【謝罪】
前日のブログ――《西東京市14歳中学生虐待首吊り自殺は大人たちの生命(いのち)に対する想像力欠如・怠慢が導いた - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》で、14歳中学生が自殺したのは義理の父親から殴られた後、「24時間以内に首でも吊って死んでくれ」と言われた当日の先月「7月30日」としてしまいまいましたが、言われたのは前日の「7月29日」でした。謝罪し、訂正しておきました。
西東京市の中2男子生徒が継父から虐待を受け、首吊り自殺した事件でマスコミが新たな事実を伝えている。
これまで警察の取調べて判明し、マスコミが伝えていた継父やその他の発言と新たに判明してマスコミが伝えている事実から、学校と担任の対応に焦点を当てて書いてみたいと思う。
継父(警察の取調べに)「一緒に暮らし始めてから、強くするために殴っていた」(読売テレビ)
4年前に男は子どものいるシングルマザーと結婚した。
最初は女性側の連れ子に対する愛情から事実そのとおりであったかもしれない。だが、7月29日に殴った後、「24時間以内に首でも吊って死んでくれ」と死の宣告をする程にも憎悪の対象としていた。
「強くするために殴っていた」という供述は「NHK NEWS WEB」記事では、男はボクシング経験者で、「ボクシングのグローブをはめて長男を殴った。これまでも強くするために殴った」となっていて、正当性をより強めた男の発言となっている。
学校の担任が中2男子の顔のアザに最初に気づいたのは、「asahi.com」記事――《継父の暴力、学校は把握 児相に通告せず 中2虐待自殺》(2014年8月2日15時20分)によると、昨年10~11月頃となっている。時期に幅があるのは担任の記憶に頼った日付だからだろう。
きちんと記録して置かなかったのだろうか。もし担任が虐待の主たるパターンの一つとして男が再婚や同居した女性の連れ子に加えやすいことを頻繁な事例として把握していたなら、万が一の事を考える危機管理意識から、きちんと記録して置いたはずだ。
だが、記録して置かなかった。
担任が生徒に尋ねると、生徒は「継父から暴力を受けた」と話した。担任は「暴力を受けた」理由と初めてのことなのか、よくあることなのか尋ねたのだろうか。記事は何も触れていないが、常識的には尋ねなければならない。
〈学校は母親に医者へ連れて行くよう伝え、母親が了解したため、様子を見ようと判断した〉。
記事のこの説明からすると、学校は大した問題ではないと解釈した。だから、児童相談所に届けなかったのだろう。「暴力を受けた」理由を聞いていたとしても、生徒は父親ではなく、自分が悪いことをしたか、あるいは自分がヘマしたようなことを答えていたのかもしれない。
だが、父親の再度の暴力を恐れて父親に関して否定的なことは言わずに自分の責任とすることも虐待でよく見るパターンである。
担任はこのことを認識していたのだろうか。
従来の虐待の例からすると、怪我の理由を自転車で転んだ、とか、椅子の角に頭をぶっつけたとか、階段から滑ったといったウソの理由が使われている。
二度目に顔のアザに気づいたのは今年4月。生徒は継父の暴力と説明。昨年10~11月頃に受けたアザの時と同じ説明をしたことになる。
中2男子「いつもではないので大丈夫」
継父の暴力であることを完全には訴え切ることができない生徒の心理を窺うことができる。勿論この生徒心理に対する観察は継父の暴力の繰返しよる虐待自殺と知った上での結果から振り返った観察でもあるが、虐待が起こりやすいパターンや虐待を受けている側の児童・生徒が話すアザや怪我の理由のパターンを心得ていたなら、児童・生徒の心理に先回りすることもできるはずだ。
勿論、先回りが常に正しいとは限らないが、児童・生徒になお説明を求めることによって、少なくとも正しいか間違っているかの検証を行うことができる。
中2男子が言うように継父の暴力が「いつもではない」が事実であったとしても、昨年の10~11月頃から二度続けて“顔にアザ”と言うのは重大である。例え「ボクシングのグローブをはめて」、「強くするために殴った」ことであっても、許されることではない。
このことの理由は後で言う。
学校は継父から話を聴いた。
記事。〈「子どもを強くしたい」などと説明を受け、特段の対応は取らなかった。〉
要するにボクシングの練習で、強くしたいがためについ力が入って顔を殴ってしまったといった説明を受けたのだろう。
学校は虐待のパターンを疑ってかかることもせずに、男が言ったことを素直に真に受けたことになる。
8月1日夜、校長が記者会見。
校長「子どもを育てる熱意が強いと担任は感じた。学校側の判断が甘かった」――
無料の「asahi.com」記事はここまでの記述となっている。
担任は中2男子生徒が顔のアザの原因を「父親の暴力」と言っているのに対して、継父を暴力を振るうような人物ではなく、体育会系の教育熱心な人物と見ていたことになる。
いわば虐待のパターンを些かも疑っていなかった。児童・生徒の生命(いのち)に対する想像力も、虐待やイジメに対する危機管理意識も窺うことができない。
「子どもを育てる熱意が強い」継父像は担任が自身の責任逃れのためにつくり上げた虚構ということもあり得る。虚構の人物像の創造は、実像からはそのようなことをするようには見えなかったとすることができる責任回避のパターンの一つとなっている。
男子生徒は既に自ら命を絶っている。いわば死人に口なしで、学校・担任は後からどうとでも付け加えることができる。
「MSN産経」記事は、「長男にも自分を殴らせていた。練習のつもりだった」と、お互いが殴り・殴り合う、あくまでもボクシングの練習であって、虐待であることを否定している継父の発言を伝えている。
継父は多分、2度目のアザで学校から事情を聞かれたとき、同じようなことを答えていたのだろう。
暴力は男が子ども連れのシングルマザーと結婚した4年前からだと警察の取調べに対して供述したとマスコミは伝え、「MSN産経」記事が、「3~4年前に暴行が始まり、今年6月中旬からエスカレートした」と母親の言葉を伝えている。
つまり継父が提示している正当性に立って計算すると、小学校4年生か、5年生の時からグローブをはめてボクシングの練習を始めたことになる。だが、小学校4年生か、5年生の初心者がボクシングを学ぶためにはグローブの構え方、上体や腰の屈め方、パンチの繰り出し方、足の位置と踏み出し方などから学び始めなければない。これらを全体的により実践的に学ぶために父親が子どものパンチを受けるためのパンチングミットを両手にはめて、子どものパンチを受けながら子どもの動きを点検し、より正しい構え方、より正しいパンチの繰り出し方といった基礎を先ず教える必要があり、子供の方も基礎を学ぶことから始めなければならないはずだ。
もしこういった方法を採らずに双方がグローブをはめて殴り合うことから始めるとしたら、年齢差による体力差と継父がボクシング経験者であったことによる技術差を考えて、子どもの頭部と耳と顔を保護するヘッドギアを着用させなければ、練習とは言えない。念には念を入れるとなったなら、野球の審判が胸の保護に着用するような胸部プロテクターもボクシングの練習では使う。
もし真にボクシングを覚えさせて、強くしたいと思ったなら、継父はこのように基礎の基礎から始めなければならないし、子どもの方も基礎の基礎から始めることになったろう。
あるいは百歩譲って、子どもに防護具を着用させない練習であったとしても、同じ年令の子がボクシングで殴り合うように継父は極度に手加減をしなければならなかったはずだ。
例えば父親が子どもをバッターボックスに立たせて自分がピッチャーを務めるとき、父親が持てる最大限の豪速球を投げるだろうか。相手が打てる程度のスピードの球を投げるはずで、子どもが幼ければ、近い場所から、下手から緩いボールを投げるといった手加減をすることから始めるのがごくごく常識的な方法である。
いずれかの方法を採っていたなら、できるはずもない顔のアザを2度も見かけるということはないはずだが、子どもの身体には顔のアザを含めてなのか、数十か所に上っていたと「NHK NEWS WEB」記事は伝えている。
学校・担任が年少の初心者に対するボクシングの練習がこのような方法を採用することを知らなくても、男子生徒が少なくとも顔に2度目のアザをこしらえたとき、生徒が継父の暴力と説明している以上、年少者に対するボクシングの練習で顔にアザをこしらえるものなのか、ボクシングに詳しい誰かに聞く程の児童・生徒の生命(いのち)に対する想像力を発揮すべきだった。
したことは父親の説明を真に受けて、何の対応も取らなかったことである。
大体が「強くするために殴っ」て、真に人間的に強くなるのかどうか教育面から考えたのだろうか。
殴られて獲得する精神的な強さ、あるいは技術の獲得は受け身の非自律性の性格を正体とすることになる。例え指導を受ける身であっても、自身の可能性として目指す技術を自ら進んで獲得して、そのことに自信を得て精神的にも強くなる積極的で自律的な性格を正体とするわけではない。
学校の部活でも、それが体罰に当たると理解もせずに、“強くするために殴る”指導が横行し、生徒は“殴られて強くなる”他律性の力学に呪縛され、支配されていたから、体罰は恒常化することになった。
自律的に獲得した自律的な技術であるなら、例えまずいプレーをしたとしても、自律的に修正できるが、他律性を性格とした技術であるなら、まずいプレーをしたとき、その修正に於いても他律性を必要とすることになる。
監督や顧問が試合を継続させたまま罵倒してしっかりさせようとしたり、あるいはタイムを求めて選手を集め、相手選手や観客の目があるにも関わらず平手打ちの懲罰を与えてしっかりしろと叱咤したりして発奮させる、体罰を通した他律性を演じなければならないことになる。
要するに学校・担任は虐待のパターンや、実際には虐待であるにも関わらず虐待を受ける側の児童・生徒の虐待を否定するパターンを考えることもせず、“強くするために殴る”指導が真に教育的に正当化され得るのかどうかも考えることもせず、「子どもを育てる熱意が強い」継父像をつくり上げたということは、事実そのとおりだと錯覚していたとしても、結果的に男子生徒の自殺に対して学校・担任は責任回避の正当化を謀ったことになる。
例えどのように正当化を謀ったとしても、自殺した生徒が既に死人に口なしである。どのようにも責任回避の正当化を図ることができる。