安倍晋三の憲法9条改正意欲に見る大いなる勘違い 国家主義の立場からと国民主義の立場からの改正は異なる

2016-05-03 08:52:00 | 政治


 安倍晋三が4月28日収録、4月29日放送の日本テレビ番組で憲法9条の改正に意欲を示す発言をしたとの趣旨を4月29日付「産経ニュース」が伝えている。

 下線部分は解説文を会話体に直した。

 安倍晋三「(9条改正を)これからもずっと後回しにしてよいのか、思考停止している政治家、政党に考えてほしい。政治家がやらなければならない仕事は沢山あるが、(憲法9条改正を)ずっと後回しにしてきた。

 もっと憲法審査会で活発な議論をするべきだ。指1本、触れてはならないという考え方はおかしい。

 国民も憲法をどう考えるかについて、まだ1票を投じるチャンスを与えられていない」

 司会「夏の参院選で憲法改正を発議できる3分の2以上の議席確保を目指すか」
 
 安倍晋三「私たちだけで3分の2を取るのは、ほとんど不可能に近い」

 相変わらず単細胞な発言を垂れ流している。確かに安倍晋三は9条改正に意欲を燃やしている立場から如何に改正するか、常に思考を働かせているだろう。だが、9条改正反対派、あるいは9条を守ろうとする立場の人間は如何に9条の改正を阻止するか、如何に9条を守るか、常に常に思考を巡らせているはずだ。

 それを「思考停止している」と決めつける単細胞は流石である。それぞれが異なる思考の持ち主だと気づきもしない。自身の思考を以って異なる思考は全て停止していると見ている。

 安倍晋三はコーヒーを飲みたいと思っている。安倍昭恵はお茶を飲みたいと思っている。安倍晋三は昭恵に対してきっと、「こいつ、思考停止している」と思うのだろう。

 「(憲法9条改正を)ずっと後回しにしてきた」と言っているが、大多数の国民が憲法9条改正を望んでいながら、政治がその意思に応えてこなかったということなら、「後回しにしてきた」と表現することは正しいが、大多数が望んでいるわけではないのだから、改正派の政治家としては後回しにせざるを得ない状況が続いていて、今以て同じ状況が続いているということであって、そう表現するのが正しい言い方となるはずだ。

 トンチンカンとしか言いようがない。いつものことだが、合理的判断能力ゼロ。

 5月2日付報道の「憲法の改正」についての4月15日~4月17日実施「NHK世論調査」がこのことを何よりも証明している。
 
 「憲法を改正する必要があるか」

 「改正する必要があると思う」27%
 「改正する必要はないと思う」31%
 「どちらともいえない」38%

 改正意思を示したのは27%、示さなかったのが31%。そしてどちらの意思も示さなかったのが最多の38%。改正意思は最少となっている。 

 憲法改正に関わるこういった国民の意見の分かれを踏まえると、「後回しにしてきた」という表現がどこから出てくるのだろうか。27%前後に対して正当性を持つ表現に過ぎない。多く見ても、半数は超えないはずだ。

 こういった状況にあることを弁えているからだろう、韓国訪問中の自民党総務会長二階俊博の5月2日の発言が出てくることになる。

 二階俊博「国民は必要性は認めていても慎重に考えている向きがあり、『憲法だ、憲法だ』と言うのは得策ではない。今の状況で自民党が参議院でも3分の2の議席を取ると言って、先頭に立ってしゃにむに憲法改正の旗を振るような姿勢を示せば、参議院選挙には勝てない」(NHK NEWS WEB/2016年5月2日 13時04分)   

 改正一点張りの思考のまま停止しているのは安倍晋三の方である。

 以上見てきたことからすると、安倍晋三の「国民も憲法をどう考えるかについて、まだ1票を投じるチャンスを与えられていない」との発言を記事は、〈現憲法下で国民投票を通じた改憲が一度も行われていない状況を強調した。〉と解説しているが、改正のために1票を投じる国民投票を必要としない国民も多く存在することを公平に考慮することができず、自身の必要性を以って他者の必要性と結論する、あるいは自分の都合を全てとするレベルの発言に過ぎないことになる。

 当然、「指1本、触れてはならないという考え方はおかしい」という発言も上記の範疇に入る、自分の都合から出ているに過ぎない。

 全ては単細胞だからできる発言の数々となっている。

 兼々安倍晋三は国家主義者だと言ってきた。国家主義者とは国家の存在性を優先させて、国民の存在性を国家の存在性に従わせる思想を言う。

 当然、国民主義は国家主義の逆の思想ということになる。国民の存在性を優先させて、国家の存在性を国民の存在性に従わせる思想と言うことになる。

 簡単に言うと、前者は“国家あっての国民”という考えで、後者は“国民あっての国家”という優先順位を取る。

 安倍晋三の国家主義は戦前の大日本帝国を肯定する儀式となっている、靖国史観に基づいた真榊奉納を含めた靖国神社参拝によって証明できる。戦前の大日本帝国は国民を天皇と国家への奉仕者と位置づけていて、国民の存在性よりも国家の存在性を優先させ、前者を後者に従わせる国家主義を国家と国民との関係性としていた。

 そのような戦前国家を靖国参拝を儀式として肯定しているのだから、国家主義者以外の何者でもない。

 安倍晋三の国家主義は2013年4月5日衆院予算委での細野豪志の質問に対する答弁にも象徴的に現れている。

 安倍晋三「先ずですね、勝手に私がですね、(笑って)あたかも自由や民主主義や基本的人権を否定しているが如くにですね、発言されるのは極めて迷惑な話でありまして、自民党案に於いても明確に(日本国憲法の三大原則である)平和主義・民主主義、基本的人権、この基本的な考え方、いわば国民主権ですね、そうしたものは受け継いでいくということを予めですね、宣言をしているわけでございます。

 そこは誤解のないようにして頂きたいと思いますが、憲法制定過程に於ける、問題点についてですね、私は申し上げているわけでありまして、しかし問題点は決して小さなものではないということは申し上げておきたいと、思うわけであります。

 そして同時にですね、憲法って言うものについては、権力を持っている、ま、権力者側、に対してですね、かつては王権でありますが、王権に対して様々な制約を国民が課す、という、そういう存在でありました。

 しかし今ですね、自由や民主主義が定着していて、国民主権ということが明らかである中にあって、果たしてそれだけでどうかということなんですね。いわば、どういう国にしていくか、ということもやはり憲法には、これは込めていくべきなんだろうと、このように私は考えているわけであります」――

 憲法が国家権力の恣意的な権力行使を制約する基本原理であり、日本国憲法の三大原則「平和主義・民主主義、基本的人権」が日本国民が国家権力に守らせるべき原則である以上、「平和主義・民主主義、基本的人権」は国民の存在性をより優先的にそうあるべきだと保障する規定であって、その保障に、そうしなければいけませんと国家の存在性を従わせる構造を取っていることになる。

 ところが安倍晋三は日本国憲法の三大原則を受け継いでいくとしながら、「果たしてそれだけでどうか」と言って、それ以外にという意味で、「どういう国にしていくか」と、新たな国家の存在性を構築すべきことを憲法に書き込むべきだと主張している。

 いわば憲法の「平和主義・民主主義、基本的人権」をより優先的に保障している国民の存在性を発展させて、その発展に国家の存在性を置く、後者よりも前者を優先させる主張ではなく、新たな国家の存在性の構築を言うことで、国民の存在性と分けて考えている。

 当然安倍晋三は国家の存在性を優先させて、国民の存在性を国家の存在性に従わせる国家主義者である。国家の存在性と国民の存在性を分ける考えは憲法の国民の存在性優先の枠を外すことを意味する。

 安倍晋三が自らの国家主義の思想と相まって分けて考えることによっていつ何時、国家の存在性を国民の存在性に優先させる決まり事を憲法に塗り込めない保証はない。

 その第一歩と狙っているのが、安倍晋三が考えている大規模災害や軍事的有事の際、首相の権限強化と人権の特別な制限を定め、そのことによって国民の存在性よりも国家の存在性を優先させる国家主義を前面に押し出すことになる緊急事態条項の日本国憲法への追加であろう。

 それが制限なく国家の存在性を優先させていった場合、国家の存在性優先の国家主義の色合いを益々濃くしていくことになる。

 いくら安倍晋三が「思考停止」だ何だと言って憲法改正を急ごうとも、国家主義の立場からの憲法改正と国民主義の立場からの憲法改正とでは全く別物であって、国家優先か国民優先かで国民の存在性に与える危険度はケタ違いとなることに留意しなければならない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする