国会での小泉首相の言葉―「格差は悪いことなのですか

2006-04-06 06:29:39 | Weblog

 安倍官房長官がテレビで(06.4.2.HHK「日曜討論」)富める者とそうでない者との差が現実問題として著しくなっている生活格差問題で、認めたら自民党全体の責任として降りかかってくるから、自民党にしても安倍氏自身にしても政策の矛盾であることを認めていないが、「機会の平等を求め、結果の平等は求めない」政策の遂行を主張していた。

 機会が平等でありさえすれば、結果が平等とならなくても止むを得ないと言うことなのだろう。

 耳障りよく聞こえるが、人間が地球に住むようになって以来、神も求めることができなかった「結果の平等」である。「神は平等なり」と言いながら、神が造り給うた現実世界は平等ではなかった。ましてや人間が求めることができようがない。求めることができないことを、「求めない」と言ったのである。

 理想論からしたら、「結果の平等」こそ最善である。勿論、十働いた者が十の幸せを得、五しか働かない者は五の幸せしか手に入れることができないことを「平等」とするか、十働いた者も五しか働かない者も、十の幸せを手に入れることを「幸せ」とするか、人によってどちらを取るか違いが出るだろうが(五しか働かない者も、十の幸せを要求できる「結果の平等」を主張するだろう)、いずれのルールの「結果の平等」であっても、人類は実現させるだけの力を持っていない。当然、ましてや小泉だ、安倍だといった人間が、ということになる。

 実現させ得ないのは、人間がそれぞれに持つ利害が(利害にも強い・弱いがあって、一般的傾向として強い利害が居座り、弱い利害が片隅に押しやられる)それを邪魔しているからで、共産主義が失敗したのも、同じプロセスからのものだろう。「平等」をつくり出す力が持てず、共産主義の思想にあってはならない〝結果の不平等〟をつくり出してしまった。逆に自由主義が成功したのは、格差を必要悪としてきたからだろう。ときには必要悪を超えて、矛盾悪となる。そういった人間の限界に目を向けて、謙虚に受け止める冷静な認識能力が安倍長官には欠けているらしい。

 「機会の平等」にしても、「機会の平等を求め、結果の平等は求めない」云々をバカの一つ覚えのスローガンみたいに繰返すことはできても、経済的利害やメンツといった感情的利害、縄張り意識からの利害、それぞれの慣習の違いによる利害等々の衝突が障害となって、人類がこれまで実現させることができなかった難事業なのである。「機会の平等を求め」などと簡単に言ってくれるよ、である。

 大体が「機会の平等」が存在していたなら、「機会の平等を求め」る政策は必要なく、〝機会の不平等〟が現実に存在するからこそ、そうした政策を掲げざるを得ない現状があるのであって、その現状たるや自然発生したのではなく、自民党政治が、まあ、広い意味で言って、世の中が〝機会の不平等〟を放置してきたことが招いた成果物としてあるはずである。言ってみれば、日本人自体が〝機会の不平等〟をつくり出していながら、それを少しでも改めようという意識にまで行っていないといったところだろう。

 となれば、〝結果の不平等〟がこれ以上目に余る状況に至らないように、「機会の平等」の実現に努力すると素直に言えば済むことであって、「結果の平等は求めない」などと言う必要はなく、余分な一言に過ぎない。留意すべき肝心な点は留意せず、口の中で言葉が突っかかりそうになるのをこらえて澱みない言葉回しを懸命に心掛け、さも決断力があり、頭脳明晰なところを見せようと、そのことだけに気を使っていたようだが、留意せずに済ませることができる無神経さは政治家にとっては長所なのだろう。

 これもテレビの発言で、民放ではあったが、どこのテレビ局か忘れたが、「格差は差別ではない」と評論家だか何だか知らないが、そう発言していた者がいた。その説明として、幼稚園や小学校で全員が1等賞になるかけっこをするといった現実社会に即さない、子どもの個性を無視した「結果の平等」をつくり出す悪平等が行われていたことを挙げてから、みなが同じスタートラインに立ち、同じヨーイドンの合図で一斉にスタートすれば、1等の子もいれば、2等になる子もいるし、ビリになる子も出てくる。そういった「機会の平等」を出発点とした競争の当然の結果としてあるのが現実社会では避けることのできない格差であって、それを以て「差別ではない」理由としていた。

 自民党の考えと同じ「機会の平等」の存在を、少なくとも許容範囲外となっていないことを前提とした格差論である。現実社会で機会別に全員が同じスタートラインに立っていたなら、あるいは立つことができるなら、「機会の平等を求める」などと騒ぐ必要はないことに気づきさえしない。幼稚園・小学校の走る能力で順位が分かれるかけっこを現実社会で生存競争の様々な骨格を構成することとなる「機会」と格差の譬えに挙げること自体が愚かしく、自分たちが非難している全員が1等賞となるかけっこと同じく非現実的であることに気づいていない人間がテレビに出て、さも尤もらしい主義主張として全国に垂れ流している。

 すべての格差はとは言わないが、格差は差別である。男女格差は、男女差別を前提としてその殆どが占められているのではないだろうか。元々ある男女差別が収入の男女差別である男女格差を生み、生活の格差へとつながっていく。

 そのほかに学歴差別・年齢差別・容姿差別・地域差別・職業差別・収入差別が様々な格差をもたらしている。そのことに届く目を持たず、「格差は差別ではない」と言い切れる人間は単純で幸せである。

 「『経済格差』高校・大学で認識差」という朝日新聞の記事(06年2月12日朝刊)がある。調査したのは「高校生らに進路相談会を開催している『ライセンスアカデミー』(本社・東京都新宿区)」で、調査に対する回答は「高校は主に進路指導の担当の教員」で、大学は具体名は出ていないが、大学生本人ではなく、大学当局の誰かが応じている。
 
 「『大学に行きたくても行けない生徒は、学力よりも学費の制約が強くなったか』との問いに、公私立あわせた高校全体の20・5%が『とてもそう思う』」「『やや思う』の50・2%と合せて、『あまりそう思わない(25・9%)』『そう思わない(2・0%)』を大きく上回った」

 「『学費を大学選びの判断基準として考える生徒が増えている』」は、「『増えた』『やや増えた』の合計が公立で7割を超え、私立でも6割に達した」

 「『家庭の経済力によって、高等教育を受けられる格差が広がっている』と考える高校は『とてもそう思う』が37・3%、『ややそう思う』が46・1%」「『あまりそう思わない』『そう思わない』は合計6・4%」

 上記「同じ質問に対する大学側の回答は『とてもそう思う』が(10・5%)、『ややそう思う』(46・2%)と比較的低めで、『あまりそう思わない』『そう思わない』の合計も12・5%あった。
 調査担当者は、こうした『格差』への認識のズレについて、『高校に比べると、大学側は入学してくる生徒しか見えないからではないか』と分析している」が、そういったことと合せて、大学当局がカネの差――言ってみればカネの力で大学入学が決定されることを認めたくない意識も働いていたのではないだろうか。興味深い調査なのだから、調査結果を大学生に見せて、無記名で自分はどの回答に当てはまるか記入させて、それぞれの親の収入の調査も併せて行い、高校側にも同じ趣旨の調査を依頼して、両者を比較すれば、より正確な実態が浮かんだはずである。

 04年度の児童虐待死53例のうち、3分の2に当たる35例は事前に児童相談所等の関係機関が把握していて、そのうちの12例は関係機関自体が「防げた死」と考えていることが厚生労働省の専門委員会の検証で判明したという記事が新聞に載っていた。

 危機管理とは危機の種類に応じた最悪の場面を想定し、そこに至らない万全の措置を講じることであろう。児童虐待に於ける最悪の場面とは当然ケースに応じた虐待死である。関係機関は子どもを殺させてしまってはならないという姿勢で、その一点に向けて事に当ることをしなければならない。となれば、12例だけを「防げた死」とするだけではなく、事前に把握していた残りの23例も、防がなければならなかったが、危機管理が機能せずに最悪の場面に至らしめてしまって、〝防ぐことができなかった〟としなければならないのではないだろうか。

 子どもの成長という点で「機会の平等」を与えられなければならないはずだが、他者からの物理的暴力によって生きる機会を子どものうちに奪われてしまう。この世の中には、〝生命の格差〟さえ存在する。

 大学進学に於ける「格差」問題で、大学側に高校側と比較して受け止め方に「ズレ」がある状況は、児童相談所等の関係機関が児童虐待に機能的に対応できていない状況と能動性の点で関連しあっているように思えて仕方がない。

 親の収入によっても、同じスタートラインに立つ「機会の平等」が奪われ、その延長に立ちはだかっている学歴格差からくる学歴差別が一般的には生涯的な生活の格差につながっていく。格差が差別を生み、差別が格差を生む相互循環がここに生じる。

 幼稚園・小学校のおっかけっこの1等、2等の格差にしても、それが差別を生まない保証はない。ライバル関係にあるのでなければ、自分が得意とする才能を同じく得意とする人間に親近感を持つ傾向がある。逆もまた真なり。自分が得意とする才能を不得意とする人間は敬遠しがちとなる。ときには蔑みを持つまでに至る。理科の先生が理科が好きで、その成績がよい生徒には面倒見がよくなるだろうし、逆にいくら教えても理科の成績が上がらない生徒に親しみを感じなかったとしても、人間の自然な感情(心理的利害)としてある扱いであろう。

 同じスタートラインに立ち、同じ合図で走る幼稚園・小学校のかけっこで、走ることを得意としている教師が、太ってもたもたと走って、大差でビリになる無様な子にもし親近感ではなく、蔑みを感じたなら、他の機会でも、そのことが影響しないだろうか。少しでももたついたとき、内心ドジなヤツだと腹立たしげに罵るといったことはしないだろうか。

 一見「結果の平等」に見えても、その「結果」から、不平等が生じることもある。相互循環の開始とならないとも限らない。

 厚生労働省の調査によると、平成17年6月1日現在の民間企業の障害者の実雇用率は前年に比べて0.03%ポイント上昇し、法定雇用率の1.8%に対して1.49%となったという。但し、中小企業の実雇用率は引き続き低水準にあり、企業規模別で最も低く、1,000人以上規模の企業では実雇用率は1.65%(前年比0.05%ポイント上昇)と高水準にあるが、法定雇用率達成企業の割合は33.3%と、企業規模別で最も低くなっているそうだ。

 法定雇用率とは、労働者数56人以上規模の民間企業で1.8人の採用、労働者数48人以上規模の特殊法人や国・地方公共団体で2.1人の採用を法律で義務付けている%のことだそうだ。

 国関係が法定雇用率を達成していなければ示しがつかないだろうから、前年と比較して減っている機関もあるが、法定雇用率自体はクリアしている。但し、2.1%の法定雇用率が適用される48人以上規模の特殊・独立法人関係では、平成6年は実雇用率が1.71%あったものが、1.5%減少したという。

 法定雇用率を達成していない上に前年より減少しているこの現象は、天下りに席を譲る分、障害者が外に追いやられていることから起っていることではないだろうか。そうでありながら、天下りの達成がまだ不足と考えている天下りもいるに違いない。天下りで周りを固めれば、天下りの発言力が高まるからだ。それが天下りの利害と言うものだろう。

 参考までに次のような規定があるという。「重度身体障害者又は重度知的障害者については、その1人の雇用をもって、2人の身体障害者又は知的障害者を雇用しているものとしてカウントされる。また、短時間労働者は原則的に実雇用率にはカウントされないが、重度身体障害者又は重度知的障害者である短時間労働者(1週間の所定労働時間が20時間以上30時間未満の労働者)については、1人分としてカウントされる」

 法律が定めたこととは言え、民間企業で56人以上規模の民間企業と1000人以上規模の企業の法定雇用率が1.8人と同じで、国と地方公共団体及び特殊・独立法人関係で、48人以上規模と1000人以上規模とが2.1人と同等なのは、最低限の雇用であった場合、残数の割合も法定雇用率にほぼ一致して一見平等のように見えるが、それぞれの予算規模(民間企業の場合は資本規模)を考慮に入れると、経営に与える余裕と障害者が障害者向きの仕事に遭遇できる機会を用意できる余裕(機会創出の余裕)に違いがあるはずで、その点、小規模事業体と大規模事業体の間で格差・差別を生じさせていると言えるのではないだろうか。

「格差のない社会はない。格差はどこの国にもある」

 これは小泉首相が国会で述べた言葉だが、一般雇用に対する障害者雇用の格差や小規模事業体と大規模事業体との間の資金的余裕と障害者への機会創出の余裕の格差は、小泉首相が言っている織込み済みの格差であって、問題にするに当らない事柄なのだろう。そう言えば小泉首相は厚生大臣を務めたことがあり、厚生族出身であった。

 小泉首相は「競争に敗れた者が再チャレンジできる仕組みが必要だ」と、「再チャレンジ」制度の創設を人質に生活格差(〝結果の不平等〟)の正当性を図っている。他の閣僚・党役員も右へ倣えの猿マネで口を揃えて同じことを言い、格差が競争社会に於ける許容範囲内のものだとする主張の理論武装の一つとしているが、「再チャレンジ」とは「格差」(=〝結果の不平等〟)の救済措置以外の何ものでもない。救済措置を設けなければならないのは、「格差」(=〝結果の不平等〟)が許容範囲外であることと、それが「機会の平等」が存在していて、そこから生じたものなら、「再チャレンジ」に何ら障害とならないから、救済措置を設けるまでもないことで、〝機会の不平等〟から生じた「格差」(=〝結果の不平等〟)を救済する「再チャレンジ」制度が実態となる。

 いわば再チャレンジ」制度の創設は「機会の平等」も「結果の平等」も放置できない状況に達していることを暴露するものであろう。

 断っておくが、「機会の平等を求める」と言うのと、〝機会の不平等〟を是正すると言うのでは意識上のニュアンスも違えば、それが違えば、当選取組む姿勢も違ってくる。「機会の平等を求める」には〝機会の不平等〟をおおっぴらに認めまいとする意識が働いている。

 となれば、「機会の平等を求め、結果の平等は求めない」はなおさらにキレイゴトとなる偽善に満ちた宣言となる。

 「機会の平等」は制度や法律だけでは片付かない。男女雇用機会均等法が1986年の施行、1997年の改正、そして1999年の改正男女雇用機会均等法の施行と続いているが、男女格差・男女差別がなくならないのは、日本社会の男尊女卑の風習を引きずった、その名残りからの影響もあるだろうからである。

 男尊女卑は例え名残り程度であっても、日本人の男にとって経済的にも心理的にも自分に有利となる利害だから、そのことが家事をしない夫の存在を育み、子育て・家事の負担が女性である妻の側に偏って、保育所入所問題や産休といった問題などとも絡んで子どもは1人で十分という意識が少子化の問題にもつながっている。

 学歴差別にしても、学歴で人間の価値に違いをつける日本人が持つ権威主義の働きから生じている価値観であって、男尊女卑にしても権威主義を原理とした男女間の上下意識なのだから、〝機会の不平等〟のより公平な方向への是正は男女を含めた日本人自体の意識の根本的な変化を待たなければ、いくら制度・法律をいじったとしても、対処療法で終わる可能性が高いのではないだろうか。

 日本型の権威主義が〝機会の不平等〟をつくり出しているバックボーンとなっていること、〝結果の不平等〟の誘因ともなっていることに留意すべきだろう。

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政治家が〝先生〟

2006-04-05 09:53:21 | Weblog

 民主党の菅直人が記者団に党代表選挙に立候補するのかインタビューされた答の中で、既に次期代表に意欲を示していた小沢一郎のことを「小沢先生」と言っていたのには失望した。古い政治手法の小沢よりも、菅の方が少しは清心な気がして、立候補するなら次の代表を期待しているのだが、その期待も萎んでしまうほどの失望であった。
 
 実際のところは岡田克也が自分自身の中では最善と思っていたが、本人はその意志がない。

 国会議員同士が相手を、国会議員でなくても、国会議員を「先生」と呼ぶ風習が理解できない。そう呼ばれれば、気持がくすぐられるだろうが、いくら優秀な政治家であっても、選挙で国民の負託を受けた地位にあることに変りはなく、それが人より上の位置に立つことになる「先生」となるのは負託者である国民の〝任せますよ〟という負託の意識から離れることではないだろうか。少なくとも与えられた地位よりも上に立つことになる。そういった感覚が当たり前となったとき、当然国民は下の位置に立つ人間に見えるようになるのではないだろうか。

 「政治家の〝国民のみなさま〟は選挙用の尊称なり」と確か誰かが言っていた。

 民主党は「次の内閣」の閣議で、お互いを「総理」、「大臣」、「官房長官」というふうに、政権担当している現実の閣僚同士と同様の呼び方をしていたそうだが、05年の9・11総選挙の惨敗後、責任を取って辞任した岡田克也の後を引継いで〝次期総理〟となった前原新代表の指示で、「総理」、「大臣」といった呼称を廃止して、「担当」と呼ぶことにしたそうだ。

 実際に政権を担当しているわけでもないから、自分たちが主張する政策を与党政権のようには行政に反映させることができない立場を考えたなら、「総理」とか「大臣」と呼ぶのは自己満足を出ないし、野党政治家の義務として現実に手に入れて政策遂行の職務として実感しなければならない閣僚という地位を手に入れないまま呼び名だけで実感していたというのは、虚構を演ずることでお互いを慰めあっていたとしか思えない。そこに他者の視線を置いたなら、所詮ニセモノの閣議でしかない場でのママゴトとしか映らないのではないかと誰も気づかなかったのだろうか。

 呼称廃止は総選挙惨敗のショックが現実の閣僚を完璧に遠のかせたことからの反省であって、与野党逆転とまで行かず、伯仲の形勢だったなら、「次の内閣」ではますます意気込んで「総理」、「大臣」と呼び合っていたに違いない。

 そう言えば、バーとか一杯屋といった飲み屋でホステスに「社長、社長」と呼ばれて満更でもなくヤニ下がっている街のただの八百屋や魚屋の親父を見かけたものだが。

 小沢一郎を「小沢先生」と呼ばなければならない状況とは、自分の中に一歩へりくだっている心象風景を抱えているということではないだろうか。もし小沢一郎にしても菅直人を「菅先生」と呼んでいるとしたら、お互いにへりくだっていることにならないだろうか。相手のへりくだりがお互いの気持をくすぐる。  
 
 日本人は永遠に権威主義から抜け出せないのかもしれない。

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人間は俗物である

2006-04-04 03:43:24 | Weblog

 「吾輩は猫である」と言ったのは夏目漱石だが、人間について夏目漱石風に言うなら、猫の目から通した人間がみな俗物に見えたのだから、「人間は俗物である」となるだろう。どこから見ても、上から見ようが下から見ようが、あるいは斜めから見ようが横から見ようが、俗物以外の何者でもなく見える。

 せいぜい学歴とか社会的地位とかで胸を張って、さも大層な生きものであるかのように装うが、それらを剥ぐと、俗物の顔を覗かせてしまう。

 「人格と才能は違う」と言ったのはフランスの哲学者だとかだそうだが、人間が俗物にできているからこそ、人格と才能の食い違いが発生する。
 
 人間は利害の生きものでもある。生きるということは、利害との闘いだからだ。利益となることを優先させてこそ、社会に自分をより生かすことができる。塾にまで通ってテストの点数を上げ、大学までの学歴を獲得しようとあくせくするのは、そうすることが自己の利害と一致するからだろう。損をすることばかりしていたなら、自分から社会的に負け犬を選択するようなものである。

 しかし、学歴獲得が自己利害に一致するからと言って、自分の成績に一喜一憂したり、他人の成績を気にしたりすることは自分を一生懸命に余裕のない人間に仕立てることではないだろうか。

 人間が利害の生きものであることが、人間を俗物に宿命づけている。

 才能に関して言えば、より優秀な発揮が自分に関しても、また他の多くの人間にとっても、利害の一致を見るが、人格の場合は、道徳的に優れた発揮が自分の利害や他の人間の利害に常に一致するとは限らない。

 簡単な例で言えば、一つの才能が見い出した技術が世の中の生活の向上に役立った場合、技術を生み出した人間の名声と経済的利益が本人の利益と一致するだけでなく、生活が便利になったことで、世間一般の人間の利益にも寄与する。ゆえに才能は目指す方向が常に一定していて、ブレることはない。中には才能を悪用して犯罪を犯す人間もいるが、世の中の人間には役立たなくても、何らかの利害状況が生じて、そうすることが本人の利害と一致する犯罪だったか、悪用自体がその人間にとっての才能発揮に当り、悪用でしか自己実現を図ることができないという自己利害からではないか。

 逆に、ウソをつくことが自らの利益と一致する場合は、それが他人を騙し、不利益を与えることであっても、積極的に進んでウソをつく。ウソをつかないことが自分の不利益となると分かっていて、それが無視できない不利益であるなら、ウソをつかないでいられる人間がどれ程いるだろうか。

 と言うことは、ウソをつかずに事実を話すのも、自己の利害に関係ないからか、あるいは一致するからか、そのどちらかであろう。自分の利害に関係してきて、一致しない利害だったなら、ウソをつく方を選択するだろう。

 ゆえに人格は常に一定しているわけではなく、ブレることになる。

 才能が生み出す技術は訓練と積み重ねによって発展させることができる。積み重ねとは、他人がそれまで達成していた技術に自己の技術を積み重ねていく発展形式のことを言う。そのような形式で開始し、訓練となる試行錯誤と失敗の繰返しというさらなる積み重ねで、新たな技術に到達する。そしてその方向への歩みのみが自己と多くの他者の利害と一致する。

 才能に恵まれたスポーツ選手にしても、他者の技術の見よう見まねや他人の教えを受けて、そこへ自分の技術を積み重ねていくことから始まって、それ相応の練習(=訓練)を重ねるさらなる積み重ねでより高い技術を取得し、活躍するようになる。それと同じことであろう。

 世界的に優れていると言われている日本の技術は殆どこの形式の技術である。かつて世界からモノマネでしかないと言われていたように、モノマネから出発して、改良を重ねて高いレベルに達した技術であろう。

 そのような発展型だから、韓国・中国にしても、日本が到達した技術を出発点として、その上に積み重ねていくモノマネ形式の技術の獲得を駆使して、日本の技術に迫り、追い越すことも可能となっている。かつて日本が欧米に対して行ったことの繰返しであろう。

 しかし、人格はブレるがゆえに積み重ねが効かない。自分の置かれた状況に応じて、自己の利害が他人との関わりで刻々と変化するからだ。自分の利害と一致すれば、正直であろうとするし、一致しなければ、ウソをつくこともし、人を騙しもする。

 だから、昨日正直であった人間が今日も正直であるとは限らない。昨日は正直だったが、今日はウソをつくと言ったことをする。社会的に高い地位を得ている人間の、備えていなければならない人格と社会的責任に反する裏切り・豹変・不作為にしても、利害優先が人格の積み重ねを阻害していることの結果としてある姿であろう。

 日本人の技術が優秀であるのに反して、人格に反する行為を犯す政治家や官僚がゴマンといるのは、このためである。族益行為、省益行為、癒着、セクハラ、贈収賄、政治資金法違反、虚偽報告、虚偽記載、脱税、談合、天下り、経費流用、カラ出張、カラ手当、各種水増し、職務不履行、海外視察と称した観光旅行等々、政治家・官僚の不正行為・乞食行為は跡を絶たない。絶たないばかりか、いくらでも誤魔化しをする。

 勿論、政治家・官僚だけではない。大企業を含めた会社人間の産地偽装、表示偽装、脱税、法の悪用、裏取引、粉飾決算、インサイダー取引、総会屋や右翼への不正利益供与、横領、各種法律違反、マスコミのやらせ、虚偽報道、人権を無視したハイエナ取材、教師の児童買春、盗撮、万引き、警察官の盗み、職務怠慢、例を挙げたらキリがない。優れた才能や高い技術を持った研究者や技術者でさえも、研究の捏造や論文盗作といった不正を働く。

 かくして、「才能と人格は違う」というジキルとハイド現象が現出することとなる。

 当然、日本の技術は優秀だと誇ってばかりいるわけにはいかなくなる。さらに言えば、愛国心の涵養で片付きもしない。愛国心を掲げる人間の中にも、人格に反する行為をする人間がゴマンといるだろうからだ。愛国心を掲げると、さも人格的に欠陥のない人間、欠陥のない政治家に見えることを利用して、自分をそのような人間に見せようとする利害行為から愛国心を掲げる人間もいるだろう。

 戦前の神風特攻隊員の自分の命と引き換えの体当たり攻撃を純粋な愛国心から出た無償の行為だと、愛国心発揚の格好の材料とするが、合理的精神(客観的認識能力)の欠如がいともたやすく可能とした、天皇のため・お国のための盲目的同調行為に過ぎないか、表面上はお国のために帝国軍人の名を辱めずと勇ましくいきり立ってはいたものの、内心は命令されて仕方なく従った条件つきの従属行為に過ぎなかったのではないか。

 決定的な形勢逆転に至る戦略的な面攻撃を策した作戦ではなく、その場の形勢のみを考えた単発的戦術の範囲を出ない点攻撃でしかなかったにも関わらず、形勢逆転にはクソの役にも立たないことが計算できなかったのは、日米の物量と戦略・戦術の桁違いの差を正しく認識する客観的認識能力が欠如していたからであろう。大体が合理的精神を欠いた、精神主義だけの愛国心などは二律背反以外の何ものでもない。

 敗色濃くなった本土で、飛来する敵機を撃ち落とすお国のための竹槍訓練は、お国のために何かの役に立ったのだろうか。食うや食わずの食糧難の時代に、余分に腹を減らし、体力消耗を無駄に招いたということに関しては十分に役立ちはしただろう。特攻隊の体当たり攻撃にしても、所詮竹槍訓練に毛の生えた程度の作戦に過ぎなかったのではないか。

 人間が利害の生き物である以上、利害から離れた愛国心行為といったものは存在しない。
愛国心行為にしても、利害行為でしかないことをしっかりと見極めなければならない。

 それもこれも人間が利害の生きものであることが、人間を俗物に宿命づけているからだ。

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「愛国心教育」って、どう教えるのだろう

2006-04-03 06:00:23 | Weblog

 アベ君は、「国を愛する心」をどのような方法で教えようと考えているのだろうか。日本の素晴しい歴史・伝統・文化を教えて、「日本はこのような素晴しい歴史・伝統・文化を持っている。このような素晴しい日本という国を愛さないのは日本人としての資格はない。愛することによって、過去の日本人が苦労して築いてきた素晴しい日本を受け継ぎ、次世代の日本人に伝えることができる」と教えるのだろうか。

 それとも、「日本の技術の素晴しさは世界一だ。ノーベル賞受賞者はアジアで最も多い。世界有数の経済大国という地位を獲得したのも、日本の技術が優れているからだ。今の日本人が豊かに暮らしていけるのも、日本の素晴しい技術がもたらした経済大国のお陰だ。そのような日本という国に誇りを持ち、国を愛する日本人にならなければならない。誇りと自信が日本の発展を支え、世界一である日本の地位を守っていく」

 あるいは、森元首相みたいに、「日本は神の国だ」とでも教えるのだろうか。「日本の国は隅々まで神が宿っているから、素晴しい日本の心、素晴しい人情、素晴しい風土、素晴しい文化に恵まれた。日本という国に神をもたらしたのは天皇陛下の祖先であって、代々の天皇陛下が神を引継ぎ、神の覆いを見守っている。だから、日本は素晴しい、優秀な国であり続けることができた。日本人の誰もが愛せる国、それが日本だ。戦後、そのことに気づかない日本人が増えた。かつての日本は愛国心が満ちていた」

 あるいは、もうちょっと現実的に、「天地と共に窮りない永遠なる万世一系の天皇陛下が国民統合の象徴として日本という国に自らの万世一系たる命を吹き込み、日本の国を永遠の繁栄に導いていく。この幸運と恩恵に応えるには、皇室を敬い、日本を愛する心を忘れないことだ」

あれも素晴しい、これも素晴しい。このような素晴しい日本は皇室がその精神的礎となり、自由民主党が日本のこの素晴しさを日本人の生活に反映させるべく、そのための国家建設を戦後一貫して担ってきた。民主党でもかつての社会党でもない。ましてや共産党であるはずがない。

 いいことづくめを持ち出して、誇りと自信を植えつけることができたとしても、それで手に入れることができるのは偏見や独断に支配された独善的的感性であって、客観的認識能力の育みを逆に阻害する。なぜなら如何なる国の制度も文化も、当然それらの推移によって刻み込まれていく歴史もまたいいことずくめであった試しはなく、常に何らかの矛盾を抱えた不完全なものだからである。人間自体が矛盾に満ちた存在であり、そのことに比例対応した人間営為の成果としてある社会や国家が矛盾に満ちているのは当然な反映である。それを無視し、結果として矛盾から目を逸らさる企みを図るのだから、これほどの独善主義はない。

 戦前の侵略戦争一つ取っても、そのことを証明することができる。如何なる国の歴史・伝統・文化も、常に正しい歴史・伝統・文化ばかりではなく、往々にして汚濁にまみれた歴史・伝統・文化が存在した。いわば、常に善が満ちていたわけではない。

 〝日本の心〟と言われる民族的美徳も同じである。〝日本の心〟が事実存在していたなら、日本に犯罪は存在しないだろう。犯罪を犯す政治家・官僚も一人として存在しないはずである。〝日本の心〟を持たない日本人もいるからだと言うなら、〝日本の心〟という表現自体が誇大広告となる。

 ウソを教えて、日本の絶対善を信じ込ませる。独善意識を育み、ウソをウソと見抜く力をつけぬままに大人となっていく。ウソをウソと見抜けない人間こそが、平気でウソをつく。自分がついているウソでさえも、ウソだとすることができずに、ホントのことだと簡単に正当化してしまうからだ。日本の政治家・官僚にそういった人間が多い。

 逆説するなら、人間の矛盾、社会の矛盾、政治の矛盾、国の矛盾に気づかない客観的認識能力に欠けている日本人こそが、いいこと尽くめを言い立て、愛国心を煽り立てることができる。

 学校教育で客観的認識能力が欠けている人間の言うことを頭から信じて、国を愛する気持を植えつけられる精神回路の生徒ばかりだったなら、自らも客観的認識能力を持てずに、安倍晋三みたいな単細胞の人間だけが世に出ていくことになるだろう。政治家にとってはそのような人間ばかりの方が、好き勝手な政治をしても、国を愛せ、国を愛そうと愛国心でいくらでも誤魔化すことができて都合がいいだろうが。

 国内の矛盾を隠すために外国との軋轢を演出して国民の愛国心を煽り立て、国民の目を外に向けさせるのと同じく、愛国心は矛盾を隠す装置ともなり得る。

 人間の進歩は社会や政治の矛盾と向き合い、あるいは人間の矛盾に満ちた存在そのものと向き合い、それらの矛盾を解消していくことにある。それでも新たな矛盾に出会う。さらにその矛盾に立ち向かっていき、矛盾の排除に努める。そのためには矛盾は矛盾としてしっかりと直視し、受け止めなければならない。

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遺書がすべてを語るわけではない

2006-04-02 09:07:15 | Weblog

総領事館員の自殺に対する安倍晋三の単純な判断

 04年5月、上海の日本総領事館で外務省との通信を担当する男性館員が中国公安当局から機密情報を求められ自殺した原因を、安倍官房長官は遺された遺書に脅迫等の行為があったとの趣旨が明記の上、自殺に至るまでの経緯が詳しくつづられていたとした上で、「中国側公安当局関係者による非情な脅迫、恫喝ないし、それに類する行為があったと判断される」と記者会見で明らかにした。そもそもの経緯は男性館員の女性問題を材料に中国公安当局関係者が仕掛けた情報提供要求で、そこから始まった顛末だという。

 自殺はそれを決行する本人にとって、最後の逃げ場ではないだろうか。この世で逃げ場を失って、死が残された最後の逃げ場となる。
 
 自殺が最後の逃げ場である以上、人間の自然としてそこに至るまでにどうにか自分をこの世で生かす逃げ場をあれこれ見つけようと足掻くに違いない。

 カネを渡されたり、女を抱かされたりしたのか、あるいは秘密にしなければならない女との関係を弱みとして握られた。そのいずれかをネタに不当な要求が始まる。その時点で一切の要求に応じなかったなら、暴露されたとしても、本人にとってはどうにか耐えられる範囲の弱みか、耐えられないが、応じた場合の弱みの上乗せが自分を窮地に追いつめる危険を考えて、要求を呑むことよりも弱みを暴露されることの方を強い意志で選んだといった場合だろう。
 
 暴露された場合、一身上に傷を負うことはあっても、完全に逃げ場を失うわけではないにも関わらず、世間体といった自己保身から要求に応じる逃げ場を選択するケースもあるはずである。

 最初の弱みを暴露されただけでこの世での逃げ場を完全に失ってしまうとしたら、その弱み自体が自分で自分の首を絞める悪質なもので、要求に応じること自体が自殺以外の最後に残された逃げ場となるに違いない。しかし、この手の要求は終わりを見ることはないだろうから、自分を生き地獄へ落とす逃げ場となるのは目に見えている。それでも要求を呑む。

 いずれの場合に於いても一度要求に応じたなら、要求が次第にエスカレートしていったとき、次は断ろうとしても、引き続いて応じたことで自分から積み重ねることとなる弱みが高利の利子みたいにのしかかってきて、もはや人に相談できる類の弱みから遠く離れてしまう。毒を食らわば皿までで、要求に応じ続ける逃げ場に自分を追いつめるか、応じた場合の空恐ろしさから、それができかねた場合、すべての逃げ場を失うこととなって、死を選択するか、二者択一の道しか残らなくなる。

 自殺を逃げ場とするにしても、そうせずに要求を断るにしても、すべては自己の責任意識の問題であろう。責任をどう果たし、何によって決着づけるか。

 麻生外務大臣が「誘いは常にあるので、それがあればすぐ上司に報告する方が、後々問題を拡大させたり、深みに入らせないために大事なことだ」と記者会見で述べていたということだが、男性館員が上司に報告せずに自殺を選んだのは、報告する責任を回避したことによって報告できないところにまで逃げ場を失っていたからだろう。

 結果として自殺を逃げ場とした。例え総領事館の男性館員がたった一度の要求にも応じなかったと仮定したとしても、死を選択した以上、自殺を逃げ場とした事実は変らないし、自殺が要求に対する最終回答であったろうから、要求する者に対する闘いを選択せずに、それを避けて、自殺という場面へ〝逃げる〟という責任放棄を行ったことを意味することにもなり、要求に応じた、・応じないはさして重要な問題とはならない。

 あるいは遺書が死を以て抗議する形を取っていたとしても、自殺を抗議の唯一の方法としたということは、本来的な立場で遂行すべき抗議(自分の立場を失わせることになったとしても、事実をより多く解明できただろう)を自殺を手段に行ったのであって、そうすることを逃げ場としたことに変りはない。

 いわば、自殺は残された最後の逃げ場であると同時に、逃げ場とすることによって責任放棄を同時並行させる手段でもある。安倍官房長官は記者会見で中国側公安当局関係者の非を訴えているが、それ以前の問題として、自殺を逃げ場とした本人の責任意識(責任放棄)を問わなければならないのではないだろうか。簡単に言えば、本人の責任意識が直接的・間接的になさしめた事件なのである。
 
 遺書が、本人の責任意識に関わる不明・愚かさを責める内容を最初に持ってきている内容ではなく、中国当局の策謀を批判的に主体とし、それに仕方なく自分が対応していく経緯の内容――いわば、自分を被害者に置いた内容の記述であったなら、自殺を逃げ場とした責任放棄を隠して、逆に正当化する、そうでなければ、少なくとも罪薄めする、そのための逃げ場にも利用した可能性を疑わなければならない。遺書に書いてあったからといって、言葉どおりに読んだだけではすべての真相が明らかになるとは限らないと言うことである。

 かつて外務省は省ぐるみで不祥事を横行させた。官房機密費の不正流用、タクシー代やホテル代の水増し請求で得たカネを原資とした不正着服、飲食代などへの不正流用その他が外務省の半数近くに当る約30課で行われていた上に、かなりの数の外国大使館の大使や館員、料理人までもが、経費の私物化、不正流用といった乞食行為をやらかしていた。、

 今回発覚した防衛施設庁の官製談合が、かつての防衛庁装備調達実施本部の背任事件や贈収賄事件と本質的に何ら変らない、同じ意識(=責任放棄)を構図とした事件であったように、上海日本総領事館員のそもそもの不始末とその後の展開が、かつての省ぐるみの不祥事、あるいは乞食行為をつくり出した責任意識を少しでも引きずった出来事だったとしたら、中国に抗議するだけの問題で終わらせるわけには行かなくなる。
 「市民ひとりひとり」

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パレスチナの取る道――世界を領土とせよ

2006-04-01 01:38:08 | Weblog

かつてのユダヤを倣う

 今回のイスラエルの総選挙で第一党となった中道新党カディマを重態入院中のシャロン元首相に代って率いるオルメルト首相代行はパレスチナの承認がなくても、パレスチナ自治区ヨルダン川西岸からの撤退と2010年までの「国境」画定を唱えている。占領地からの撤退を支持する労働党が第2党となり、両党、その他との連立によって、パレスチナとの一方的な分離策は具体化への道を取ることになるだろうと見られている。

 一方パレスチナ側はイスラエルの存在そのものを認めない政策を掲げて武装闘争を展開してきた過激派ハマスが政権を握ったばかりの状況にある。ハマスが交渉に応じるのか、従来どおりにイスラエルという国家そのものを認めない方向で、パレスチナの地からの排除を目指してインティファーダ(イスラエル側から見たらテロ)を続行するのか。

 「国境」を議題に交渉に応じることは、その時点でイスラエルの存在を曲がりなりにも認めることになる。

 インティファーダが建設的な何かを生み出したり、何らかの発展につながっている事業の類ならば、継続する意味がないわけではない。ハマスの立場からしたら、パレスチナ領土の本来的な原状回復を最終目的とする建設的事業だとしているだろうが、現実には自国経済をイスラエルに依存している矛盾をまず以て抱えていて、そのイスラエルとの戦いで手にできる収穫は人的資源の消耗と産業の打撃による経済混乱、生活の低下といった、矛盾の上に矛盾を積み重ねる自滅行為といったところでしかない。

 イスラエルにしても、パレスチナ領土の原状回復は自身の生存権にかかってくるから、徹底抗戦に出ることは目に見えていることで、終わりのない混乱を双方から仕掛けていくだけの公算が強い。

 パレスチナは自らが立つことをまず考えるべきである。1947年の国連総会でのパレスチナ分割決議に添った領土の回復に向けて、いわば振り出しに戻って、そこから始める形で交渉のテーブルに着くべきだろう。と言っても、イスラエルとの共存を訴えているわけではない。

 世界は急速にグローバル化している。グローバル化に応じて、国境を自由に跨ぎ、世界を一つ舞台とした人間の往来と活動が激しさを増している。領土はもはやその絶対性を失いつつあり、国家の管理と自由な相互関係との二重性を持つに至っている。多くの人間がそのことに留意しないだけである。その流れを利用して、領土の分割を超え、世界全体を機会実現の領土とする、いわば領土の従来的性格の相対化を図るべきではないか。

 ユダヤ人はその逆をいって、イスラエルを獲得した。ならば、パレスチナ人はさらにその逆をいって、現在のグローバル化と同調し、世界を領土とすべきだろう。現在のパレスチナの土地から比べたら、世界は無限の広さと可能性を持つ。

 現在パレスチナ人の多くが自国で仕事を得ることができずに、イスラエルやアラブ諸国に出稼ぎに出ている。その送金はパレスチナGDPの相当部分を占めるというが、多くは単純労働で得た稼ぎだという。しかし、祖国に仕送りしたそのカネを優先的に子どもの教育に投資し、国もその予算の多くを教育政策に割き、小中教育の設備を整備充実させて、まずは子どもたちの知識・教養を高め、一定の年齢に達したなら、単純労働ではなく、さらに上の技術や学問を目指して留学や研修の形で海外に出すことを国の政策とする。

 他に誇ることのできる技術や知識を獲得した者がその国の企業に職を得るのもよし、研究所に勤務するのもよし、その国の国籍を獲得するのもよし、自国に戻って、パレスチナの発展に尽力するのもよし。それぞれの選択にかかっているが、世界を領土とする目的から言ったら、海外を恒久的な活躍の場とすることの方が優先事項とされるべきだろう。頭脳流出といった側面も弊害として生じるだろうが、100人が100人帰国しないわけではないだろうし、海外成功者は祖国の子どもの教育に何らかの手を差しのべる援助を慣行としたなら、教育投資の循環が教育そのものへの意識を継続的に高めて、次に続く者の教育意欲を刺激し、そのようにして得た教育の質がパレスチナ人一人一人の生産活動とその生産性を良質なものにしていくことに役立つに違いない。

 あるいは教育産業をパレスチナの一大重要政策として、各種研究所や大学といった教育機関、国際機関等を外国から誘致し、海外進出者のUターンの場とすることで、パレスチナ人頭脳流出の防御壁とすることも考えられる。

 勿論時間はかかるが、軌道に乗ったなら、1948年の第一次中東戦争からの現在までの時間を無駄に過ごしたことに気づくのではないだろうか。世界のグローバル化がインターネットの普及などによって情報の加速度的な伝達と流通にも及んでいて、その広範囲・迅速さの恩恵を受けて、従来以上のスピードでパレスチナ人の才能の底上げは可能となるに違いない。1975年のサイゴン陥落前後から始まった南ベトナム人難民の海外で教育を受けた年少者の少なくない者が高々30年の年月を経ただけで、その国で高度な職業に就くに至っている。

 かつて紀元前に国を失ったユダヤ人は流浪の民と化して世界各地に散り、「十九世紀なかばに西欧諸国でユダヤ人の解放が行われるまで、周知のように金貸しが彼らに許されたほとんど唯一の生業だった」(『ヒトラーとは何か』セバスチャン・ハフナー著・赤羽龍夫訳・草思社刊)が、多分そのことが幸いして、手に入れたのが歓迎されざる資産家の地位であったとしても、カネの価値に代わりはなく、他国人の仲間に入れない埋め合わせを金貸しの利子で得たカネをふんだんに使ってユダヤの仲間同士で、あるいは個々に読書や音楽、絵画や彫刻といった芸術鑑賞・趣味で肩代わりさせて自らの生活を充実させ、金貸しの裏に併せ持ったそのような私生活を親から子へ、さらに孫へと代々受け継いで2000年近くに亘った流浪の年月を満たしてきたのだろう。その成果が各種才能への開花を促し、単なる金貸しからの大いなる発展をもたらしたのではないだろうか。

 「おおざっぱにいって、十九世紀なかば以降、ユダヤ人が一部は天分により、一部は、否定できないことだが、彼らの強い結びつきにより、多くの国々の多くの分野で指導的な地位を占めるようになったのが顕著に認められた。とくに文化のあらゆる領域で、それにまた医術、弁護士業、新聞、産業、金融、科学および政治の分野でもそうであった」(同『ヒトラーとは何か』)

 ユダヤ人の「天分」は決して民族的に生来的なものではなく、幾世代にも亘る学問や芸術に対する継続的な親しみによって培われた才能であろう。食うや食わずの生活環境であったなら、読書や芸術に親しむ余裕は生まれない。才能を開花させる機会に恵まれるためにには親しむ余裕を十分に持てる資金(カネ)をつくり出すことから始めなければならない。

 ただでさえ差別や迫害を受けていたユダヤ人がナチスドイツのホロコーストを受けて、シオニズム思想に則った自国領土所有への意識(国家建設への意識)が高まったことは理解できるが、現在のグローバル化の世界にあって、領土を世界に向けた発信基地と考えた場合、領土は世界に於ける単なる一時的滞在地と化す。領土の相対化である。

 自国から一歩も出ない人間であっても、外国の生産物の(工業製品や農業製品だけではなく、映画や書物、絵画といった創作品まで含めて)恩恵を受けている。

 領土の相対化という観点から考えると、日本と韓国の間の竹島領有権の問題、中国との間の尖閣列島の領有権も問題も、小さく見えてくる。

 もし日本が自らの才能・技術に自信があって、日本の領土を超えて世界を舞台に活動できる力を持っているなら、すべてを譲れとは言わないが、二分割するとか、共同領有とする選択肢も可能ではないだろうか。だが、海外での活躍はインド人や中国人に見劣りがするのは、その伝統性から言っても、如何ともし難いようだ。
 「市民ひとりひとり」

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