昨日2月12日(2014年)、衆院予算委員会で石原慎太郎が安倍晋三に靖国参拝に関しての質問を行った。結論を言うと、お互いが靖国参拝を正当化するためにご都合主義だけの自慰的な儀式を行ったに過ぎない。
石原慎太郎「先般、あの、総理がですね、靖国を参拝されたと。これは非常に結構な、大事なことだと思います。
一部の白痴的な売国的なメディアがですね、どっかの国の威光を借りて、キャンキャン言っておりますけれども、こんなことは全く気にする必要はない。
ただですね、総理、えー、日本の一部メディアを含めてですね、外国が靖国の存在というものを忌避する一番の理由は何だと思いますか」
安倍晋三「あのー、靖国、参拝についてはですね、今まで、ま、60回を超える、回数で総理も参拝をしているわけでございすが、基本的には中曽根内閣までは全く議論になっていなかったわけで、ま、ございますが、その後三木内閣のときにですね、私的参拝か公的参拝かという議論が、ま、ございました。
その際はですね、国内的な、あー、あくまでも議論であったわけでございます。そしてご承知のようにA級戦犯が合祀されると、これはA級、B級、C級、全てでありますが、合祀されていった中に於いてですね、特にA級戦犯が合資されるという中に於いて、えー、このA級戦犯が合祀されたあともですね、大平、総理、そして鈴木善幸総理、えー、参拝されましたし、その後、中曽根総理も参拝されています。
えー、そしてまあ、突如、中国がですね、これに対して抗議をしてきたと、いう経緯が、あー、あります。
えー、この日本の、えー、リーダーが靖国に参拝をすると、いう行為について、私は従来から申し上げてきているようにですね、国のために戦った、あー、兵士のために手を合わせ、そして尊崇の念を表し、え、ご冥福をお祈りすると、えー、この行為自体はですね、世界のリーダーに共通する、私は姿勢なんだろうと、えー、こう思うわけでございまして、これからもですね、日本の姿勢そのものについてですね、誤解を解く努力をしていきたいと、このように思っています」
石原慎太郎「大変結構なご答弁で、そのとおりだと思いますけども――」
このあと、東条英機元首相らにA級戦犯として有罪判決を下した東京裁判は虚構だ、何だと、「大変結構な」歴史認識の全開転が続く。
石原慎太郎は耄碌したのか、自分が何を質問したのか忘れたらしく、「大変結構なご答弁で、そのとおりだと思います」と安倍答弁大歓迎の発言をしているが、「外国が靖国の存在というものを忌避する一番の理由は何だと思いますか」と質問したのである。
対して安倍晋三は質問には自分以外の総理が60回も参拝しているとすることで、参拝が自分だけではないことの相対化によって参拝の正当化を図っただけのことで、「忌避する一番の理由」に何ら答えていない。
高校生が教師に喫煙を注意されて、「吸っているのは俺だけじゃない。ほかにも皆んな吸っているじゃないか」と同類を出して正当化するのと同じで、安倍晋三は非常に頭の程度の低い非論理的思考を示したに過ぎない。
そして石原慎太郎も安倍晋三の低程度の非論理的思考に相応じて、自らも程度の低い非論理的思考で応じた。
「外国が靖国の存在というものを忌避する一番の理由」は、靖国参拝が日本の戦前の戦争の侵略性を否定してアジア解放の戦争(=正義の戦争)、あるいは自存自衛の戦争だと美化する行為であり、歴史修正主義だと受け止めているからだろう。
何度でもブログに書いているが、「国のために戦った」と、その戦争犠牲行為を顕彰し(功績・善行を讃えること)、そのような行為を果たした戦没兵士に対して「尊崇の念を表す」(尊〈たっと〉び崇〈あが〉める)ということは兵士自身が自らの有用性の対象とした国家及び国家の戦争にしても、兵士に対して顕彰と誉れを付与するにふさわしい国家の姿をしていなければならないし、戦争の性格をしていなければならない。
日本の戦前の戦争を厳密に侵略戦争だと規定した場合、侵略戦争を起こした国のために侵略戦争を戦った、そのような「兵士のために手を合わせ、そして尊崇の念を表」すといった性格の参拝となって、滑稽な顕彰の構図となる。
だが、滑稽な顕彰の構図としていない以上、日本の戦前の戦争を侵略戦争だと認めていないことになって、この点が戦争の美化、歴史修正主義だとして、外国が「靖国の存在」と言うよりも、参拝そのものを「忌避する一番の理由」であろう。
特にA級戦犯は侵略戦争を主導した犯罪者と見ている。
安倍晋三は自身だけではなく、歴代総理が60回を超える回数で靖国を参拝していると相対化し、引き合いに出すことで自身の参拝を正当化したが、この論理展開には矛盾がある。
安倍晋三は強固な天皇主義者である。既にブログで何度も触れているが、 「皇室の存在は日本の伝統と文化そのもの」と価値つけて、「日本では天皇を縦糸にして歴史という長大なタペストリーが織られてきた」とする歴史認識を自らの思想としている。
だとしたら、昭和天皇は自らが統治する大日本帝国の陸海空軍の統帥者として戦前日本の戦争に深く関わっていたにも関わらず、卜部亮吾(うらべ・りょうご)侍従日記が、「A級戦犯合祀が御意に召さず」と昭和天皇の気持を1988年4月28日の日付で記し、富田朝彦宮内庁長官が、「だから私はあれ以来参拝していない。それが私の心だ」と昭和天皇の言葉を同じ日付の1988年4月28日に書き記したメモを残していることが理由を伝えることになる、A級戦犯が1978年(昭和53年)10月17日に国家の犠牲者「昭和殉難者」として合祀されて以降、その死まで靖国不参拝を貫いた昭和天皇の意思とその意思を継いで不参拝を貫いている今上天皇自身の志(こころざし)を歴代総理の参拝と共に例に挙げて比較対照して安倍晋三自身の参拝正当性を導くべきを、昭和天皇と今上天皇の不参拝を無視して、歴代総理の参拝のみを取り上げて正当化している。
これ程の都合主義はあるだろうか。
いわば天皇主義者である以上、A級戦犯合祀以降の天皇の靖国不参拝をも引き合いに出して、歴代総理の60回を超える参拝との比較の上で自身の参拝の正当性を理由づけなければならないはずだが、都合のいい理由のみの提示で終わらせている。
勿論、そうしたからと言って、「国のために戦った」と兵士を顕彰し、讃えることを通して兵士自身が有用性の対象とした国家及び国家の戦争を肯定的に把えている事実、その歴史認識に変わりはない。
大体がA級戦犯を「昭和殉難者」だと美名を与えて合祀すること自体が戦前の日本の戦争を戦略戦争だと認識せず、自存自衛の戦争、あるいはアジア解放の戦争、いわば正義の戦争と歴史認識している何よりの証明となる。
それならそれで、日本の戦前の戦争は自存自衛の戦争であり、アジア解放の戦争だ、正義の戦争だったと公言すべきだろう。
公言もしないで、間接的・暗喩的に戦略戦争を否定するゴマカシを働いている。
景気回復にばかり目を奪われていると、安倍晋三の危険な正体を見失うことになる。学校教育を通し、公共放送を通し、憲法改正を通して、国家権力を国民統治の支配的力学に位置づけて、個人の活動や基本的人権をその範囲内に閉じ込めていく阿部式現代版国家主義にいつの間にか慣らされるれさせられることになる。