2月14日(2013年)午後4時25分頃、大阪府大東市で市立小5年の男児(11)がJR野崎駅ホームから快速電車に飛び込み自殺した。メモを残していたという。
《「どうか命とひきかえに」=自殺の小5、閉校中止訴え-大阪》(時事ドットコム/2013年 2月 15日 22:00)
小5男児メモ「どうか一つのちいさな命とひきかえに、とうはいごう(統廃合)を中止してください」
統廃合によって母校の閉校が決まっていたらしい。
いくら11歳の年齢だからと言って、自身が自殺することによって統廃合が中止となり、自分の学校を残すことができるのではないかと思い決める思考能力は幼過ぎる。
だが、学校は2月17日予定の閉校式の延期を決めた。いくら何でも生徒一人が自殺したのだからと、閉校式を予定通りに進めることができなかったらしい。
但し統廃合を中止する理由とすることはできないはずだ。
学校は統廃合が決まった時点で、全校生徒に対して統廃合しなければならない理由の十分な説明を行なっていたのだろうか。
児童祖母(取材に)「死んで何かを解決する風潮があってはいけない」
児童両親(市教育委員会に)「死んで解決することは正しくない」
祖母や親のごく常識的な合理的判断能力を受け継いで、自らの合理的判断能力としていなかったらしい。
飛び込む3分前に母親の携帯電話にメールが送信されていたという。
携帯メール「家族み→んな大・大・だあい好き」
自身の家族に対する「だあい好き」という感情に対応した祖母や両親の児童に対する感情が自身の死によってどう影響を受けるか、考えることができるまでに思考能力は発達していなかったらしい。
自殺によって統廃合を止めることができるのではないかという強い思い込みがあったとしても、その思い込みが恐怖をある程度相殺することができたとしても、完全には恐怖を打ち消すことはできなかったはずだから、飛び込むについては余程の決意と覚悟を必要としたに違いない。
同級生に統廃合賛否のアンケートを取っていて、全員が統廃合中止に賛成だったということも思い込みに影響を与えていたに違いない。25人の思いを自分が引受けて、実現できるかもしれないと。
アンケート後の児童のメモ「自分をぬいて25人全員が『とうはいごうがなくなってほしい』に賛成しました。ちなみにぼくは賛成です」――
次の記事が校長と市教委の反応を伝えている。《大東・小5自殺:「悩んでいたこと把握できず」校長が謝罪》(毎日jp/2013年02月15日 21時18分)
自殺翌日の2月15日市教委記者会見。
校長「男児は昨年、『学校がなくなるのは本当に残念』と作文に書いていたが、思い悩む様子は見られず、自殺当日も普段と変わりなかった。(ここまでは記事解説を発言体に変更)
ここまで思い悩んでいたことを把握できなかった。非常に申し訳ない。男児は繊細で非常に優しい子。もっと子どもたちの気持ちに目を向けるべきだった」
市教委「男児の両親から『死ぬことで事態を変えようとするのは正しいことではなく、統廃合を中止してほしくない』との要請があったとして、予定通り統廃合を実施します」(記事解説を発言体に変更)
校長は「ここまで思い悩んでいたことを把握できなかった」と言い、「もっと子どもたちの気持ちに目を向けるべきだった」と言っているが、児童・生徒の思い悩みの把握、負の気持に目を向けるということは対象となる児童・生徒に対して学校や教師がその場その場で採るべき態度であって、そういったことのみが学校・教師の全責任だとでも思っているのだろうか。
例えば児童・生徒の誰かが普段の元気がなく、沈んだ様子を見せている。尋ねても、「何でもない」と答えるだけ。偶然、両親が離婚を話し合っているという情報を手に入れ、元気をなくしている原因に気づいた、その子どもに何かを話しかけ、いつでも相談に乗るからと告げることを以って思い悩みや負の気持を把握したから、責任を果たしたということになるのだろうか。
両親の離婚といったことは非常に個人的な問題であって、離婚に学校が関与できる事柄ではないゆえにその子どもの思い悩みや負の気持に目を向けることができたとしても限界を抱えることになって、学校・教師の責任は不完全燃焼を来すばかりで、責任を果たしたということにはならないだろう。
何か問題を抱えた児童・生徒が普段と違う様子を見せてくれればいいが、見せてくれなかった場合、例え違う様子を見せたとしても、教師が気づかない場合もあるし、気づかなければ教師の中では普段と同じ様子となるから、違う様子を見せてくれなかったことと同じとなり、常に学校・教師が児童・生徒一人一人の思い悩みや負の気持を把握できるわけではなく、すべての児童・生徒に注意を向けることは不可能である。
だが、この不可能を限りなく可能とするためには、少なくとも可能とすることができるように努力を尽くすためには個人的な問題と考えたときには思い悩みや負の気持は個別の問題となって、個別に対応しなければならないが、個人的な問題であることを超えて児童・生徒の誰もが一人一人の年齢相応の人間として年齢相応に何らかの形で抱える全体の事柄だと考えたとき、人間の問題として児童・生徒全体を相手とした教育に応えなければならないことになる。
そのような教育に応えるためには全体を相手にそれぞれが抱えることになるその時々の思い悩みや負の気持の解決に役立つ根本的且つ包括的な対処方法の形を取らなければならない。
その方法とは生きていくということとはどういうことなのかという教えに尽きるはずだ。
生きていくということとはどういうことなのかを学んだとき、自殺した生徒は生きていくということとはどういうことなのかという思いの中で、学校の統廃合を考えたはずである。
学校から教えられ、自身も学んだ生きていくこととはどういうことなのかという思いと自問自答した末の結論として飛び込み自殺を選択したと言うことなら、その生徒は自殺を自身の生きる一つの姿としたことになり、校長が生徒の思い悩みを把握しようが、負の気持に気づこうが、止めることはできなかっただろう。
果たして学校はそういう教育を行なっていたのだろうか。もし行なっていなかったなら、違った結末を迎えていた可能性は否定できない。
こういった教育は当たり前のことだが、入学早々から開始しなければならない。
生きていくこととは自分の世界を広げ、自分の知識を広げ、自分の経験を広げて、それらを精神の糧(肥やし)として人間として成長を果たしていくということであるはずである。
行動という名の活動をすることによって世界を広げ、世界を広げることによって知識を広げ、逆に知識を広げることによって世界は広がり、経験が広がる。より多くの知識を持つことによって、経験は違った形で広がる。また、経験を広げることによって、知識は広がり、自身の世界を広げることができる。
少なくとも統廃合問題が持ち上がったとき、なぜ統廃合が必要なのか、少子化の問題、財政の問題、効率の問題等々、大人の世界の都合を垣間見せる教育を行ったのだろうか。大人の世界を見せることによって、子どもは自らの世界を広げ、世界を広げることによって知識・経験を広げていく。
さらに統廃合によって、新しい友人を持つことも自分の世界を広げることであり、その友人から教えられる知識やその友人との付き合いから生じる新しい知識が自分の世界を広げ、自分の知識を広げ、自分の経験を広げて、精神的に成長していくのだと教えたのだろうか。
世界を広げ、知識を広げ、経験を広げていくのは自分だけではなく、他の誰もがすることで、その過程で他の誰かと衝突することもある。その衝突を乗り越えていくことも、世界を広げ、知識を広げ、経験を広げていく糧となり、衝突を乗り越える数だけ、人間は逞しく成長していくのだと。
普段の通学路を変えて違う道を通るちょっとした変化も、世界を広げること、知識を広げること、経験を広げることだと教えていたのだろうか。
教えていたなら、児童・生徒は、例外はあるだろうが、自覚的に生きていくことをするはずだ。こうすることも、生きていくこととの一つだな、世界を広げたことになるのだな、知識を広げたことになるのだな、経験を広げたことになるのだなと。
活動や行動と併行して、自分の世界を広げているこの行為は、知識を広げているこの行為は、経験を広げているこの行為は正しい行為なのだろうかと、規範意識で自省する児童・生徒も出てくるはずだ。
自分が生きていくことに対しての責任感の芽生えである。
学校・教師が学力の刷り込みだけではなく、児童・生徒一人一人の生きていくことの責任感の芽生えに力を尽くすことこそが、真に「子どもたちの気持ちに目を向ける」ことであって、校長が「もっと子どもたちの気持ちに目を向けるべきだった」と言っていることが学校統廃合問題を限定対象とした児童たちの個別問題と把えて、そのことの反省であるなら、生きていくことの意味を教える教育を行なっていたとは到底思えない。
また、校長を筆頭に副校長、学校主任、担任等々なのだろう、例の如くに一列に立ち上がって、雁首を揃えて一斉に頭を下げて謝罪する姿からも、肝心な教育を行なっていたとは見えない。
もしそのような教育を行なっていたなら、そのような教育の至らなさの反省も出てくるはずだ。出てこないところから判断しても、行なっていたようには思えない。個別問題にその場その場で対応していく対処療法しかできす、しかもその対処療法さえ、満足に対応できなかった。
〈男性不妊のため第三者から精子提供を受ける非配偶者間人工授精(AID)を希望し、実施拠点となっている慶応大病院で受診した夫婦112組を対象に厚生労働省研究班が実施した調査の結果、15%が「生まれてくる子にAIDの事実を伝える」との考えを示したことが15日、分かった。〉とする記事――《人工授精「子に伝える」15% 割合増、厚労省調査》(47NEWS/2013/02/15 17:35 【共同通信】)
2010年8月~11年12月の調査。
「告知しない」――52%
「告知する」 ――15%
記事、〈告知に肯定的な夫婦の割合は08年度の同種調査より増え、意識の変化が浮かんだ。
近年、提供精子で生まれた人たちが告知の大切さや出自を知る権利を訴える活動をしており、変化の背景にあるとみられる。〉――
告知する場合、親は自身の思いを伝えるに言葉が必要となるが、思いを伝え切るだけの言葉を創造しなければならない。
告知された子は一般的な子どもとは異なる世界を広げ、異なる経験を積んでいき、そういったことが自身の知識となっていくことになる。
それが彼の生きていくということになる。
父親と血が繋がっていない子供ばかりか、養子という形で、両親と血が繋がっていない子供も世界にはたくさん存在することを教える。アメリカの俳優が自身は白人だが、黒人の子を養子にしていることなどを。
彼ら子どもたちは、血が繋がっていなくても、両親を父親として扱い、母親として扱っていると。
また、父親と血が繋がっていないことが原因して親子の関係が築くことができないとするなら、全然血が繋がっていない男と女は夫婦としての関係を築くことができないことになり、この世に夫婦という存在はないことになることも教えなければならない。
血の違いや趣味や習慣の違いを乗り越えて共に生きていくことを可能としている。片方の親と子が血が繋がっていなくても、両方の親と子が血が繋がっていなくても、それを乗り越えて生きていくことを可能としている。
成長しなければ理解できないことを幼いうちから理解できるように教えることによって、子どもは自身の出自を自覚し、自身が広げていく世界、経験、知識を自覚的に把え、その自覚性が彼なりの世界や知識や経験を尚更に広げていく。
告知する親は告知することによって同時に子どもに一般的な子どもとは当初は異なることになる、生きていくこととはどういうことかを教えることになるはずだ。言葉によってその手助けをする。
言葉を教育の武器としなけれがならない学校教師が生きていくこととはどういうことかも言葉を駆使して教えることができなかったり、生活指導や部活指導で言葉を満足に駆使できず、手で殴ったり足で蹴上げたりするというのは倒錯そのものでしかない。