安倍晋三のアルジェリア事件、邦人人質生命よりも外国訪問を優先させた2月27日参院予算委答弁

2013-02-28 10:17:16 | Weblog

 イスラムテロリスト集団によるアルジェリア天然ガス関連施設襲撃、邦人人質事件は安倍首相のベトナム、タイ、インドネシア3カ国訪問のベトナム滞在中に発生。そこで邦人拘束の第一報を受けた。

 だが、訪問をタイ、インドネシアと続けて、インドネシア訪問を早目に切り上げて帰国した。

 2月27日(2013年)午後参議院予算委員会。

 大野元裕(外遊からすぐ帰国しなかったことによって)「総理が対策本部長として不在であったことにより万全な態勢を敷くことができなかったと考えなかったのですか」

 安倍首相「私は外遊を続けていく中に於いて、適切に対応していくわけですから、そこで外遊をやめて帰ってくることによって事態は全く変わりはないだろう。残念ながらですね、というふうに思っております。

 小野次郎議員、静かにしていただけますか。(暫く待つ)

 その中に於いて、私は適切な行動を取ったと、そのように思っております」

 小野次郎みんなの党議員が何かヤジを飛ばしたのは、2月19日(2013年)同じ参院予算委員会で同じような質問をしているからだろう。

 このことは2月21日当ブログ記事――《19日参院予算委答弁が証明する安倍首相のアルジェリア人質事件「人命優先」はやはりアリバイ作りだった - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》に書いたが、その時の発言との整合性を改めて取り上げてみる。

小野次郎みんなの党議員「(帰国を遅くして)政府の対策が後手に回ったとい認識はございませんか」

 安倍首相「えー、我々はでき得る限りのすべての手は打った、とこのように思っております。えー、つまり、現地に於いてオペレーションを行なうのは、アルジェリア政府、であってですね、残念ながら、我々にとっては限界があると」

 小野次郎議員「私が申し上げているのは、一つには総理が帰国から遅れたのではないかということを言ってるんです」

 安倍首相「もしこれを例えば途中で、えー、(外国訪問を)切り上げてですね、果たしてそれによって人命が救われたかと言えば、残念ながら、そんなことはなかったわけでありますから、そこは冷静な判断をしなければならない」

 この発言に対して次のように批評した。

 〈人命が犠牲となったことはあくまでも結果的に判明したことで、結果を見た末の結論に過ぎない。事件の一報を聞いた時点では人命がどうなるかの結論は得ていないはずだ。例えアルジェリア政府が「テロとは交渉せず、人質の生命(いのち)は後回し」の危機管理姿勢でいようとも、軍事的制圧作戦の中で命拾いする人質が実際に存在したように犠牲と救出は誰も、アルジェリア政府にしても判断できない状況にあった。

 当然、日本政府としては例え(軍事的)オペレーション関与に「限界」を抱えいたとしても、国民の生命・財産を預かる以上、全員救出で危機管理をフル活動させなければならなかったはずだ。

 例え帰国しなくても、直ちにアルジェリアのセラル首相と電話会談し、結果的にムダとなっても、人命優先を訴えなければならなかった。

 だが、後手に過ぎる危機管理となった。〉――

 以上の読み方はそれはそれで的外れとは思わないが、昨日、2月27日の安倍答弁を聞いて、別の読み方もあったことに気づいた。

 上の答弁(2月19日の答弁)は早く帰国しても人命に変りはなかったという結果論を以って早く帰国しなかった自身の判断を正当性化している。

 いわば結果論から判断の正当性を導いている。

 その根拠として、日本政府が人命救出に直接関わることはできなかったことを挙げている。人命救出に直接関わることができないのだから、結果自体にも関わることはできないこととなって、外国訪問を切り上げて早く帰国しても、結果に対してどのような影響を与えることができるのかというわけである。

 安倍首相の判断がもしこのような経緯を取らなかったとしたら、訪問を切り上げて人命が救われたのかといった趣旨の発言との整合性が取れないことになる。

 だが、果たして結果論から判断の正当性を導くことができるだろうか。

 結果をまだ見ないうちの当時の安倍首相自身の判断自体の正当性を論ずるべきであろう。順序として、危機に対する危機管理の判断が先にあって、その判断が危機に対して影響を与えようが与えまいが、判断の次に結果が来るからだ。

 当然、判断の正当性と結果の正当性を個別に評価しなければならないことになる。判断の正当性と結果の正当性が一致したとき、その危機管理はベストの危機管理ということになるはずだ。

 危機管理に於ける最初の判断が結果に対して何ら影響を与えない場合がある以上、結果論からは決して判断の正当性を導くことはできない。人命救出に直接的に関わることができなかったことを考慮しても、考え得る人命救出の有効な判断を下さなくても、結果さえ良ければ判断を下さなかったことが全て正当化されることになる。

 だが、安倍首相は全員救出は「そんなことはなかったわけでありますから」と、結果論を以って、帰国を遅くした自身の危機管理判断を正当化している。

 危機管理というものに対する認識能力不足を物語ると言わざるを得ない。

 だが、2月27日(2013年)午後参議院予算委員会での安倍首相の答弁は、一見、結果論から導き出した自身の危機管理判断の正当化のように見えるが、2月19日の答弁とは違って、外務省から邦人拘束の一報を受けた以降の自身の判断として答弁し、その判断を正当化しているはずだし、結果が判断に対応して位置する以上、そうでなければならない。

 安倍首相「外遊をやめて帰ってくることによって事態は全く変わりはないだろう。残念ながらですね、というふうに思っております」

 要するに外務省から邦人拘束の一報を受けた以降、早々に外遊を切り上げて帰国しても、「事態は全く変わりはないだろう」と、外国訪問続行の危機管理判断をした。

 勿論、この「事態」の中には邦人人質の安否、生命の行方も入っていることになる。

 いわば外国訪問を続けても、邦人人質の安否、生命の行方も「全く変わりはないだろう」と判斷した。その判斷の結果としての外国訪問優先だった。

 この優先判断は日本政府が人命救出に直接関わることはできない立場にあることを理由に置いているだろうが、だからと言って、外国訪問を優先させて、人質邦人の生命に関わる危機管理を後回しにすることが許されるだろうか。

 人命救出に関与できるか否かに関わらず、例え帰国という手段を取らなくても、関与できる何らかの手段を創造し、最優先に行動するのが一国のリーダーとしての国民の生命・財産を守る国家危機管理であろう。

 だが、そうなっていなかったことは安倍首相が1月16日日本時間16時半前後にハノイで事件の一報を受けてから、アルジェリアのセラル首相に電話して、日本政府が人命救出に直接関わることはできないながらも人命優先を訴えたのが約1日と8時間経過した、軍事的制圧作戦が開始後の1月18日日本時間0時30分のことである。

 これが邦人人質の安否、生命の行方よりも外国訪問を優先させた結果の人命優先であった。

 この人命優先の程度は人命優先がホンモノでないことの暴露以外の何ものでもないはずだ。

 人命優先が真に生きづいた思想として安倍首相の血となり肉となっていたなら、日本から邦人拘束の一報を受けた直後にアルジェリアのセラル首相に電話して人命優先を訴えただろうし、その後直ちに帰国して対策本部に構え、人命優先の何らかの方法を見い出すべく陣頭指揮に当たったはずである。

 いずれもそうはせずに、国会答弁で、「もしこれを例えば途中で、えー、(外国訪問を)切り上げてですね、果たしてそれによって人命が救われたかと言えば、残念ながら、そんなことはなかったわけでありますから」と言い、「外遊をやめて帰ってくることによって事態は全く変わりはないだろう。残念ながらですね、というふうに思っております」と言って、邦人人命に関わる自身の危機管理を正当化させた。

 ここに国民の生命に関わる危機管理に果たすべき責任意識を認めることができるだろうか。

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