――民主党に衆・参両院過半数のチャンスを与えよう――
「Wikipedia」の朝青龍の項目に次のような記述がある。
〈2001年1月場所に新入幕し、翌年7月にモンゴル出身の力士として初めて大関に昇進し、同年11月場所、翌年1月場所に連続優勝して横綱に昇進した。ただし2002年9月の貴乃花戦に敗れた際、花道を引き上げる際に「畜生!」と大きな声で叫んだり、支度部屋で「怪我をしている左足を狙えばよかった」と発言したりするなど、当時からその品格が問題視されていた。〉
〈2003年、モンゴル人女性と結婚し、またこの年、長女が誕生した。同年5月場所、モンゴルの先輩旭鷲山との対戦で敗れた際土俵上で審判に対して物言いを要求、肩がぶつかった旭鷲山をにらみつけ、さがりを振り回した。さらに翌7月場所の対戦では髷を掴み反則負けとなり、取組後の風呂場で口論となった後に旭鷲山の車のサイドミラーを破壊。この場所は頸部挫傷により途中休場した。〉――
確かに問題児ではあった。闘争心というよりも、スポーツマンシップから外れた敵愾心の間違った発露となっている。
15歳でモンゴル相撲を始めて少年の部で優勝を果たし、17歳で日本の高校に相撲留学した朝青龍が自分以外はすべて見知らぬ日本人を向こうにまわしてモンゴル相撲少年の部のチャンピオンとして見せなければならなかった過剰な気負いからの闘争心が歪みを放って過剰な敵愾心と化したものなのか、それとも朝青龍を子どもの頃から支えていた、生まれつきの過剰なまでの敵愾心だったのか。
2004年1月場所から2004年7月場所まで4場所連続優勝したときの2場所連続優勝後(3月場所終了後)の横綱審議委員会で内館牧子委員が懸賞金を受け取る際の手刀を左手で切るのは大相撲の伝統に反しておかしいと異議を申し立て、当時の理事長の北の湖に右手に統一すべきだと進言したという。
初日は天覧相撲だそうで、「陛下の前では変えるかもと思っていたけど、最悪」とか批判したそうだ。
“右手に統一すべき”だと言うことは内館牧子の自分では正しいとする価値観であって、それを全体の正しい価値観とすべく意志を働かせたことになる。
勿論、マスコミが取り上げて、そのことが問題視されるようになったが、朝青龍は左手で手刀を切り続けた。だが、朝青龍が手形を左で切り続けることへのマスコミの番組を面白くするための左手手刀悪者説にウエイトを置いた中立性を欠いた是非論の世論誘導等に押されたのか、翌2005年3月場所の3日目とかで初めて右手で手刀を切って懸賞金を受け取った。
因みに手刀を左右どちらの手で切るのかの明確な決まりはないそうだ。「Wikipedia」の「逆鉾」の項目に次のような件(くだり)がある。
〈朝青龍が左手で手刀を切ることをある横綱審議委員が問題視したが、逆鉾も朝青龍と同じく左利きでずっと左手で手刀を切っていた。当時はこれを問題視するものはいなかった。〉――
但し「Wikipedia」の「懸賞 (相撲)」の項目に、〈あまり各力士の手刀の切り方がまちまちなのを見かねた元双葉山の時津風理事長から、「右手で、左、右、中央と手刀を切るのを原則とする」との通達が出されたことがあり、見方によってはこの理事長通達が現在も有効とすることもできる。〉との一文が記入してある。
何月何日に出した通達か記述がないが、この時津風理事長とは元大関豊山の1998年2月から2002年1月まで在位した時津風のことだと思う。
名横綱双葉山の初代時津風理事長の通達と仮定した場合、その在位は1957年5月~1968年12月までだから、それ以降も通達が生きていたはずで、1992年9月場所で引退した逆鉾の左手手刀が少なくとも問題とされたはずであるが、問題とされなかったということは初代時津風の通達ではないのではないだろうか。
元大関豊山の時津風理事長がその職を退いたのが2002年1月。朝青龍が関脇に昇進した場所に当たるから、それ以前の土俵上の朝青龍の姿を目にしてるはずである。左手で手刀を切っている朝青龍のことが頭にあった通達なのか、それとも右手で切ることが一般的であったから、その固定観念から「右手」としたのか分からないが、朝青龍が左手で手刀を切る続けることを内館牧子が伝統を楯に異議申し立てするまで当たり前のこととして許していたことは通達が空文化していたことを物語る。
朝青龍にしても内館牧子が言い出すまで何の指導もクレームもなかったから、左利きの人間として当たり前のこととして左手で手刀を切っていたのだろう。身体の一つ一つの動きは全体のリズムとして統一される。例え勝負から離れた場所での左手から右手への矯正であっても、身体の全体のリズムは勝負を離れた一般的な的な生活の場所でも有機的な連動性を持って機能するはずだから、そこに微妙な狂いが生じない保証はない。
それを伝統の名で強制的に矯正しようと謀り、一つの形に当てはめようとする。
さらに精神的な影響も考えなければならない。朝青龍が誰かに教えられて逆鉾の手形の切り方を知ったなら、逆鉾が問題にされないのは日本人だからなのか、俺が問題にされるのはモンゴル人だからなのかと疑って不信感を抱いたととしても、人間の自然な感情の流れとしてある猜疑心であろう。
こういったことが元々の素地としてあった過剰なまでの敵愾心に尚のこと火をつけて一層過剰たらしめたとしても不思議ではない。それが多くの者をして顰蹙を買わせることとなった数々のダメ押しや土俵の真ん中で相手を無理やり抱えあげて土俵に叩きつけるといった荒技となって現れていたということも考えられる。
人間は何かに対して、あるいは誰かに対して激しい敵愾心を持つと、往々にしてその何かが所属する全体的なものに対して、あるいはその誰かが所属する全体的なものに対してまで激しく攻撃的になることがある。
マスコミが朝青龍の手刀の切り方を品格のない良くない行為として連日取り上げることで朝青龍自体を悪者視する雰囲気の把え方をして大騒ぎしたことが、マスコミ全体に対しての嫌悪となり、そこに敵意に満ちた攻撃的な感情を抱くに至ったとしても自然な流れであろう。
また、その攻撃的な感情がマスコミの人間が所属する日本人全体に向かうこともある。
そういった過剰な敵愾心からの攻撃的な感情を常に抱いていると、その攻撃性は往々にして是非を考える余地を与えない瞬間的な荒々しい発動となって現れる。
2006年7月場所後に腰痛等の診断書を出し、夏巡業を休む形でモンゴルに帰国、そこでサッカーに打ち興じたことが問題とされ、マスコミから散々にバッシングを受けてニ場所出場停止、モンゴルへの帰国を禁止され、日本国内での腰痛等の治療を命じられると、解離性障害(心的外傷への自己防衛として、自己同一性を失う神経症の一種。自分が誰か理解不能であったり、複数の自己を持ったりする。「Wikipedia」)に陥り、モンゴルでの治療を許可されて帰国している。
夏巡業を拒否してモンゴルに帰国したことの処分を受けて解離性障害に陥ることになった経緯は、夏巡業を拒否したことが朝青龍の中ではあくまでも間違っていない正しい選択であって、逆に相撲協会の処分とマスコミのバッシングは間違っていると受け止めていたからこそ発症した症状であることを物語っている。
自分は正しいとしたとき、当然、正しい自分を批判する者は正しくなく、そういった者に対する攻撃的な感情は逆に強まっていく。
マスコミへの嫌悪感から発した日本人全体に対する攻撃的な感情で息が詰まる思いをしていたのではないだろうか。そこから逃れたいが、職業として選んだから本場所を拒否するわけにはいかず、本場所以外は拒否したい思いが身体の不調をいいことに、それを口実として夏巡業の拒否へとつながったとも考えることができる。
何か飲食している場所でのテレビ局のインタビューらしく、朝青龍は言っていた。
朝青龍「俺は従わなくてもいいと思うんだよね」
――何に?
朝青龍「日本の遣り方に」
ここに日本的なるものへの拒絶意識を象徴的に窺うことができる。
だが、「日本の遣り方」に従うことを日々強制された。日本の伝統・文化の名のもとに型にはまることを押し付けてきた。
型にはまってしまったなら、強さをなくしたのではないだろうか。良くても悪くても、過剰な敵愾心からの激しい攻撃性が強さの源泉だったはずだ。
型にはまるまいとした代償が場所中の夜中に泥酔して人を殴って引退へとつながったことに現れた。
例え敵愾心を素地としたものであっても、相撲の勝負に限ってこそ発揮すべき攻撃的な感情を相撲以外の場所、相撲以外の人間にも常に向けていたからこそ、横綱の立場を忘れて簡単に喧嘩という間違った形でその攻撃性が発揮されることになったのではないだろうか。
喧嘩が横綱朝青龍の引退の直接の原因ではなく、日本の伝統だ、文化だと言って一つの形にはめようとした陰湿な攻撃が真の原因であるような気がする。
――民主党に衆・参両院過半数のチャンスを与えよう――
亀井金融担当相が昨7日の日曜日に広島市で講演し、「選択的夫婦別姓」と「外国人参政権」の2法案に反対する考え表明したと「FNN」記事――《亀井金融担当相、「選択的夫婦別姓」と「外国人参政権」の2法案に反対する考え表明》(10/02/07 18:03)が伝えている。古臭い考えに取り憑かれた石頭の持主と前々から分かっていたことで、講演で言わなくても反対なのは既成事実として受け止め可能は話となっている。
亀井静香「(夫婦別姓の導入で)家の表札が、アパートみたいに名前が違う。こういうことが、あるべき姿なんでしょうかねぇ。国民新党は、2つ(選択的夫婦別姓・外国人参政権)とも反対です。2つともこれ、絶対成立をいたしません。法案として国会に提出できないからだ。わたしが『ノー』と言ったら」――
夫婦別姓を選択した場合は「家の表札が、アパートみたいに名前が違う」ことになるだろうが、「アパートみたいに名前が違う」ことによってその表札が夫婦別姓の家であることを表していたとしても、あくまでもその“違い”は夫婦別姓に反対の第三者から見た場合の表札の問題であって、中に住む夫婦の価値観に影響しない“違い”であろう。
なぜなら表札はあくまでも夫婦別姓を反映する象徴でしかなく、表札の反映としてある夫婦別姓ではないからだ。反対と賛成、それぞれの価値観は何よりも自身が担っている「あるべき姿」(=信念)としてあるものであろう。
いわば「家の表札」を挙げた反対論は合理的とは言えない。夫婦別姓賛成の者から言わせたら、「法律で許されることになったら、名前の違う表札を百個つけたっていい」ということもあるに違いない。
石頭だから、亀井は表札の問題を以ってして自身の価値観と異なるからと、夫婦の価値観を律しようとしている。
時代の変化に応じて加減が生じるだろうが、結婚するすべての夫婦が別姓を選択するわけではないだろう。社会を乱すわけではない別個の価値観を許すだけの心の余裕が亀井静香にはないらしい。
夫婦別姓の動きは創氏改名のように政治権力の強制から生まれたわけではない。戦後社会の中で社会的な男女平等の思想の移り変わりと共に自然発生的に生じてきたはずである。女性は男性に従うべきとする男尊女卑の価値観が色濃く横行した戦前とそれをなおも色濃く引きずった戦後ニ十年前後までは考えられもしなかった価値観であったはずだ。
今度は創氏改名と同じように社会的な価値観の変化に逆らって政治権力によって同姓へと強制しようとしている。
価値観はそれぞれに自由であるべきだ。石頭は石頭なりの価値観に従えばいい。他人に押し付けるべきではない。それを自由であるべき他の価値観まで石頭の価値観で縛ろうとする。
社会が変化し、その変化に応じて個人の意識が変化し、当然それぞれの価値観や文化が変化しているにも関わらず、女は男に従うべきだといった男が今以て存在するように過去の価値観に囚われる、あるいは過去の文化に囚われる場所からは社会的に活力あるエネルギーは生まれない。
過去の価値観、過去の文化に囚われるとはそれが優れている唯一のものとする思い込みがあるからだが、優れている唯一のものとする思い込みに陥った価値観や文化からは、そういった価値観や文化に踏みとどまろうとする力が主として働くため、思考や行動に関わる創造的なエネルギーが生まれにくくなり、逆に活力あるエネルギーの停滞を誘う。
創造的なエネルギーは別の価値観や文化を生む力となるから、過去の価値観、過去の文化を優れている唯一のものとする思い込みと衝突することとなり、一つの価値観や文化に踏みとどまろうとする力にとっての否定要素として立ちはだかることになるからだ。
このような経緯からすると、当然のことだが、先進諸国に於いて日本の女性の社会参加が少ないことが先進諸国と比較して社会のエネルギーを殺いでいるということになる。
一例を挙げると、企業の上層で働いていた、あるいは看護師として大きな病院で活躍していた女性が結婚して何年か育児に専念して職場に戻ろうとしたとき、日本の社会は閉鎖的であることから、元の地位に戻れずにパートの単純労働を強いられるといったケースがよくある例として見られるが、そういった事例は確実に社会のエネルギーを殺いでいるはずだ。
それぞれが持つ能力と価値観、文化を十全に発揮してこそ、エネルギーに満ちた活力ある社会が生まれる。
あるいは男性としての価値観、文化とそれぞれの男性個人としての価値観、文化のみが活動する社会と、そういった男性性と女性としての価値観、文化とそれぞれの女性個人としての価値観、文化とが混在した社会とではどちらが社会的・文化的に創造的なエネルギーを生じせしめるか一目瞭然であるはずである。
夫婦別姓の子どもが夫婦どちらかの姓を選択することになって、そのことによって学校でいじめられるとしたら、亀井静香の石頭を引き継いだようなそういったいじめる子どもは夫婦同姓という一つの価値観、文化を絶対として上に位置づける権威主義に囚われた狭い考えの持主となることを学校は教え諭さなければならない。「亀井静香みたいな石頭になりたいの、あんた」と。
男尊女卑の権威主義を今以て引きずっている者は夫婦別姓は女性が男に従う存在であることから離れて対等以上の独立した存在になるように思えて、そのような妻の独立性への忌避感から反対する意識が働いているのではないだろうか。
一つの価値観、文化を優れた唯一のものだとする他の価値観・文化の封じ込めが社会的・文化的に創造的なエネルギーの停滞を招く例は「外国人受入れポイント制」にも見ることができる。
全文参考引用――
《外国人受け入れにポイント制、専門技術者ら優遇 法務省》(asahi.com/2010年1月20日3時16分)
法務省は19日、新たな出入国管理政策として、専門知識や技術を持つ外国人に資格や年収に応じた点数をつけ、高得点者を入国や永住許可で優遇する「ポイント制」を導入する方針を固めた。将来の人口減を見据え、研究者や医師といった専門家の受け入れを進めて経済成長力を維持するのが目的だ。
一方で、最近の景気悪化で失業や生活苦が問題になっている出稼ぎ目的の日系人については、入国要件を厳しくする方向で制度を改める。
法相の私的懇談会「第5次出入国管理政策懇談会」(座長=木村孟・文部科学省顧問)が19日、千葉景子法相に報告書を提出。これを受け、同省が出入国管理法や政令の見直しの検討に入った。早ければ来年の通常国会に入管法改正案を提出する。
外国人のポイント制は英国、カナダ、オーストラリアなどが導入している。日本が対象として想定しているのは研究者や医師のほか、弁護士、技術者、企業経営者など。学歴や資格、職歴、年収などに応じて点数をつけ、一定水準を超えた人を「高度人材」と認定。在留期間を通常より長く認めたり、原則として滞在10年で認める永住許可を5年で認めるなどの優遇措置を与える。
日系人の入国、在留許可にあたっては、就職先が確保されているなどの「独立して生計を営む能力」を要件とする方向。また、将来的には検定試験などを整備した上で「一定の日本語能力」も課す方針だ。日系人の入国は1990年の入管法改正で急増し、現在はブラジル人とペルー人を合わせて約36万人が滞在している。(延与光貞)
要するに「高度人材」と名称づけて主としてエリートのみを選択しようとする国の意志の働きをここに見ることができる。外国籍の人間に対するこのエリート選択意志、いわばエリート以外の者に対する忌避意志は自らの民族性をエリートと位置づけていることから生じている選択であり、忌避であろう。
なぜなら日本の上層社会への順応を求めている以上、外国から受け入れたエリート性に日本側が自らを染めようとする意志の働いた選択ではなく、自らに染めようとする意志の働いた選択となるからだ。
逆の場合の例として、ある企業がトップに優秀な人材を外部から招くのはそのトップが持つ能力、価値観や文化に現在の企業風土を染めようとする意志からではなく、逆にトップが持つ能力、価値観や文化を今ある企業風土に染めようとする意志からの招聘であることを挙げることができる。ここに生じる関係は外部招聘のトップをエリートに置き、企業を下に置く力関係であろう。
ポイント制を構造とした日本の外国人受入れ意志を言い換えるなら、彼ら外国人エリートが持つ職業的技術を除いた価値観や文化を限りなく殺いで、日本の価値観や文化に限りなく染めようとする受入れだと言える。
このような日本の文化、価値観に染めようとする日本の価値観、文化を上に置いた順応化は、そこに外国の価値観、文化との混在を許さない力が当然のように働き、社会的・文化的な創造的エネルギーの発生を抑制する要因として働くことになる。
少なくとも日本の価値観、文化に従順な外国人ばかりを選択し、一般労働者をなるべ忌避することは一般労働者が持つ多種多様、雑多なサブカルチャーの直接的な流入を阻止する力として働き、結果としてつくり上げることになる価値観、文化の非混在が社会的に創造的なエネルギーを生み、日本の社会を活力ある社会とすることから、それを阻害する要件となることは間違いないからだ。
このことは黒人音楽がどれ程アメリカ社会に活力を与えたかを考えれば、簡単に理解できる。
日本が戦後の混乱から立ち上がって高度成長に向けて社会に活力あるエネルギーを漲らせたのは単にいい生活を手に入れようとする意志の働きだけではなく、アメリカの価値観、文化という目標があり、それを手に入れつつ日本文化との混在を生じせしめたことが社会的・文化的な創造的エネルギーを日本の社会にもたらしたからであろう。
アメリカの映画やテレビ番組、アメリカの音楽、アメリカの車文化、ジーンズといったアメリカファッション、その他外国のファッション――これらなくして日本のかつての社会は活気づくことはなかったはずである。
低成長時代に入って、日本の文化だ、伝統だ、日本の価値だと、それらを優越的位置に置いた活力あるエネルギーを社会から殺ぐことになる内向きの力が日本を覆いつつある。
――民主党に衆・参両院過半数のチャンスを与えよう――
北朝鮮が昨09年11月30日実施の通貨単位100分の1切り下げのデノミが逆に食糧不足の悪化や急激なインフレ等を招いて国内経済が混乱、餓死者させ出しているという情報があるとマスコミが伝えている。
混乱の一端は物価高騰と共に旧紙幣から新紙幣への交換限度額が最初は1人10万ウォンが15万ウォン、次いで30万ウォン、ついに50万ウォンに引き上げられたことに象徴的に現れている。
混乱が生じてから周章狼狽し、場当たり的に変更を余儀なくされる腰の据わらない政策だったことの暴露でしかない。デノミ政策担当者が更迭されたという情報もある。
デノミが元々脆弱な北朝鮮経済を一層弱体化させ、一般的な北朝鮮国民の生活を一層困窮化させたことは想像に難くない。だからこそ餓死者さえ出しているという情報が流されることになったのだろうが、2月1日、北朝鮮の将軍様こと金正日総書記が北朝鮮国民の生活苦難を思いやった情け深いメッセージを国民向けに賜ったと2月3日付「朝鮮日報」記事――《【萬物相】北朝鮮の住民に白米を食べさせるために》が書いている。
金正日「わが人民がいまだにトウモロコシを主食にしているということに、最も心が痛む。今わたしがすべきことは、人民に白いご飯を心ゆくまで味わわせることだ」
トウモロコシさえ口にできなかった餓死者の存在を無視したメッセージだが、自己存在証明上都合の悪い事実ゆえの無視なのだろう。
北朝鮮国民の飢餓・餓死、あるいは食糧難を横に置いて「白いご飯」ばかりか、高級ワイン、高級ブランデー、高級ステーキ、高級キャビア、その他フォアグラ、フカひれ、高級トロを使った日本の寿司等々を(もんじゃ焼きも入っているかな?)「心ゆくまで味わ」っているご本人が言うことだから、これ程信用の置けるメッセージは他にはなく、国の指導者の人民の生活の窮状に心痛めている心情が如実に伝わること請け合いである。
この情け深い国民思いのメッセージは故・金日成主席の遺訓のバリエーションだそうで、既に遺訓の形を借りて1月にメッセージ済みの2月になっての二番煎じだそうだ。
記事はこのことを次のように伝え、そのあとで金日成が1992年の新年の辞で実際に述べた言葉を再現している。
〈金総書記は先月にも、故・金日成(キム・イルソン)主席の「(人民に)白いご飯と肉のスープを食べさせ、絹の衣服を着せて、瓦屋根の家に住まわせる」という遺訓を守らなければならない、と述べたという。〉――
金日成主席「今年最も重要なことは、衣食住問題の解決に向け、農業や軽工業を発展させることだ。(人民に)白いご飯と肉のスープを食べさせ、絹の衣服を着せて、瓦屋根の家に住まわせるという念願を叶えなければならない」――
現実には誰もが知っているようにこのメッセージが描いた北朝鮮のユートピアは「人民」の手にするところとはならなかったどころか、記事は、〈その直後に数百万人が餓死する事態となった。〉と書いている。
この「餓死」について「Wikipedia」は次のように書いている。
1991年の〈ソビエト連邦(ソ連)崩壊によるソ連からの重油供給停止が引き金となり、1990年代半ばにかけて経済は混乱し破綻状態となった。同時に国内各地では食糧不足が深刻化し、各国の支援にもかかわらず、食料配給制度の崩壊などにより内陸の農村部を中心に餓死者が出る事態となった。それに伴い、多くの人々が食料を求めて中華人民共和国へと密入国し、脱北者問題が国際的に注目されるようになった。
1999年以降は、中韓両国の経済協力などによって、一時は破綻に瀕した経済は一応の安定をみた。もっとも、経済状況は、いまだ1970年代の水準で停滞を続けている。〉――
金日成と金正日のメッセージの違いは金日成が「白いご飯」と「肉のスープ」と「絹の衣服」と「瓦屋根の家」を欲張ってかどうか分からないが、約束したのに対して金正日が約束したものは「白いご飯」のみだということは誰の目にも明らかである。
父親の金日成があれもこれも約束して、あれもこれも実現できなかった過去の失敗を同じ失敗として繰返した場合の責任問題、あるいは権威の失墜による人心の離反を考えて、いわば具体性の点から金正日は控え目に「白いご飯」のみとしたのだろうか。
ではなぜ1992年の新年から2010年のこの2月まで、金日成・金正日父子世襲独裁政権が一部特権階級を除いて「白いご飯」の約束すら実現させることができなかったにも関わらず、金正日が父親が約束して失敗したことを例え一部でも再度取り上げて同じ繰返しに近いメッセージを必要としたのかと言うと、デノミ政策も却って経済と国民生活を混乱させ失敗、国家指導者として国民生活向上のこれといって有効な政策を打てない切羽詰った状態に立たされていることから、目標となる希望を与えることでそれを国民の腹の足しとする打つ手のない無策を代償させようとしたからに他ならないだろう。
腹の足しにもならない希望を腹の足しにしようとするパラドックスも見事である。
人間は生命と財産と基本的人権を保障されて初めて人間として肉体的にも精神的にも十全な生きものとして生き得る。生命と財産の保障の中には十分な食事と住まいと着る物の衣食住の保障が含まれるのは断るまでもない。逆説するなら、十分な衣食住の保障があって初めて生命と財産の保障だと言い得る。
当然、生活の困窮、さらに飢餓・餓死は生命と財産の保障の否定要件として立ちはだかる。
だが、北朝鮮に於ける国民の生命と財産と基本的人権の保障とは正反対の蹂躙は金日成・金正日父子世襲独裁政治によって起こされたもので、独裁政治こそが北朝鮮国民の生活の困窮、さらに飢餓・餓死の否定要件とし立ちはだかっている大本の元凶であろう。
独裁政治こそがそれらの元凶でありながら、独裁者である金正日が「トウモロコシ飯」から「白いご飯」を約束したということは見事なパラドックスとしか言いようがない。
このことを曲がりなりにも解決する方法は金日成・金正日父子世襲独裁政治の打破――金正日を独裁者の地位から引きずり降ろすことであり、引きずり降ろしたあと、他のどのような独裁者に取って代わらせないことによって基本的には北朝鮮国民の生命と財産と基本的人権の保障につながっていくことになる。
国家指導者の為すべきことは満足のいく衣食住の保障を含めた国民の生命と財産と基本的人権の保障を確立し、維持することであるにも関わらず、独裁者の存在自体がその保障を蹂躙する元凶であり、国家指導者としての資格を失うなら、国際社会は独裁者を排除する行動を一致して取るべきだが、北朝鮮に限ってはテーブルに就く交渉によって却って独裁者の地位にとどまることを許している。
さらには金正日が自身の独裁権力をその子ジョンウンに父子世襲すべく企み、北朝鮮国民の生命と財産と基本的人権の保障蹂躙の元凶である北朝鮮の独裁政治が維持されようとしていることに対しても手をこまねいている。
そういうことなら、国際社会が最低限すべきことは北朝鮮に対して、「国家予算を国民を満足に食べさせる方向に有効に支出せずにその多くを核開発、ミサイル開発等の軍備増強にまわし、尚且つ外国からの食料援助をムダにし、国民生活の困窮を放置状態に置いて、結果として国民の生命・財産と基本的人権を保障せずにいるのは国家指導者としての責任の放棄に当たり、国家指導者としての資格がない」とするメッセージを常に発して、国民生活向上への政策へ転換させるせめてもの圧力とすべきではないだろうか。
勿論簡単にはいかないことは分かる。だが、民主国家がこの手のメッセージを四六時中大合唱することによって、独裁体制下であっても国民を十分に食べさせること、基本的人権を保障することが国家指導者としての務めであり、その方向にに少しでも進む圧力とすべきではないだろうか。
北朝鮮に多くの飢えに苦しむ者、食物がなく空腹の苦痛を抱えて息絶えていく者がいるにも関わらず、何ら有効な政策を打てないでいる無能な独裁者の存在に何ら憤りを感じないと言うなら話は別である。
――民主党に衆・参両院過半数のチャンスを与えよう――
トヨタの09年発売のハイブリッド車、新型プリウスの一時的なブレーキ不具合の苦情がアメリカで100件以上、2月4日付「時事ドットコム」記事によると、日本で〈国土交通省が把握しているだけで77件だが、トヨタは「もっと大きな数字」としてい〉としている。
また同じ2月4日付「47NEWS」記事は、〈国土交通省は4日、プリウスのブレーキ問題で寄せられた苦情件数が46件増えて60件になったことを明らかにした。物損事故の報告も4件あった。〉と伝えている。
物損事故の種類は追突事故が含まれている。
だがトヨタはこの不具合を車両欠陥ではないと発表した。日本がその技術を世界的に誇る世界有数の企業、トヨタ自動車なのだから、車両欠陥でないことは当然の事実と受け止めるべきで、誇らしく思って当たり前、その車両技術への信頼を揺らがせてはならない。
トヨタ自動車の品質保証担当の横山裕行常務が2月4日の記者会見で、そのことを明らかにした。
《“感覚の問題 欠陥ではない”》(NHK/10年2月4日 18時33分)
「ブレーキのシステムの設定によって、ブレーキが一瞬利かない時間が発生し、運転手が違和感を感じているという問題だ」
記事はこの説明を〈ブレーキが利かなくなるというのは感覚的なもので、車両の欠陥ではないという認識〉を示したものと解説している。
要するに車両欠陥ではないから、ブレーキが一瞬利かなくなった、あれ、おかしいぞと「違和感を感じ」るだけのことで済む問題だと説明したのである。
だた、「違和感」の問題に過ぎないブレーキの不具合であるにも関わらず、トヨタはプリウス問題が明るみに出る以前の先月からシステムの設定を変更するなどの対策を取っていたと記事が伝えている。いわゆるこの“ひそかな”対策について横山常務はつぎのように答えている。
「日々の品質改善のなかで対応したもので、問題を隠していたわけではない」
記事はこの発言を〈公表する必要はなかったという考えを強調〉したものだと解説している。ブレーキの不具合が個人的な「違和感」の問題に過ぎないのだから、「違和感」に対応した“システムの設定等の変更対策”ではなく、「日々の品質改善のなかで対応した」対策だとするのは当然の説明である。
記事は〈去年7月、千葉県松戸市で「プリウス」が関連してけが人が出た事故〉を取り上げているが、この事故に関しても、「ブレーキのシステムの設定によって、ブレーキが一瞬利かない時間が発生し、運転手が違和感を感じているという問題だ」とする、いわゆる“トヨタ公式見解”に添って横山常務は次のように答えている。
「路面の状況やデータ類からみて、車両側に異常はないと判断し、所轄の警察署に報告している」
一旦打ち出した「ブレーキのシステムの設定によって、ブレーキが一瞬利かない時間が発生し、運転手が違和感を感じているという問題だ」とする“トヨタ公式見解”と異なる説明であったなら、矛盾を来たす。あくまでも“トヨタ公式見解”で統一した説明を果たさなければならない。
“トヨタ公式見解”の以上を纏めると、プリウスのブレーキが一瞬利かなくなる問題も、追突事故、その他軽微な事故で済んでいる怪我人が出ている事故も、個人的な「違和感」から起きている問題だと言うことになる。
例え軽微な被害で済んでいたとしても、事故を起こした運転者にしたら、ブレーキが一瞬利かなくなった事実を無いこととされて、運転者の「違和感」が招いた事故だとされたなら、納得はいかないだろう。このことは事故を起こされた車の運転者にしても同じはずだ。「違和感から事故を起こしてしまいました」と言われたなら、「ナ、ナヌ・・・」となるに違いない。
だが、世界のトヨタを擁護するためにも、“トヨタ公式見解”を破綻させないためにも、あくまでも車両欠陥ではなく、「違和感」が引き起こした事故としなければならない。
2月4日の横山常務の記者会見に関して、「Response」記事が自動車産業関連などのニュースを専門に取り扱っているだけあってより詳しく伝え、ブレーキ不具合に対する対処方法を解説している。
《トヨタ プリウス、ブレーキに“空走感”を感じたら》(2010年2月5日(金) 17時43分)
先ず最初に次のように記事は書いている。
〈トヨタ自動車は、新型『プリウス』が、ある条件のもとでブレーキを操作した場合、ユーザーに空走感を抱かせる現象があることを4日、明らかにした。この現象が、安全に関わる問題なのか、それとも佐々木副社長がいう“フィーリング”なのかは、同社と国土交通省で調査中だが、もし新型プリウスユーザーがこうした状況に遭遇した場合は調査中ではすまない。どうすればよいのか。〉――
そして「空走感」発生の条件として、〈例えば、路面が濡れたり、凍結したりして片輪だけ回転数が変わるような場合に、ABS(アンチロックブレーキシステム)が作動した時だ。この瞬間、プリウスでは、回生ブレーキが油圧ブレーキに切り替わる。〉と解説している。
「NHK」記事の「違和感」がここでは「空走感」となっているが、これも個人的な感覚の問題となる。だが、ブレーキの不具合が「ある条件のもとでブレーキを操作した場合」発生するなら、ハイブリッ車プリウスに限ってのことだから、「ある条件」に遭遇する可能性は個人の問題ではなく、プリウスを運転する者すべての問題――いわばプリウスの問題となって、“トヨタ公式見解”を破綻させるばかりではなく、「世界のトヨタ」という名誉・信頼をも破綻させてまずいことになる。
この記事でも品質保証担当の横山裕行常務役員が登場する。登場してブレーキの空走感について説明している。
「一定の踏力で軽いブレーキングを続けた場合、路面の状況によっては、ブレーキの反応がわずかに遅れるという現象で、・・・雪道などでガガガッと車輪が動く経験などでご存知だと思いますが、ABSは車輪のロックを防止するために、ブレーキを一時的に緩めるという機能を持っている。この時(新型プリウスは)回生ブレーキを油圧ブレーキに切り換わった時に時間差が生じる。そこでいろいろなお客様からご指摘をいただいているのが”空走感”。短時間ブレーキが利かなくなることがある」
――
「雪道などでガガガッと車輪が動く」といった等々の「路面の状況によっては」を条件としたブレーキの不具合なら、そうっいた「路面の状況」に遭遇する可能性にしてもやはり個人が決める問題ではなく、プリウス自体が決定する「ブレーキの反応がわずかに遅れるという現象」と言うことになって、「NHK」記事が伝えていたことと矛盾するだけではなく、“トヨタ公式見解”にも違反し、世界のトヨタの名を危うくしかねない問題発言となる。
記事はここで「回生ブレーキ」について解説を加えている。
〈ハイブリッド車や電気自動車(HV/EV)特有の装置で、加速に用いる電気モーターを逆回転させることで減速させると同時に、発電をする仕組みだ。ガソリン車でいうエンジンブレーキとほぼ同じで、下り坂や、ごく緩いブレーキングのときに作動するものだ。ところが、そうした緩やかなブレーキングでわずかにスピードを制御している場合に、先のような条件でABSが作動すると、その車輪制御のためにメリハリのある大きな力を必要とするため油圧ブレーキに切り換えなければならない。このわずかな切替時間が空走感につながるというものだ。
しかし、ユーザーにとっては、いくら瞬間のことであっても、予測がはずれてスピードが落ちなければ運転中のパニックにつながる。誰もがこのくらいのブレーキングであればこのぐらいスピードが落ちるという予測のもとに運転しているからだ。〉――
だが、横山常務は一旦破綻させかけた“トヨタ公式見解”を土壇場で踏みとどまって建て直し、プリウスの車両欠陥ではなく、あくまでも運転者の運転操作の問題でだとして、世界のトヨタの信頼性を守り抜く。
横山常務は「空走感」が発生した場合の的確な対処方法として、「踏み増す」という行為を挙げたと記事は書いている。
〈運転中に空走感を感じるということが起きても、ブレーキペダルをより多く踏み込めば、その踏力に比例してより大きな減速を見込むことができる。〉と。
注文した料理を食べつくしても、なお空腹感を感じたなら、さらに料理を注文して、その料理を腹に詰め込めば満腹感を得ることができると説明しているようなものだが、空腹感は注文をし直して、その料理をさらに腹に詰め込むまで待ってくれるが、「空走感」はブレーキを「踏み増す」まで必要な停止まで待ってくれない危険性を常に付き纏わすことを考慮に入れなければならない。
いや、横山常務は考慮に入れなかったからこそ、上記説明で車両欠陥ではなく、運転者の問題だとする修正に見事成功することができた。さすがは世界のトヨタである。その技術にますます信頼を寄せることになるだろう。
記事は横山常務の運転者の問題だとする修正にも解説を加えている。
〈当然と言えば当然なのだが、新型プリウスの空走感は、ブレーキそのものが利かないという現象ではなく、切替のタイミングの問題だ。だからこそ横山氏は「踏めばきちっと止まります。そういう意味で制動停止距離は伸びるということはありません」と、30分ほどの説明の中で、幾度も繰り返した。〉――
記事はここで終えているから、プリウスのブレーキの不具合は車両欠陥ではなく、運転者の問題とする“トヨタ公式見解”を擁護し、そのことによって世界のトヨタを擁護する内容だと分かる。同じ日本人として当然の対処方法であろう。
横山常務の言っていることを一言で言い直すと、車が悪いんじゃない、ブレーキの踏み方悪いのだとなるが、踏み方の良し悪しはすべての「路面」を発生条件とするのではなく、「ある条件のもと」にある「路面」のみを発生条件とするなら、どう考えてもブレーキの踏み方が悪いといった個人的な運転操作の技術に起因する問題ではなく、やはり車両自体の欠陥に帰すべきブレーキの不具合となるが、このように見てしまうと、横山常務の説明は自己企業保身のこじつけ、牽強付会の類と堕し、世界のトヨタ擁護につながらない邪道な解釈となってしまう。
――民主党に衆・参両院過半数のチャンスを与えよう――
天皇の国事行為の一つに閣議が処理した書類の決裁があるという。「msn産経」記事――《天皇陛下「夜のご執務」相次ぐ 書類が来ない…》(2010.2.4 01:14) によると、天皇は閣議処理の決裁の執務を原則として閣議開催日当日に行っていると説明している。
理由は公布を控えた政令などが含まれているからと書いているが、公布までの以後の手続きを考慮して生真面目な上に律儀に当日執務としているのかもしれない。このため宮内庁は通常閣議が行われる毎週火、金曜は、午後の早い時間から夕方まで、極力ほかの予定を入れないよう調整しているという。
ところが、「自民党政権では閣議前の事務次官会議で案件が調整され、閣議は午前中に短時間で終了するのが慣例だった。最近は時間が遅いので、われわれより陛下が大変で、影響を受けられている」とする政府関係者の憂慮を伝えている。
鳩山民主党内閣になって通常国会が開会した1月18日以降、朝の間首相や閣僚の国会答弁に備えた勉強の関係から閣議が午後から行われるケースが出てきたことと、内閣の意思を決定する閣議の時間が自民党閣議よりも時間が長くなっているために夕方終了といったこともあり、それに応じて他の執務やプライベートな時間との兼ね合いで天皇の決裁執務終了が9時前後になることもあり、天皇の健康に影響が出ないか、懸念されているという。
記事は遅くなった例として1月22日の午後5時過ぎに終了した閣議と1月26日の午後6時過ぎに終了した閣議、さらに2月2日の閣議と3回の閣議を挙げている。1月22日は天皇は夕方皇后と渋谷区で狂言を鑑賞する予定が入っていたため、鑑賞終了後に皇居にそのまま向かい、午後9時15分頃から執務入り、26日も夜間の執務となったと書いている。
2月2日は、体調不良を訴えて皇居御所で静養中だったが、午後9時ごろまで決裁のために時間を費やしたらしい。
自民党政権下の閣議短時間終了の慣習は閣議前日の事務次官会議で官僚のトップたちが閣僚の関与を必要とはせずに案件を処理・調整し、纏め上げてしまうために、いわば官僚主導で政策、その他を決定してしまうために翌日の閣議は名ばかりで、官僚が決めたことの追認機関に堕し、形骸化していたと言われていた。
それが民主党政権となって事務次官会議を廃止、政治主導の形式を採用したことから、時間延長を余儀なくされ、天皇の決裁執務にまで影響して負担をかけることとなった。そのため宮内庁は負担軽減策を検討、夜間執務常態化を懸念する声も出ているとする側近の発言を記事は伝えている。
「一時的であれば仕方がないが、常態化するようだとご負担になりかねない」
こういった宮内庁側からの憂慮に平野官房長官が発言している(《「陛下に負担ないよう対応したい」 夜のご執務問題で平野官房長官》「msn産経」/2010.2.4 13:05)
平野「天皇陛下の公務の時間がずれているということもあると思う。・・・。陛下の負担にならないように宮内庁と相談して対応したい」
平野官房長官らしいのか、素っ気ない発言で終わっている。
この素っ気なさは習近平中国国家副主席が次期国家主席と目されていることから、その評価を中国国内で高めるための中国側の政治利用とされた天皇との記者会見が日本側の中国に配慮した政治利用でもあったのではないかと批判が上がったとき、小沢民主党幹事長が「憲法の理念と考え方は、天皇陛下の行動は内閣の助言と承認によって行われなければならないという基本的考え方は、天皇陛下には、全くのプライベートっちゅうのはないに等しいわけですから、日本国の象徴、日本国民統合の象徴というお立場にあるわけだから、その意味では、ご自身に自由にあっち行ったりこっち行ったりっちゅうことはできないわけで、その天皇陛下の行動の責任を負うのは内閣なんです。国民の代表、国民が選んだ政府、内閣が責任を負うということなんですから、内閣が判断したことについて、天皇陛下がその意を受けて行動なさるということは、私は当然のことだと思いますし、天皇陛下にお伺いすれば、喜んで、私はやってくださるものと、そのように思っております」と規定した天皇使役の考え方からきていて、だからこその天皇の時間的都合を考えない「喜んでやってくださる」(に違いない)決裁執務ということになってしまっていたのだろうか。
「時事ドットコム」記事――《夕方閣議で陛下に負担=答弁準備優先-鳩山内閣》(2010/02/04-17:45)の閣議が午後開催されるようになったいきさつは次のようになっている。
〈自民党政権下では原則、定例閣議は毎週火曜と金曜に、国会開会中は午前9時から国会内で、閉会中は同10時から首相官邸でそれぞれ開催してきた。昨年9月に発足した鳩山内閣も基本的に踏襲してきたが、1月18日に通常国会が召集されて以降は、衆参両院の予算委員会などに臨む鳩山由紀夫首相や閣僚の答弁準備を優先。3回にわたり夕方に閣議を開催した。〉――
そして2月2日の午後5時半過ぎ終了閣議の後、天皇に回した決裁事項を、〈大使の信任2件と叙位2件〉だと書いている。当日の天皇は喉の痛みや腹痛を訴えて御所で静養中だったが、午後9時頃まで執務したという。
これがどのような国事行為に当たるのか、
第1章 天皇
第7条 国事行為
天皇は、内閣の助言と承認により、国民のために、左の国事に関する行為を行ふ。
1 憲法改正、法律、政令及び条約を公布すること。
2 国会を召集すること。
3 衆議院を解散すること。
4 国会議員の総選挙の施行を公示すること。
5 国務大臣及び法律の定めるその他の官吏の任免並びに全権委任状及び大使及び公使の信任状を認証す
ること。
6 大赦、特赦、減刑、刑の執行の免除及び復権を認証すること。
7 栄典を授与すること。
8 批准書及び法律の定めるところその他の外交文書を認証すること。
9 外国の大使及び公使を接受すること。
10 儀式を行ふこと。
大使の信任は5番の国事行為に、叙位は7番の国事行為に相当するが、いずれにして10の国事行為を、〈内閣の助言と承認により、国民のために〉行う。天皇は〈この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない〉と日本国憲法「第1章天皇 第4条 天皇の機能」に規定しているのだから、内閣の決定に異議を唱える権限も資格もなく、最初の「msn産経」記事にあるように政令の公布の決裁等を含めた他の国事行為と同様に内閣が既に決定、もしくは承認した事柄を単に後追い承認し、決裁するだけの行為を行うということに過ぎないのではないのか。
いわば大使の信任や叙位、政令の公布、その他の決裁事項はそれが内閣が決めた法律であっても、大使の信任や叙位の場合は相手がどんな人物だと話題とすることはあっても、各管轄省庁が既に文書、書類の類に纏め上げてある決定事項を改めて閣議で承認を取った上でそれをさらに天皇に回して、天皇の「決裁」という名の承認を得る手続きを経るということであろう。
こうして見てくると、天皇に向けた決裁手続きは一旦決定したことに対する形式の伝達に過ぎない。天皇の地位は国家元首ではなく、国と国民統合の象徴に過ぎない。「天皇の国事に関するすべての行為には、内閣の助言と承認を必要とし、内閣が、その責任を負ふ。」の規定ゆえに国事行為に関しても責任を有しない天皇に、単なる形式的決裁だから、責任の持ちようがないこともあるだろうが、形式の伝達を経て形式的決裁を求める二重の形式を必要としているが、天皇による価値づけ以外、何ら意味がない形式と言うことではないだろうか。
意味はないながらに形式を重んじる。叙位・叙勲の場合は県知事や総理大臣から授けられるよりも天皇に授けられた方が有り難や、有り難やの権威主義の蔓延(はびこ)りから形式ではあってもいたく光栄の至りということになるのだろう。
国事行為が天皇による形式的な価値づけであったとしても、たいした実益も生まない形式的な価値づけに形式一辺倒で囚われてそこから出ることができないでいると、習近平中国国家副主席の国家主席に向けたバトンタッチをスムーズに行う経歴の一つに天皇との記者会見を政治利用した中国の貪欲なまでの実益優先志向の政治にますます差をつけられることにならないだろうか。
午後遅い終了の閣議が天皇に負担をかけるということなら、天皇決裁執務を必要とする案件は閣議終了後に宮内庁に回すのではなく、閣議が午後開催されようと、一番に天皇決裁案件を処理して、閣議途中であっても直ちに宮内庁にまわすということをしたなら、天皇はかなり時間の余裕を持って決裁に当たることができるのではないだろうか。このことが天皇にとってはささやかな実利となるはずである。
形式の伝達に立った形式的な価値づけを必要としても、処理の方法一つで実利を生むことができる。
――民主党に衆・参両院過半数のチャンスを与えよう――
亀井静香金融・郵政改革担当相が3日の参院本会議で自民党の松村祥史議員に永住外国人地方選挙権付与法案について問われて次のように答えている(《代表質問詳報・政府答弁》47NEWS/2010/02/03 22:32 【共同通信】から)
「わが国は植民地的支配をした歴史があり、多くの方々が移住されたが、参政権の付与は別の問題だ。選挙は過熱する場合がある。参政権の付与で民族感情が刺激され、対立が生まれる危険性がないわけではない。参政権を望む方は帰化で対応していただきたい」
亀井が言っていることは、帰化して日本国籍を取れば、民族間の利害対立から選挙が過熱した場合でも、「民族感情が刺激され、対立が生まれる危険性」は生じないとの断言である。
例え相互に民族を違えても、両者間に利害の相違が生じなければ、対立は起きない。
帰化して日本国籍を取ったからといって、その者が持つ民族性は抹消されるわけではないだろう。意識は本質のところで親から受け継いだ民族感情、あるいは親から受け継いだ民族的文化性を宿しているはずだからだ。
この場合の“親から”というのは、親が所属した社会から受け継ぎ、親自身の個人性として付け加えた民族感情や民族的文化性も含まれる。
女性が結婚して戸籍が変わったからといって、親から受け継いで本質のところで特性化したその女性特有の感情や文化性をまるきり捨て去るわけではないのと同じであろう。
この親から子への継承は当然のこととして多くが代々の継承となり得る。例えば親自身、あるいはその子自身が被差別を直接経験しなくても、親や子が所属した社会が経験して、何らかの学習を通してその経験を意識化したとき、その意識化した経験はそれぞれの民族感情、民族的文化性と化して次の世代にへも継承されていくはずである。
戦争を語り継ぐことが民族感情や民族的文化の語り継ぎの形式を踏むのはこのためでもあるはずである。
例えば自身が経験しなくても、被差別の歴史を学習することによって自身をその中に置くのも民族感情や民族的文化の語り継ぎの形式を踏む最たる例の一つであろう。
勿論、継承の濃度に個人差が生じる。自身も自らが所属する社会で直接経験した場合、それが初めての経験であっても、学習して意識化した経験が触発されて直接経験と合わさり、そのことに対する意識の濃度は増加し、より強い経験となる。
要するに帰化が民族感情からの対立を抹消をする万能薬とはなり得ないのだから、亀井静香の言っていることは愚かしい戯言(たわごと)に過ぎない。
例えば日本と韓国の間で竹島(韓国名、独島)の領有を巡って対立しているが、もし日本のどこかの市議会が竹島は日本の領土だとする決議案を議会に提出した場合、日本に帰化した韓国人、場合によっては帰化した北朝鮮人も含めて、“民族感情”を刺激しない保証はない。対立とまでいかなくても、決議案に反対だ、独島は韓国の領土だと叫ぶ韓国系日本人、あるいは北朝鮮系日本人が出てきたとしても不思議はない。
あくまでも帰化しても消える保証のない民族感情からの利害の相違が何らかの対立や反対を生むのであって、亀井が愚かしくも言っているように帰化しないことが生む問題点ではない。
対立的な民族感情は往々にして一つの民族から別の民族に向けた全体的な民族間の差別、そのことから生じた貧困、あるいは民族や一つの階層に全体的な現象とし現れた貧困を民族全体の無能力と看做して逆に生じせしめることとなった差別といった何らかの社会的矛盾に対する反動を起因して出来する。それらは過去に遡った歴史を引きずって受け継いでいる感情の場合もあるはずである。
かつての激しく燃えた中国の反日感情は中国人の戦争被害の記憶を歴史的に受け継いだ感情からのものであろう。
次に挙げる例は人種対立であるが、差別や貧困などの反動として生じた例としてロス暴動がある。この暴動は帰化していないこと、アメリカ国籍を取っていないことが原因した暴動では決してない。「Wikipedia」から引用。
ロス暴動
1992年4月末から5月頭にかけて、アメリカ合衆国・ロサンゼルスで起きた大規模な暴動。新旧の人種問題、陪審制の難しさなど、暴動の背景にある多くの問題が浮き彫りになった。
潜在的要因
日本における報道でロス暴動はロドニー・キング事件に対する白人警官への無罪評決をきっかけとして突如起こったかのような印象を受けることが多いが、その潜在的要因としてロサンゼルスにおける人種間の緊張の高まりが挙げられる。アフリカ系アメリカ人の高い失業率、ロス市警による黒人への恒常的な圧力、韓国人店主による黒人少女(ラターシャ・ハーリンズ)射殺事件とその判決に対する不満などが重なり、重層的な怒りがサウスセントラル地区の黒人社会に渦巻いていた。そこにロドニー・キング事件のロス市警警官に対して無罪評決が下されたことが引き金となって、黒人社会の怒りが一気に噴出して起きた事件であるといえる。
人種間の緊張の高まり
事件の重要な要件として、暴動がはじまったサウスセントラル地区の人口比率の変化が挙げられる。サウスセントラルはかつて黒人地区であったが、ヒスパニック系が居住者として取って代わるようになり、一方では韓国系アメリカ人がそれまで黒人の所有していた酒屋や雑貨店などを買い取って商売をはじめていた。国勢調査によれば、歴史的に黒人居住地区であった場所におけるヒスパニック系住民の増加率は119%に達していたという。こういった地区では商店などの経済競争が人種間の憎悪を高めていった。それまで黒人が一手に引き受けていた単純労働は、半分の賃金で働くラテン系移民へと移っていった。また、韓国人(コリアンアメリカン)による極端とも言える黒人蔑視などもあり、韓国人商店と客である黒人住人との関係のみならず、黒人社会と韓国人社会全体が明確に断絶していた。黒人住民たちは韓国人商店の客扱いが酷く商品が値上がりしているとの不満を持っていた。
この様な状況の中、1989年のスパイク・リー監督の映画『ドゥ・ザ・ライト・シング』ではこうした人種間対立を題材に扱い、上記の様な黒人社会と韓国人社会の対立も描きながら、人種間対立が暴動へと発展する様子を映画として発表した。 また、ラッパーのアイス・キューブは1991年10月に発表したアルバムで、黒人社会と韓国人社会間に存在する軋轢をBLACK KOREAという曲において韓国人を攻撃する歌詞という形で表現している。
ロドニー・キング事件、およびその裁判
1991年3月3日、黒人男性ロドニー・キングがレイクビューテラス付近でスピード違反を犯し、ロス市警によって逮捕された。その際、20人にものぼる白人警官が彼を車から引きずり出して、装備のトンファーバトンやマグライトで殴打、足蹴にするなどの暴行を加えた。たまたま近隣住民が持っていたビデオカメラでこの様子を撮影しており、この映像が全米で報道され黒人たちの激しい憤りを招いた。
この事件でビデオに映り身元が分かる白人警官3人(ステーシー・クーン巡査部長、ローレンス・パウエル巡査、ティモシー・ウィンド巡査)とヒスパニック系警官1人(セオドア・ブリセーノ巡査)の計4人が起訴された。裁判の結果、警官達の“キングは巨漢で、酔っていた上に激しく抵抗したため、素手では押さえつけられなかった”との主張が全面的に認められ(実際はおとなしく両手をあげて地面に伏せたキングが無抵抗のまま殴打され、医療記録によるとあごを砕かれ、足を骨折、片方の眼球は潰されていたとされるが、裁判では認められなかった)、事件発生から1年経過した92年4月29日に陪審員は無罪評決を下した。これについては、白人住民の多かったシミ・バレーで法廷が開かれ、陪審員に黒人は含まれていなかった事も原因の一つであるといわれる
ラターシャ・ハーリンズ射殺事件
ロドニー・キング事件のわずか13日後となる1991年3月16日、持参したバックパックに1ドル79セントのオレンジジュースを入れ、手に支払いのための小銭を握っていた[1]黒人少女(当時15歳)であるラターシャ・ハーリンズを、韓国系アメリカ人の女性店主、Soon Ja Du(当時49歳)が射殺したのである。事件の様子は防犯ビデオに収められており、2人は揉み合いになったのちに少女が店主の顔面を4度殴打、店主は床面に激しく転倒させられた。店主は少女に椅子を投げつけた。
その後、件のオレンジジュースをカウンターに置いて店から歩いて出て行こうとする少女に対して、韓国人店主は背後から銃を向け、その頭部を撃ち抜いた。Duは逮捕され、事件の判決は同年11月15日に出された。陪審員は16年の懲役を要求していたにもかかわらず、判決は5年間の保護観察処分、およびボランティア活動400時間、罰金500ドルという第三級謀殺としては異例に軽いものであった。この判決は黒人社会の怒りを再び煽ることとなり、無実の黒人少女を射殺するというこの事件により、黒人社会と韓国人社会間の軋轢は頂点に達した。
暴動勃発
1992年4月29日、ロス市警の警官への無罪評決が下されたこの日、評決に怒った黒人たちが手の付けられない暴徒と化し、ロサンゼルス市街で暴動を起こして商店を襲い、放火や略奪をはじめた。
また、小規模な暴動及び抗議の動きはロサンゼルスだけではなくラスベガス、アトランタ、サンフランシスコをはじめとしたアメリカ各地、およびカナダの一部にまで波及したようである(「本部長は辞任せよ」「4人の警官は全員有罪だ」「暴力警官からバッジを取り上げろ」のプラカードを掲げて抗議デモをしたグループもあった)。
この暴動が勃発した初日、LA市内をトラック輸送仕事でいつも通り走行していた白人トラック運転手、レジナルド・デニーはフローレンス通りとノルマンディーアベニューの交差点で信号待ちをしていた際、主に若者を中心とした暴徒化した黒人らにキャビンから引きずり出されて暴行を受けた。その内容は、コンクリート塊でこめかみを強打したり、倒れた被害者の頭部に数十キロの鉄の塊(エンジンブロック)を投げ落とすなどだった。またこの様子は地元TV局の取材ヘリから空撮されており、この衝撃的なシーンは幾度となく繰り返し全米にTV放送され、彼はロス暴動におけるもっとも著名な被害者となった。なお、暴行を受けた後、彼はTVニュースでその暴行のライブ中継を見ていた地域住民の黒人によって助け出され、病院で開頭手術などを受け一命を取り留めている。
主な襲撃目標となったロス市警は自らを守るだけで手一杯の状況となり、暴動を取り締まることはまったくできなくなっていた。その証拠に前述のライブ中継されたレジナルド・デニー集団暴行事件でも最後まで警察は現れる事はなかった。
この時、ロス市警は現場に黒人警官のみを行かせるよう編成をしており、現場近くにいた白人オフィサー達には「現場に近づくな」との命令がディスパッチャー(通信司令)を通して発せられていた。
そして4月30日、当時の市長トム・ブラッドリー(黒人。翌93年9月末退任)は非常事態宣言を発令した。
もうひとつの主たる襲撃目標となったのが韓国人商店である。襲撃による被害額の半分弱が韓国人商店のものであるともされる。韓国人商店主らが防衛のために拳銃を水平発射しているシーンも幾度となくテレビにおいて放映された。ちなみに彼ら韓国人店主らの多くはベトナム戦争の帰還兵だった。ベトナム戦争に参加した韓国人帰還兵に米国政府が移住許可を与えたため、70年代に韓国系移民が4倍も増えた。彼らは主に競合相手のいない黒人街で商売を始め、従業員には黒人でなくヒスパニック系を雇い、閉店すると店を厳重にガードし、そそくさと韓国人街へ帰るというスタイルで商売していた。黒人の間では「自分達を差別しながら商売する連中」というイメージが定着し、そうした黒人による日頃からの韓国系への鬱憤が、暴動時の韓国人商店襲撃へと結びついたといわれている。また、当初は韓国人商店が襲撃されたが後には他のヒスパニック系/白人/黒人の店も襲撃されるようになった。
暴動鎮圧のために州兵は元より、4,000人を超える連邦軍(陸軍、および海兵隊)部隊までが投入され、さらには司法省が、公民権法第7篇、人種差別行為禁止規程違反容疑でのFBIによる再捜査をアナウンスするなどの努力によって、6日間に渡った暴動はようやく収束を見た。しかし、暴動による被害は死者50~60人、負傷者約2,000人を出し、放火件数は3,600件、崩壊した建物は1,100件にも達した。被害総額は8億ドルとも10億ドルともいわれる。韓国人街は市警が暴動鎮圧に消極的だったと厳しく非難した。また彼らは『無実の我々が犠牲を強いられた責任は市当局にある』と述べた。
この事件での逮捕者は約1万人にものぼり、そのうち42%が黒人、44%がヒスパニック系、そして9%の白人と2%のその他の人種が含まれていた。これは当時のロサンゼルスの人口比率とほぼ同じで、最終的には黒人による暴動というよりは、街を挙げての略奪騒ぎになったと考えるべきだろう。
影響
a.. 暴動後、ロドニー・キング殴打事件の再審理を求める世論が盛り上がり、FBIが公民権法違反で再捜査を行った。再審理の結果、指揮を執る立場にあったクーン巡査部長と直接関与したパウエル巡査の2人が有罪評決を受けた(ブリセーノ巡査とウィンド巡査は無罪)。ロス郡の連邦地裁陪審団は同市に対しキング氏に約382万ドル(当時レートで約3億9700万円)の賠償金を支払うよう評決を下した。キング氏側:「警官の暴行は人種的な背景によるもので、頭部を殴打されたため脳に回復不能の障害が残り視力低下や頭痛、集中力欠如などの後遺症に苦しむ」と主張。この評決が下される際も、暴動が再発するのではないかと緊張が走ったが、事前の警備が万端であった上にほぼ順当な判決が下されたこともあり、暴動が起きるようなことはなかった。
余談だがロス暴動後に同じロサンゼルスでおきたO・J・シンプソン事件をめぐる裁判では容疑者のO・J・シンプソンが黒人であったため、ロス暴動の再来を恐れた裁判所側が陪審員に黒人が多い地区からの選出を認め、検察側の人種感情を強く問題視するなど過剰とも取れる配慮をおこなった結果、裁判の過程に大きな影響を与えたという経緯がある。
b.. ロドニーキング事件は報道で誇張され、「警官は悪だ」とのイメージが定着して警官に対し不信感を持たれ、全米で警官の志願者が減少し、警察署は10%ほどの人材不足に頭を悩ませている。
c.. この事件によりコリアンアメリカンと黒人社会との確執が決定的な物となり、その後一時期緊張が緩和されたものの、コリアンアメリカンに存在する黒人社会への露骨な差別感情から、未だ両者に摩擦があるのが現状である。(経緯についてはコリアンアメリカンの項を参照)
d.. ラターシャ・ハーリンズ射殺事件は一人の韓国系住民の犯行が原因だが『韓国人ほど冷酷で愚劣で無分別で、しかも侮辱的で傲慢な人間に会ったことはない』、『韓国人は最も距離を置きたい人種』などと新聞にかかれた。M・カルフーン博士は『日本人と韓国人は全く似て非なる人種。韓国人は妥協するとか、相手の意見を聞こうとしない点で日本人とは大違い』と発言していた。またいくつかの韓国系の店の前には「黒人立ち入り禁止」とかかれた紙が置かれるようになった。このロス暴動は韓国人と黒人の間の溝をまた大きく空けてしまう結果となった。コリアタウンには黒人の姿は見かけないといわれている。これほどまでに韓国人全体が憎悪の対象になったのは、窃盗罪で執行猶予中だったキングの事件とは正反対に、全くの無実で殺されたラターシャハーリンズ事件の怒りの矛先が韓国人に向けられているためと思われる。(以下略)
以上見てきたことから理解可能なことは対立的な民族感情を和らげる手段は先ず第一に社会的矛盾として存在する貧困や差別の解消にあるということであろう。決して帰化すること、国籍を取ることが解消手段となるわけではない。
次に中国や韓国に対しては、戦争被害の記憶を逆撫でしないことが必要となる。
今はどうか知らないが、日本が高度成長期半ばの1960年代前後に日本のヤクザの多くが在日韓国人・在日朝鮮人で占められていると言われていた。それは彼らに対する差別、特に就職差別の反動によって生じた現象であろう。諸々の差別によって日本の社会が彼らを快く受け入れることをしなかった反動としてヤクザ社会に流れていった、いわば“就職”していったことによって生じた過密化であったはずである。
ヤクザ社会に流れず、辛うじて日本の社会にとどまっていた彼らはその多くが満足な就職機会を得ることができずに貧困を強いられた。
ロス暴動からも窺うことができるように、彼らに対する差別・貧困が、あるいはその記憶が逆に彼らの民族感情を先鋭化させる銃の引き金として内在させている恐れも否定できないはずはずである。
人間を学歴や職業、収入、家柄、民族的出自等を上下で価値づける権威主義が差別意識を生み、差別される側は同じ権威主義に則って上下の価値観で判断し返し、それが民族間の遣り取りであった場合、そこに民族的感情の対立が生じる。
この対立は相互の権威主義性を排除しなければ、帰化した、国籍を取ったで解決する対立ではないことは断るまでもない。
――民主党に衆・参両院過半数のチャンスを与えよう――
民主党の目玉政策、子ども手当が財源との兼ね合いで11年度から満額1月2万6千円支給できるかどうか、金額的な支給可能性の面でのみ、いわば財源捻出可能性でのみ論じられている。
前に書いたが、先ず発端は1月31日日曜日のNHK「日曜討論」での野田財務副大臣の発言。
野田財副大臣(2011年度からの満額2万6千円支給について)「難しいという話はしました。ハードルは高いと。できないとは言ってません。これからの作業です」(NHK動画から)
この発言に対して野田財務副大臣の親分、菅直人副総理兼財務相が同じ1月31日に朝日新聞のインタビューに答えている。
《子ども手当満額支給、菅氏「やるといったらやらないと」》(asahi.com/2010年2月1日7時36分)
菅親分「そんなことを率直に言うのは間違いだ。問題は、できるかできないかなんだ。・・・・やるといったら、やらないといけない。・・・・社会保障分野だけで6兆円の増額が見込まれる。これをどういう形で(予算に)埋め込んで、出せるかが問題だ」
野田子分は「できないとは言ってません」とは言っているが、「ハードルは高い」と言っている以上、「できない」にウエイトを置いた発言であろう。「できる」なら、「ハードルは高い」などと言いはしない。
にも関わらず、菅親分は「問題は、できるかできないかなんだ」とわけの分からない発言をしている。「できない」では公約違反になる。「できる」の一言で済ませるべきだったろう。
当然、「やるといったら、やらないといけない」は疑問の余地ない実施事項であって、今更ながらに「やるといったら、やらないといけない」などと言わなければならないこと自体、政権運営の決意の程が疑われる。
野田副大臣の「ハードルは高い」が「できない」にウエイトを置いた発言であるのは同じ財務副大臣であるが、野田副大臣と同格なのか、格上、格下の上下関係にあるのか分からないが、少なくとも菅親分に対して子分の位置にあるのは確かなはずだが、峰崎直樹氏が野田副大臣と同じ趣旨の発言をしている。
峰崎財務副大臣「今の段階から、できませんと言える状況ではないが、財源的には相当厳しいと言わざるをえない。相当、無理があると思っており、今までの約束事ができる条件がほんとうにあるのかなと思う。・・・・特別会計も含め、どのように歳出削減できるかを内閣にいる全員が考えないといけないし、財務省としては、無駄削減を進めるための先頭に立たないといけない」(《子ども手当増額は相当厳しい》(NHK/10年2月2日 0時19分)
いわば野田発言に同じ副大臣として歩調を合わせたといったところなのだろう。
このような子ども手当満額か否か劇場に松野官房副長官が新たな登場人物として現れる。《子ども手当 公約どおり満額を》(NHK/10年2月2日 14時8分)が紹介している。
松野官房副長官「再来年度から満額支給するという方針は変わっていない。(野田、峰崎の両)副大臣がどういった文脈で言ったのかはわからないが、民主党のマニフェストで約束した中身でもあり、政府としては満額支給ということで考えている」
この発言に胸を撫で降ろした母親が相当数いるのではないだろうか。
最後の登場人物、菅直人親分より上の大親分、鳩山首相。大トリといきたいが、大親分としての貫禄から言っても大トリと言えるかどうか。昨2日の衆院本会議での各党代表質問で答えている。
鳩山首相「基本的にはマニフェスト(政権公約)通りに行いたい」
「毎日jp」記事――《子ども手当:首相、満額方針変えず 経済効果は1兆円》2010年2月2日 21時20分)は鳩山首相の発言をこれだけしか紹介していない。
「基本的にはマニフェスト(政権公約)通り」ということはあくまで「基本」であって、決定ではないということなのだろう。このことはその夜の首相官邸で記者団に答えた発言から窺うことができる。
鳩山首相「財務を担当する人からすると難しいという思いはあるかもしれない。しかし、今は満額支給できるように最大限努力するのが政府の務めだ」(《公約通りの実現に努力=子ども手当満額支給で-鳩山首相》時事ドットコム/2010/02/02-21:11)
決定ではなく、「満額支給」を「最大限」の努力目標に据えている。他の予算を削ってでも、公約どおりに何が何でも満額支給だという強い姿勢は全然ない。
松野官房副長官の「再来年度から満額支給するという方針は変わっていない」とする決定度から較べると、かなりフリーな立ち位置にいる。
鳩山首相の「満額支給」努力目標発言は、野田、峰崎両副大臣、菅直人財務大臣の各発言にしても、〈子ども手当、高校無償化、高速道路無料化、暫定税率廃止などの政策により、家計の可処分所得を増やし、消費を拡大します。それによって日本の経済を内需主導型へ転換し、安定した経済成長を実現します。〉とマニフェストに掲げて国民と契約した内需主導型経済成長戦略政策であることの明確な認識に立たない、この記事の最初で指摘したように財源論でのみ把えている態度生じた発言ではないだろうか。
松野官房副長官にしても、金額の面でのみの発言で、内需主導型経済成長戦略政策の一つだとする把え方はしていない。
上記「毎日jp」記事がみんなの党代表の渡辺喜美代表の質問に答えて子ども手当の10年度半額1万3000円支給、給付総額2兆2554億円の経済効果を菅直人財務相が説明しているが、子ども手当を内需主導型経済成長戦略政策の一つだということを基本の認識に据えて積極的に発言した言葉とはなっていない。
「現行の児童手当からの上乗せ分1.3兆円のうち7割程度が消費に回り、10年度の国内総生産(GDP)を1兆円程度、成長率で0.2%押し上げる」
「子育ての経済的な負担を軽減し、総合的な少子化対策を推進することが目的」
単に政府が国民に投じた資本の経済効果を述べているに過ぎない。だから、「子育ての経済的な負担を軽減し、総合的な少子化対策を推進することが目的」とやがては国全体の経済に資することになる中長期的な経済効果に言及しているものの、内需主導型経済成長戦略政策だとする大枠の認識に立った答弁とはなっていないために投じた国の資本が如何に日本経済の内需主導型転換に向けた費用対効果を上げ、如何に安定した経済成長を実現していくのかより直接的な言及がないことになる。
いわばマニフェストに掲げた約束、契約を子ども手当の問題でも疎かにしている
確かに子ども手当には多くの批判がある。経済ジャーナリストとかの財部誠一氏が次のように《財部誠一 特別インタビュー 内需にこだわる民主党が招く『鳩山不況』》(ダイヤモンドオンライン/2009年10月23日09時15分)で批判している。(一部抜粋)
〈彼らが掲げる「内需拡大」のストーリーはこうだ。国のムダをなくし、直接国民に補助金などを給付することによって、可処分所得が増え、消費は高まり、経済が成長するという論法である。しかし、この厳しいご時世に、子ども手当てをすぐに全額使ってしまう人はいるだろうか。相当額を貯金すると考えるのが、常識的な判断だろう。
私は無駄な公共事業に反対だが、公共事業でさえ5兆円支出すれば5兆円の費用対効果が見込める。ところが、子ども手当の場合は間違いなく効果はマイナスになり、費用対効果という点でも景気対策としては悲観せざるを得ない。〉――
子ども手当に関する批判が妥当なものかどうかは経済専門家ではないから分からない。子ども手当がマニフェストに掲げた性格どおりの政策として実現に向けて実行されているかどうかをここではたた単に問題としているに過ぎない。
財部氏は「公共事業でさえ5兆円支出すれば5兆円の費用対効果が見込める」と言っているが、公共事業の場合、自民党の惜しげもない大盤振舞いからか、欧米と比較して高額な建設費であること、これまで多くの工事で談合入札を繰返してきたこと、下請に安い単価で仕事に出す等のことを行ってきたことからすると、「5兆円支出すれば5兆円の費用対効果が見込める」わけではない。企業側から見た場合はボロ儲けとなるが、国側から見たら、そこにムダが大分含まれていることになるからだ。
あるいは公共事業でも営利目的の何らかの施設建設の場合、赤字経営で税金を後追い投入して赤字補填をするケースの場合も、「5兆円支出すれば5兆円の費用対効果が見込める」わけではないはずだ。建設費581億円をかけ、毎年20億円の赤字を生み出していたという「私のしごと館」が投入資金イコール経済効果ではない典型的な公共事業と言える。結果として今年2010年3月末で閉館予定という結末を迎えつつある。
また赤字財政を伴った景気回復策としての大規模な公共投資は景気回復に一時的に役立ったとしても、財政の悪化という国全体の病を伴い、財政全体の費用対効果を損なわせるだろうから、「公共事業でさえ5兆円支出すれば5兆円の費用対効果が見込める」とは確実には言えないことになる。
外野席からの批判があったとしても、民主党は子ども手当を内需主導型経済成長戦略政策の一つとして掲げた以上、その認識に添った政策の推進を敢行することで、それを正しい政策だとする実証を行う責任を有するはずである。
そうでなければ、マニフェストに掲げた意味を失う。そのマニフェストで選挙を戦ったはずでもある。
また子ども手当が内需主導型経済成長戦略政策の一つあるなら、前政権が今の不況から脱すべく様々に景気対策を打ってきたが、その効果が個人消費や雇用改善に向かわず、二番底が懸念される現在、「家計の可処分所得を増やし、消費を拡大」するとしている内需主導型経済成長戦略政策の一つである子ども手当を約束どおりに早急に実行しないで、他に実行する機会があると言うのだろうか。
少なくとも2011年度以降、確実に満額支給しますと全員で確約したなら、現在15歳でも来年4月以降16歳になる子どもは適用外となるから、14歳以下の子どもがいる家庭では現在財布の紐をきつく締めていたとしても、再来年度のさらに1万3千円増額の全額支給を当て込んで前倒しで子どものための消費に向かうことも可能性としては考えることができる。
それを全額支給できないかも知れない、半額のままかもしれないと、逆に財布の紐を現状のまま締めさせ、支給される1万3千円も満足に消費に向かわせないようなことを言っている。ご立派。
――民主党に衆・参両院過半数のチャンスを与えよう――
1月31日の《米国初の黒人大統領オバマと外国人参政権問題 》のエントリー後、永住外国人に地方参政権を付与した場合の危険事項として、特定国の外国人の集団移住により小規模な自治体がコントロール下に置かれて、最悪、分離独立運動の発生の恐れが出てくるといった単刀直入な拒絶意見があることを知った。
「分離独立運動の発生」とは恐れ入るが、果してこういったことが可能なのか、永住外国人参政権付与に拘らない、賛成派として考えなければならない。
この拒絶意見は1月31日の記事に紹介した「msn産経」記事――《【石原知事会見詳報(1)】外国人参政権「危ない試み。発想おかしい」》(2010.1.15 23:24)の石原都知事の反対意見に基本のところで通じるから、再度紹介してみる。
石原都知事「永住しているからといって、地方に限って参政権与えるっていうのは、これはもう、何ていうのかな、時間的、空間的に日本そのものが狭くなってるときに、まして地方主権ということを言われているときに、それが国籍を持たない人たちの意向で国そのものが左右されかねない。そういう、私は、その発想そのものがおかしいと思いますな。これから先どんな問題が出てくるか分かりませんけど、そういう人たちが束になって民族移動のような形で、案件によって、何というのかな、投票を起こしたら、例えば千代田区のような1人区なんかっていうのは人口が極めて少ないのに、あそこで、どんな問題がこれから起こるか知りませんが、そういうものを想定するとですね、私はとてもね、危ない試みだと思いますね」
結果として、同じ石原都知事の発言である、「地方の時代ということは地方によって国全体が動くことがあるんですね」(同msn産経)ということになるということなのだろう。
似たような反対意見がないか、インターネット上から探してみた。人口10万人の南オセチアがグルジアから独立宣言したことを例に取って、中国政府が人口5万人の都市に10万人の中国移民を送り込むと、中国人が67%占める人口15万人の都市となり、彼らが独立宣言するような事態も起こり得る危険な参政権付与だと主張しているブログもあった。
だが、外国人が小規模な自治体をコントロール下に置くこの手の方法は、日本国籍を有しない者への地方参政権付与があくまでも永住外国人を対象としている制限から、直ちに実行に移すことができる事案とは言えない。
永住許可の要件は
1.原則として引き続き10年以上日本に在留していること
但し、この期間のうち、就労資格または居住資格をもって引き続き5年以上在留していること
現に有している在留資格について、入管法施行規則別表第2に規定されている最長の在留資格をもっ
て在留していること
2.原則10年在留に関する特例
日本人、永住者および特別永住者の配偶者の場合、実態を伴った婚姻生活(場所は国内外を問わない
)が3年以上継続し、かつ、引き続き1年以上日本に在留していること――となっている。
移住中国人が日本国籍を取っている中国人異性と結婚する形を取ったとしても、10万人共にそのような形式で受け入れることが可能とは思えないが、最低限4年の時間経過が必要な上に、尚且つ「基本的要件」として次の生活条件が課せられている。
1.素行が善良であること
2.独立の生計を営むに足りる資産または技能を有すること
3.その者の永住が日本国の利益に合致すること
例えすべての条件を満たして永住資格を取得したとしても、それ以前の問題として、それぞれの国籍が記入してある外国人登録証によって判明することになる、同じ国籍を有した人間が大挙して一つの都市に集中した住所を持った場合、それぞれの活動目的が一般市民の生活上の利益に適うかどうか、あるいは広く「日本国の利益に合致する」かどうかの判定によって、例えサンフランシスコ講和条約に基づき日本国籍を失うこととなった戦前・戦中に日本に移住してきた在日韓国人・朝鮮人に対して1991年11月施行の「日本国との平和条約に基づき日本の国籍を離脱した者等の出入国管理に関する特例法」でその資格を付与された特別永住権者であっても、国外退去等の法的措置を取ることが可能だから、それ以外の外国人の場合は直ちに永住資格を剥奪、国外退去処分に処することはできるはずである。
例え一般市民になり済まして一般市民と同じような生活を送ったとしても、一つの都市に集中した時点で外国人登録証で住民移動を受付けた役所の人間が、大学が新しくできたわけではない、何かの企業がその都市に進出してきて新しく工場を建てたわけでもない、ほかにどのような理由でこうも大勢の同じ国籍を有する人間の移動があるのか不明ということなら、理由や目的が分からなくても、その事実だけは役所から世間に洩れ、自ずと騒ぎが生じることとなってマスコミにも知れるだろうし、知れたなら、マスコミが目的を探る動きを見せるに違いない。
マスコミが動いても騒ぐだけで終わっていて、クエスチョンマークのまま真の目的が不明であったとしても、実際に小規模な自治体を支配し、コントロール下に置くといったことが敢行された場合、その都市の利益に適う目的で支配するはずはないから、反利益的であるばかりか、日本の利益に適わないことが判明した場合、在留資格要件に従って既に書いたように特別永住資格者、一般永住資格者を問わず、その資格を剥奪、国外退去処分にすることができるだけではなく、外国人による都市支配はマスメディアを通じて情報として日本全国は愚か、全世界に発信されて国際的は非難を喚起することになるだろうから、そのことが国外退去処分正当性の後押しとなるばかりではなく、都市支配を策した外国とその国民はその覇権主義、あるいは主権の侵害が取り沙汰されることになる。
このような危険を犯すだろうか。
また各都市とも人口を受入れる許容量というものがあるはずである。石原都知事が外国人に支配されやすい都市として人口4万5千人程度の千代田区を例に挙げていたが、そこに例え半分の2万人であっても、住民票の移動だけなら可能だろうが、生活実態を伴わせて移動するとしたら、例え空室の目だつ不況期であったとしても、アパートもマンションも部屋の不足を来たすはずである。
来たさないとしたら、住まいに関わる需要と供給のバランスを著しく欠いた許容量ということになって、もし外国人の移動がなかった場合、供給側はその分の空室を余程のことがない限り永遠に抱えて、企業経営に悪影響を与えることになる。
2月1日付「NHK」記事――《グアム知事 海兵隊移転延長を》が、〈沖縄に駐留するアメリカ海兵隊のうち、8000人の移転先となっているグアムの知事〉が移転計画自体は支持するが、〈人口の急増にインフラの整備が追いつかないなどとして、アメリカ軍に対し、移転の期限を今の2014年より延長するよう求めていることが明らかにな〉ったと伝えているが、人口受入れ許容量を示す一つの例となり得る。
尤も移動は8000人で済まず、移転工事によって建設工事の作業員や軍人家族などを合わせて〈現在18万人近くのグアムの人口がピーク時には26万人に膨れ上がることから、学校や医療機関の不足〉を来たす恐れがあるからだと書いている。
生活実態を伴わせても、一部屋に10人前後住まわせた場合、許容量をかなりカバーできるだろうが、今度は同じ国籍の外国人がいく部屋も10人前後で生活していることが問題となり、このことが永住資格を与える基本的条件の一つである「独立の生計を営むに足りる資産または技能を有すること」に適合するかどうかという問題に発展せずには済むまい。
と言うことなら、創価学会がある都市の学会員である市議候補を当選させるために他都市創価学会員の住民票のみを移してその都市の市民になりすまさせ、その都市の在住創価学会員にプラスして票を上積みする方法と同じく、日本人の住民票に相当する外国人登録証のみの移動がより可能な方法となる。
しかしこの方法は前のブログに書いたように国籍を取っている場合も可能な方法だから、参政権付与に国籍取得の有無を条件とすることはできない。逆に国籍を取ってから住民票のみを移して小規模な自治体をコントロール下に置いた場合、それを取消す手段を失うことになる。
だが、この方法が成功したとしても、やはり自分たち民族の評判を落とす行為となることは間違いない。信用できない人間集団という評判を獲ち取る危険まで犯すことまでして小規模な自治体をコントロール下に置くような真似をするだろうか。
特に中国、韓国、北朝鮮等のアジアの外国人を毛嫌いする余りの拒絶感からの過剰反応した杞憂に囚われているような気がする。
――民主党に衆・参両院過半数のチャンスを与えよう――
昨1月31日日曜日、NHK「日曜討論」で、52歳の今日でもそのふくよかなデップリ型体型を贅沢な料理を日々たらふく食べることで支えているかに見える野田佳彦財務副大臣が衆院選マニフェスト(政権公約)に15歳の4月1日前日までの子どもの保護者に毎月2万6千円を支給すると掲げた子ども手当の2010年度のみ半額の1万3千円支給、2011年度からは満額2万6千円支給は約束だったはずだが、暫定税率廃止、高速道路全面無料化同様、2011年度からの満額2万6千円支給は約束した形での実現は難しいと言い出した。
司会者「子ども手当の2年目以降の満額支給については、慎重なお考えを示されたと窺っておりますが?」
野田副大臣「難しいという話はしました。ハードルは高いと。できないとは言ってません。これからの作業です」(NHK動画から)
民主党のこれまでの政策決定過程からすると、「できないとは言ってません」がいつ「できない」に変わるか信用できない場所にまで来ている。
また、「できません」とは言えないはずだ。言った途端に支持率が内閣崩壊の危険ラインに急降下して突入することになるだろう。
野田副大臣はこの発言の前に予算編成の発言を行っている。
「23年度の編成はどうやるかって、これからの話、ですが、中期的な、あの、財政のフレームこれからつくっていくってことになります。それは23年度、24年度、25年度、3ヵ年に亘る歳出の計画、それから歳入の見通し、等々、あるいは、歳出削減をどうやるか。その流れの中で、予算を23年度やっていくと思いますので」(同NHK動画から)
当たり前のことを言っているに過ぎないが、要するに税収不足の見通しからくる歳入不足の見通し、不足した歳入の元での歳出の削減を図りながらの遣り繰りした予算編成を考えると、子ども手当の満額支給は「ハードルは高い」と言うことなのだろう。
《11年度の子ども手当満額は困難 野田副財務相、財源難で》(47NEWS/2010/01/31 17:55 【共同通信】)は次のように解説している。
〈11年度から2万6千円の満額支給を実施した場合、地方負担分などを含め年間5兆円程度の財源が必要となる一方、税収の大幅な落ち込みが直ちに回復しないとの見通しがあるため。財務省の政務三役が、満額支給について見直しの考えを示したのは初めて。〉
さらに記事は財務省の試算で11年度は51兆円超の歳入不足に陥る見込みだと伝えている。この51兆円にはマニフェストに掲げた政策項目にかかる予算は反映されていない金額だそうで、〈満額実施となれば歳入不足が拡大する恐れもありそうだ。〉と言っている。
記事は最後に同じ番組に出演した自民党の与謝野馨元財務相の批判を伝えている。
「5兆円は人の所得を移転させるだけ。(財源を)どこから取ってくるかの話をせずにばらまく話だけをするのは不誠実だ」――
歳入不足がいくら確実視されているからといって、2011年度からの子ども手当の満額支給は「難しい」とか「ハードルは高い」と言う資格は民主党内閣の誰であろうとないはずである。
民主党は昨年の総選挙前の8月11日に自民党から成長戦略がないと批判されてマニフェストの文言(?)を修正、発表している。
会見配布資料 マニフェストの書き振りの補強箇所について(民主党/2009/08/11)
○7月27日にマニフェストを発表して以来、全国各地で、あるいは経済団体や労働団体、有識者団体などで
説明会を開催し、様々なご質問、ご意見を頂いている。
○また、マスコミやインターネットなどを通して報じて頂いたおかげで、広く国民・有権者の皆さんから、
とても多くのご質問、ご意見を頂いている。
○頂いたご意見で、民主党の政策方針を的確に有権者に伝えるためには、より判り易く丁寧な表記にすべし
、とのご指摘も多く頂いている。
○これを踏まえ、国民・有権者の皆様に、我々が実現する政策をわかりやすくご理解いただけるものへと一
部書き振り、表記を補強することとした。
○いずれもマニフェスト政策を変更するものではなく、既にまとまっている方針をさらに丁寧に記すもので
ある。
5本の柱の「雇用・経済」の項で
■日本経済の成長戦略
○子ども手当、高校無償化、高速道路無料化、暫定税率廃止などの政策により、家計の可処分所得を増やし
、消費を拡大します。それによって日本の経済を内需主導型へ転換し、安定した経済成長を実現します。
○IT、バイオ、ナノテクなど、先端技術の開発・普及を支援します。特に地球温暖化対策では、国の大胆
な支援で、わが国の優れた技術力をさらに高め、環境関連産業を将来の成長産業に育てます。
○農林水産業、医療・介護は新たな成長産業です。農業の戸別所得補償、医療・介護人材の処遇改善などに
より、魅力と成長力を高め、大きな雇用を創出する産業に育てます。
この「会見配布資料」は「マニフェスト政策を変更するものではなく、既にまとまっている方針をさらに丁寧に記す」ことを目的とした、単に「書き振り」の修正に過ぎないと断っている以上、子ども手当も高校無償化も高速道路無料化も暫定税率廃止も日本の経済を内需主導型へ転換して安定した経済成長を実現する成長戦略政策として最初からマニフェストに掲げた国民との約束事、契約であって、改めて丁寧に説明するために配布したということになる。
いわば民主党は子ども手当も高校無償化も高速道路無料化も暫定税率廃止も内需主導型成長戦略政策だとここに宣言し直した。
子ども手当を民主党政策に於ける内需主導型成長戦略政策の一つに位置づけているとしたら、この不況を脱する経済の舵取りが急務となっている現在、支持率を上げて内閣運営を安定させるためにも、決して外せない経済政策であって、マニフェストの一カ月2万6千円を10年度は半額の1万3千円とすることも、11年度の支給は「難しい」とか「ハードルは高い」と言うこと自体も現在必要としている経済運営に対する矛盾行為とはならなだろうか。
いや、暫定税率廃止も内需主導型成長戦略政策の一つとして打ち上げたはずで、その廃止撤回は暫定税率廃止に賭けた景気回復策を自分たちから放棄する矛盾した政策遂行となる。
子ども手当が内需主導型成長戦略政策の一つであるなら、例えどのくらいの歳入不足が見込まれようとも、景気回復に不要不急な他の予算を無理やり削ってでも子ども手当の予算を確保して、景気回復の一助に全額支給すべきが現在の民主党内閣の採るべき道ではないだろうか。
それとも景気が回復して税収が増え、歳入に余裕が出てから、内需主導型成長戦略政策の一つに据えていた子ども手当の全額支給を経済の成長を図る成長戦略として開始するということなのだろうか。景気回復がもたらす歳入増によって内需主導型成長戦略政策の一つである子ども手当の全額支給が難しくなくなる、あるいはハードルが低くなると見ているということなのだろうか。
このようなプロセスに一切矛盾がないと言えるのだろうか。子ども手当や暫定税率廃止が内需主導型成長戦略政策の一つだとマニフェストに掲げたこと自体が真っ赤なウソだということなら理解できる。
但しマニフェストにウソを掲げる別の矛盾が生じる。
日曜討論を見ていて、野田副大臣の発言を耳にしたとき、そんなことを言うなら、内閣は辞めてしまえと思った。