安倍晋三:戦前日本の戦争を肯定、核保有欲求を持ちながら、オバマと広島へ同行、核廃絶を訴える滑稽

2016-05-29 10:51:37 | 政治


 日本で開催のG7先進国首脳国会議のために開催地三重県志摩市賢島を訪れていたオバマ米国大統領が5月27日(2016年)夕方、現職のアメリカ大統領として初めて被爆地・広島を安倍晋三と共に訪問し、安倍晋三と共に核兵器の廃絶を訴えた。

 安倍晋三にその資格があったのだろうか。

 ご存知のように安倍晋三は戦前日本国家を理想の国家像としている。

 このことはブログに何度も書いてきたことだが、靖国神社参拝が証明している。

 安倍晋三は第1次安倍内閣(2006年9月26日 - 2007年9月26日)の間、中国との関係を考えて靖国参拝を控えてきた。

 その抑圧が相当あったのか、2012年12月26日の第2次安倍内閣発足約1カ月半後の2013年2月7日の衆議院予算員会で次のように答弁している。

 安倍首相「私の基本的な考え方として、国のために命をささげた英霊に対して国のリーダーが尊崇の念を表する、これは当然のことだろうと思いますし、各国のリーダーが行っていることだろう、こう思っています。

 その中で、前回の第一次安倍内閣に於いて参拝できなかったことは、私自身は痛恨の極みだった、このように思っております」(2013年2月7日衆議院予算員会)

 「国のために命をささげた英霊に対して国のリーダーが尊崇の念を表する」――

 安倍晋三は「痛恨の極み」を解き放つために第2次安倍内閣発足満1年を期した2013年12月26日に靖国神社参拝を決行した。

 そのことの正当化のために「恒久平和への誓い」と題した談話まで出している。 

 要するに平和を誓うための靖国神社参拝であって、批判されているように戦前の日本の戦争を美化するためではないとの含意を含ませたということなのだろう。

 そこには冒頭、次のような言葉が記されている。

 「本日、靖国神社に参拝し、国のために戦い、尊い命を犠牲にされた御英霊に対して、哀悼の誠を捧げるとともに、尊崇の念を表し、御霊安らかなれとご冥福をお祈りしました」

 この言葉は安倍晋三のみならず、高市早苗や稲田朋美、山谷えり子、その他その他、同類の国家主義者が靖国神社参拝を正当づけるときの常套句となっている。

 「国のために戦い、尊い命を犠牲にされた御英霊」の命を犠牲にする対象は戦前日本国家を措いて他にない。命を犠牲にするとは命を捧げることを意味する。

 このような国家を対象として国民の命の奉仕は戦前の日本国家という空間で演じられた国家と国民との間の関係性として存在した。いわば戦前日本国家と国民の関係性を肯定し、理想としているからこそ、犠牲になった場合、「哀悼の誠を捧げる」価値が生じ、「尊崇の念を表す」価値を認めることができる。

 当然、靖国神社参拝とは靖国神社を舞台として戦死兵に対する鎮魂の姿を借りた戦前日本国家と国民の関係性を理想とする戦前日本国家称揚の儀式でしかなく、このような儀式を政治の次元で重要としているのは戦前日本国を理想の国家像とし、そのような国家像を戦後日本国家に連続させたいと欲しているからに他ならない。

 だからこそ、安倍晋三は自著の『この国を守る決意』で、「(国を)命を投げ打ってでも守ろうとする人がいない限り、国家は成り立ちません。その人の歩みを顕彰することを国家が放棄したら、誰が国のために汗や血を流すかということです」と戦後の日本国家でも命の奉仕をキーワードとした同じ関係性を求めることになる。

 以前ブログに書いたことだが、同じ安倍著『美しい国へ』にも特攻隊を美化した箇所で同じ関係性を求めている。

 〈国のために死ぬことを宿命づけられた特攻隊の若者たちは、敵艦に向かい何を思い、なんといって、散っていったのだろうか。かれらの気持を次のように語る人は多い。

 《かれらは、この戦争に勝てば、日本は平和で豊かな国になると信じた。愛しきもののために――それは、父母であり、兄弟姉妹であり、友人であり、恋人であった。そしてその愛しきものが住まう、日本であり、郷土であった。彼らはそれを守るために出撃していったのだ。》

 私もそう思う。だが他方、自らの死を意味あるものにし、自らの生を永遠にしようとする意志もあった。それを可能にするのが大義に殉じることではなかったか。彼らは「公」の場で発する言葉と、「私」の感情の発露を区別することを知っていた。死を目前にした瞬間、愛しい人のことを想いつつ、日本という国の悠久の歴史が続くことを願ったのである。

 今日の豊かな日本は、彼らが捧げた尊い命の上に成り立っている。だが、戦後生まれのわたしたちは、彼らにどうむきあってきたのだろうか。国家のために進んで身を投じた人たちにたいし、尊崇の念をあらわしてきただろうか。

 たしかに自分の命は大切なものである。しかし、ときにはそれを投げ打っても守るべき価値が存在するのだ、ということを考えたことがあるだろうか。〉・・・・・・

 安倍晋三という政治家が戦前の日本国家を如何に理想視しているかが手に取るように伝わってくる。安倍晋三の意識の中では戦前日本国家は最大の理想の国家像として描かれ、鎮座しているはずだ。

 「今日の豊かな日本は、彼らが捧げた尊い命の上に成り立っている」と戦前日本国家と戦後日本国家に連続性を持たせて止まない。戦前の国民の国家に対する奉仕を眼目とした国家と国民の関係性を戦後の日本国家でも見ようとしている。

 安倍晋三が戦前日本国家を理想の国家像としているからこそ、そのような国家の戦争を侵略戦争と認めるわけにはいかない。認めた場合、理想と相反することになるからだ。理想とする戦前の国家と国民との関係性を戦後の日本に持ち込むことに矛盾が生じることになるからだ。

 安倍晋三はかくこのように命の奉仕を軸とした国家と国民の関係性を構造とした戦前の日本国家を理想の国家像とし、その戦争を侵略戦争だと否定はせず、侵略戦争ではないと肯定している。

 安倍晋三が戦前の日本国家を理想の国家像としているのはその国家の世界に対する政治的・経済的・軍事的影響力に偉大性を見ているからに他ならない。第一次世界大戦後、大日本帝国はアメリカ、イギリス、フランス、イタリアと共に5大列強の一強に加えられる程に世界的な大国とされていた。

 安倍晋三はかつてのその偉大性を求めて、経済の点のみならず、政治的にも軍事的にも世界に大きな影響を与え得る、戦前日本国家を理想とする国家像を戦後の日本国家によって打ち立てようと強く意志している。

 その手始めが憲法解釈による集団的自衛権の行使と自衛隊の海外派遣を手立てとした世界への軍事的進出であろう。

 だが、決定的な軍事大国の資格を得るには現在の世界で日本に欠けている軍事性は核を保有していないという点であろう。

 現在の世界の軍事大国は全て核を保有している。いくらオバマが広島で核のない世界の実現を主張しようとも、アメリカは核に守られた最大の軍事大国であるという側面を有している事実は否定できない。

 但し安倍晋三が戦前日本のように戦後日本の軍事大国化を目指し、他の軍事大国と遜色なく肩を並べる資格を得るために果たして核の保有まで欲しているかどうかである。

 2016年3月18日の参院予算員会。

 横畠裕介内閣法制局長官「憲法上、あらゆる核兵器の使用がおよそ禁止されているとは考えていない。(但し)核兵器に限らず、武器の使用には国内法、国際法上の制約がある」(時事ドットコム

 安倍内閣は2016年4月の鈴木貴子の質問主意書に対して「憲法9条は一切の核兵器の保有や使用をおよそ禁止しているわけではない。しかし核拡散防止条約及び非核三原則に基づき、一切の核兵器を保有し得ない」(Wikipedia)とする答弁書を閣議決定している。

 日本国憲法と核拡散防止条約と非核三原則の中で最大の優越的法規範は憲法にある。

 このことは核拡散防止条約が第10条第1項で、〈各締約国は、この条約の対象である事項に関連する異常な事態が自国の至高の利益を危うくしていると認める場合には、その主権を行使してこの条約から脱退する権利を有する。〉と規定し、核拡散防止条約よりも国家の安全保障を上に置いていることが何よりも証明している。

 当然、日本国憲法9条を「一切の核兵器の保有や使用をおよそ禁止しているわけではない」と解釈している以上、第9条は核の保有と使用を欲した場合の国家意志の妨げとはならないないことを示している。

 国家と国民の関係性に於いて命の奉仕をメカニズムとした戦前の日本国家を理想の国家像とし、それゆえにその戦争が侵略戦争であることを否定、この否定は原爆投下を侵略戦争が一因となっていることは認めずにアメリカの責任のみとする責任転嫁を形成することになっているはずだが、さらには戦前の日本国家が5大列強の一強として体現していた政治的・経済的・軍事的大国としての偉大性を戦後日本にも体現させることを意志し、日本国憲法第9条は「一切の核兵器の保有や使用をおよそ禁止しているわけではない」と解釈する安倍晋三がオバマに同行し、核兵器のない世界の実現を訴えた。

 これ程の皮肉、滑稽は存在しない。

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