体罰教師・体罰部活顧問は大人になり切れていない大人たち

2013-02-14 12:20:12 | Weblog

 私自身も大人になり切れていない大人の一人だと断りを入れなければならない。 

 大津中2男子生徒イジメ自殺や大阪市立桜宮高のバスケットボール部員体罰自殺と似たような自殺がマスコミによって再び報道された。《監督の叱責受けた当日に… 高校野球部マネジャーが自殺》asahi.com/2013年2月13日5時48分)

 岡山県立岡山操山(そうざん)高校の当時男子2年生の野球部マネジャー(16)が昨年7月に自殺。

 時間を経てから報道されるという点も前ニ者と共通している。

 あるいは地元のマスコミは報道していたのかもしれない。

 彼は野球部監督から繰返し叱られていたという。

 県教委の両親に対する文書回答。

 県教委「行き過ぎと言われても仕方のない指導や発言があった。自殺と指導の因果関係がはっきりしない」

 はっきりしないことを以って公表しなかったという。公表しなくても、噂が立って、地元紙の知れるところとなり、報道するということもあるが、中央のマスコミが報道しないところを見ると、地元紙も知らないでいた事実かもしれない。

 〈生徒は選手として野球部に入部し、昨年6月11日に退部。7月23日にマネジャーとして復帰したが、同26日朝、岡山市内で自殺しているのが見つかった。〉――

 遺書はなかったという。

 〈両親からの要請で、県教委は昨年10~11月の3日間、部員に聞き取り調査をした。その結果、生徒は復帰の日のミーティングで監督から「マネジャーなら黒板くらい書け」と怒られ、自殺当日も「声を出せ」と注意されていた。練習後も本塁付近に1人呼ばれて叱られ、帰宅途中、同級生に「俺はマネジャーじゃない。ただ存在するだけ」と話したという。〉

 監督からマネージャーとして認められていない、ただそこにいるだけだの存在だと絶望感を話したのだろうか。
 
 男子生徒(部員に対して部を一度辞めた理由を)「先生に怒られるのが嫌。野球がおもしろくない」

 (復帰した理由)マネジャーなら叱られない」

 部員の話「監督は練習中に『殺す』などの言葉を使ったり、パイプ椅子をふりかざしたりすることがあった。チーム全体にビクビクしているところがあった」

 監督(県教委の調査に対して)「厳しい指導や叱責(しっせき)は指導の一環」

 広本勝裕校長「結果として行き過ぎた指導がなかったとは言えない。指導と自殺の因果関係は分からない」

 両親「責任感の強い子だった。『もう辞められない』と思い、監督に叱られて追い詰められたのではないか。なぜ息子が死ななければならなかったのか、第三者による調査で自殺と指導の因果関係についてもっと具体的に検証してほしい」

 監督は11月中旬に交代。

 校長は「結果として行き過ぎた指導がなかったとは言えない」と、「結果として行き過ぎた指導」があったとしている。

 「結果として」とは意図したことではない、目的としたことではないが、そうなってしまったという意味であろう。だが、これは第三者が認識したことで、監督自身は「結果として行き過ぎた指導」を行なっていながら、「行き過ぎた指導」だと認識する能力を持ち合わせていなかった。

 生徒の自殺という異常事態が起きなければ、「殺す」と恫喝したり、「パイプ椅子をふりかざしたり」を「行き過ぎた指導」とも思わずに、「厳しい指導や叱責(しっせき)は指導の一環」として延々と続けたことになる。

 体罰は言葉の問題だと兼々言ってきたが、その言葉とは「殺す」と恫喝したり、「バカヤロー」と怒鳴ったりする言葉のことを言っているのではない。

 言葉にも色々ある。言葉には自身の考えや判断を伝える言葉と感情を伝える言葉とがある。「殺す」、「バカヤロー」の類は考えや判断を伝える言葉ではなく、怒りの感情、あるいは貶めの感情を伝える言葉であろう。最近使うかどうか知らないが、年少の子どもが友達に向かって、「馬鹿、カバ、チンドン屋、お前の母さんデベソ」と人をバカにするのは貶めの感情からか、あるいは親近感を持ちながら、親しみを伝える言葉を見つけることができないから。つい憎まれ口を叩いてしまうとかであって、決して考えや判断を伝える言葉ではない。

 要するに考えや判断を伝える言葉を持たないからこその、その代償作用としての感情を伝える言葉と言える。

 考えや判断を伝える言葉は成長していくと共に発達していく。いわば幼い頃には満足に備わっていない能力と言える。

 一方の感情を伝える言葉は幼い頃から、備わっている。幼い子どもが主として好き嫌いの感情で物事を評価することが証明している。

 だとすると、成長しても考えや判断を伝える言葉が満足に使えず、感情を伝える言葉を主たる意思伝達の方法としているということは大人として成長していない、大人になり切れていないことを示すことになる。

 大人になっても、自身の考えや判断を伝える言葉を満足に持たず、自分の意思を伝えるのに罵声を浴びせたり、怒鳴ったり、あるいは罵声や怒鳴り声に付属させて殴ったりする感情の言葉を主たる手段としている、あるいは言葉まで省いて、いきなり殴ったりする感情の発露は、どう見ても、大人として成長していない、大人になり切れていない大人のやることと言うしかない。

 大人として成長していない、大人になり切れていない大人が部活顧問を務めている。このことは教育という観点から、根本的に座視できない重大な問題を孕んでいる。

 野球部員に対して監督が、「殺す」と恫喝する姿に大人を見ることができるだろうか。

 独裁者の姿を見ることができるかもしれない。但し独裁者というのは意思の一方通行があるのみで、お互いに意見をい言い合うという対等・双方向であるべき人間関係に於いて民主的に大人になり切れていない姿であろう。

 部活指導に於いて、教室での授業でもいいが、顧問や教師が考えや判断を伝える言葉を駆使したなら、部員や生徒はそれらの言葉に刺激を受け、反応して、彼ら自身も考えや判断を伝える言葉を育み、発達させていくはずで、そのような言葉を使うということ自体が自主性・主体性の表現となる。

 そしてそのような地点から、部員たちは大人へと成長していく。

 だが、如何せん、部活顧問や教師が考えや判断を伝える言葉を持たない大人になり切れていない大人が多いから、部員も生徒も考えや判断を伝える言葉の育みという点に於いても、大人への成長という点に於いても、学び切れないことになる。

 このことの有力な証拠は、体罰で叩かれて育った部員が指導者となって体罰を用いた指導を行なうという循環そのものが証明している。考えや判断を伝える言葉を持たない大人になり切れていない大人を顧問として持ったことから、自身も考えや判断を伝える言葉を持たない大人になり切れていない大人ヘと成長、指導者となって考えや判断を伝える言葉を指導の手段とするのではなく、殴ったり罵声を浴びせたり感情を伝える言葉や感情だけの発露を主たる手段とすることになる。

 もし周囲の校長や教育委員が体罰や罵声を指導の手段とするのは部活顧問や教師が大人になり切れていないために考えや判断を伝える言葉を満足に持ち合わせていないからだと認識することができていたなら、桜宮高の体罰自殺にしても、上記岡山県立岡山操山高男子2年生の自殺も、体罰指導、あるいは体罰紛いの指導の存在に気づいた時点で、大人になり切れていない大人を部活顧問や教師に採用していた自分たちの責任上からも、教育という観点からも、部活顧問や教師個人の問題ではなく、自分たちの問題でもあると把えて重大事案だと受け止めるはずだが、殆どが個人の問題だと片付ける責任回避から出発している。

 体罰が考えや判断を伝える言葉の欠如と欠如は大人になり切れていないことから発していることを、2月12日(2013年)火曜日放送のHP――「NHKクローズアップ現代」《“体罰”なぜ繰り返されるのか》から見てみる。   

 詳しくはHPにアクセスして貰いたい。

 桜宮高バスケットボール部の〈生徒が亡くなる前の日の練習試合。

 顧問は試合中、生徒をコートの外に呼びます。

 「なぜボールに飛びつかない」。

 「なぜディフェンスを見ない」。

 「なぜ相手を意識しない」。

 ひと言問うごとに顧問は平手で、ほおをたたきました。

 何も言い返せない生徒に対して、やるのかやらないのかと問い詰め、後輩や他校の選手もいる前で繰り返し、たたいたといいます。〉――

 元バスケットボール部員「実際に叩かれて発奮して活躍する選手もいたし、自分もそうでした。この人(顧問)についていけば、全国大会に出られるというのがあったので、その時叩かれても体罰だと思ったことはなかった」

 「叩かれて発奮」するとは部活顧問の考えや判断を伝える言葉を仲介させ、その言葉に、それが内心のものであっても、あるいは「ハイ」と答えるだけであっても、自らの考えや判断を伝える言葉で反応させた「発奮」ではなく、それらを一切介在させない他発性の動作であって、相手の指示に対して自分で考え、判断して動く自発性の動きでは決してないはずだ。

 そのような地点からは、自分から考え、判断して動くという自発性・主体性は育みようがない。育まれないから、体罰や罵声は繰返されることになる。顧問の考えや判断を伝える言葉の不在に対応した生徒たちの考えや判断を伝える言葉の不在となって現れるのみである。 

 また、指導する方も「なぜボールに飛びつかない」、「なぜディフェンスを見ない」とかの言葉を使うが、「相手がボールを持って、こう動いたとき、相手は正面にいる誰それに視線を向けてボールが取られないように警戒していたが、君が一番接近した斜めの位置にいて、正面の敵に気を取られていた相手の隙を突く絶好のチャンスだったから、あそこでボールに飛びつくべきだったじゃないか」等々の自身の考え、判断を伝える言葉にまで高めていない。当然、そのような言葉となっていないことによって、部員の考え、判断を促す言葉とはなり得ない。

 部活顧問が自身の考えや判断を伝える言葉とその言葉に反応する生徒の考えや判断を伝える言葉の遣り取りを習慣としていない場所で、「叩かれて発奮」したとしても、考えや判断を欠いた反射的反応に過ぎない。例え内心で「よし、分かった」と叫んでいたとしても、言われたことを実行するだけで終わるのは、やはり体罰が延々と続くことが証明することになる。

 ゲスト出演していた友添秀則・早稲田大学スポーツ科学学術院長が、体罰は言葉の問題だと発言している。

 友添秀則氏「体罰をした人たちにインタビューしてみると、やはり感情の吐露だって言うんですね。カッと来て、口で説明ができないで、つい手が出てしまうということを言う人たちが結構多いですね。

 短期的にある時期だけ成果を上げようとすると、こういう体罰っていう手は有効だとはいわれているんですね。

    ・・・・・・・

 例えば試合に向けてどういう練習が必要なのか、どんな練習を組むのか、そういうことが説明されて選手あるいは高校生あるいは中学生とちゃんと合意ができてやっていかなければいけないんですけれども、日本の場合は言葉がないっていうか、スポーツの指導の場には言葉がなくて、おい、やれ、走れ!飛べ!っていうような形でですね、頻繁に命令が起こっている。

 そこでうまく伝わらないと、つい手が出てしまうっていうような現実ですね」(以上)

 言葉は考え、判断する習慣をつけることによって、大人になればなる程、論理性を備えつつ発達していき、発達させることによって論理的な説明能力を身につけていくはずだが、自身の考えや判断を効果的に伝える言葉を持たない。そういった言葉の代わりに怒りや不満を体罰を通してぶっつける、感情を伝える言葉を指導の主たる手段とする。

 このような体罰指導を教育の範疇に収めることができるだろうか。決して教育でも何でもないはずだ。

 それを指導だと言って教育の一環としている。大人になり切れていない大人たちが理性ではなく、感情を剥き出しキーキーカッカしてやっていることとしか表現しようがない。 

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