安倍晋三の高度成長の土台を作ったのは岸信介と言う大ウソ 朝鮮戦争特需が土台を担った

2014-08-10 09:16:31 | Weblog


 安倍晋三が月刊誌「文芸春秋」寄稿論文で、〈祖父の岸信介首相の内閣が国民皆年金や皆保険制度など「重要な社会保障制度」を整備したことを挙げて〉、次のように祖父の業績を強調したという。

 安倍晋三「社会保障制度の整備と日米安保という土台づくりの上に、その後の池田勇人、佐藤栄作政権における高度成長があったことを忘れてはならない」

 《「高度成長の土台つくった」=安倍首相、祖父の業績強調》時事ドットコム/2014/08/07-19:56)

 安倍晋三「(安全保障と経済は)極めて密接であり裏腹な関係にある」――

 記事は末尾で、〈父の晋太郎氏が岸氏に「得意な経済で勝負しましょう」と強く進言したのに対し、岸氏が「確かに経済政策は重要だ。しかし、同時に安全保障は国の基本である」として、日米安全保障条約の改定に決意を示した場面があったことも明かしている。〉と解説している。

 安倍晋三は血がつながっている岸信介を持ち上げることで北朝鮮の金日成・金正日・金正恩親子三代が自分たち権力の正統性の手段としているように血の正統性を打ち立てようとでもしているのだろうか。

 だが、日本の高度成長の土台を作ったのは岸信介ではないし、他の自民党の総理大臣でもない。広く知れ渡っているように朝鮮戦争が日本の経済に最大の恩恵としてもたらした特需であることを改めて記さなければならない。

 岸信介の在任は1957年2月25日~1960年7月19日まで。朝鮮戦争は1950年(昭和25年)6月25日に勃発、1953年7月27日に休戦協定を締結している。

 朝鮮戦争前の日本の経済は敗戦(1945年(昭和20年))の影響でただでさえ壊滅状態にあったところへドッジ不況が加わって、最悪の不景気状況にあった。GHQ経済顧問ジョセフ=ドッジが戦後の日本経済の自立と安定を目的にインフレ収束と企業経営の合理化、資本の蓄積を柱として立案・勧告し、ドッジ・ラインとして1949年(昭和24年)3月7日に実施した財政金融引締め政策は戦後のインフレを収束させたが、逆にデフレを進行させて、失業や倒産が相次いだ。

 そしてドッジ・ライン1949年実施の翌年1950年(昭和25年)6月25日に朝鮮戦争(1953年7月27日休戦)勃発。

 《『日本経済史』》に次のような記述がある。

 〈1.戦後経済復興期
 太平洋戦争により、平和的国富(非軍事のストック)の被害率は25%となり、鉱工業生産は戦前の1/10となり、その後も1/3前後で推移した。

 戦後の混乱への対策としては、1946年の金融緊急措置(インフレ阻止のための通貨量削減)、1949年以降のドッジ・ラインによる超均衡予算によるインフレ対策、そして重要産業への傾斜生産方式による基礎的生産能力の強化などがあげられる。また、戦前経済の反省と脱却のため、根本的な構造改革が行われた。第一は、財閥の解体である。1947年に、83社の財閥の解体が行われ、独占禁止法と過度経済力集中排除法が制定された。第二は、農地改革である。農地の多くが、それまでの小作農民に売り渡された。第三は、労働改革である。労働者の地位向上のため、労働三法(1945年の労働組合法、1946年の労働関係調整法、1947年の労働基準法)が制定された。

 生産の戦前水準への回復は、1950年に勃発した朝鮮戦争の特需が主な要因となった。日本の産業界は、アメリカ軍から大量の軍需物資の発注を受け、輸出も急増した。その結果、1951年には、鉱工業生産指数、実質個人消費、民間投資が戦前の35年水準に回復し、1952年には実質国民総生産、実質賃金(製造業)が、同水準に回復した。こうして、戦後の混乱期からの復興をほぼ果たし、1955年からの本格的な高度経済成長過程となるのである。そして、1956年の経済白書では、「もはや戦後ではない」と宣言された。 〉――

 1950年(昭和25年)6月25日の朝鮮戦争勃発翌年の1951年には、鉱工業生産指数、実質個人消費、民間投資が戦前1935年の水準に、たったの1年で一気に回復したのである。

 朝鮮戦争特需による日本の復興の何よりの象徴は、誰もが指摘しているトヨタ自動車であろう。

 『トヨタ自動車75年史』 「朝鮮戦争による特需の発生」》は次のように述べている。 

 〈1950(昭和25)年6月25日、朝鮮半島で朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の軍隊が北緯38度線を越え、大韓民国(韓国)に侵攻した。朝鮮戦争の勃発である。

 韓国軍の装備を早急に補うため、戦場に最も近い日本の工業力が利用され、同年7月10日には早くも米国第8軍調達部からトラックの引き合いがあった。トヨタでは、BM型トラック1,000台を受注し、7月31日にトヨタ自工・自販共同で契約を締結した。納入は、翌8月に200台、9月と10月に各400台であった。その後もトヨタは、8月29日に2,329台、翌1951年3月1日に1,350台と合計4,679台のBM型トラックを受注した。金額にすると36億600万円である。

 このような特需の発生に対して、トヨタ自工では生産計画を月産650台から1,000台へと引き上げた。要員については、現有人員による2時間残業で対応し、また計画中であったBM型トラックのBX型への切り替えは、特需車両の完納後まで繰り延べることとした。〉――

 朝鮮戦争特需の恩恵によって生産台数の急速な回復を見て取ることができる。

 その結果、〈トヨタ自工は、ドッジ・ラインの影響で深刻な経営危機に陥り、人員整理にまで手をつけなければならなかったが、朝鮮特需を契機に業績は好転し、新たな一歩を踏み出すことができたのである。〉

 倒産寸前であったが、朝鮮戦争特需が息を吹き返すに役立った。勿論戦争が終結すれば、生産側にとっての戦争による生産→破壊→生産→破壊の好循環は停止を受け、その反動としての不況に見舞われることになって一時的に国全体としての実質経済成長率を下げることになるが、特需によって獲得した莫大な利益を資本の蓄積に回すと同時に技術革新と設備投資を図ることで生産活動を活発化させ、朝鮮戦争休戦1953年2年後の1954年12月から1957年6月まで神武景気と名づけた好景気を迎えることができ、日本は順調に高度成長へと向けて発展することができた。

 岸信介が首相に就任したのは1957年2月25日だから、日本の経済が絶好の位置につけていたときである。潤沢な国家予算を背景とすることができたのである。

 全ては朝鮮戦争特需が日本の戦後経済復興のスタートであって、特需がなければ、息を切らせていた可能性は否定できない。そして1960年代になると、1964年からのアメリカの本格介入から1975年終結までのベトナム戦争を受けた1970年代前半までの戦争特需によって日本の経済は再度のテコ入れを受けることになった。

 日本の経済にとってある意味、戦争様々であった。尤も戦前の戦争で日本の国力を壊滅させたことを考えると、戦後の2度の戦争特需は皮肉な巡り合わせとも言うことができる。

 安倍晋三が言うように祖父の岸信介が手がけた「社会保障制度の整備と日米安保という土台づくりの上に、その後の池田勇人、佐藤栄作政権における高度成長があった』というのは真っ赤な大ウソに過ぎない。

 朝鮮戦争特需が深刻な経営危機に陥っていたトヨタ自動車の息を吹き返させ、世界のトヨタへの階段を駆け上っていくスタートとなったように日本経済も朝鮮戦争特需が鉱工業生産指数、実質個人消費、民間投資を一気に戦前の水準に回復させて、その後の高度経済成長のスタートとさせしめことは忘れてはならない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする