内向き・縮み志向の自公の「愛国心」

2006-04-18 04:18:29 | Weblog

 4月16日(06年)日曜日のNHKテレビの「日曜討論」で「教育基本法」について各党が議論していた。

 民主党鳩山幹事長「教育基本法は賛成です。新しい憲法にふさわしい新しい教育の憲法は何かという議論を本来やるべきであります。我々は憲法の改正と同時に教育基本法の改正をやるべきだと。教育の荒廃とか、色々と問題に果たして今の与党案は色々な苦しんだ中、議論してきたらしいですけど、それが解決できると到底思えません」
 
 この主張に対して、自民党武部幹事長は「憲法改正まで待っていられない。いつ改正できるか分からない」と反論していたが、そんな頼りないことでは自民党が党是としている「憲法改正」の看板を降ろした方がいい。いつか分からなくても、必ず改正するという強い姿勢を示すべきだが、頼りない男だ。「憲法改正と別々であってもいいではないか」と言うべきだったろう。

 鳩山幹事長の言わんとしたことは、教育は子供に知識を教えると同時に人間としての成長を導くことでもあるが、広い意味では世界と日本に向けた日本人としてのあるべき姿を形成することをも目的としていて、目標とする国民のありようと形成役として関わる国の姿は翻って憲法が目標とする国と国民のありように対応することから、憲法に連動させるべきだということだろう。

憲法以外の普通の法律に前文を置くのは異例で、「教育基本法」が〝教育憲法〟と呼ばれているということだが、国があるべき国民の姿を教育を通して理念するという点で、教育に関わる〝憲法〟そのものであり、そのものでなければならないのではないだろうか。

 自民党は逆である。憲法に「愛国心」を盛り込みたいが、憲法改正まで待てないから、先に「教育基本法に」ということだろう。憲法と「教育基本法」を連動させている点に関しては、民主党と変りはない。

 普通の法律には置かないという現行の「教育基本法」の「前文」を見てみると、

 「われらは、さきに日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貞献しようとする決意を示した。この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである。
 われらは、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育を普及徹底しなければならない。
 ここに日本国憲法の精神に則り、教育の目的を明示して、新しい日本の教育の基本を確立するため、この法律を制定する」

 如何に教育が大切か、教育の成果が「日本国憲法」に記した理念を実現できる人間を形成得ると謳っている。「日本国憲法」が高邁な理念でいくらびっしりと覆われていたとしても、教育が日本の政治家や官僚みたいなクズ人間ばかりつくったのでは、理念の実現は覚束ないと言っているのである。断っておくが、経済大国になることと「日本国憲法」の理念を実現させることは180度違う。政治家や官僚がクズ人間ばかりでも経済大国になることは可能だが、憲法の理念を世界に向けて形あるものとして示すことはできない。今回の景気回復にしても自民党は小泉構造改革の成果だと言うが、アメリカの好景気と中国の経済成長――いわゆる中国特需に後押しされた景気回復の側面がはるかに大きい。独善的自画自賛に過ぎない。

 現行の「教育基本法」に示された理念、その具体性から比べたら、自公が合意した「伝統と文化を尊重し、それらを育んできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養う」は、いわば〝自国愛〟は感じることができるが、そこに比重を置いているために理念としての格調性も具体性も乏しく、理念実現の主体的存在としての人間の姿も感じられない。現行「教育基本法」に示されている程の〝世界性〟も感じることができない。そのため、内容の纏まりようが軽く、小さくなっている。

 これは自民党と公明党の軽さ・小ささだろう。所属議員が軽く小さいから、軽くて小さな考えしか出てこない。内向きで、一国主義的な縮み志向はグローバル時代への逆行以外の何ものでもないだろう。

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トヨタ自動車関連の皆様、政権交代に力を

2006-04-17 06:20:26 | Weblog

 小沢民主党新代表の各種業界団体への就任挨拶詣を日本経団連会長として受けた奥田碩氏が、「自民党に拮抗できる政治勢力ができるということは日本の政治にとってよいことではないですか」とテレビで話していた。

 敵に塩を贈る余裕はさすがだが、チョットだけ足りない。「拮抗する政治勢力ができる」だけではダメで、政権交代があってこそ、本当の意味での各政党の政治の競い合いが生まれて、「日本の政治にとってよい」結果を生む。これまでの自民党政治はごく狭い各派閥の競い合い政治で終わっていて、だから日本はトヨタ自動車を除いてこれまでのようにダメになってしまったのだが、政権交代はより幅広い機会遭遇の場所に有権者を引っ張り出す。国民へのサービスでポイントを稼がなければならなくなるからだが、それが財政に裏打ちされたサービスかどうか、長期的に利益を生むかどうか、目先の利益だけを目指したものかどうかを有権者が見極めなければ、かえって国を過つバラ撒き政治で終わってしまう。
 
 トヨタ自動車の会長だった日本経団連奥田碩会長がせっかく「自民党に拮抗できる政治勢力ができるということは」と言ってくれたのです。一歩進めて、トヨタ自動車の各社員の皆様方、関連会社の各社員の皆様方、あるいはトヨタの車をご愛用の各皆様方、奥田会長の希望を日本の希望に変えるべく、日本に政権交代を実現させる大きな力となって戴けませんか。皆様の支持が頼りです。

 因みに私の愛車は欠陥車で有名となり、既に生産打ち切りとなった三菱ギャランで、10年愛用しています。もし宝くじにでも当って、新車を買えるだけのカネを手に入れることができたら、また三菱にするつもりでいます。悪しからず。    

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国におんぶに抱っこの予防医療

2006-04-17 02:57:27 | Weblog

 本来は自分の健康は自分で管理するのが当然の自己責任事項であり、あるべき自律的姿・主体的姿と言うべきものであるはずなのだが、国がカネをかけて「生活習慣予防モデル参加自治体」とか銘打って、住民を対象に〝予防医療〟なる健康増進活動に取組んでいることをNHKテレビの番組で知った。参加している住民はみな50代以上、60代、70代(?)の高齢者で、既に生活習慣病、その他の様々な病気の初期・中期的な、あるいはそれ以降の洗礼を受けている者がいるとしたら、〝予防〟とは〝看板に偽りあり〟となる。

 それとも病院に殆どかかっていない高齢者のみを対象に、病院にかからずに済んでいる身体をこれからもかからないで済むよう維持させる目的が趣旨の対策なら、〝予防〟に当るが、それでは既に何らかの病気に冒されている者との間に不公平が生じる。

 参加は自由であろうから、厳密に言えば、生活習慣病・その他の病気の〝進行〟の〝予防〟をも兼ねた健康増進運動と把えるべきだろう。

 だが、より厳密を期すなら、〝予防〟を掲げる以上は生活習慣病・その他を友達としやすい年齢に達しつつあるすべての者を対象にしてこそ、天下晴れて〝予防〟とすることができる。予防医療が医療給付費の抑制とそのことによる財政負担の軽減に効果があると見るなら、そこから初めてこそ、それらの根本的解決策となり得るのではないだろうか。

 そこからとは具体的にどこからかと言うと、最近学童期の子どもまでが運動不足や摂取カロリーの増大、いわゆる楽をして贅沢をする生活習慣に慣らされて大人顔負けの肥満や高脂血症、高血圧、糖尿病等と慣れ親しんでいると言うから、今や生活習慣病こそが万病の元となっている傾向を考えると、学童期の子どもから対象にしてこそ、真の〝予防医療〟となる。

 それをしなければ、病気に罹らないようにする〝予防〟ではなく、子供の頃から生活習慣病に罹り、中年となってその数も増え、子供の頃からの罹病者は病気の程度も深刻となっている上に余病併発の形で病気の数も増えて、高齢に達して人数も病気の数も症状もさらに深刻化する、そういった循環を待ってから〝予防〟する医療ともなる。

 そのような循環形式に従った〝予防医療〟で無視できないスピードで年々増大する老人医療にかかる国の医療給付費を抑制して、少しでも財政負担を軽くしようということになる。どことなくズレている感じがしないでもない。

 05年度の社会保障費は約20兆円で、うち医療費は約8兆円。高齢化などで06年度の社会保障費は約8千億円の自然増が見込まれると言うから、単純計算でいくと3千200億円増の8兆3200億の医療費となる。

 そのために行政が新たにカネをかけて、生活習慣病・その他を患った、患っていなくても、少なくとも高齢による体力の衰えが原因となって生活習慣病・その他に限りなく侵されやすくなった住民を対象に健康増進活動を提供しようというのである。当然、新たな経費と〝予防医療〟による医療費の減額効果との差の勝負となる。

全国で8カ所だかの自治体に「生活習慣予防モデル参加自治体」を設定して〝予防医療〟を行ったところ、「医療削減効果は3年間は出なかった」という結果を突きつけられたという。それは参加者が長続きしなかったことが原因だそうだ。

 そこで長続きさせる工夫を考え出し、好結果を出した、つくば大学の久野(くの)助教授が4年前から健康指導を行ってきた新潟県見附市の例を取上げているが、疑問に感じたのは、なぜ長続きできる工夫まで行政側がカネをかけてまでお膳立てしてやらなければならないかということである。財政に関しては行政側は自分たちの問題であるが、健康を守る〝予防〟に関してはあくまでも住民それぞれの〝本人の問題〟であって、他人の問題ではない。自律的かつ自主的に自らが解決しなければならない課題であろう。

 にも関わらず行政主体の〝予防医療〟を持ち出したのは、日本の老人の1人当りの診療費は若者の約5倍近くと諸外国よりも際立って高い最大の原因が医療機関にかかる回数の多さだということと、その因果性としてある高齢者の医療給付費がバカにならない数字で増え続けるという現状が本人の自主性を待っていられない、あるいは〝本人の問題〟であるはずだが、いつまで経っても〝本人の問題〟になっていない状況があり、高齢者の自己負担率(窓口負担)を現役並みの3割に引き上げることを高齢者の病院からの乳離れの妙薬とした上で、ここは行政がカネをかけてまで健康維持のお膳立てをしてやって、手取り足取り指導してやらなければならないと親切心を出したと言うことなのだろうか。

 日本が世界一の長寿国を維持できている理由が高齢者の医療機関にかかる回数の多さにあるとしたら、一種のアイロニーと化すが、かかる回数の削減を着地点の重要な一つとしているなら、〝予防医療〟は言葉どおりの目的をそれなりに持たせることができる。だが、必要な病気治療のための受診ではなく、高齢者が自律的・主体的に1日を有効に過ごすことができず、持て余した時間を潰すことを主目的に目やにが出たからと眼科医院にかかるといった、受診するまでもない理由で病院に行き、待合室に座って順番を待つ時間を同じような目的で待合室に座っている同じ高齢者を話し相手に世間話に花を咲かせる病院通いが受診回数の頻度を上げているとしたら、〝予防医療〟は本来的な目的と同時に病院の待合室に変る時間潰しの機会と場所の提供ともなる。

 このように〝本人の問題〟である健康管理を行政の趣向に依存する、あるいは時間潰しの機会と場を行政が用意した道具立てに便乗するといったことなら、例え健康増進の効果を見ることができたとしても、高齢者の自律性・主体性なき姿をないままに維持することにただ単に終始一貫手を貸すだけとなる。このことは行政が〝予防医療〟を手段に高齢者の自律性・主体性の乏しさを財政削減の優先と引き換えになあなあで目をつぶると言うことにならないだろうか。

 さらに言うなら、日本は世界一の長寿国なる看板が自律性・主体性なき老人の長寿に占められているということになったなら、アイロニーを超えて、悪い冗談と化す。

 見附市で行ったつくば大学の久野助教のモデルにしても、従来の予防医療が参加者が長続きしなかったことが医療削減効果が出なかった原因ということで長続きさせることに眼目を置いているが、そのプロセスを見ると、自律性・主体性の問題に行き当たる。

 長続きさせる眼目は「利便性と達成感」だと言う。「利便性」は既存の建物であるために100万円程度の費用で抑えることができる市内6カ所の公民館の会議室を空き時間のみを利用して健康教室にすることで担保させている。

 テレビでは会議室の椅子を片隅に寄せて、ペダルをこぐ健康マシンを確か前後2列に並べる画面を映し出していた。一種類しかない機具をペダルを踏んでみなが一斉にこぐ。参加者が気軽に通えるようにした結果、中途脱落者を約1割に抑えることに成功したという。解説がウソ偽りないことを証拠立てるように、60歳代前後の女性参加者が「最高の条件です。やっぱり近いってことが長続きする一番の秘訣です」とインタビューを受けてにこやかに答えていた。

 ご親切丁寧、至れり尽くせりの、しかも自腹ではない国や地方のカネでお膳立てして貰っているのである。これでもっと近くに場所が欲しいなんて言ったら、バチが当る。

 「達成感」は専用の体重計やトレーニング器具に取付ければ歩数以外のデータを記録することができる健康器具メーカーと共同開発した歩数計が備えてあり、パソコンにつなぐと、運動量や体脂肪、筋肉量といったデータのチェックとその変化を一目で確かめることができて、その改善率が目標値となってヤル気を引き出していて、参加者も増えていると言う。

 その上、〝予防医療〟に加わっていない他の住民の医療費が大幅に増加していることに比較して、参加者は前年並みに抑えられる医療費の削減効果を現れたいう。そのデータは、

  平成15年の平均医療費      平成16年の平均医療費
  参加者――18.3万円 ・・・・・・19.1万円
  一般者――18.5万円 ・・・・・・30.8万円

 平均11.7万円の差である。参加者が10人以上なら、〝予防医療〟にかけた100万円何がしかは簡単にペイできる。

 これ程の顕著な効果が現れたのでは、国の財政再建のために自律心がどうだ、主体性がどうのとは言っていられないのだろう。アナウンサーが「行政が全く新しいことに取組もうとしている中で、行政がしっかりとモデルをつくっても、人々が継続的に参加しないと効果は出ないですねえ」と、行政が「モデル」をお膳立てしても、簡単には乗っからない状況を解説すると、招待コメンテーターの鳥帽子(えぼし)彰広島大学院大学助教授が、「健康づくりの主役は個人ですね。国は20年前から国民健康復帰運動、あるいは老人健康に取組んできたが、相応の効果があり、健康意識は高まったものの実際に一歩踏み出して健康行動を取る人、例えば栄養の問題や運動すると、そういった意識はまだまだ日本は低くて、実際に行動をとる人はまだ少ない」と、「健康づくりの主役は個人」であることを支える自律性・主体性の欠如を指摘するものの、行政が「主役」となって、個人をそれに従わせる自律性・主体性発揮の機会を奪う方向性に関しては異を挟まず、〝予防医療〟の力を借りた医療費の削減を肯定する姿勢を示していた。

 但しである。見附市のモデルが成功したからといって、2005年3月31日時点で人口4万3,790人、1万3,053世帯の小都市が市内6カ所のみの公民館の会議室を利用し、約100万円の費用で確保できた「利便性」が10万、20万、あるいはそれ以上の人口を抱える大都市でも有効なモデルとなり得るか、その点に関しては番組は触れていなかった。

 人口が増えるに比例して、交通にかかる時間が長くなる。小都市と大都市の「車で5分」は実際の距離に差が出る。会場ごとに同じ機械の使回しでは、その移動にも時間がかかり、当然一つの会場での開催周期が長くなって、一週間に一度の開催が二週間に一度となったら、運動効果にも影響が出てくる。それを解消するために、すべての会場での同じ機械の使回しが不可能となれば、台数を増やすしかなく、その経費が新たにかかる。一度の使回しなら、トラック1台の運搬で済んだものが、別々の使回しとなれば、2台、あるいは3台とトラックをリースするなり、自前で増やすするなりしなければならない。尤も、そうそううまくいくかどうかの問題を考えなければならないが、ボランティアでトラックを無料調達という手もある。

 例え経費の増加があったとしても、それを上回る医療費削減効果が現れればいいことだが、少なくとも見附市に見た効果の規模はより大きな都市には単純に当てはまらないことだけは言える。それに地方へ行くほど、住民は行政の動員に順応しやすい傾向にあるが、都市の規模が大きくなるほど、住民は個人主義の傾向を強め、動員に無関心を示す趨勢が、都会住民の行政主体の〝予防医療〟にも乗らない、自分で自律的・主体的に健康管理することもしないという状況を生じせしめたなら、やはり見附市の例はすべての都市に適合すると言えなくなる。

 地方と都会間の動員傾向は、動員に力となるカネを以てしても自民党の集票率が地方で高く、都会に行くほど低い傾向が、都会では力とはなっていないことで既に証明している。

 〝予防医療〟が言葉どおりの病気の〝予防〟を策し、その結果として財政に占める負担となっている医療給付費の削減を目指す政策とするなら、自分の健康は自分で管理する本来の姿に戻すべきではないだろうか。

 その方法とは、生まれたときからの身長・体重・体脂肪値・筋肉量・血糖値等の身体上の数値記録と両親の嗜好傾向、甘いものが好きか、アルコールの嗜好はどの程度かといった記録を揃えることから始めて、それ以降どのような病院にかかったとしても1年に1度の割合となる回数で引き続いて同じ内容の記録を集め、病歴と共にそのデータを行政が一元管理して、例えば糖尿病となった原因が本人の不摂生からのものなら、窓口負担率を高くし、生まれつきインシュリン量が少ないといった自己責任外を原因としていたなら、正規の負担率とするといった自己責任性とする。あるいは両親のどちらかが糖尿病の傾向があったなら、子どもには甘いものは控えるように養育してくださいと医者が注意し、注意したことを記録し、その記録を両親に見せて、後々の証拠に納得させておく。

 もしそれを破って、子供に甘いものを与えて、その子が小児糖尿病となったなら、やはり窓口負担率を高くする。

 あるいは虫歯は殆どは歯磨きを熱心な習慣とすることによって防げる疾患だから、虫歯治療は決定的に窓口負担率を高くする。

 勿論、一元管理されたデータから医者がそれが不摂生による病気かそうでないかを判断することになるが、その判断が間違っていると本人が見なした場合は、判断に対する不服申し立て制度を設けて、審査機関が審査し、判断の正否を行うこととする。もし医者の判断に間違いがなければ、審査にかかった費用は患者の負担とし、患者の不服申立てが正しいと結論づけられたなら、行政側の負担とする。

 このような制度にして、筋萎縮症といった難病や、相手の不注意からの交通事故による身体障害といった本人の意志に関係なく襲う重大被害に対しては逆に手厚い保護を行う。自己の不注意からの自動車事故による身体障害に関しては、それなりの窓口負担を負う。

 健康管理がこのように厳密な自己責任性となったとき、行政が新たにカネをかけて〝予防医療〟といった、例え効果があったとしても、自律性や主体性に期待しないおんぶに抱っこの趣向を凝らさなくても、医療給付費を含めた社会保養給付費全体の削減につながるだろうし、同時に日本人に欠けていると言われる自律性・主体性の否応もなしの出動なくして自己責任性は成り立たないゆえに、それらを育成する刺激剤にもなるのではないだろうか。

 生活習慣病の予防策に買い物で20分歩いて、床掃除を20分、子どもと20分遊びなさいといったことまで1日の運動目標に細々と掲げて健康づくりのための運動基準ですと、何をどうするかは人それぞれが決めるべきことまで厚労省が口出しして指示するといったことはしなくて済むようになる。

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「愛国心」では何も解決しない。

2006-04-15 04:09:51 | Weblog

 「自民、公明両党の教育基本法改正に関する与党検討会」に関する2006年4月13日の『朝日』朝刊の記事をその内容のまま纏めてみると、「最大のハードルとなっていた『愛国心』の表現について『伝統と文化を尊重し、それらを育んできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと』とすることで合意した」となる。

 「愛国心」という言葉をストレートに表現して、教育の中心に持っていきたい衝動を、「国」に「郷土」を添わせ、なおかつ「他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養う」心性と抱き合わせて、その中に巧妙に紛れ込ませている。

 但し教育基本法改正案にどう盛り込もうと、「愛国心」表現はスローガン以上の効力を持たない。国旗・国歌法が義務化でないと言いつつ、義務を超え、強制化の姿を見せた前例を教訓とするなら、当然スローガンで終わらせない意図が働き、法案が成立・施行したなら、教育の現場で徐々に「愛国心」を前面に押し出す動きが生ずるだろう。

 日本の〝伝統・文化〟と一くくりすることができる肯定的な価値を担った、社会の場で活用し得る伝統・文化なるものは果たして存在するのだろうか。存在するとしたら、教えてもらいたい。

 多くの日本人が「日本人の自然を愛するきめ細やかな心」を日本の肯定的な〝伝統・文化〟に挙げるが、日本人以外に自然を愛さない国の人間はいないし、それぞれの国にはそれぞれのきめ細やかさが存在する。きめ細やかさなくして、〝自然を愛する〟という精神行為は成り立ちにくいからだ。

 「日本人の自然を愛するきめ細やかな心」が外国に於いても高く評価される様々な芸術品をつくり出してきた、それは日本独特の作品だと言うが、外国に於いても、それぞれの国の「きめ細やかさ」が自国以外にも高い評価を受ける独特の芸術作品をつくり出しているはずである。

 例え「日本人のきめ細やかな心」が日本人独特の優れた感性で、それが日本の伝統・文化と共に育まれた成果物だとしても、日本人にしても社会の生きものとして存在し、活動している以上、そのような感性によって社会的活動の場面で、全体として歴史的に何を表現してきたのだろうか。「日本人のきめ細やかな心」に覆われた歴史・社会をつくり出してきたのだろうか。

 歴史や社会を全体的に彩ってきたのは、如何に表面を華々しく覆おうと、内実はその多くが否定的な価値に分類されるカネ儲けを伴わせた権力欲・名誉欲・金銭欲・私利私欲・各種差別等をベースとした生存競争劇ではなかっただろうか。それが「日本人の自然を愛するきめ細やかな心」が歴史を超えて伝統として受け継ぎ、文化の形で綾なした果実だと言うなら、日本の優れた伝統・文化だということができるが、肯定が否定を生む矛盾が生じる。

 この矛盾は、日本人全体が「自然を愛するきめやかな心」を持っていたとしても、その感性を生かして優れた芸術作品として形にできるのは一部の人間の営為でしかなく、その他大勢はその作品を鑑賞・感受することはできても、社会の生きものとして活動する場合は無力化するとする以外、証明不可能であろう。花を愛するからと言って、その人間の心が花のように美しいとは限らないという警句は一面の真理を示している。「日本人の自然を愛するきめ細やかな心」とは、その多くは社会性として発揮される感性ではなく、個人性の範囲にとどまる感性でしかないということだろう。

 利害の生きものである人間にとって、「日本人の自然を愛するきめ細やかな心」が利害実現の有効な手段となり得るなら、社会の場・人間関係の場に持ち込み、伝統・文化とすることが可能となるが、その逆の力学が社会に働いていて、持ち込み不可能としている。と言うことは、「自然を愛する」精神行為は生存活動に於いて目前の利害とはなり得ていないことを証明している。

 小泉首相以下閣僚、自民議員は市場原理、競争原理と錦の御旗の如くにのべつ幕なしに言い立てるが、「自然を愛するきめ細やかな心」は自己を市場原理、競争原理に曝すとき、障害とはなっても、助けとはならない。企業が「自然を愛するきめ細やかな心」でリストラを冷酷に断行したと言うことは決してないはずである。

 別の言い方をすると、現実社会は「自然を愛するきめ細やかな心」を人間活動の行動基準とはし得ない。「愛国心」にしても同じことが言える。目前の利害とはなり得ないゆえに、「愛国心」で人間は行動しない。行動させようと強制した場合、いわば目前の利害とさせようとしたとき、全体を一つの利害で縛る抑圧が精神的利害をも含む個人の否定を生じせしめる。戦前の日本はその最悪の場面を経験したはずである。

 「愛国心」の間接的涵養を担わせた国歌斉唱・国旗掲揚を法律として教育の現場に持ち込んで、何がどう変わったか、まず検証してみることである。授業崩壊、校内暴力、いじめ、教師の各種犯罪等、教育の場に於ける様々な問題が改善の方向に向かったとでも言うのだろうか。単にその場限りに従わせているに過ぎない。

 利害の生きものであると同時に生活の生きものである人間は、自己を十全に生かすことを最大基準に置いている。その保障が現在の社会では市場原理・競争原理であろう。極端な言い方をするなら、社会のルールさえ破らなければ、自分さえよければいい。しかし社会の一員としての制約から、そういった生き方の殆どが不可能なため、自己を生かすために他を生かす利害を受入れざるを得ず、その利害に従う。社会はそういった利害の相互取引によって成り立っている。今回の自公与党の文案合意にしても、利害の相互取引によって成り立たせたものであろう。「愛国心」にしても、自己を十全に生かすかどうかの基準に従う利害の相互性から免れることはできないゆえに行動基準とはなり得ていない。利害によって、それぞれの価値観が生じる。それを無視して、国家の価値観として押し付けようとしている。

 「愛国心」を言うなら、その存在自体が国家を代表し、その言動によって国家が体現される政治家・官僚がいつ如何なるときでも自らの義務と責任に反しない姿を心がけて、国民それぞれに一国民として、あるいは一市民として、社会のルールに則った生き方をすべき模範となることだろう。模範となり得ていないにも関わらず、「愛国心」を言うのは滑稽な矛盾・滑稽な本末転倒でしかない。

 国家を代表とする政治家・官僚が国民の手本となる生き方をしたとき、そのような生き方こそが肯定的価値観を持った伝統・文化となり得るのではないだろか。まあ、逆立ちしたって無理だろうが。

 政治家の贈収賄、不正政治資金、私利私欲、裏取引、官僚に対する管理・監督の不行き届きと癒着等の怠慢、あるいは官僚のカラ出張だ、カラ手当だといった薄汚い私腹肥やし、タクシー代の水増しだホテル代の水増しだで浮かせたカネで飲み食いする卑しい乞食行為、天下りによる不正利益の獲得等の蔓延は、大上段に構えた「愛国心」教育を以てしても、教育を受けた子どもが大人になった将来に於いても解決しないだろう。明治・大正・戦前の昭和に於いても政治家・官僚の不正行為・犯罪は存在したことがそのことを証明している。解決するとでも思っているとしたら、その感性を疑う。アベ君、どうだね。

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4年前の記事/【貧富の格差を認めよう】

2006-04-13 02:38:11 | Weblog

 以下の文章は2001年11月11日にHP「市民ひとりひとり」に載せた自作の記事(「雑感AREKORE6」)です。内容は、小泉純一郎のどこの国にもあるとする〝格差社会〟容認論とは違います。従来から政治家・官僚・企業の不正なカネの獲得・不正利益のほしいままを一方に抱えた〝格差社会〟であって、私の言う「格差社会を認めよう」とは内容が全然違います。ライブドアの粉飾決算等の不正にも関係してくると思います。興味のある人は読んでみてください。
 * * * * * * * *
 かつてのソ連でも、貧富の格差はあった。政権・共産党に関わる一部の高官が自己の地位・権限を利用して極上の甘い汁を吸う特権階層を形作っていた。個人の活動を可能な限り保障する自由主義諸国家にあっては、個々人の能力の差に応じて所得の格差は当然生じる。

 人気スポーツの花形選手が億単位の年収を得る。その一方で年収200万に満たない生活者がいる。中には主義主張から選択した生き方である場合もあるだろうが、殆どは社会から落ちこぼる形で弾き出された、収入が限りなくゼロに近いホームレスという名の路上生活者もいる。そういった年収数値の経緯、あるいは結果性は能力の種類と内容に応じて(生き方や人間関係も影響するだろうが)市場経済社会のルールに従って、その需要と供給の関係が決定する。

 共産主義の計画経済ルールが破綻した現在、自由主義の市場経済ルールが唯一課せられた、そこから逃れられない、失敗者にとっては桎梏でしかないが、生きるルールとなっている。

 唯一の共産主義大国中国においても、あるいはベトナムにおいても、計画経済を放棄して、〝社会主義〟の名を冠しながらも、自由主義(自由競争)に基づいた市場経済を国民生活向上の重要な柱とした。国民生活の向上なくして国力の充実はないからだ。

 共産主義型計画経済への後戻りの歴史はもはやあり得ないだろう。その理由は、「貧しきを憂えず、等しからざるを憂える」という共産主義の理念は人間の理想であって、「貧しきを憂えると同時に、等しきも憂える」自由主義の競争原理こそが人種・民族・国籍を超えた否定しがたい人間の現実だからである。同じ仕事をしながら、能力ある者と能力ない者との報酬が〝平等〟なら、能力ある者の気力を削ぐことになって、〝平等〟を獲得するために能力ない者の非能率に合せた能力の抑制を否応もなしに誘発され、そのような能力抑制のモメントは、水の流れのようにより低い非能率に向かって勢いづく。そして旧ソ連やかつての中国に見てきたように非能率・事勿れ・無気力の風潮が蔓延して、社会の停滞を最終結果とする。逆説するなら、社会の活性化は、「等しからざるを」当然としなければならない。

 露骨なことを言えば、人間を最大限に動かす最も有効な方法は、カネ(札束)で尻を叩くのが一番だということである。

 確かに社会的弱者の生活を社会的に保障する所得再配分制度の充実は必要だが、それは人間の現実から離れた〝平等〟の方向に持っていこうとするもので、その制度を手厚くするには、その資金を税収の形で持てる者から順に多く徴収する〝不平等〟を課すことでもある。税金は誰にとっても、仕方なく払うものであり、それも人間にとっての現実であることを否定することはできない。

 このことは計画経済であろうが自由経済であろうが、相互に一方の〝平等〟が他方の〝不平等〟を招く矛盾した構図を抱えることを示しているが、〝人類の理想〟を自ら考え出したとしても、実現するだけの力を持たない人間にとっては、〝人間の現実〟を選択することが、比較的には平等になる。

 但しである。いくら「貧しきを憂えると同時に、等しきも憂える」自由競争が〝人間の現実〟だからと言って、手段を選ばない競争であってはならないのは言を俟(ま)たない。自由競争は公正な手段を絶対条件とするということである。

 よく言われる「機会の平等」とは、公正な機会の付与ということに他ならない。学歴で差別する。コネを使って天下りし、多額の報酬を得る。カルテルを結び、利益の独占を図る。背任行為で不正蓄財する。ワイロを贈って、不正に便宜供与を受け、利益を得る。その逆にワイロを取って、不正行為に手を貸し、何らかの甘い汁を吸う。地位や職務、あるいは管轄権を乱用して、私腹を肥やす。脱税して、不正に財産を蓄積する。多額のカネを使って子どもを医大に裏口入学させ、医者にしていい暮しをさせる。人格や能力を無視した縁故採用・縁故取引で公平さを阻害する。

 どれを取っても、自由競争に対する妨害であり、侮辱以外の何ものでもない。自由競争の悪用、〝人間の現実〟の歪曲そのものの悪質な犯罪行為に他ならない。そのような〝悪用〟・〝歪曲〟が社会の隅々にまで跳梁跋扈している。

 市場主義(自由競争)のルールが〝人間の現実〟である以上、それに基づいた能力の成果に応じて所得に格差が生じるのはやむを得ない。だが、競争を限りなく公平なものにするためには、「機会の平等」(公正な機会の付与)の厳密な実現(=ルール違反の根絶)を絶対条件としなければならない。ルール違反を根絶したとき、「機会の平等」(公正な機会の付与)はすべての人間にとっての共有財産となり得る。

 そのためには、ルール違反者の厳しい摘発と、裁判による厳しい懲罰以外に方法はないだろう。例えば、億単位の背任によって企業に多大の損害を与えた、あるいは国民の信頼を裏切った場合は、財産の没収の上、10年20年の禁固刑に処するぐらいでなければ、「機会の平等」(公正な機会の付与)の厳密な実現(=ルール違反の根絶)は不可能だろう。そのことはこれまでのような不平等社会を延々と引きずることに他ならない。

 要するに、貧富の格差の容認は、「機会の平等」(公正な機会の付与)の完全な実現を絶対前提としなければならない。

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官庁のムダ遣いと自民党との関係

2006-04-12 01:39:51 | Weblog

 政治家が官僚よりも地位が上だからと威張っていたとしても、それに応えて官僚が我々は政治家に使われている身だからと政治家にペコペコ頭を下げていたとしても、政策づくりは官僚頼みの官僚任せ、国会答弁の作成も官僚頼みの官僚任せ、国の運営も同じ。族益と省益が結びついて、お互いがグルになって甘い汁を吸い合う――そんな関係では官僚が頭をペコペコ下げていたとしても、腹の中ではせせら笑いの見せ掛けの平身低頭だろう。

 見せ掛けだから、政治家に使われている身でありながら、ムダ遣いも、カラ給与で収入のお手盛りも、ホテル代だタクシー代だの水増し請求で手に入れた裏ガネで飲んだり食ったりといった乞食行為ができる。外部に仕事を高値で随意契約で依頼し、何がしかを還流させて、それを役得として懐に入れる。

 実際に政治を動かしているのは俺たちであって、お前らではない。ところがお前たちだけがたんまりとカネ儲けしている。バカ見るわけには行かない。相手の無能に対する嘲笑と金銭的な妬み・対抗心があってこそできる私腹行為・乞食行為だろう。それが中央省庁だけではなく、地方自治体にまで、日本中に蔓延している。だから役人天国と言われる。卑しさ・だらしなさの点で政治家も同じレベルだから、政治家天国という表現もつくるべきだろう。

 自民党と官僚が同じ穴のムジナとなることで延々と築き上げてきた好き勝手世界。それを許してきた国民。許しているからこそ、自民党の支持率が一番高くなっている。

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政権交代こそ、政治への最大のチェック

2006-04-11 05:23:55 | Weblog

 4月7日~9日に行った日本テレビの「小沢一郎民主党新代表に期待するか」質問した電話調査(対象1000人・回答51・0%)によると、
「期待する」  50・6%
「期待しない」 40・0%

 「民主党の支持率」は、15・7%(前月比+2ポイント)と、まずまずの歓迎ムードだが、「小沢新代表の民主党に期待することは」という質問に至ると、

「小泉内閣のチェック」          26・3%
「小泉内閣への協力」           19・8%
「他野党と協力して自民党に対抗」     19・0%
「自民党に代って政権担当」となると、最低の15.3% といった始末だ。

 これではかつての社会党への期待と何も変らない。野党は与党のチェック(監視)を最大の役目としているわけではない。そういった存在の仕方は少なくとも先進国の間では日本だけだろう。政治のイロハも理解できない有権者ばかりだから、政治のチェックは最終的には国民自身が役目としなければならないことに思い至らない。政治も変らない、国民の意識も変らない。

 政権交代とは与党・野党の政治を競争原理にさらさせて、国民が品質(政策)も値段(国家予算)も手頃だと買える、国民のニーズに立った政治を目指させる。いやでも国民が何を望んでいるか、熱心に市場調査をしなければならなくなる。

 国民の側から言えば、与党・野党の尻を叩き、俺たちのためになる政治をこじっかりやれ、できない政党は引っ込んでもらうと、決めるのは誰かを知らしめることになる。最初から決まっていたのでは、国民に向ける目は形式だけのものとなる。

 国民がそれをやってこなかったから、日本は経済大国・政治三流国という名誉ある名前を頂戴している。外国への経済援助にしても、政治としてやることができないから、カネのバラ撒きで終わる。外国の高官と癒着して、リベートを払うといったことは一人前となる。

 いくら野党が与党のスキャンダルやおごりをチェックしたとしても、与党が政権交代がないことをいいことに、少しの間低姿勢で過ごせば国民が健忘症よろしく忘れてくれると国民の怒りの嵐がおさまるまでは国民に眼を向けるが、それが過ぎると、またぞろ国民のことを忘れた政治をやらかす。それが国民が手助けしてつくり上げた自民党の歴史だった。

 日本人が意気地なしだから、怖がって政権交代の冒険もできない。

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小沢一郎の誤魔化し

2006-04-10 08:18:34 | Weblog

歪めた事実からは正しい答は見つからない。

 7日(06.4)の民主党代表選に当選した小沢一郎が9日の日曜日、テレビ各局の報道番組に引っ張り出された。確信に満ちた明快な力強い物言い。小泉構造改革批判、政権交代の必要性、靖国神社のA級戦犯合祀の批判等々。

 小沢一郎の自分の正しさを信じた迷うことのない口調に彼に対する権謀術数的印象を払拭し、好感を感じさせ、民主党支持のポイントを挙げたのではないだろうか。10日の朝の早いテレビでも、2ポイント上げたことを報じていた。

 だが、やはり政治家だからと言うべきだろうか、その主張には小泉批判を成立させるための便宜的変身の印象を与えるものがあった。例えば、A級戦犯は中国や韓国から何だかんだと言われる以前の問題として日本国民に対しても戦争を起こし、迷惑をかけた責任がある、そういったA級戦犯を一般の戦没者と一緒に祀っているのは間違いで、当然そのような靖国神社に参拝するのは妥当でないし、分祀すべきで、分祀は可能だといった主張は小沢一郎の本来の考えとは到底思えなかった。

 韓国の盧泰愚大統領が1900年の訪日前に平成天皇の「謝罪のお言葉」を期待すると表明したことに対して、当時の自民党幹事長だった小沢一郎は「(過去の植民地支配や侵略戦争について)反省している。(経済面などで)協力している。これ以上地べたにはいつくばったり、土下座する必要があるのか」と発言して韓国の反撥を受け、両国関係がギクシャクしたため、「政府・自民党首脳会議の場で迷惑をかけた」(1994年5月7日『朝日』)と新聞が陳謝している。

 「謝罪」が天皇を「地べたにはいつくばったり、土下座」させる屈辱行為に当ると見たのか、それとも天皇の謝罪が日本国民にとっては「地べたにはいつくばったり、土下座する」屈辱行為に相当すると見たのか、どちらにしても、天皇及び日本国民を相当に買いかぶった自尊発言である。そのときの天皇の言葉は、「昭和天皇が今世紀の一時期において、両国の間に不幸な過去が存したことは誠に遺憾であり、再び繰り返されてはならないと述べられたことを思い起こします。我が国によってもたらされたこの不幸な時期に、貴国の人々が味わわれた苦しみを思い、私は痛惜の念を禁じえません」であって、必ずしも直接的な謝罪とはなっていない。韓国からしたら、、日本の植民地支配を「不幸」という表現だけで片付けることはできないだろうからである。

 もしA級戦犯の合祀は間違いだとする主張が本来の主張なら、A級戦犯を祀った状態のままで、その上日本の総理大臣が祀ったままの靖国神社に参拝を繰返している状況のままで、「(過去の植民地支配や侵略戦争について)反省している」というふうにはならないはずである。小沢一郎は一度もA級戦犯が合祀されている靖国神社に参拝したことがないだろうか。親分だった田中角栄は5度ほど参拝している。子分が従わないわけにはいかなかったのではないだろうか。

 宗旨替えしたなら、そのイキサツ、目的を明らかに説明すべきではないだろうか。

 格差社会をもたらしただけだと小泉流の競争原理・市場原理を批判する根拠に持ち出したこれまで「日本は平等だった」という主張にしても、反対のための便宜にしか思えない。それをもし信じているとしたら、彼の認識能力を疑うしかない。

 江戸時代に「大尽(だいじん)」と言われた富豪が存在する一方で、年貢を払えない食うや食わずの貧農が存在した。飢饉が起きようものなら、多くの百姓が餓死した。餓死した人間の死肉を食す記録も残っている。飢饉が起らずとも、娘がいて、年頃になると、今で言う売春婦である女郎として売ることが慣習のように行われていた。そういった身売りは明治・大正・昭和と続き、戦後も東北とか北陸の貧しい地域では跡を絶つことがなかったという。

 一方で政治家や財閥系の豪商、その他が箱根や熱海、茅ヶ崎といった避暑地にそれ相応の別荘を持ち、優雅で贅沢な暮らしをしていた。欧米と比較してスケールの点で劣るというだけで、それなりの大金持ちは存在したのであり、当然貧富の格差も存在した。決して「平等」ではなかった。その「平等」が公正な競争によってもたらされたわけでもなかった。癒着・裏取引・縁故関係はいつの世にも存在したからである。バブルの時代、確かに生活の底上げはあり、一億層中流と騒がれたものの、癒着・裏取引・縁故関係がなくなったわけではなく、平等社会がもたらされたわけではなかった。
 
 小沢一郎はまたそれが適正であるなら、市場原理も必要だとしながら、「年功序列・終身雇用」制度の全面否定は間違いだとした。しかし年功序列も終身雇用も正社員を限定条件とした制度であって、非正社員には無縁な不平等制度であるということに気づいていないらしい。「日本は平等だった」を基本姿勢とすると、「年功序列・終身雇用」の肯定へと続けなければ、整合性を失うことにもなるからなのだろうか。

 日本社会は経済成長に向けて波がなかったわけではなく、また一般的には好況であっても、産業によっては深刻な不況を余儀なくされたケースもあり、そんなときパートや期間工、あるいは下請企業に何らかの犠牲を引き受けさせることで、多くの会社が自分たちを守ってきた。そのいい例が、1984(昭和59)年のグリコ・森永事件で、自社製品が全く売れなくなった森永はパートの従業員450人を自宅待機させ、その後全員を解雇している。

 パートや期間工といった臨時採用制度は正社員を余分に抱えないための人件費の抑制と、好・不況に応じて増減を行って会社の経営を守ることを兼ねさせた安全装置であり、そういった安全装置の上に正社員の「年功序列・終身雇用」制度は成り立っていたのである。非正社員を含めた場合、決して「平等」とはいえない「年功序列・終身雇用」であった。平等ではないことの当然の経緯として、正社員と非正社員の経済格差をもたらした。05年度の厚労省の調査が、正社員と非正社員のボーナスや残業代を含まない平均月給差は男性で12万円、女性で7万円にのぼるという数値を弾き出している。年間で換算したら、144万円と84万円の差。ボーナスと残業代まで含めたら、それ以上に膨らむ。似たような格差が過去にも存在しただろう。社会の現実を知らない学者とかだけが、「年功序列・終身雇用制度は日本に特有な、誇るべき家族的な制度で・・・・」と、それが日本社会全体を覆う制度であるかのように新聞に書いたり、テレビで発言していただけのことで、そういった実体は存在しなかった。

 それでも社会的に大きな問題とならなかったのは、全体的としては日本の経済が拡大基調にあり、再就職先を見つけるのにそれほど困難ではなかったったからで、そういった外部的な状況が許した条件付きの「年功序列・終身雇用」だったのである。状況が許さなくなれば、当然破綻する。

 今後再び日本の経済が力強い拡大を迎えたなら、「年功序列・終身雇用」は息を吹き返す可能性無きにしもあらずだが、それでもパート、臨時工、あるいは平成不況を迎えて正社員の領域にも侵出した臨時雇用の一形態でもある派遣社員を安全装置として抱え込むことに変りはないだろう。当然不平等を引きずる。

 社会の現実をもう少し正確に認識できる政治家を望みたいが、ないものねだりなのだろうか。それとも正確に認識しているが、認識したとおりには政治は行えないと、行うことができる範囲で御都合主義を決め込み、政治家という自分の身分を優先させることだけを考えているのだろうか。

 歪めた事実からは正しい答は見つからない。人間の能力の限界を受けて、ただでさえ現実社会に矛盾なく機能させる政策は望めないというのに、歪めた事実に立脚させた政策に多くを望めるはずはない。

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労働生産性から見る公務員削減

2006-04-09 04:34:17 | Weblog

 小泉首相は国家公務員の総人件費削減に関して、「平均して5%の定員純減を5年間でという目標を掲げている」が、「各省一律に公務員を減らせと言うことではなく、国民の安全に関する部門以外で定員純減に取組む」方針を示した。

 「国民の安全に関する部門」とは、「警察官、入国管理局の公務員は増やしている。必要な点は増やす」ということらしい。

 定員純減に関して各省との交渉役の中馬行革担当相は、「能力主義の人事・給与制度導入の公務員制度改革でなくては定員純減は難しい」と言う考えを示している。
 
 「能力主義」をムチに尻を叩くことで一人一人の能率を上げ、全体の仕事量の底上げを図って少数精鋭の形を取り、そこから余剰人員を弾き出して定員削減を可能とすると同時に、そうしない場合の弊害を取り除こういうことなのだろうが、小泉改革のこれまでを見ると、どうせ中途半端に終わる運命にあるのではないか。少数精鋭が可能なら、既にそういう態勢を取っただろうからである。小泉首相本人はこれまた今までのように、実を結ばないうちから成果を誇るだろうが、一旦は削減したものの、この人数では満足に仕事が消化できないからと、後からこっそりと採用して元の状態に戻るといった後退はよくあることである。

 「能力主義」と小泉首相の「警察官、入国管理局の公務員は増やしている」は矛盾していないだろうか。警察や入国管理局にも中馬某の言う「能力主義」を導入して仕事量の底上げを図り、少数精鋭態勢を取ったなら、「増や」す必要はなくなる。そうせずに増やすのは、小泉首相がひそかに日本を警察国家にしようと企んでいるからだろうか。安倍晋三が教育基本法に愛国心の涵養を盛り込もうと企んでいることと考え併せると、どうもそういうふうに勘繰りたくなる。

 入国管理局の職員の収容外国人に対する暴力・暴行もそうだが、日本の警察は特に悪名高い。捜査協力費の流用・不正経理・警察官でありながらのワイセツ・強姦・盗み・万引き、そして怠慢捜査・調書改竄・事件揉消し・裏ガネ・移送中囚人逃亡等々。

 当り前のような状態で新聞・テレビを賑わすこういった姿は真面目で勤勉で仕事を能率よくこなす日本人を想像させるだろうか。すべてではないと言うだろうが、決して一人や二人ではない跡を絶たない状況が構造的な欠陥であり、日本の警察の体質となっていることを証明している。

 少なくとも管理の不行き届きが招いている醜態以外の何ものでもないはずである。醜態が常態化している状況は、管理側(いわば上層部側)の管理能力がいつまでも未熟で隙だらけ、下の無規律についていけない状況にあることを示している。言い換えれば、上が上なら、下も下と言うことであろう。組織の全体的な構造不全そのもので、その結果として警察の場合は検挙率の低さという機能不全に象徴的に現れている非能率なのではないだろうか。

 構造不全に陥っている組織に人員をいくら注ぎ込もうが、税金のムダ遣いと頭数を増やすだけで終わるのは目に見えている。「能力主義」を言うなら、警察官の職務怠慢、公金での飲み食い、犯罪、私腹肥やし等の体質を一掃して、逆に仕事が能率よくできる体質への転換を図る意識改革を強力に推し進めて、検挙率の高さに反映できるよう持って行く。体質のそういった改革によって、逆に人員削減につなげていくことこそ本質を把えた公務員改革と言えるのではないだろうか。

 小泉首相がその逆を行くのは、この男の力量と言ってしまえばそれまでだが、「公務員制度改革」に反する措置のように思える。

 「能力主義の人事・給与制度導入」がここにきて言われるのは、業務が能率的に発揮できていない状況が公務員の全体的問題として存在していることの裏返しで、その是正に向けた施策であろう。公務員業務が全体的に非能率であるということは、広く言えば当然のこととして、日本の労働生産性にも関わっているはずである。そこまで視点を広げて対策を講じないと、絵に描いた餅の運命をたどらないとも限らない。

 どれ程の余剰人員を弾き出せるか。元々日本のホワイトカラーの労働生産性は現場労働者と比較して低いと言われている。いわば、能率の点で劣っている。日本人は勤勉で真面目だという評価が労働生産性に成果となって現れていない。これは表面的にただ単に「勤勉で真面目」であるというだけのことで、評価自体が幻想に過ぎないということだろうか。

 警察官や社保庁、防衛施設庁、かつては大蔵省や外務省といった官公庁や特殊法人の不正行為を見たら、「勤勉で真面目」と言う評価は見せかけでしかなく、幻想に軍配を上げなければならなくなる。

 「勤勉で真面目」が事実であったとしても、労働生産性で見た能率の悪さはこれまた事実としてある数字であって、それが日本人の本質的な力量だとすると、「能力主義の人事・給与制度導入」を行ったからといって、本質を改善する力となりうるかということが問題となってくる。

 社会経済生産性本部が発表した2005年版「労働生産性の国際比較」によると、「購買力平価で換算した2003年の日本の労働生産性は5万6608ドルで、OECD加盟30カ国中第19位であった。先進主要7カ国の比較では、日本の労働生産性水準は最下位で、米国の7割の水準にとどまっている。日本の労働生産性の水準は国際的に見て決して高いとはいえない」とある。

 しかし「日本の2003年の製造業の労働生産性水準は24カ国中第4位であった」。「なお主要先進7カ国中で見ると、米国に次ぐ第2位であった」

 製造業の労働生産性水準が「24カ国中第4位」、「先進7カ国中で見ると、米国に次ぐ第2位」であるにも関わらず、全体に均すと、「OECD加盟30カ国中第19位」、「先進主要7カ国」中「最下位」というのは、サービス業やホワイトカラーの生産性がより低いことを物語っている。勿論、その生産性の低さに警察に限ったことではない官公庁、地方自治体の公務員のコスト意識の欠如、職務怠慢、非能率、放漫経営が大きく寄与し、足を引っ張っているのは間違いない。

 確かに農業部門の生産性が特に低いことが全体の生産性を低くしている側面もあるだろうが、日本は技術が優れているという評価を裏切って、知恵の出し具合が不足しているということもあるだろう。

 いずれにしても、部門に応じた不均衡は何が原因でもたらされているのだろうか。

 日本人の労働生産性とは詰まるところ、日本人の一般的行動性が労働の場に於いてどう対応するか、その姿勢がつくり出す仕事の能率のことであろう。ホワイトカラーであろうとブルーカラーであろうと、一般的行動性は本質的には同じである。となれば、部門ごとの労働環境での一般的行動性の対応とそれぞれの違いを見ることで、労働生産性のありようを解き明かせないことはない。

 解く明かす一つの鍵が、「2001~2002年の労働生産性上昇率のトップは金融保険の7・3%」であるとする同じ社会経済生産性本部の報告ではないだろうか。同じ報告で「全産業、製造業とも、1・0%の改善率であった」というから、製造業以外の一般的に低いとされている労働生産性に対して、「金融保険」の突出した「上昇率」「7・3%」は特別の理由付けなくして説明できない事柄であるはずである。
 
 日本人は一般的に主体的・自律的に行動するのではなく、権威主義を行動様式としている。権威主義とは言うまでもなく上は下を従わせ、下は上に従う行動傾向を言う。従わせ・従う行動を成立させる条件は命令・指示のシグナルによってである。命令・指示を発して従わせ、命令・指示に応じて従う。そのような従属が極端化した場合、命令・指示の範囲内で行動することとなる。例えばマニュアルに書いてある規則どおりにしか行動できない人間がそれに当てはまる。児童相談所等が子どもの虐待を事前に把握していながら虐待死に至らしめてしまうのは、規則(=マニュアル)に従うことでしか対応できない人間ばかりだからではないかと疑いたくなる。
 
 上は下を従わせ、下は上に従う行動は命令・指示が有効であることによって、より活動的とし得る。当然能率は上がる。

 「金融保険」業務に於ける就業者の業務行動は何によって条件付けられているか考えると、景気・不景気の動向とか、不良債権処理の進行といったことに左右されるものの、一般的にノルマが数値で示され、成果に対する相対評価にしても絶対評価にしても、これ以上明確なものはない数値で表され、誰もがそのノルマ達成に向けて邁進しなければならないシステムとなっている。特に組織間の競争が激しくなれば、ノルマもより厳しく設定される。

 ノルマとは言うまでもなく達成を目標に割り当てられた仕事量のことであって、ノルマに従って行動するよう仕向けられる。達成を目標に割り当てられること自体が既に命令・指示の形を取っていて、ノルマそのものが命令・指示の役目を本来的に体現していることを示している。

 いわば命令・指示が常にスイッチオンの状態になっていて、それが心理的な監視の役目を果たし、一方でノルマの達成度を見ることで、仕事量が一目瞭然と分かる仕組となっている。

 このような状況は日本人の一般的な行動性に於ける命令・指示に従って行動する構図と符合する上に、ノルマが命令・指示を監視する役目を果たしていることと、ノルマとして表されている命令・指示への忠実な従属が各自の業績に関係してきて、それに刃向かうことができない強迫行為(=従属一辺倒)が可能とした「7・3%」ではないだろうか。

 もしこの分析が妥当であるとしたら、製造業に於ける労働生産性の国際比較値の高さも、命令・指示の有効性をキーワードに説明できなければならない。

 製造現場では1日の生産量がノルマとして決められていて、なおかつ流れ作業に常に追いついていかなければならない命令・指示に当る強制が常に働いている。その上製造現場では上司の監視の目が行き届いていて、無言・有言の命令・指示の役目を果たしている。そういった二重三重の命令・指示の強制力学が日本人の一般的な行動性となっている下の上に従う従属性を否応もなしに活性化させて、そのことが製造業の労働生産性水準を「24カ国中第4位」、「先進7カ国中で見ると、米国に次ぐ第2位」という地位を与えているとする分析でなければならない。

 そういった強制力学の影響が少ない場所が公務員や一般企業サラリーマンのホワイトカラーの労働現場であろう。労働を促す命令・指示への従属を監視する制度の希薄さが、比較対照的に労働生産性の低さとなって現れているということである。
 
 以上のことの傍証となる日本人の一般的な行動を例示することができる。川の草刈といった地域活動は、地域が年に1度とかの決めた日に決められた人数で行うことが一般的となっているが、地域の役員と駆り出された人間との間に本人の生活に関係してくる雇用上の給与評価といった直接的な利害関係が存在しないから、遅刻や中途退出は当たり前の現象となっているし、集団が大きいほど、誰がどれ程の仕事をしたか判断しにくいために適当に仕事をする人間が現れる。少し手を動かしては、すぐに手を休めて、他人の仕事を眺めてばかりの人間もいる。どれもが自己の生活と様々な利害関係で結ばれている雇用先では許されない手抜きであろう。当然、草刈といった集団で行う地域活動の労働生産性は決して高いはずはない。

 そういった手抜き=労働生産性の低さを許しているのは、地域の役員の駆り出した人間に対する命令・指示が双方の生活上の利害が直接的に関係していないことも手伝って、彼らを従属させるまでの力を有していないことが原因しているのは言うまでもない。

 また、年に1度の草刈では、その間雑草が伸び放題となるために、誰かが本人の意志のみで一人で草刈でも始めようものなら、「決められてもいないことをやるべきじゃない。一人がやれば、みんなもやらなければならなくなる」と、それが新たな決まり事となって駆り出されることを嫌い、地域の決まりごとへの従属を最小限にとどめようとすべく拒絶反応を示す人間もいる。
 
 いわば決められたことはやるが、決められていないことはやらないという命令・指示の範囲内で従属することを行動に於ける習性とした、他との関係で自己の行動を決定する他律性としてある権威主義的行動様式そのものの現れは元々日本人の一般的傾向としてある姿だが、命令・指示が自己の利害に影響しない場合は、従属を最小限にとどめたり無視したりすることも、他律性(=権威主義的行動様式)に則った行動であろう。

 ホワイトカラーの労働生産性が地域活動の草刈といった労働生産性よりも低いものであるとしたなら、組織管理が無規律・無計画・無成熟であることを証明するだけのこととなるから、ホワイトカラーの一般的な労働生産性にも劣る地域活動の消極的・非能率な態様と見なさなければならない。日本人が事実勤勉であるとするなら、組織活動に於いても地域活動に於いても同等の勤勉さが発揮され、同等の労働生産性を上げるべきであるが、そのことを裏切るあってはならない両者の落差は命令・指示の監視の有無、及び従属に向けたその効力の度合いを条件として初めて説明し得る。

 このことは製造業とホワイトカラーの労働生産性の格差にも応用しうる説明であろう。

 命令・指示の監視と従属へのその効力を条件とした行動性はビン・缶のポイ捨てにも現れている。ポイ捨て禁止は条例も含めて社会的な約束事となっている命令・指示であることから、世間の目・他人の目が届いていて、それが捨てるな・捨ててはいけないという命令・指示の監視となって従属せざるを得ない場所ではポイ捨てはしないが、それがない場所では平気で捨てる。捨てたビン・缶が目につきにくい中央分離帯の植え込みの中や雑草が一面に生い茂った土手下の川、あるいは道路脇の竹やぶ等を特定の捨て場所とするのは、犯罪者が犯罪の証拠を隠すことで自己の犯行そのものを隠そうとするのと同じく、捨てたビン・缶を見えなくすることで命令・指示への従属を破った自己の〝犯行〟をも隠そうとするからだろう。

 社会的公徳心までが自律的行為からのものではなく、規則や習慣に対する従属行為となっている。従わなければならないなら従うし、従わなくてもよければ、従わない。日本人の労働生産性を高めるには製造業の労働生産性の高さを習って、「能力主義の人事・給与制度」をムチとする方法をも含めた命令・指示の監視を強化して、上が下を従わせ、下が上に従う従属的行動性を強固に効果たらしめて、否が応でも従わせる方向に持っていくことで、解決するのか、労働に対して自律的姿勢を持たせることから改善する方向で解決するのか、どちらかの選択にかかっている。

 元々日本人は子どもの頃から親にああしろ、こうしろと命令・指示を受けて、それに従属する形で自らの行動を形成してきた。学校に入ると、教師が教える教科書の内容をそのままの形で暗記するなぞり教育によって、その原理となっている上が下を従わせ、下が上に従う権威主義的な従属性を家庭に引き続いて刷り込まれ、補強・強化を受ける。そこには自分で考え、自分で選択・決定する自律性の要素は介在しにくい。そのような学校教育を受けて育むこととなった暗記知識の応用には強いが、自ら問題を把えて考え、結論づけていく力が不足する偏った傾向は相互対比的に、命令・指示に従うことには効率よく順応するが、そのことへの一辺倒の慣れが、自分の判断で行う自律的行動への対応が未成熟という逆の行動性となってものの見事に現れている。

 安倍晋三は愛国心までも学校教育でなぞらせ、従わせようとしている。かくして日本人は従属型人間へのなお一層の束縛と強制を受け、ますます自律性から遠ざかることになる。当然、製造業以外の労働生産性は命令・指示の監視を強めて、物理的・心理的に従属を強制する以外の方法では改善しないことになる。自律性なき改善である。「能力主義の人事・給与制度導入の公務員制度改革」をもムチとして利用し、従うことが善となる。

 だが、そういった体制は命令・指示の監視に対してバブロフの犬並みに条件反射的に有効となり得ても、そこに自律性が存在しなければ、限界を抱えることにならないだろうか。

 大体が大の大人を命令・指示の監視で従属させようとすること自体、情けない話である。命令・指示の監視なくして自ら活動する自律した人間こそが、望ましい日本人であるはずである。「能力主義の人事・給与制度導入」のムチで公務員改革を成し遂げるか、気の遠くなるような時間がかかるだろうが、自律性を持たせることで成し遂げるか。

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民主党は大人でない?

2006-04-07 08:24:51 | Weblog

 いよいよ民主党の代表選が大詰めを迎えた。今朝(4月7日)のテレビで、鳩山幹事長が「選挙が過熱すると、後で必ずしこりが残る」と、そうならないよう選挙後は党が一つに纏まり、挙党体制が築かれることを願う発言をしていた。

 羽田名誉代表だとか、何だか分からない役職のシーラカンスが一本化工作すべく、鳩山幹事長をパシリにして小沢・菅会談をセットしたようだが、一本化はならず、選挙後は協力し合っていくことを確認したという。この場に及んで一本化などと、何か密約があったのかもしれないと疑いたくなる。

 大体がしこりだとか分裂とかは何を意味するのだろう。敗れた者が敗れたことに面白くない感情を持って、当選した者の政策の足でも引っ張ると言うことなのだろうか。目に見える形でそうしなくても、協力しない形で間接的に足を引っ張る。何か失敗したら、それ見たことか、ザマー見ろと内心囃す。そういうことだろうか。それとも、じゃあ、俺は俺の政治をやると、仲間を連れて党を割るということなのだろうか。

 もしそうだとしたら、民主党議員一人一人が大人ではないと言うことではないだろうか。

 党代表を決める選挙で、それがいくら激しい戦いになったとしても、しこりが残ったり、分裂の危機が生じたりするのでは、今まで何ために民主党という組織を築いてきたのか意味不明となる。もし分裂すると言うなら、そんな党なら、分裂してしまった方がいい。

 選挙後、新代表の政策が対立候補だった者の政策と相容れないものだったなら、そのときこそ話し合いの場を持ち、徹底的に議論して政策の合意点を見い出す努力をする。いくら議論を重ねても合意点を見い出せなかったなら、そのときは相手の政策に任せる。そういった手続きを踏むのが当たり前の政治家のすることではないだろうか。

 渡部国対委員長は「当選した者が代表、敗れた者が幹事長」と言っていたが、頭の古さは相変わらずである。党人事は代表の専管事項であって、代表が自身の政策を強力に推し進めるために自己の政策を強く支持する腹心でまわりを固めようが、あるは世代間のバランスや党内勢力のバランスを優先して、役職を満遍なくバラ撒こうが、選挙で破った者を厚遇しようが、あるいは密約があって、それを果たそうが、すべて新代表の責任で行うことである。すべてはそういった代表を選出した結果としてある行く末であろう。いわば代表選出とは、それが支持した代表だろうが、支持しない代表だろうが、党員全体がつくり出した一幕だと言うことである。それがどう転ぶかである。

 大人になってないせいか、それぞれに任せることができないらしい。任せてダメなら、やめてもらう。それで党自体が衰退してしまうと言うなら、衰退してしまえばいい。みっともないゴタゴタを国民の前に曝すよりはマシではないだろうか。

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