に至った一番の理由は?」
橋下徹「それは桜宮高体育科が新入生を迎え入れるような状況ではないということです。それは在校生や保護者、それはね、桜宮高の体育科を目指してきて、そしてそこでずうっと、まあ、顧問の指導の先生に、まあ、教えを請うているわけですから、ある意味、正しいもんだと思って、信じ込んでいますけども、これは客観的に見れば、とてもじゃありませんけども、新入生を迎え入れるような、いわゆる教育の現場の体を成しておりません。
もう一つは、これはね、評価の問題です。価値判断の問題です。暴行事案がこの桜宮高校では常態化していたんです。あとから詳しくまたお話をさせてもらいますが、バレーボール部では既に数年前に停職処分の、あの、教師がなってるんですね。それぐらいの暴行事案があった。
繰返し暴行を、まあ、体罰を行ったんだけれども、今度は学校は隠蔽をした。もっとひどいことに今回問題となっているバスケットボール部に於いては、公益通報制度で2年前に、2011年ですが、体罰があるんじゃないかという指摘があった。
しかしこれもですね、教育委員会も学校もきちんと調査せずに、まあ、公益通報の委員の制度も問題もあるんですけれども、これは結局、この調査が不十分である」――
橋下徹は「まあ、顧問の指導の先生に、まあ、教えを請うているわけですから、ある意味、正しいもんだと思って、信じ込んでいます」と自己判断できない生徒の姿を炙り出しているが、これは体罰以前の問題で、日本の教育の問題である。
橋下徹にはそのことに気づくだけの判断能力がないらしい。
橋下徹が指摘している様々な問題点が明らかにならなければ、普通に入試が行われて、新入生が体罰の風潮・文化に順々に馴染んでいくのは目に見えているが、しかしすべての問題点が一般社会の目から隠された状態にあることになって、悪しき風潮・文化は潜行したままとなり、表面は平穏無事を描くことになる。
だが、問題点は、例え全てではないにしても、大方は明らかになったのである。全てを明らかにするのは今後に待つとしても、明らかになった問題点を早急に是正すれば、在校生の感染の治療に役立つし、以後の新入生の感染を防ぐことができる。
そこに入試中止という要素は関係しない。実際に部顧問に体罰をしない誓約をさせている。例え生徒・保護者が強い部、より良い成績を願って厳しい指導を求めたとしても、学校の監視がしっかりしていれば、体罰指導を手段として勝利至上主義には走れないはずである。
橋下徹「これは暴行が常態化している。そして生徒が自殺した。とーんでもない事態なんです。ところが、その、やっぱり認識、事の重大さの認識、それは在校生も保護者も、教諭も、その重大性の認識についてはね、非常に弱いですね。まあ、弱い。
これは生徒や保護者のね、色んな自由記述欄、あのー、アンケート調査とか、そういうものがドンドン僕んところへ上がってきていますが、非常に心配です。
こういう状態でね、子どもたちをドンドン卒業させるっていうことについては、非常に問題、非常に心配。
でも、これは今の教育委員会では、それをね、心配だと思っていない。問題だと思っていない。個々の価値観の違いなんでしょうね」――
新入生に同じ繰返しをさせないこと、在校生をそういった環境から脱出させることが喫緊の課題であって、教育委員会や学校の尻を叩けば、できない解決ではなく、解決できなければ、体育科志望受験生の普通科入試も不可能となる。
長野智子キャスター「生徒はなお体育科の入試をやめても、何も根本的な解決にはならないというふうに訴えておりますが、それに関してはどういうふうにお答えになります?」
橋下徹「これはね、あの色んなメディアの中から批判の中でも多いんですけどね、じゃあ、体育科を継続したら、もっと何も変わりませんよ。
これは体育の入試をね、あのー、中止することによってすべてが変わるわけじゃないけれども、しかし、もう変わり始めています。
先程生徒も言いましたけども、桜宮体育科あっての桜宮高校なんです。この体育科、今までやってきたことが間違っている。そこを先ずはっきり示すこと。意識を変えて貰わなければいけません。
在校生・保護者、まだまだ不満がある。早くクラブをしたい、早く試合をしたい。しかしちょっと待ってくれ。今そういうことじゃないでしょ、と。学校の問題点は何だったのか。先生のね、指導を受けて、みんなOBを含めて、先生は愛情の、まあ、愛情に基づいた指導なんだと、みんな思っているわけです。
しかし外から見たらね、桜宮高校の外から見たら、完全に間違った指導なんです。しかし在校生も保護者も、OBも、その間違いをまだ認識しておりません。
今ね、試合の事とかクラブ活動のことじゃなくて、暴行事案が学校現場に、生徒がそれを最大の原因として自殺をしたんです。そういうところの状態の中でね、今やらなければいけないことっていうのは、何が学校で間違っていたのか、それを徹底して在校生・保護者、教員、外部の有識者を含めてね、話し合いをして、自分たちの間違いを自ら気づくことなんです。
そして自分たちで立て直すことなんです。それをね、入試を継続したままやれっていうのは無理なんですね。ですから、体育科の、先ず入試をやめて、そして一から立て直してもらう。そのような方針を僕は貫くべきだと思っています」――
体育科というのは器に過ぎない。いわばハコモノに過ぎない。中身の人間の在り様(ありよう)が器、あるいはハコモノの質を決める。中身の人間の在り様を変えることによって、新たに入ってくる生徒にふさわしい器、ハコモノを提供可能となる。
人間のありようを変えるということは橋下徹の「意識を変える」ことが基本となるのは言うまでもない。
体罰は絶対にいけないことと厳禁し、体罰に頼ることは部活顧問と依存関係にあることを意味し、それぞれが自立していないことを証明するに過ぎないこと、さらに自主的・主体的に自らの能力を伸ばしていく姿勢の獲得こそが部活顧問の体罰といった強制に従って動く姿勢を必要としなくなり、真に自立した自己を確立できると教え込むことによって器、あるいはハコモノの質を変えることができ、橋下徹が言う「自分たちで立て直すこと」につながる。
入試中止によって変えることができるのは器、あるいはハコモノではなく、当然中身の人間でもない。入試中止は関係しないということである。
ところが橋下徹はあくまでも入試中止に拘る。
橋下徹「桜宮のね、ある意味看板であった体育科っていうものが、これは今までの遣り方が間違っていたんだっていうことをはっきり示して、入試をストップさせた。これが一番重要なんです」
これでは体育科の今までの遣り方の間違いを入試中止を材料に受験生に思い知らせるのと同じである。
橋下徹「体育科をこのまま継続してやってたらね、何も変わらないですよ」
政治の世界のムダ根絶は先ず直らないと見ていいが、体罰根絶は可能である。学校に隠れて体罰して、それが成功しても、一度成功するとまた体罰をしたくなり、いつかは露見するものだ、体罰をするときは懲戒免職を覚悟しなければならないと教師に伝えておけば、教師にしても自分が可愛いから、例え手を出したくなってウズウズしても、できないことになる。
橋下徹「これから体育科の、体育科を抜本的に変えていくって言うんですから、今までもおんなじ意識でね、入試を迎えられたら、入試に挑まれたら、ダメなんですね。
だから、変わるって言うんだったら、まずはね、入試をやめてね、変わってから、その変わった状況できちんと、お迎えをするというのが本来の筋ですね。
これ、入試を継続してね、混乱が収まるなんて、絶対ないですよ。だって、先生も替わっていってしまう、クラブのあり方まで変わっていってしまう。授業のカリキュラムまで変わっていってしまう。取り敢えず入試をだけ継続してね、先ず生徒だけをそのまま迎え入れよう何ていうのは、これほど無責任なことはないですね」――
矛盾だらけの発言となっている。変化に時間がかかると言うなら、在校生はかかる時間の間、被害者でいなければならない。変化に成功しなければ、被害者のまま卒業させることになる。
カリキュラムを変えることも部活のあり方、指導のあり方を変えることも、中身や運営方法を変えることによって、少なくとも従来の遣り方とは異なる選択を生徒に与えることができるはずである。変えることに時間がかかる程、無能揃いというわけではあるまい。
無責任なのは橋下徹の方だと気づいていない。
例え無能揃いで時間が掛かるにしても、新入生をストレートに体育科に迎え入れて、新しいあり方を模索する議論に参加させてもいいわけで、参加することによって社会人として成長していく何らかの糧を身につけていくはずである。
最後に橋下徹が入試中止は間違っていると考えるなら、「選挙で落とす権限を有権者は持っている」と自ら発言したことに対して、出演者の政治評論家だかの後藤謙次が質問している。
後藤謙次「(桜宮高の)高校生たちが記者会見の中でですね、私たちには選挙権がないんだと言ってましたけども、この言葉はどう受け止められましたか?」
橋下徹「まだ高校生は未成年ですね。未成年者には責任もないんです。だから、権利も制約されるんです。だから、大人がしっかりと子どもたちのために判断をしなければならない。
僕は在校生のために、そして受験生のためにね、彼らの気持ちをそのまま汲むことが大人の、また市長の役割だと思っていませんね。
彼らの考えがもし間違っているんであれば、そして受験生のね、将来のことを考えて、今桜宮の体育科に入ることは、これは最悪の状態だというふうに僕が判断したんであれば、この受験生の将来のことを考えて、一回は普通科に入れて、そして桜宮を完全に立て直してね、そこからもう一回、そういう体育のね、専門科っていうものをつくって、入れたらいいと思うんですね」
後藤謙次はこの発言に何ら反論を試みていない。
橋下徹は桜宮高を完全に立て直すには時間がかかると見ている。だとすると、在校生を被害者のままに放置することになる。早急に体罰なしのクラブの運営も、カリキュラムの作成もできないとしていることになる。
だが、現実には市教委は新しいカリキュラムの導入と体罰根絶に向けた誓約書の提出を義務付けて、新しいスタートを開始しようとしている。
あとは実効性を持たせ、実績を上げていくことが残されているだけである。やはりそこに新入生を参加させて悪い理由はない。
確かに未成年者は権利が制限される場合もある。親の承諾を得なければ、権利の行使ができないこともある。だが、教育を受ける権利は日本国憲法第26条第1項に「すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。」と規定されていて、その権利は制限されるものではない。
当然、受ける教育の内容に発言する権利も制限されるわけではない。問題はその発言内容の是非、判断の程度のみである。是非、判断の程度は親や教師との議論の闘わせによって決着をつけるべき事柄であって、権利云々の問題ではない。
もし受ける教育の内容に発言する権利を制約するとしたら、言葉を封じること以外の何ものでもない。
勿論、教育を受ける権利には受けるについての責任が伴う。その責任も未成年者だから、制約されるということはない。決して免除されるものではない。
入試中止の是非を問う選挙ということで言うなら、親が子どもと議論、子供の主張を正当とすることができたなら、子供の意思を親が代理して投票することもできる。
また、子供に代って「大人がしっかりと子どもたちのために判断をしなければならない」と言っていることは、大人が子供を下の位置に縛り付けて、子供の判断を禁止し、大人の判断を子供に押し付けて、その判断に依存させ、行動させようとする権威主義的発想からの発言であって、子ども自身の判断を禁じて大人の判断に依存させることは自立の阻害に当たり、自立促進の障害にしかならない。
自立を促すには子供の判断を尊重し、大人がその判断を間違っているとするなら、自らが正しいとすることに責任を持ち、議論し、諄々(じゅんじゅん)に言い諭して、その間違いを納得させなければならないはずだ。子供が自ら判断しない場所からはどのような自立も生まれない。
以上、橋下徹の桜宮高体育科入試中止論には無理があることを書いた。書いたことの正当性も問われることになる。