安倍晋三の表現・言論の自由抑圧の手法 自粛という名の自己抑制の国家的・社会的同調作用への誘導・拡大

2016-05-06 11:19:46 | 政治


 何日か前に《nofrills/新着更新通知・RTのみ 》なるツイッターアカウントに出会った。2015年3月23日付の「BBC News」を翻訳して、自身のツイッターに載せた内容らしい。   

 何回かに分けた投稿を一つに纏める。

 〈2015年3月、首都カブール。モスクでお守りを買えと強要され反論したFarkhundaという女性がいた。「あの女は聖典を燃やしたんだそうだ」というデマがその場で広まった。男たちが群集となって彼女に襲い掛かった。殴る・蹴る・車で轢く…

 彼女に何が起きたかは遠巻きに撮影されていた映像に記録されていた。平屋の建物の屋根の上から蹴り落とす場面もあったと思う。車にくくられ引きずられた彼女は川べりで火を放たれた。彼女の棺は、女性たちが担って墓地に運んだ。異例のことだ。

彼女を殺した男たち49人が特定・起訴され、裁判で4人は死刑判決、8人は最高で16年の禁固刑を下された。しかし4人の死刑囚について控訴審で判決は覆り、有期刑となった。現場にいたのに止めもせず見てただけの警官には1年の刑。〉――

 これを読んだとき、安倍晋三の報道機関に対する表現の自由・言論の自由を抑圧する手法に通じるものがあるなと思った。

 多分、女性はお守りを買えと強要されて、強要は良くない行為だとでも反論したのだろう。あるいはモスクという場所柄、押し売りは不謹慎だとでも批判した可能性もある。

 イスラム世界に於いて聖典(コーラン)は侵すべからざる神聖なものとされているようだ。譬えるなら、日本の戦前の天皇のような不可侵とされた存在に共通しているに違いない。

 例えそれが事実に反するデマであっても、聖典が持つ神聖性を利用して、それを穢したと主張すれば、周囲にいる男たち(=群衆)が必ず反発し、同調するだろうと知っていて、そのことを計算して女性を侮辱したところ、思いもかけない大成功を収めて、女性によって与えられた面白くない感情の復讐とすることができたのは結果として起こった激しい集団リンチがそのことを証明している。

 いわば本人は結果的にそういうことをしたと気づいていなくても、社会的同調作用を巧みに利用して、女性の表現の自由・言論の自由を抹殺した。

 周囲の女性も、あるいはこのニュースを知った女性の中にも、モスクでお守りを買えと強要されたとしても下手に断ったら、同じ残酷な目に遭わされないとも限らない、買っておいた方が無難ではないかと知らず知らずのうちに社会的同調作用に応じる姿勢に傾き、結果的にお守りの押し売りに対して自身が欲している表現の自由・言論の自由を自己抑制する感情に絡め捕られない保証はない。

 決して大袈裟に解説しているわけではない。例えそれが些細な事であっても、相手が間違っていて、自分が正しいと思っていることを相手との力関係でそのことを告げることを遠慮して黙した場合、いわば自らの表現の自由・言論の自由を自己抑制した場合、自己保身に役立つことはあっても、一つの自己抑制が次の自己抑制を誘って、自身の表現と言論を間違っていると思っている力ある相手の表現と言論の支配下に置くことになる。

 この関係性の裏を返すと、間違っていると思っている力ある相手の表現と言論の支配を国家的にも社会的にも許すことを意味する。

 このことは戦前の日本で経験したはずである。

 2016年5月1日付「毎日jp」記事が《国旗・国歌 新たに15大学実施 文科相要請後に》と題して、〈下村博文文部科学相(当時)が昨年6月、すべての国立大(86大学)の学長に入学式や卒業式での国旗掲揚と国歌斉唱を要請した後、15大学が対応を変え、今春から国旗掲揚や国歌斉唱などを実施していたことが毎日新聞のアンケートで分かった。〉とする内容を伝えている。 

 記事はこのような経緯の発端として安倍晋三の昨年2015年4月の参院予算委の答弁を取り上げ、次いで当時文科相の下村博文の国立大学長を集めた会議での発言、そして現在の文科相の馳浩の岐阜大が国歌斉唱をしない方針を示したことに対する発言を取り上げている。

 新たに実施する15大学は、〈いずれも「大学として主体的に判断した」と答えた。〉と解説しているが、安倍晋三の国会答弁や国旗掲揚・国歌斉唱に対する姿勢、さらに文科相からの度重なる要請を受けたのちの“主体的な判断”であるはずだ。

 それ以前の国旗や国歌に対する大学としての“主体的な判断”は掲揚せず・斉唱せずだったはずだからだ。

 15大学はこの姿勢を自らの判断で長年“主体的に”守ってきた。政府側の姿勢が「決して強制ではない」としていながら、大学側は国旗掲揚・国歌斉唱へと“主体的な判断”の舵を切った。

 この前後の“主体性”の矛盾は後者の“主体性”が実は政府要請への同調が正体であって、そうと見られないための言い繕いとしなければ、整合性を見い出すことは不可能である。

 国旗を掲揚せず・国歌を斉唱せずを自粛という方法を用いて自己抑制を自らに強いることで結果的に国家的・社会的同調作用を発動させしめ、力ある相手の表現と言論の支配に自由であるべき自らの表現と言論を委ねた。

 安倍政権がやっていることはカブールのモスクでお守りを押し売りしようとして拒絶した女性に聖典(コーラン)を穢したとデマを飛ばせば、周囲にいる男たち(=群衆)が同調して女性に危害を加えるだろうと予測してデマを飛ばし、危害を加えることに成功し、結果的に社会的同調作用を巧みに利用することで女性の表現の自由・言論の自由を抹殺したことと本質的には何ら変わりはない。

 異なる点は安倍晋三を筆頭した政権幹部たちは民主主義を装っている点のみである。

 上記記事が取り上げてる三者の発言に関しては前二者は当「ブログ」に、後一者は別の「ブログ」にそれぞれ新聞記事を参考にしたりして取り上げているが、2015年4月9日参院予算委での松沢成文の質問は要約で以って、安倍晋三の答弁はそのまま、下村博文と馳浩の発言は新聞記事のまま改めてここに記載してみる。

 松沢成文次世代の党議員(2015年8月離党)「私学とは異なって、国立大学というのはほとんどが国からの運営交付金や補助金で運営されているわけです。私は、国民感情としても、国民の税金で賄われている国立大学なのだから、入学式、卒業式で国旗掲揚、国歌斉唱はある意味で当然だと思っているんじゃないでしょうか」

 安倍晋三「感想としては、大体、大学という性格上こういうことになっているのかなと思いますが、ただ一方、学習指導要領がある中学そして高校においてはしっかりと実施されていると同時に、今委員がおっしゃったように、税金によって賄われているということに鑑みれば、言わば新教育基本法の方針にのっとって正しく実施されるべきではないかと、私はこんな感想を持ったところでございます」

 「税金によって賄われている」からと言って、表現の自由・言論の自由まで売り渡してもいいというわけではない。だが、安倍晋三は暗に売り渡しを要求、国家への同調作用を求めている。

 売り渡しは自らの表現の自由・言論の自由を自粛し、自己抑制を働かせて国家への同調作用というプロセスを経て、力ある相手の表現と言論の支配に自由であるべき自らの表現と言論を委ねる経緯を取って初めて成立する。

 下村博文の2015年6月16日の国立大学の学長らを集めた会議での発言。

 下村博文「国旗と国歌はどの国でも国家の象徴として扱われている。国旗掲揚や国歌斉唱が長年の慣行により広く国民の間に定着していることや、平成11年に国旗および国歌に関する法律が施行されたことを踏まえ、各国立大学で適切に判断いただけるようお願いしたい」 

 会議後の記者団に対しての発言。

 下村博文「最終的には各大学が判断されることであり、要請が大学の自治や学問の自由に抵触することは全くない。昔と比べると、国旗や国歌に対する国民の意識も変わってきたと思うので、時代の変化を各大学で適切に判断していただきたい」

 会議に出席していた大学関係者の発言。

 佐和隆光学長滋賀大学「国旗掲揚と国歌斉唱に関する要請にあたっては、国立大学が税金でまかなわれていることが要請の理由ともとれる発言がこれまでに聞かれたが、納税者に対して教育研究で貢献することが大学の責任だ。今回の要請に従う必要はないと思っている」(以上NHK NEWS WEBから)

 岐阜市にある岐阜大学の森脇久隆学長が2016年2月17日定例記者会見で、今春の卒業式や入学式では大学の愛唱歌を歌う考えを示した。

 2016年2月23日の閣議後会見。

 馳浩「日本人として、特に国立大学としてちょっと恥ずかしい」

 森脇久隆学長の3月15日定例記者会見質疑。

 森脇久隆学長「3月の卒業式と4月の入学式は例年通りです」(以上asahi.com)  

 自らの表現の自由・言論の自由を自粛することも、自己抑制を働かすこともせず、力ある相手への同調作用を拒んでいる。

 馳浩の「日本人として、国立大としてちょっと恥ずかしい」という発言は、自らの表現の自由・言論の自由を自粛という方法を用いて自己抑制して、その先に国家的、あるいは社会的同調作用を置き、力ある相手――国家権力の表現と言論の支配に自由であるべき自らの表現と言論を委ねるような日本人、あるいは国立大学に向けるべきだろう。

 安倍晋三が2014年12月14日総選挙約1カ月前の11月18日にTBS「NEWS23」に出演し、番組が取り上げた街のアベノミクス批判の声を「街の声ですから、皆さん選んいると思いますよ。もしかしたら」と、さもテレビ局が情報操作しているかのように言い、その2日後の11月20日、安倍晋三の側近である「自由民主党 筆頭副幹事長 萩生田光一/報道局長 福井照」の差出し人名で在京テレビキー局の編成局長、報道局長宛てに番組報道の公平・公正・中立を求める文書を送ったのも、強制はできないがゆえに報道機関が持つ自由であるべき表現・言論に自粛という名の自己抑制の働きを求めて、国家的・社会的同調作用への誘導・拡大を狙い、結果的に国家が望む表現や言論の支配に委ねさせようとする欲求から出たテレビ報道への介入そのものであろう。

 そして総務相の高市早苗が2月9日(2016年)午前の衆院予算委員会で放送事業者が政治的公平性を欠く放送を繰り返し、行政指導でも改善されないと判断した場合は電波法76条に基づいて電波停止を命じる可能性について言及したのも、同じ構造の経緯を取らせて、国家の表現・言論に可能な限り同調させようとする狙いから出たものであろう。

 安倍政権による自粛という方法を用いさせた自己抑制の遠隔操作はかなりの効き目を発揮しているらしく、報道機関では安倍政権をあからさまに批判できない雰囲気が広がっているという。

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