ベッキーの不倫騒動に対する社会的制裁とそれがない桂文枝の不倫騒動に男女格差を見る

2016-05-10 09:33:40 | Weblog


 遅ればせながらテレビのワイドショーを賑わしたタレント・ベッキーの不倫騒動に参戦したいと思う。「ゲスの極み乙女。」なるバンドのボーカルの妻帯者である川谷絵音との不倫を『週刊文春』がスクープ。

 「Wikipedia」の記述。

 〈2016年1月、交際相手だったされたが、その後の記者会見にて「ただの友達」であると釈明した。しかし、契約中であった10本のCMは一部がこの騒動を理由に打ち切られ、それ以外は契約が更新されない見通しとなった。その後、2016年1月30日より休業することが発表された。〉――

 このコマーシャル打ち切りや出演テレビ番組への出演のお断りは不倫に対する制裁に当たる。いわば不倫を人の道に外れた行為だとタブー視していて、これらの制裁を科した。

 そして報道側のこのような制裁はテレビ等の報道が社会全般に向けられている性質上、否応もなしに社会的な制裁の形を取り、特に現在のネット社会では多くの人間を敵に回すことになる。

 いわばテレビ側が一人のタレントに対して番組への出演を辞退させる、あるいは出演を拒否して干すということはテレビ局のみの制裁で終わらず、そのタレントに社会的な制裁を科したことになる。

 勿論、テレビ局はスポンサーの意向を窺わなければない立場にある。不倫が商品のイメージに反するということになれば、コマーシャルを打ち切らざるを得ないだろう。テレビ局、業界共々、社会的制裁の輪を形成することになる。

 だとしても、このような制裁に男女格差があっていいものだろうか。

 2009年12月の「ブログ」で次のようなことを書いた。   

 〈「不倫は日本の文化だ」とすると、外国には存在しない文化ということになる。だがアメリカだろうがフランスだろうが、イタリアだろうが、その当事者がイタリアの首相であっても、不倫は堂々と存在する。

 ・・・・・・・・

 最近の不倫ではモナ騒動があり、彼女はなぜか芸能界活動の謹慎を強いられたが、この不倫で謹慎という文化こそ日本の専売特許のように思えるが、誰が誰と不倫しようがしまいがどうでもいいことで、不倫に関わる言葉が合理的な言葉になっているかどうかの点だけは気になる。

 世界中に不倫は存在するのだから、「不倫は日本の文化だ」は合理的な言葉だと言えるだろうか。

 「不倫は日本の文化だ」から、「不倫は男と女の文化だ」と言い直すことによって合理的な言葉となり得るように思える。

 いわば古今東西、どこの国と関係なしに男と女の文化だと。もっと大きく言うと、「人類の文化」だと言える。このように言うことによって、漏れのない整合性を持った全くの合理性を獲ち得ることになるが、どうだろうか。

 尤も「人類の文化」だとしても、社会的タブーとなっているのも事実である。〉――

 不倫で謹慎という日本の専売特許のように思える文化は男性よりも女性に比重がかかっているように見えてならない。不倫を人の道に外れた行為だとタブー視して社会的制裁を科すなら、不倫が女性のみで成り立たず、あるいは男性のみで成り立たず、異性が加わって初めて成り立つ以上、男女同罪としなければならないはずだ。

 相手の男性に同等の制裁を科すと言うことだけではなく、異なる男女の不倫に関しても、その男性に対して遜色のない制裁を与えてこそ、男女格差のない男女同罪とすることができる。

 ところが、2月発売の「FRIDAY」がテレビで活躍する落語家・タレントの桂文枝の20年不倫を報じた。相手は38歳の演歌歌手とかで、現在72歳の桂文枝が52歳の時から、現在38歳の相手の女性が18歳の時から20年続いていたという。

 桂文枝は長年連れ添った妻がいる。人の道に外れた同じ不倫であるはずだが、テレビ局の制裁も受けず、スポンサーの制裁も受けずにテレビ番組に出演し続けている。いわば社会的な制裁は一切なしとなっている。

 いわばベッキーの不倫は人の道に外れているが、桂文枝の不倫は人の道に外れていないことと意味づけていることになる。

 同じ人の道に外れてはいるものの、桂文枝が長年テレビ界で活躍していて、それなりの権力を得ているから、ベッキーのテレビ業界やスポンサー業界に与える影響力とは桁違いで、手出しはできないということなのだろうか。

 どのような事情はあれ、テレビ業界やスポンサー業界は不倫に対する社会的制裁に男女格差をつけていることになる。決して男女平等の制裁ではない。日本の社会は全体的に女性の過ちに厳しい。

 このような女性の過ちにより厳しい男女格差はかつての男尊女卑の影響を引き継いでいないだろうか。

 男尊女卑が激しかった江戸時代のように、あるいは現在もなお男尊女卑の世界となっているイスラムの国々のように男女という立場の違いでその不倫に対する社会的制裁に違いを見せることになる。

 例えそれが社会的には妻ある男性に対する不倫という形式になっても、あくまでも男女それぞれの意思から発した個々人の恋愛問題であるはずだ。である以上、それぞれの責任行為であって、と同時に男性は妻に対して責任を負い、女性にしても相手の男性の妻に対して責任を負う。

 妻と男性と女性の間でどう決着をつけるかも、男性の責任と女性の責任の問題であって、テレビ業界にしてもスポンサー業界にしても彼らの責任に任せるべき問題であるはずだ。

 だが、そのように任せることができずに不倫というだけで女性に対しては率先して社会的制裁を加え、男性に対しては何ら加えないか、あるいは格差をつける。

 一般社会に於いても女性により多くの批判や非難を向ける。

 犯罪を構成していない以上、そろそろ個人の責任行為と見て、それぞれの個人に任せる個人主義でいくべきではないだろうか。

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