原口一博「この間総理の答弁で、立憲主義って言うのは中世のマグナカルタ時代の権力を縛るものだ。私たちはこれから、理想を書き込むんだと。
【立憲主義】「政治権力の恣意的支配に対抗し、権力を制限しようとする原理をさす」(コトバンク)
政治権力は自分たちの政治を思うがままに進めたい欲求のもと、権力の思うがままの恣意的行使の衝動を常に抱えている。但しそのような権力の行使が国民全体の利益を約束できるならいいが、国民全体の利益代弁者となり得る政治権力は存在しない。
なぜなら、断るまでもなく、国民各階層ごとに利害が異なるからだ。消費税率が上がっても、痛くも痒くもない富裕層とたちまち生活の不安に駆られ、窮屈な生活を送らざるを得なくなる低所得層とでは利害が全く異なるようにである。
そしてそこに消費税増税によって税収を増やすことができる政府の利害が絡む。より強い立場にある政府と政府を常に味方につけたい富裕層の利害が優先されて、低所得層の利害は程々の一時金の供与ぐらいで、無視される。例え軽減税率が採用されたとしても、軽減税率対象の支出が変わらないだけのことで、生活の苦しさに変わりはない。
政治権力それぞれがそれぞれに特定の国民の利益代弁者として存在することも、国民全体の利益を代弁する政治権力が存在しないことの証明となる。
2014年2月20日衆院予算委の午前最後の質問者は原口一博で、安倍晋三に対して立憲主義に対する態度を尋ねた。
理想を書き込むというその憲法観というのは正しい。しかし立憲主義が予定している憲法というのは国民が憲法を縛るもんだ。いくら民主的に選ばれた政権であろうと、間違えることがある。だから、憲法が一定の国民主権のもとに歯止めをかけるものだ。この立憲主義は否定されてはならない。私はそう思います。
現実に今の政党の前身となった立憲改進党や立憲政友会にしても、上に立憲という言葉がついているのですね。総理のおじい様の安倍寛さん、この方も立憲政党に属されておりました。
この立憲主義は総理は否定するものではないんだということはご明言頂けるでしょうか」
安倍晋三「これまで私が一度も立憲主義を否定したことは勿論ないわけでありまして(笑う)、立憲主義のもとに於いて、行政とか、主権者たる国民に対する責任を持って、責任を持って、政治・行政を行っていくわけであります。
立憲主義とはですね、(顔を俯かせて、原稿を読む。)主権者たる国民がその意思に基づき、憲法に於いて国家権力の行使のあり方について定め、これによ り、国民の基本的人権を保障するという近代憲法の基本となる考え方であり、日本国憲法も同様の考え方に立って制定されたものと考えているわけでありまし て、(原稿から離れる。)この立憲主義に基づいて、先ほど申し上げたように行政を行っていくことは当然のことであります。
そして、憲法について、議論の中で出てきたことでありますが、その中に於いてですね,憲法というのは、えー、行政の権力を縛るものだということであります。
勿論、その一面を否定したことは一度もないわけでありますが、それだけではなくてですね、つまり、かつて王政時代に、その王権を縛るという、元々のですね、元々の淵源はあるわけであります。自由と民主主義、そして基本的人権が定着してきた今日に於いてではですね、それのみならずですね、えー、いわば国のあり方、理想についても、それは憲法に於いて新しい憲法を作っていく上に於いては込めていくものであろうと。
えー、事実ですね、日本国憲法に於いても前文があるわけでありまして、例えば、『平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼をして、我が国の生存と安定を保持しようと決意する』と書いてあるわけでございまして、別にこれは権力を縛るためのものではないわけであります。
また、『われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う』とこう書いてあるわけでございます。
これはまさに国のあり方をですね、これについては議論があるところでありますよ。しかしこれは国はどうあるべきだということを、ここに書き込んでいるわけでありまして、ずらずらずらっとですね、ずらずらずらっとひたすら、えー、国家、あるいは政府の権限を、行使について縛りをかけるものだけではないことは申し上げておきたいと思いますし、まさに戦後70年経って、自由・民主主義・基本的人権、これはしっかりと定着した中に於いてですね、21世紀、日本はどうあるべきかという考え方の元に於いて、え、憲法を変えていくという考え方もあってもいいのではないかと。
しかし、それは立憲主義を否定するものではない、中に於いて、それも加味されるものではないかということを申し上げてきたわけでございます」
原口が言っている「マグナカルタ」とは、私は知らなかったので、インターネットで調べた。
〈1215年、イギリスの封建諸侯が国王ジョンに迫り、王権の制限と諸侯の権利を確認させた文書。のちに国王の専制から国民の権利・自由を守るための典拠として取り上げられ、権利請願・権利章典とともにイギリス立憲制の支柱とされる。大憲章。〉(Weblio辞書)
安倍晋三が先に読み上げた日本国憲法の前文は、実際は「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」となっていて、字句が少し違う。趣旨は変わらないが、字句はそのままに参考にしないように。
原口は「理想を書き込むというその憲法観というのは正しい」と言っているが、この男、いつまで経っても単細胞で、それぞれの政治権力がそれぞれの特定階層の利益代弁者である以上、政治権力が描く国家の「理想」は特定階層の利益を代弁する「理想」を、少なくとも優先させる傾向を持つ。
つまり、「理想」はいく種類もあるということである。国家主義者の安倍晋三は国家主義優先の「理想」を憲法に書き込みたい衝動を抱えていないはずはない。この「理想」は、当然、一般国民の「理想」足り得ない。
このことは安倍晋三の答弁が証明することになる。
国家主義者安倍晋三は「これまで私が一度も立憲主義を否定したことは勿論ないわけでありまして」と、立憲主義に立っていることを言明しているが、国家主義者が立憲主義に立つということは矛盾そのもので、国家主義を自ら否定することになる。
二日前程の当ブログに安倍晋三の国家主義について次のように書いた。
〈現代の国家主義者とは、国の形を優先させ、国民を国の形に従属させる考え方を言う。GDPやGNP等の経済成長率の規模、輸出入の量と金額の規模、外貨準備高の金額規模、貿易黒字額の規模等々、このような国の形を優先させて、中身の国民はこれら国の形を表現する各項目の規模拡大に貢献する素材に過ぎない。〉と。
国家主義者安倍晋三の「理想」はこのような国の形優先の国家主義にあるはずである。
安倍晋三は現在の日本国憲法を改正して、「国のあり方、理想」を書き込みたいと言っているが、当然、国の形優先の「国のあり方、理想」ということになる。
このことは厳密には国民の側に立って「政治権力の恣意的支配に対抗し、権力を制限しようとする原理」たる立憲主義に反することになって、「これまで私が一度も立憲主義を否定したことは勿論ないわけでありまして」の発言をウソにすることになる。
但し、安倍晋三は今の時代の憲法は国家権力を縛るという側面のみを有しているわけではないと言い、その理由として、現在「自由と民主主義、そして基本的人権が定着してきた」ことを挙げている。
だが、この前提そのものが間違えていることに気づかない頭の悪さを提示している。
確かに現在の日本では自由と民主主義、そして基本的人権が定着してきている。だが、安倍晋三みたいな復古主義に彩られた国家優先・国民従属の国家主義者が現在政治権力を強力に握っているのである。その国家主義のもと、日本が戦前返りの危険な方向に進まない保証はない。
安倍晋三はまた熱烈な天皇主義者でもある。戦前のように天皇の権威を背景として支配権力が独断で思いのままに事を決する専制政治(=独裁政治)が戦後の日本に亡霊の如くに蘇らない保証もない。
このような保証がないことへの危機意識を持つことが、あるいは危機意識を忘れないことが自由と民主主義、そして基本的人権を守っていく上での常なる危機管理であるはずである。
専制政治(=独裁政治)とまで極端な方向にブレなくても、権力の恣(ほしいまま)は国民の権利を制限することによって手に入れることが可能となる逆説性から言って、基本的人権がどこでどう制限を受けることになるかは予断を許さない。
このことは自民党「日本国憲法改正草案」が証明してくれる。
現「日本国憲法」の「第3章 国民の権利及び義務 第12条」
「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。」
単に自由と権利の濫用の戒めと、公共の福祉のための利用を訴えているのみで、「自由及び権利」そのものに何ら制限を加えていない。
自民党「日本国憲法改正草案 第3章 国民の権利及び義務 第12条」
「国民の責務 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力により、保持されなければならない。国民は、これを濫用してはならず、自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し、常に公益及び公の秩序に反してはならない。」
「自由及び権利」は「常に公益及び公の秩序に反してはならない」「国民の責務」だとしている。
「公益及び公の秩序」は時代によっても性格や内容が異なり、当然、時の国家権力の考え方一つで、「公益及び公の秩序」は異なる姿を取る。当然、何を以て公益とするか、何を以て公の秩序とするかは、時代時代の社会的風潮や時代時代の権力の性格・考え方によって異なり、その絶対的決まりはないことになる。
いわば「公益及び公の秩序」はその時代の国家権力が決めことができることになって、「公益及び公の秩序」を優先させた場合、そのことへの縛りは国民の権利を制限することによって完成するのだから、自民党「日本国憲法改正草案」が国民の基本的人権を制限する条文を含んでいないと確証を与えることはできない。
この点からも、安倍晋三が頭悪く言っている「自由と民主主義、そして基本的人権が定着してきた」云々は専制政治、あるいは専制的な性格を持った政治の出現は、いわば国家権力の間違いは決してあり得ないとすることができない危険性に対する危機管理意識を欠いた立憲主義観・憲法観と言うことになる。
安倍晋三は現日本国憲法にしても、国家権力を縛るという側面のみで成り立っているわけではないと、その前文を例にして説明している。
安倍晋三「『平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼をして、我が国の生存と安定を保持しようと決意する』と書いてあるわけでございまして、別にこれは権力を縛るためのものではないわけであります」云々。
どういう頭で解釈したのか分からないが、国家権力に対して、世界に向けてこのような国家経営に努めなさい、このような国の姿を取りなさいと、権力に対して縛りをかけている条文であるはずである。
そしてこの条文は誰の目にも明らかなように戦前日本国家の侵略戦争を反省材料として成り立たせた戦後日本国家に対する縛りであろう。
さらに安倍晋三は日本国憲法の前文の一節、「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う」を取り上げて、色々と議論があるがとしながらも、自身の解釈として、「国はどうあるべき」の「国のあり方」を書いた一節であって、間接的に憲法というものが国家権力を縛るだけのものではないことを訴えている。
大体が「国のあり方」自体に国家権力の恣意的行使に対する縛り・制約が含まれていることに気づかない。
「国のあり方」はどのようなあり方でもいいとする言葉として利用されているわけではない。日本国憲法前文は「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占め」る「国のあり方」を求めているのである。
この要求が国家権力に対する縛りでなくて、何だと言うのだろうか。
いわば、「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会」に倣えと言っているのであって、国家権力に対する縛りであると同時に、国家権力がそのような国の姿を選択すること自体が平和の維持、専制と隷従、圧迫と偏狭の除去の保障となり、その保障こそが国民の基本的人権と自由、民主主義の保障になるとの意味を含ませているはずだ。
安倍晋三は最後に、「自由・民主主義・基本的人権、これはしっかりと定着した中に於いてですね、21世紀、日本はどうあるべきかという考え方の元に於いて、え、憲法を変えていくという考え方もあってもいいのではないか」と宣(のたまわ)って、理想の国のあり方も憲法に書き込む意思を覗かせているが、既に触れたように「国のあり方」がどのようなあり方でもいいとする言葉として利用されているわけではない以上、時の政治権力者の政治思想・歴史認識を問題としない、自身のみが理想だとする 「国のあり方」は必然的に危険な方向性を取らない保証はない。
安倍晋三は好んで「国民の生命・財産を守る」という言葉を使う。2月半ばに各地が豪雪に見舞われて、住民が地域ごとに雪の中に閉じ込められたとき、「今後とも関係する地方公共団体と連携を密にして、関係省庁一体となって国民の生命、財産を守るために、対応に万全を期していきたい」(NHK NEWS WEB)と国会答弁している。
「国民の生命・財産を守る」という言葉が大上段に構えた大袈裟な言い方に思えたのは、野党から対応遅れを批判されていて、それを打ち消すために大袈裟な言い方になったのかもしれない。
「国民の生命・財産を守る」とは、単に生きている状態や生活できる財産状態を保障することを言っているわけではあるまい。自由・民主主義・基本的人権を保障した国民の生命・財産でなければ、守っていることにはならない生命・財産となるし、価値ある生命・財産とはならないことは北朝鮮の国家権力と北朝鮮人民を見れば簡単に理解できる。
いわば国民の生命・財産の保障とは自由・民主主義・基本的人権の保障をも含んでいなければならないのであって、この保障は憲法によって保障される。
言葉を替えて言うなら、憲法が保障する国民の生命・財産の保障と自由・民主主義・基本的人権の保障であって、国家権力は憲法に基づいて国民の生命・財産の保障と自由・民主主義・基本的人権の保障に務める責務を負っているのであり、国家権力そのものが両者を保障しているわけではない。
国家権力次第の保障は非常に危険であるために、立憲主義に基づいた憲法に委ねることになったはずだ。
この保障の関係にしても、国家権力に対する縛り・制約を基本的力学としている。
当然、安倍晋三が単細胞に「自由・民主主義・基本的人権、これはしっかりと定着した」からと言って、憲法に与えられている立憲主義の原理は変わることはないし、変えることはできない。
にも関わらず、安倍晋三が憲法は「国家、あるいは政府の権限を、行使について縛りをかけるものだけではない」と言っていることと定着発言から、好んで言っている「国民の生命・財産を守る」の言葉にしても、単に一国のリーダーの務めとしてのみ見ていて、憲法が国家権力に対する縛り・制約として定めている自由・民主主義・基本的人権の保障に基づいた国民の生命・財産の保障であるとする認識を欠落させているらしい。
繰返しになるが、例え国家権力が理想とする「国のあり方」を憲法に書き込むとしても、どのような「国のあり方」であろうと、国家権力の恣意的行使の縛り・制約を埋め込んだ「国のあり方」から外れてはならない。
安倍晋三自身が復古主義の国家主義者だから、専制政治、あるいは専制的な性格を持った国家権力の決して否定はできない危険な出現に対する危機管理意識を持つことができないでいるのだろう。