自民神奈川県議小島健一の「基地外」発言が「気狂い」の意味か否かは思想・信条の自由に関わる論理が証明

2016-05-26 09:01:08 | Weblog


 自民党神奈川県議の小島健一(53)が 東京都千代田区九段の靖國会館で開催の「沖縄県祖国復帰44周年記念 日本民族団結靖國集会」で挨拶、沖縄の米軍基地の周囲で基地反対のデモを行っている人々を「基地外」と形容して呼んだことが現在、ネットで話題となっている。

 話題となったイキサツはネットで調べてみると、主に政治・社会・環境問題を扱う週刊誌『週刊金曜日』がこの発言を取り上げ、沖縄の2紙その他が続き、「基地外」を「キチガイ」(=気狂い)の意味で把えて報道したことからであるようだ。

 小島健一は果たして基地反対派を他意はなしに漢字通りに「基地外」と表現したのか、「気狂い」の意味を持たせて口にしたのか、各マスコミ報道からどちらなのか見てみる。

 先ず「47NEWS」記事が伝えている挨拶での発言。

 小島健一「沖縄の基地の周りには基地反対やオスプレイ反対と毎日のように騒いでいる人がいる。基地の外にいる人ということで私は『基地外の方』と呼んでいる」

 共同通信の取材に対する発言。

 小島健一「『基地外』のイントネーションに気を付けており、差別発言ではない」

 例え「基地外」が漢字通りの意味であったとしても、基地反対派を「騒いでいる人」と表現するのは自分たちの思想・信条のみを立派だと価値づけ、反対派の思想・信条を蔑んでいるに等しく、そこには否応もなしに排除の論理を存在させている。

 排除は行き過ぎると、独裁に行き着く。自分たちの思想・信条に反する思想・信条への弾圧となって現れる。

 もし基地反対派を「騒いでいる人」と表現することが許されるなら、小島健一自身にしても何かに反対した場合、「騒いでいる人」と表現されても許さなければならないことになり、何かに賛成した場合でも、反対派から「騒いでいる人」と表現されても許さなければならないことになって、それぞれの思想・信条が持つ正当性は秩序を失うことになる。

 民主主義は多数決を原則としているが、多数を形成することができなかったからといって、その思想・信条まで否定されたわけではない。否決と否定は非なるものである。

 要するに小島健一は基地反対派の思想・信条の自由を、それを否定することができるわけでもないにも関わらず、「騒いでいる人」と表現することによって、少なくとも否定の意図を露わにした。

 このように基地反対派を「騒いでいる人」と表現している関連から言っても、「基地外」は同じ読みの「気狂い」を意味させていた疑いが濃い。イントネーションに気をつけたこと自体が「気狂い」を頭に置いていた証拠となる。

 当然のことだが、本人は否定している。

 小島健一「基地の中の方は『基地内の方』で、その反対のことを言っただけ。(『基地外』という)漢字表記の意味で発言しており、差別的な意図は全くない」(産経ニュースニュース/2016.5.25 07:42)  

 小島健一は「沖縄の基地の周りには基地反対やオスプレイ反対と毎日のように騒いでいる人」――いわば基地反対派を「基地外の方」と形容したのである。

 基地反対派の対義語は基地賛成派となる。それを「基地内の方」と形容する。位置的用語に過ぎない「基地内」という言葉のどこに基地賛成の意味を含んでいると言うことができるのだろうか。

 もし米軍基地内に存在する米軍兵士、軍属、日本人従業員全てを基地賛成派――「基地内の方」だとするなら、このこと自体無理があるが、基地外に存在する全ての人間を基地反対派――「基地外の方」だとしなければ整合性を得ることができない。

 だが、実際には基地外にいる人間の中には基地賛成派も存在する。基地内の人間にしても基地には反対だが、生活上止むを得ず職業としているというケースも存在するはずだ。

 「気狂い」の意味に誤解されれないようにイントネーションに気をつけたに過ぎないと強弁するかもしれない。

 ではなぜ無理な用語でしかない「基地外」という言葉を基地反対派に当てたのだろうか。極く一般的に「基地反対派」と表現すれば十分に通じるにも関わらず、わざわざ 「基地外」という漢字を当てた。それもイントネーションに気をつけながら。

 意図的な用法でなければ使うことのできない言葉であるはずだ。 

 小島健一は基地反対派を気狂いと断罪することによって日本国憲法が保障する思想・信条の自由ばかりか、集会の自由まで否定しようとしたのである。

 単に「基地外」の表現は「気狂い」を意図した言葉なのかどうかの問題で終わらない。

 「The Huffington Post」/2016年05月24日 12時22分) が各新聞が取材した小島健一の発言を伝えている。

 小島健一「『基地外』と言っている。ちゃんとイントネーションを変えて発言している。どう想像するかは別だが、差別的な発言はしないように考えている。失言とは考えていない」(神奈川新聞

 小島健一「私は差別主義者ではない。基地の外で反対運動しているのは好ましいとは思わないし、批判の対象だと思っている。それ以上の意味はない」(沖縄タイムス

 そして5月8日投稿の小島健一自身のフェイスブックの発言を伝えている。

 小島健一「あまり言うと差別と言われるかもしれませんけれども、沖縄には沖縄の琉球新報と、そして、沖縄タイムスという、非常にその、明らかにおかしい新聞がございますが、これを、『潰れろ』と言って非常に非難を浴びた有名な作家の方もいらっしゃいますが、これは本当に、潰れたほうがいいと思っております。神奈川にも、神奈川新聞という三流左翼新聞がございまして、これと私、今戦っているところであります」――

 自身の思想・信条に反するからと言って、「潰れたほうがいい」と、思想・信条の自由に深く関係するマスメディアに保障された表現の自由・報道の自由に対する抹消願望を露骨に見せている。

 小島健一がこういった思想の持ち主であるからこそ、その思想の反映として、沖縄の基地反対が思想・信条の自由、更には集会の自由に基づいた基本的人権行為であるにも関わらず、反対派を「騒いでいる人」と蔑視することができ、一般的ではない無理な用語まで使って、実際は「気狂い」を意味させた「基地外」という表現を基地反対派に当てることができたと見ないことには、小島健一の思想そのものが終始一貫しないことになる。

 小島健一がどう言いくるめようと、どう言い逃れようと、「基地外」は「気狂い」の意味を持たせた言葉でしかない。

 「気狂い」とすることによって、自身の思想・信条に反する思想・信条に対して排除の論理を働かせていることの証明がつく。

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