遠藤浩一・拓殖大学大学院教授が菅首相談話を批判している。《【首相談話】「史実無視、歴史を愚弄」遠藤浩一・拓殖大学大学院教授の話》(MSN産経/2010.8.11 08:40)
短い記事ゆえ、全文を参考引用してみる。
遠藤浩一「菅談話には『歴史に対して誠実に向き合いたい』と盛り込まれている。私はこの記述が一番ひっかかった。談話が体現するものは、むしろ逆ではないか。
終始、日本を一方的に痛みを与えた存在と位置づけ、韓国は痛められたという見方で描かれているが、併合によって韓国には日本国民の多くの血税が投入され、鉄道建設や治山治水、農業の技術指導、金融制度の導入などが行われた。こうした日本の統治によって民生は飛躍的に向上し、これが韓国の近代化の原動力になったという側面も否定できない」
こうした『事実』をなかったことにすること自体、歴史に対して不誠実な態度である。そしてこのような政治的にゆがんだ談話を出す目的が菅政権の延命にあるとするならば、それこそ歴史への愚弄(ぐろう)にほかならない」――
談話が「菅政権の延命にある」のかどうかは知らない。「歴史への愚弄」と言っているが、「歴史の評価は歴史家に任せるべき」とする安倍晋三の論理からすると、「愚弄」かどうかも歴史家に任せるべきだとなるが、少なくとも歴史の評価方法について保守派で統一しておくべきではないかと思う。
遠藤教授が言っていることは要するに日本は韓国のために良いことをたくさんした。悪いことばかりしたわけではないと、悪いことと良いことを相殺して、そこにプラスの良いことを見い出し、決して悪いばかりの植民地経営ではなかったと、善なる方向へと振り向けようとする意志からの戦前日本の擁護論であろう。
この手の主張を持ち出す政治家、文化人、知識人等々、かなりいる。
「日本国民の多くの血税」を「鉄道建設や治山治水、農業の技術指導、金融制度の導入」等に気張って投入したのはあくまでも朝鮮に於ける植民地経営の推進・進捗、円滑化を直接的な目的とした、いわば植民地経営から濡れ手に粟の利益を吸い上げる(少なくとも当初の希望はそうであったはずだ。)、あくまでも大日本帝国のためであり、朝鮮及び朝鮮国民の利益を直接の目的とした投入ではあるまい。
このことは強制連行に現れている。朝鮮及び朝鮮国民の利益を直接の目的としたなら、とても本人の意思を踏みにじった強制連行などできない。日本の利益のみを目的としていたから、人権無視の強制連行ができた。
韓国を植民地としたということは日本及び日本人を支配者の位置に置き、朝鮮及び朝鮮人を被支配の位置に貶めたことを意味する。この事実は重要である。
支配とは支配下に置く者を自己の意志に従わせることを言い、被支配とは自己を支配する者の意志に従わせることを言う。当然そこには支配から被支配に向かう様々な強制、束縛、規定の力が働くことになる。被支配側から言うと、様々な強制、束縛、規定の力を受けることになる。これらは日常生活にも及んでいる。
具体的には朝鮮人を日本の戦時体制に組み込むための植民地政策として打ち出した靖国神社参拝の強要、母国語である朝鮮語(ハングル)の使用禁止、日本語使用の強制、日本風の名前に強制的に改めさせた創氏改名等の各政策を含んだ「皇民化政策」を挙げることができる。
先祖代々から伝えられ、自己の血肉・精神としている宗教でもない外国の宗教の参拝を強制される。その強制はそのまま己の精神に対する強制、束縛、規定となって撥ね返ってきたはずである。
創氏改名の場合、『日本史広辞典』(三省堂)によると、〈1939(昭和14)11月朝鮮民事令改正によって公布、翌年2月施行。同年8月までに新しい氏名の届けをさせ、改名しない者には公的機関に採用しない、食糧配給から除外するなどの圧力をかけたために、期限内に全戸数の80%が届け出た。「内鮮一体」を提唱する南次郎朝鮮総督の政策の一つ。〉と出ている。
「内鮮一体」とは「一体」なる言葉が含意している対等性に反して、朝鮮の日本化、日本への吸収による支配的「一体」に過ぎない。当然そこには日本及び日本人による朝鮮及び朝鮮人に対する行動と精神に対する侵害が生じる。行動と精神に対する侵害とは彼らの精神の自由、行動の自由、尊厳を奪い、歪めることに他ならない。
朝鮮及び朝鮮人の精神の自由の奪取、行動の自由の奪取、尊厳の奪取の上に、「日本国民の多くの血税が投入され、鉄道建設や治山治水、農業の技術指導、金融制度の導入などが行われた」のである。
その事実を見ずして、「こうした日本の統治によって民生は飛躍的に向上し、これが韓国の近代化の原動力になったという側面も否定できない」と、日本による朝鮮植民地化の正当性を言う。
1945年8月敗戦の前年、1944年当時の朝鮮及び朝鮮人の民生(人民の生活、人民の生計)が飛躍的に向上していない証拠を示す記事がある。《朝鮮人 強制連行示す公文書 外務省外交史料館「目に余るものある」》(朝日新聞/1998年2月28日)
〈アジア・太平洋戦争末期に、植民地だった朝鮮半島から日本へ動員された朝鮮人に対して、拉致同然の連行が繰返されていたことを示す旧内務省の公文書が、外務省外交史料館から発見された。「強制連行」についてはこれまで、被害者の証言が中心で、その実態が公式に裏付けられたのは初めてと見られる。
水野直樹・京都大学助教授が発見、整理した。28日、「朝鮮人強制連行真相調査団」を主催して千葉市で開かれるシンポジウムで発表される。
問題の文書は、内務省嘱託員が朝鮮半島内の食料や労務の供出状況について調査を命じられ、1944年7月31日付で内務省管理局に報告した「復命書」。
その中で、動員された朝鮮人の家庭について「実に惨憺(さんたん)たる目に余るものがあるといっても過言ではない」と述べ、動員の方法に関しては、事前に知らせると逃亡してしまうため、「夜襲、誘出、その他各種の方策を講じて人質的掠奪(りゃくだつ)拉致の事例が多くなる」と分析。朝鮮人の民情に悪影響を及ぼし家計収入がなくなる家が続出した、などの実情を訴えている。また、留守家族の様子について、突然の死因不明の死亡電報が来て「家庭に対して言う言葉を知らないほど気の毒な状態」と記している。
水野助教授によると、植民地に関する42年以降の大半の内務省文書は、自治省の倉庫にあると言われながら、存在は明らかにされていないという。「植民地の実態を明らかにするためにも一連の内務省文書の公開を急ぐべきではないか」と指摘する。
今回、水野教授らが集めた資料を東京都内の出版社が復刻出版しようとしている。だが、外交史料館は「外務省に著作権がある」と不許可にした。>――
調査を命じられた日本人が直接目にした朝鮮人の「民生」である。彼らが精神の自由も行動の自由も朝鮮人としての尊厳も奪われていた様子のみが浮かぶ。彼らにとって、「日本国民の多くの血税が投入され、鉄道建設や治山治水、農業の技術指導、金融制度の導入などが行われた」ことがどれ程に役立っていたというのだろうか。1945年終戦の前年の「民生」だから、終戦まで続き、さらに戦後まで続いたこことは確かであろう
多分、民生が飛躍的に向上したのは日本人と結びついて日本人と共に同国人の朝鮮人に対して搾取を働いた一部朝鮮人といったところではなかったのではないか。
日本及び日本人によって惨憺たる被害を受けたまま、日本の韓国に対する戦争賠償やベトナム戦争特需等によって韓国が近代化し、経済発展を遂げたことに伴って自らの生活の向上を得る前に死亡した朝鮮人が多くいたに違いない。
例えばカネのある男が若い女を愛人とし、豪華なマンションに住まわせ、高価な衣服を好きなだけ買わせ、宝石やブランド品で身を飾らせ、贅沢な食事を保証するような民生の向上を一般の朝鮮人生活者にまで広げていたとしても、若い愛人の行動を監視し、束縛し、精神の自由・行動の自由を奪っていたなら、どれ程に意味のある生活だろうか。意味のないことに異議申し立てをした場合、男は俺が稼いだたくさんのカネを「投入」し、今までのお前の贅沢な暮らしが成り立ってきたのだと自分を正当化するのと同じ構造の遠藤浩一・拓殖大学大学院教授の韓国植民地化正当の主張となっている。
日本の植民地政策、侵略戦争は対象国の国民が人間らしく生きる道を閉ざしたのである。閉ざし、悲惨な人間状態に追いやった。そこに視線を置かないまま、国と国同士が双方共に国家益(=国益)のみに価値を置き、個人補償の請求権放棄だといった個人に関わる価値・権利を無視して条約を締結した。
昨8月10日に菅首相が日韓併合からちょうど100年目の節目に当たるとして、改めて韓国に対する植民地支配を謝罪し、同時に今後の100年を見据えて未来志向の日韓関係の構築を訴える談話を発表した。
これは1995年の「村山談話」をほぼ踏襲する内容だということだが、「村山談話」がアジア全体に対する謝罪であるのに対して、日韓併合から100年目ということだから、当然のこととして菅首相談話は韓国及び韓国民のみを対象としている。
但し、この談話に賛成する意見がある一方、韓国政府が1965(昭和40)年締結の日韓基本条約で請求権を放棄した日本の植民地を巡る個人補償問題を蒸し返す恐れがあるとして与党民主党内だけではなく、自民党内にも反対する意見がある。
その賛否の意見を《【日韓併合首相談話】閣僚懇でも異論「相談あってしかるべきだった」 評価割れる》(MSN産経/2010.8.10 12:46)から取り上げてみる。
玄葉光一郎行政刷新担当相(民主党政調会長)(閣僚懇談会)「与党、民主党の中にはさまざまな意見がある。早い段階でより詳細な相談が(党側に)あってしかるべきではなかったか。すべての段取りができあがって、固まってこういうふうに言われても、大きな変更はできない」
同(記者会見)「(談話に)積極的かそうでないかと聞かれれば、積極的ではない」
原口一博総務相「国際法上、新たな義務を日本に課すものではない。もしそこを一歩でも踏み出しているのであれば、私は体を張ってそれを阻止しなければと考えていた」
「新たな義務」とは断るまでもなく個人補償の義務を言う。
前原誠司国土交通相「『100年に一度』は今年しかない。菅首相がイニシアチブを発揮し、このような談話をまとめたことは、時宜にかなってよかったと思う」
北沢俊美防衛相「未来志向という観点で、よく練られた談話だ」――
自民党では安倍晋三、山本一太、その他大勢といったところだが、安倍元首相の反対の弁を、《安倍氏、首相談話を批判 韓併合100年で》(47NEWS/2010/08/10 14:16 【共同通信】)から取り上げてみる。
安倍「歴史の評価は歴史家に任せるべきで、政府が声明を出すことには慎重であるべきだ」
相変わらず馬鹿なことを言っている。歴史家が常に正しい歴史の評価をするとは限らない。歴史家によっても、歴史の解釈が異なる場合もある。にも関わらず、「歴史の評価は歴史家に任せるべき」だとするのは歴史家を絶対的存在とすることになる。どんなに間違った評価・解釈であっても、受入れなければならなくなるからだ。北朝鮮の金正日がどんなに間違った独裁者であっても、北朝鮮国民は受入れなければならないように。
安倍晋三が「歴史の評価は歴史家に任せ」たいのは、評価の違いがあることを狙って言っている狡猾さからではないだろうか。自分たちの歴史認識に都合のいい歴史の評価をする歴史家も存在するから、例え都合の悪い評価・解釈する歴史家が存在したとしても、黒白を明確に決着づけることはできない。結果、半分は自分たちは正しいとすることができる。
大体が自分自身が歴史家でもないのに、A級戦犯を「日本の国内法で裁かれていないのだから、犯罪人だとか犯罪人でないだとか言うのは適当ではない」とか、A級戦犯の戦争責任について「具体的に断定することは適当でない」 などと歴史家顔負けのA級戦犯を無罪としたい衝動露な歴史評価を大展開している。
安倍晋三は談話発表が持ち上がった背景と菅首相が取り上げた文化財の韓国への引渡しに関して次のように言っている。
安倍「仙谷由人官房長官が自分の思いを満たすために出した」
安倍「さまざまな個別補償に飛び火するのは間違いない。禍根を残す」――
「個別補償」とは各国従軍慰安婦や強制連行者に対する個人補償を指す。
「仙谷由人官房長官が自分の思いを満たすために出した」とは、7月7日の日本外国特派員協会での講演と講演後の記者会見の発言を根拠としている。
《官房長官、戦後補償に前向き 韓基本条約は無視》(MSN産経/2010.7.7 20:46)
7月7日の日本外国特派員協会の講演で日韓、日中間の戦後処理問題について問われた際の発言。
仙谷「1つずつ、あるいは全体的にも、改めてどこかで決着というか日本のポジションを明らかにすべきと思う。(但し)この問題は原理的に正しすぎれば、かえって逆の政治バネが働く。もう少し成熟しなければいけない。大胆な提起ができる状況にはないと私は判断している」――
「原理的に正しすぎれば、かえって逆の政治バネが働く」以下の発言について、記事は、〈幅広い国民的合意が必要だとの認識も示した。〉としているが、個人補償を日本の裁判で訴えている元韓国従軍慰安婦等の主張を正当と看做す自分自身を含めた政治的立場の意見を取り入れた場合、このことに反対の政治的立場からの激しい反撥が起こることの予想であり、そのことに対して、「もう少し成熟しなければいけない」と言っているが、安倍晋三がその代表者の一人だが、ホンネのところでは日本の戦争を日本の国家・日本民族を絶対としたいばっかりに、優越民族としたいばっかりに、それを否定することになる侵略戦争と認めていない「未成熟者」が政治家の中にもゴロゴロいるのだから、成熟への期待、〈幅広い国民的合意〉の可能性は限りなくゼロに違いない。
講演後の記者会見――
仙谷「法律的に正当性があると言って、それだけで物事は済むのか。(日韓関係の)改善方向に向けて政治的な方針を作り、判断をしなければいけないという案件もあるのではないかという話もある」
記事はこの発言を、〈政府として新たに個人補償を検討していく考えを示した。〉こととしている。
いわば1965(昭和40)年締結の日韓基本条約が個人補償の請求権を放棄していることの法律的正当性を以ってすべてを完結させた場合、日本の戦争が起因となって戦後解決されずに引きずってきた日韓間に突き刺さっているトゲを突き刺さったままに放置することとなりかねず、真の日韓関係の改善に向かわない。トゲを抜く政治的な判断がそろそろ必要ではないのかの言いであろう。
仙谷官房長官が具体的にはどういった政治的方策を考えているのか、《官房長官、見え始めた「超リベラル」 戦後補償の狙いは慰安婦賠償か》(MSN産経//2010.7.8 23:04)が「狙い」について書いている。
記事は冒頭、〈菅直人内閣の要である仙谷由人官房長官が、新たな戦後個人補償の検討を表明するなど「超リベラル」な志向を見せ始めた。東大在学中は全共闘で活動し、社会党時代は田辺誠、土井たか子両委員長と親密だった仙谷氏。民主党に移った後はリベラル色を極力封印し、現実路線を標榜(ひょうぼう)してきたが、本質は変わらないようだ。〉と、「阿比留瑠比」のネーム入りで解説している。
仙谷官房長官の言動に対する〈戦後補償問題に詳しい現代史家の秦郁彦〉の指摘。
秦「結局、元慰安婦への賠償法案がやりたいんじゃないか。民主党がやろうとした外国人地方参政権、夫婦別姓、人権侵害救済機関の3つは棚ざらしだ。むしろ争点になっていない慰安婦の件の方が危ない…」
そして次のように解説している。
〈仙谷氏は個人補償の対象をあえて明確にしなかったが、日本外国特派員協会の講演でフィリピンや韓国の慰安婦補償請求訴訟などに深くかかわってきた高木健一弁護士を「友人」として挙げており、狙いは元慰安婦に国が謝罪と金銭支給を行う「戦時性的強制被害者問題の解決促進法案」にあるとみられる。民主党は平成20年まで9年間法案を常に国会提出しており、仙谷氏も主導した一人だ。
日韓両国の個人補償請求問題は1965(昭和40)年の日韓基本条約とそれに伴う協定で「完全かつ最終的に」解決されている。にもかかわらず仙谷氏は「当時の韓国は軍政下だった。法律的に正当性があると言ってそれだけでいいのか」と述べ、「政府見解」に異を唱えた。〉
さらにこう付け加えている。
〈菅内閣は「北朝鮮との国交正常化を追求する」としているが、仙谷氏の解釈に従えば、軍事をすべてに優先させる「先軍政治」を掲げる北朝鮮と国交正常化しても無効ということになるのではないか。〉――
当然「無効」となる。独裁体制は独裁者と独裁権力のみの権利・利益を追求するゆえに、個人の権利・利益は独裁者と独裁権力のみの権利・利益追求の阻害要件として立ちはだかることになることから、個人の権利・利益の否定を出発点とする構造にある。
日朝国交正常化交渉の成立が金正日独裁体制の維持・発展にのみ利益する国交正常化条約となるのは独裁体制を取っている以上自明の理で、北朝鮮国民の福祉・生活に利益しない条約であるなら、金正日独裁体制が持続する間は問題は起きないだろうが、民主化されて北朝鮮国民が人権意識に目覚め、個人の権利を主張するようになった場合、独裁体制は個人の権利の否定の上に成り立っていることから、独裁体制と結んだ条約は個人の権利と対立する内容を含んでいる可能性が高く、個人の権利を成り立たせるためには、条約そのものを無効とする以外に方法はないだろう。
このことを前以て予測して個人の権利として個人補償の項目を盛り込むべく図ったとしても、金正日は自身の利益に反するゆえに受け付けないか、受け付けたとしても、外国からの援助米を義務づけられたとおりに国民に配給せずに軍に横流しするように自身の独裁体制を維持する資金に回すに違いない。国民が飢え、餓死したとしても大量破壊兵器開発、核兵器開発を進める程にも個人を無視しているのだから。すべては独裁体制維持に国家のエネルギーの大部分を費やしているのである。
このことを言い換えるなら、独裁体制下の国家に於いては国民は個人の権利について泣き寝入りの状態に置かれる。
日韓基本条約が締結された1965年の韓国は朴正煕大統領による軍事独裁体制下にあった。その任期は1963年10月15日から暗殺されるまでの1979年10月26日まで続いた。1980年8月27日にその跡を継いだ全斗煥も軍事独裁体制を敷き、1988年2月24日まで任に就いている。
戦後大韓民国が成立して初代大統領となった李承晩政権も独裁体制を敷き、国民を弾圧した。
独裁国家に於いては戦前の日本のように国民は国家、独裁体制に奉仕する対象とされ、個人の権利の否定の上に国家と国民との関係が成立せしめられる。
そのような個人の権利否定の朴正煕軍事独裁体制下の1965年に日韓基本条約は締結され、個人補償の請求権が放棄された。個人の権利否定の色彩を伴った個人補償請求権の放棄だったことは疑いようがない。そもそもからして独裁体制は独裁権力に対する視線は有していても、個人の権利に対する視線を有してはいない。
だが、韓国は民主化を果たした。独裁体制の終焉は個人の権利の目覚めを伴う。それが各種個人補償と日本政府の謝罪を求める裁判となって現れた。
自民党政権は個人の権利に目を向けない軍事独裁政権と国交正常化交渉を行い、日韓基本条約を締結した。個人の権利を考慮しない場所に立った条約であるという点に於いて、現時点に於いてその条約を正当化し得るだろうか。
条約締結当時も韓国、日本双方の国で条約反対の主張、反対運動が起きているのである。
当時の韓国政府が国と国との約束で個人補償の請求権を放棄している以上、今の韓国政権が個人補償をすればいいと言うだろうが、加害者はあくまでも日本である。この事実は消えない。個人補償を果たさないままの加害事実とするのか、個人補償を果たした加害事実とするのか、どちらかの選択の問題ではないだろうか。
いわば誠意の問題として撥ね返ってきている。
昨8月10日に閣議決定した内閣総理大臣談話の冒頭で菅首相は次のように言っている。
菅首相「本年は、日韓関係にとって大きな節目の年です。ちょうど百年前の八月、日韓併合条約が締結され、以後三十六年に及ぶ植民地支配が始まりました。三・一独立運動などの激しい抵抗にも示されたとおり、政治的・軍事的背景の下、当時の韓国の人々は、その意に反して行われた植民地支配によって、国と文化を奪われ、民族の誇りを深く傷付けられました」(首相官邸HPから)
そして次のように続けている。
「私は、歴史に対して誠実に向き合いたいと思います」
「当時の韓国の人々」は受け身の主語として扱われ、「国と文化を奪われ、民族の誇りを深く傷付けられました」と被害を受けたことのみの言及となっている。
加害者の立場にありながら、能動的主語とすべき日本は背後に隠して、日本が韓国の「国と文化を奪」い、「民族の誇りを深く傷付け」た表の主語とはしていない。していない分、腰を引いた謝罪となっている。いわば強い謝罪の意志を欠いた総理大臣談話となっている。
にも関わらず、「歴史に対して誠実に向き合いたいと思います」と言っている。このことは「日本が統治していた期間に朝鮮総督府を経由してもたらされ、日本政府が保管している朝鮮王朝儀軌等の朝鮮半島由来の貴重な図書」を「お渡し」するのであって、決して返還するとしていないところにも現れている。
脳梗塞で倒れた小渕首相に代って最初の首班指名を国会ではなく密室で当時の自身も含めた自民党5人組のうち、4人から受けて、2000年4月5日から2001年4月26日まで長きに亘って約1年間総理大臣を務めた、大和民族代表、知性溢れる森喜朗元首相の長男森祐喜容疑者、県会議員にして45歳の大の大人が飲酒運転してコンビニに突っ込み、警察に逮捕された。
飲酒運転車でのコンビニ突入敢行は2010年8月7日午前10時20分頃(この日を日本の祝日にしてもいいくらいだ)。同7日夕方には県会議員辞職願を石川県議会に提出し、遺留されることなく直ちに(?)受理された。一日経たずしてのこの出処進退は素早過ぎないだろうか。
勇気あるコンビニ突入の一報は日本の政界に目にも眩しく燦然と輝かしめている経歴の持主たる父親に直ちに伝えられたに違いない。その輝かしい経歴によって日本の各界、各方面に日本国家に貢献する一方の隠然たる影響力を持つ元首相である。確かに飲酒事故という世間の目に触れてしまった不祥事ではあっても、元首相にしたら、国政と地方政治の違いはあったとしても、同じ政治の道を歩む自分の息子、長男である、父親の世の中を良くすることに関しては力を発揮する隠然たる影響力を以ってして完璧に揉み消すことまではできなくても、本人に記者会見を開かせて直立不動で頭を深々と下げさせる日本特有の儀式で平謝りに謝らせて、何とか県会議員の身分にとどませることのできる何らかの善後策を講じてもよさそうなものだが、8月7日午前10時20分頃コンビニ突入後、警察は〈現場が公道上でなかったため現行犯逮捕せず、署に同行を求めて午後5時過ぎ逮捕〉(《酒気帯び容疑で森県議逮捕》 asahi.com/2010年08月09日)、県会議員辞職願提出は弁護士等の代理人を通じてなのだろうが、午後5時過ぎ前なのか後なのか、いずれにしても同じ日の夕方提出、この間の6時間から8時間という時間は難しい問題であるだけに、警察は勿論、県議会議長、県議会の有力者、後援会有力者、市長を始め、市の有力者等々各方面に働きかけなければならなかったろうから、議員の身分にとどまる方向への善後策を講じるに十分過ぎる時間とは決して言えないはずだ。
「日刊スポーツ」記事に、翌8日に釈放、任意の取り調べに切り替えたと出ているが、辞職願提出はそれからでも遅くはなかったように思える。
人身事故まで起こしたわけではないのに、どう見ても早々に議員辞職へと出処進退の結論を持っていったように見えて仕方がない。いわば簡単にサジを投げてしまった印象を受ける。
いずれにしても、日本の輝ける政治家、「日本は神の国」だとご託宣した父親の森喜朗も関わった議員辞職願提出だったことは間違いないはずだ。
問題は「日本は神の国」の意向で長男に承諾させた議員辞職願の提出だったのか、父親の血を受け継いで輝ける政治家魂を持った長男の意向が先にあった議員辞職願提出であり、父親が後付で承諾したことなのかである。
後者なら、美しい日本の伝統として自らの血ともしている父親の情として、県会議員の職にとどまることのできる方向への善後策を講じる余地が生じる。まあ、待て、早まるな。俺がどうにかできないか、各方面に当たってみる。俺に不可能はない。政権交代阻止だけは不可能だったが、とばかりに。
息子が議員辞職を早々に決めて、父親が、そう、それがいいなと即応じたとしたら、息子にもはや救いようのなさを見ていたことになる。
もしも前者の父親の意向で長男に承諾させた議員辞職なら、「日本は神の国」森喜朗にとって辞職が最大の善後策、最大の善処だった疑いが出てくる。辞職なら、善後策を講じるも何もなかったろうから、飲酒運転コンビニ突入敢行から議員辞職願提出まで時間がかからなかったことも頷ける。
息子が議員辞職を早々に決めて、父親が即応じたケースであったとしても、辞職が最大の善後策、最大の善処だった疑いに変わりはない。
このことを証拠立てるマスコミ記事がいくつかある。 上記「asahi.com」――
同僚県議一人「未明まで酒を飲んで県連の会合を欠席することも目立ち、酒にだらしないことを心配していた」
普段の素行の悪さ、責任感の欠如が長男の人物評価を落としめている様子を窺うことができる。
《森元首相長男、逮捕前2日連続公務欠席》 (日刊スポーツ/2010年8月9日8時35分)――
〈森元県議が事故前日と前々日、「体調不良」を理由に公務などを欠席していたことが8日、分かった。(中略)県議会関係者によると森元県議は5日、自身が委員長を務める県議会建設委員会による県内の地域視察を、直前に「体調が悪い」という理由で欠席。6日にも加賀地区開発促進協議会メンバーとして上京し、省庁などへの要望活動が予定されていたが、同様の理由で参加しなかった。6日には地元で自民党関連の会合があったが、これも欠席したという。
体調不良で公務を欠席した翌日午前に、飲酒運転をしていた疑いが浮上した格好。県議会関係者は「酒くさい状態で議会に来たこともあったと聞く。最近では、地元の会合などに遅刻したり、ドタキャンしたこともあったようだ」と話した。〉――
上記「asahi.com」記事、「未明まで酒を飲んで県連の会合を欠席することも目立ち、酒にだらしないことを心配していた」を裏付ける記事内容となっている。
《森元首相長男、遅刻・早退・居眠りで批判も》 (YOMIURI ONLINE/2010年8月8日19時56分)――
〈自民党県連によると、森容疑者は逮捕前日の6日夜、谷本知事や岡田直樹参院議員が参加した自民党県連の懇親会を「先約がある」と欠席していた。議員としての公務でも、県議会事務局によると、5日に委員長を務める県議会建設委員会の金沢、加賀地区の地域視察を、6日には加賀地区開発促進協議会の一員としての経産省や国交省への要望活動を、それぞれ急きょ欠席した。以前から、議会の遅刻や早退、居眠りが見られ、議員の中からも「議会を軽視している」と批判の声が上がっていた。〉
後援会前回選挙対策委員長又村一夫・JA根上組合長「事件をテレビで知り、びっくりしている。(森容疑者は)最近は酒を控えていると言っていた。県議なのだから、立ち居振る舞いには気をつけてと日頃から言っていたのに。これからだと思っていたので残念」
前々から酒が問題となっていた。「最近は酒を控えている」は事実ではなかった。周囲の小言・注意・心配に対する言い逃れに過ぎなかったことが発言から窺うことができる。いわば酒に関しては常習犯だった。そして議会を遅刻、欠席、早退、居眠りを繰返す素行不良を犯す。
この素行の悪さは飲酒癖や責任感の欠如だけではなく、他の問題を抱えているとする情報がインターネット上に流れている。
《論談:新総理の長男・祐喜の愛人の告発テープ》――
冒頭は次のように書いてある。〈森喜朗 新総理の長男・祐喜 に愛人関係清算の慰謝料 3000万円を要求した女は、六本木の高級クラブ 「セリーネ」 の元ホステス 「I」。 源氏名は 「M」。「I」 が告発した独白テープ <注・テープ起こしをしたもの>、A4版6枚流出。 アンチ森派、コピーをとって、議員会館周辺にバラ撒く。
以下、その全文。 なお、文中アルファベットは編集部の判断でイニシャルにしました。〉
「新総理」と書いてあるから、森喜朗「日本は神の国」が総理大臣に就任した頃のことなのが分かる。
そして中に次のような一文がある。
〈ミルクセーキに付いてきたストローを部屋についているソーイングセットの鋏かなんかを使って、3センチくらいに切って、片方の鼻に差し込んで、もう片方の鼻を塞いで、粉を吸い込んでいたわけ。 初め黙ってみてたら、私の歯茎にそのコナを塗ってくれた。 「チョットだけすってごらん」 と言われて、「でも、私はそういうのは使ったことが一度もないから」 って断ったんだけど、でも、そういうものだとハッキリわからなかったから、よく睡眠薬じゃないけど、ハルシオンとか害のないものもあるじゃない。 別にそんなに害のないものだと思って。 彼は 「最初はチョットだけのほうがいいよ」 って言っていた。〉――
事実無根の情報なのか、事実有根の情報なのかは分からないが、愛人と共に覚醒剤を利用しているシーンとなっている。
森元首相は偉大なる父親にして、この偉大なる長男ありの、県会議員にしては珍しい、多分県議会議員としては本邦初公開となるコンビニ突入敢行事件を受けて、長男の県議会議員辞職は当然だとした上で謝罪している。
《「慚愧に堪えない」長男逮捕で森元首相陳謝》 (日テレNEWS24/2010年8月8日 8:35)
森元首相「このような不祥事を起こし、誠に慚愧(ざんき)に堪えません」
45歳の大の大人が起こした事故である。親の責任を離れて一個の人格を有した者としての責任に帰する問題ではあるが、それでも子どもとの触れ合いを通した親のかつての教育に対する成果、薫陶等が問題となる。
特に薫陶に関して、その父親たるや、文部大臣、通商産業大臣、建設大臣を歴任し、2000年4月5日から2001年4月26日まで長きに亘って約1年間総理大臣まで務め、「日本は神の国」を常に体現している偉大なる存在であることに照応した薫陶を年齢に関係なく与えて然るべきだが、薫陶の対象に関しては最も責任を持たなければならない長男に関しては何ら効果を果たすことができなかった。その責任である。
自民党の文教族のドンであり、幼保育一元化反対の雄でもあるのだから、当然身につけていたであろう、幼児から小中高大までの教育に関する一家言、深い造詣が自らの教育観で以って周囲を薫陶する力もを高かめていたはずである。
だが、このことに反して長男の人格形成に何ら薫陶を与えることができなかった。
世間的に砕けた言い方をするなら、どういう育て方をしてきたんだ、親はどう教育してきたのかということである。
そのような責任の問いが発せられることになることは当然予想できたことで、父親にしたら世界に燦然と光を放つ自らの輝かしい経歴の手前、長男の出処進退よりも即座に解決しなければならない問題となる。
いわば長男の名誉を守るか、自らの名誉を守るか、その優先順位であるが、経歴の輝かしさに関しては月とスッポンであるゆえに長男の名誉を守れば自らの名誉を犠牲にすることになり、自らの名誉を守るなら、例え長男の名誉を犠牲にすることになっても、元々長男の名誉は自身の名誉と比較して消えかかったローソクの灯程の微々たる輝きしかなく、損得ははっきりとしている。
当然のこととして、その損得勘定には生贄の羊の論理が否応もなしに介在してくる。
この論理が向かわせることとなった、親の責任にまで及ぶのを前以て防御し、収束を図る最大の善後策、最大の善処がコンビニ突入敢行から一日も置かない辞職願提出、即座の受理ではなかったかということである。
この勘繰りが当たっているとしたら、既に触れたように45歳の県会議員辞職は長男にとっての最大の善後策、最大の善処ではなく、森喜朗「日本は神の国」に親の責任が及ばないよう収束を図る長男を生贄の羊とした自身にとっての最大の善後策、最大の善処であり、それが一日も経たないうちの辞職願提出という緊急避難措置ということになるが、どんなものだろうか。
どうでもいいことかな?
だとしても、野次馬根性たっぷりに出来上がっているからなのか、こういった記事を書いているときが最も楽しい。
5月16日エントリーのブログ、《テレビで放送していた小学生の工場見学に疑問を感じたこと》で、ゴミ焼却場と川でゴミ回収船がゴミを回収する現場を見学していた小学生が工場側の説明を一生懸命にノートに書き記していたが、この行為は相手が発する言葉を耳に把えて、その言葉をそのまま文字の形に変えてノートに書き止めていく行為だが、他人の言葉を例え逐一機械的になぞって文字に変えていったとしても、その過程で頭の中で相手の言葉に自分自身の考え・思考を介在・濾過させて、例え他人の言葉に大部分基づいていたとしても、曲りなりに自分の言葉とする思考作用を伴わせるか、あるいは工場見学後にノートに書きとめた文字に変えた相手の言葉を読み直して、それを前者と同様に自分自身の考え・思考を介在・濾過させて自分なりの言葉とする思考作用を存在させるかが問題となる。
もしそういった思考作用を介在させないノートへの書き写しは相手が発する言葉を発したなりに可能な限り、いわば聞き漏らすまい、書き漏らすまいとして逐一なぞって文字に変えて、それを以って完結形とする暗記教育形式の機械的手続きで終わる。
暗記教育形式の機械的手続きで終っていることは、大人の欠如能力の反映としてあるに過ぎないのだが、子どもたちの考える力、あるいは思考能力の欠如、言語能力の欠如が広く言われている状況そのものが証拠立てている。
他人の言葉を目、耳を通して自身の中に言葉として、あるいはノートに文字として受け止めるとき、そこに自身の思考作用を少しずつでも介在させていたなら、考える力、あるいは思考能力、言語能力は同じく少しずつ育っていくはずだ。
尤も日本の教育現場に何ら関係のない者があれこれ言うよりも、7月11日日曜日のフジテレビ「新報道2001」が教育問題をテーマに論じていたが、出演していた現役教師歴3年を越える乙武洋匡自身も、日本の教育は暗記教育だと言っている。
この番組については近いうちにブログに取り上げる予定でいる。
乙武「小学校で教えていて、これじゃあ子どもたちに考える力がついていないなと思ったのは、兎に角テストというのは教えたことを暗記して、それをテストのときに記憶から取り出してくるっていう作業ばっかりなんですね。ですから自分で考えるということが授業の中で普段の学習の中でなかなか行われていない」
もう20年前、30年前から(ちょっと大袈裟かな?)自作HP[市民ひとりひとり」で言ってきたことである。
教師が言葉や板書によって発信する知識・情報と生徒が受け止める教師からの知識・情報の間に考えるプロセスを置いていない、省略しているとの指摘である。ノートに文字に置き換えて受け止める場合の作業がノートに逐一洩らさず書き止める機械的作業によって成り立たっているとの指摘でもある。
それで、前記ブログ、《テレビで放送していた小学生の工場見学に疑問を感じたこと》で、あらゆる見学はノートの持ち込みを禁止し、説明を聞くだけとすることで、目と耳のみで見学したことを把握させ、記憶させる方法を提案した。
そして次のように書いた。〈筆記が禁止となった場合、教師がどんな見学だったのか感想文を書かせるにしても、生徒を名指しして説明させるにしても、自身の説明は見学時の説明の一言一句を、あるいは説明を受けた光景の一コマ一コマを正確に記憶しているはずはない目の記憶と耳の記憶を頼りに行わなければならないために、見学した内容の再構築には言葉をつなぎ、説明を組み立てる考えることをしなければならない。思考の取り入れである。否応もなしに思考のプロセスを踏むことになる。〉と。
このノートを取らせない方法を教師が言葉か板書によって知識・情報を伝える場合に限って、せめて小学校の間は普通の授業でも取り入れたらどうだろうか。否応もなしに目と耳の記憶に頼らざるを得なくなる。少なくとも勉強しようとする生徒は集中力を高めざるを得なくなる。
さらに教師の言葉通り・説明通りに暗記することが不可能となって、教師の質問に対して答える場合も、復習する場合も、一纏まりの知識・情報とするためには自分で考え、自身の言葉で補って完成させなければならなくなる。
そのような訓練の積み重ねが、欠如していると広く言われている考える力、思考能力、言語能力を少しずつ養う、難しいが、より確かな方法とならないだろうか。
柔道金メダリストで、今回の参議院比例区で民主党から立候補、当選した谷亮子が、議員経験がないまま、民主党スポーツ議員連盟会長に就任した。《谷亮子氏の会長就任を了承 民主スポーツ議連、異論も》(47NEWS/2010/08/06 13:06 【共同通信】)
前会長の田名部匡省(たなぶ・まさみ)氏が参院議員を引退したことに伴う人事だそうだ。
賛成議員「議連の会長には新たなインパクトも必要。谷議員は柔道の実体験や世界的名声もあり、これ以上の人材はいない」
反対議員「お飾り会長とやゆされるような人事は納得できない」
谷亮子「大変身の引き締まる思い。各種スポーツの環境整備の充実を図り、スポーツ社会を明るいものへと導きたい」
まあ、紋切り型の抱負だが、柔道と国会議員と、いわゆる二足のワラジを履くだけではなく、スポーツ議連の会長という新たな負担を引き受けることを自分から決めたということなのだろうから、意欲は満々と見える。
だからと言って、スポーツ議連会長として才能を発揮する保証とはならない。政権を担当して日本を変えようと意欲を見せたものの、指導力がないとされて、意欲に反して1年前後で消えていった総理大臣をここ何人か見ている。
但し、現在のところは未知数である。政治家としての経験がゼロだから、国会議員としてやっていけるはずがないと今から断言できるはずでもない。優れた才能を発揮するかもしれないし、反対議員が言っていたように単なるお飾り、あるいは人気取り、広告塔で終わるかもしれない。
私はスポーツで優れた成績を上げ、名を成す選手は優れた頭脳の持主だという偏見かもしれない考えを持っている。優れた成績を上げるには才能に恵まれているだけでは特別な例以外は難しく、年齢、日々変わる体調、体調から受ける精神状態、試合中の精神状態、例えハンマー投げのように一人で戦う個人競技であっても、共に記録を争って闘う選手の成績が本人に及ぼすプレッシャーが綾(あや)なす精神状態等々の状況は才能にプラスαを付け加えもするし、マイナスαの仕打ちを与えもして、才能が常に絶対不動、あるいはオールマイティではないことを教えてくれるはずで、そのことに打ち克って初めてトータルで優れた成績を上げることができると思っている。
打ち克つためには日々の生活、練習、試合の中で経験するあらゆるケースに於いて、精神を落ち着けて体調を維持すにはどうすべきか、練習方法はどうあるべきか等、すべきこととすべきでないことを常に考え、修正すべきは修正する答を見い出す学習が否応もなしに必要となってくる。尤も、そのときはその修正が効果を収めても、別のケースでは効果がないこともあり、修正も絶対ではなく、修正に修正を加えなければならない場合も生じるが、基本は常に答を見い出していく学習の積み重ね、その姿勢が絶対不動でもオールマイティでもない才能を維持・向上させる力となり得るはずである。
この学習は日々積み重ねていくことによっては自然と習性と化す。
常に考える学習の習慣を習性として身につけた人間に、優れた成績を成果としていることが証明するように頭の悪い人間がいようはずはない。頭の悪い人間にはできな学習の習慣の習性化であろう。
習性と化したこの学習の習慣が自身が専門とするスポーツ以外の才能にも習性と化しているゆえに、少なくとも考え、答を見出すとする習性と化した姿勢で臨もうとするはずである。谷亮子の場合で言えば、柔道で優れた成績を上げていることから、学習の習慣を習性としているはずと見ることができ、柔道で発揮していた常に学んで答を見い出していこうとする学習の習慣が国会議員の仕事に対しても応用するであろうし、スポーツ議連の会長の仕事にも少なくとも応用していくはずである。
尤もプロ野球の場合、名選手、必ずしも名監督ならずという例外もある。このことは異なる才能発揮の環境となった場合の元となる学習の習慣が必ずしも効果を発揮できない場合があることを証明していて、学習の習慣をいくら習性としていても絶対でないことを教えてくれる。
抱える選手の質によって、チーム自体の能力の優劣もあるが、おおむね選手時代優秀な成績を残した選手が監督としても優れた成績を上げていることからすると、習性とした考え、答を見出していく学習の習慣が異なる才能の発揮の場面でも助けとなっていることを証明しているのではないだろうか。
才能発揮の場面で常に才能を最良の状態に修正・維持すべく考えて答を見出していく学習の習慣は決して学歴が保証する姿勢ではない。
谷亮子の国会議員としての未知数、あるいはスポーツ議連会長としての未知数は柔道選手として身につけ習性化したであろう常に考え、答を見い出していく学習の習慣を如何に応用するかにかかっているはずだ。
菅総首相が4日の参議院予算委員会で社会保障の充実を目指すため、国民に税や社会保険料の負担をある程度求めざるを得ないという認識を示したとの前書きで、「NHK」記事――《“社会保障充実へ負担も”》(10年8月4日 19時18分)が民主党の櫻井政策調査会長代理の質問とそれに対する菅首相の答弁を伝えている。
櫻井政策調査会長代理「菅総理大臣が、総理大臣として日本をどういう国にしたいのか、よくわからない。目指すべき社会像はどういうものなのか」
菅首相「負担はある程度必要だが、誰もが安心でき、活力のある社会を選ぶか、負担は小さいが、格差が大きくて、多くの人が不安に感じる社会でとどまるのか。私としては、負担はある程度必要だが、誰もが安心でき、活力ある社会を目指す方向で国民の理解を得ていきたい」――
これは自民党政権も言ってきたことで、菅首相が初めて言い出したことではない。低福祉、低負担か、中福祉、中負担か、はたまた高福祉、高負担か等々も同列にある、分かりきったことを持ち出して、さあ、どちらにするかと迫る選択の強請(きょうせい)であろう。
政治家たちが日本の財政を散々悪化させておいて、それを健全化させなければ立ち往生しかねなくなって、税金を上げて手当したい衝動から交換条件紛いに持ち出した、答えは分かっている十八番の強請である。
誰にしたって、「負担は小さいが、格差が大きくて、多くの人が不安に感じる社会でとどまる」のは真っ平ごめんに決まっている。
「負担はある程度必要だが、誰もが安心でき、活力のある社会」の方がいいに決まっている。だが、「ある程度必要だ」とする「負担」がどの程度なのかを問題とし、思い悩む生活者、国民がどれ程存在するか、菅首相にしても、前任者の総理大臣たちにしても、常に深く認識していた上で、この手の交換条件紛いの選択の強請を行ってきたのだろうか。
少なくとも菅首相が認識していなかったことはマニフェスト記者会見での不用意な消費税増税発言が先ず証明していたことであり、その発言が参議院選挙でしっぺ返しを喰らったことが何よりも証明している。
政権運営を成り立たせるために菅首相自身の節操まで奪って、前以て野党のご機嫌伺いに執心させる程のしっぺ返しである。菅首相のこのご機嫌伺いは政策上の節操まで奪う予感を既に漂わせている。
民主党枝野幹事長の選挙の結果をまだ見ない選挙中から野党との連携を持ちかけたこと自体が、野党の協力なしに政局運営が立ち行かなくなる手詰まりの前知らせ――前兆だったのかもしれない。
だが、何よりもどちらがいいのかの分かりきっていることの選択の強請にゴマカされて、菅首相の発言の内容自体の矛盾、胡散臭さに誰も気づいていないのではないだろうか。
「負担は小さいが、格差が大きくて、多くの人が不安に感じる社会でとどまるのか」と半ば威しのように言っているが、では、今の格差社会、不公平社会は負担が小さかったから生じたということになるが、果してそうだろうか。
1988年(昭和63年)の竹下内閣時に税率3%とする消費税法が成立、翌1989年(平成元年)4月1日に消費税法施行。これは「負担はある程度必要」とされたことからの消費税導入であり、この時点で国民の負担は増えた。
当然、少なくとも消費税率3%分は不景気を要因とせずに、「誰もが安心でき、活力ある社会」となっていいはずである。
不景気が例え負担を前提としたとしても、「誰もが安心でき、活力ある社会」実現の阻害要因となるなら、菅首相の国民が負担に応じた場合の約束は約束でなくなる。国の経済が不景気に陥った場合は約束できませんとはっきり断るべきだが、菅首相の場合は「強い経済」、「強い財政」、「強い社会保障」の一体的実現を訴えていて、消費税増税という国民負担をその実現に欠かせない条件としているのだから、不景気の入り込む余地はない。
竹下自民党政権にしても、日本を格差社会、不公平社会に持っていくために3%の消費税の負担を導入したわけではあるまい。
だが、消費税法が施行された1989年は1985頃から1990年頃にかけて日本に発生したバブル経済の末期に当たるが、導入当初は景気後退局面を迎えたとしても、何年か後にはバブル崩壊を手当して、「誰もが安心でき、活力ある社会」に向かっていいはずが、1990年半ばから2000年前半にかけて失われた10年の平成不況を迎えることとなって、「誰もが安心でき、活力ある社会」とはならなかった。
多分、経済を回復するためにも国の財政を改善するためにも、「負担はある程度必要だ」、そうしなければ「誰もが安心でき、活力のある社会」の実現は難しいと考えたのだろう、失われた10年後半の1997年(平成9年)4月1日に消費税率を3%から5%に引き上げる新たな負担を国民に課している。
これは村山内閣で内定していた地方消費税の導入と消費税等の税率引き上げ(4%→地方消費税を合わせて5%)を橋本内閣が実施ものだと「Wikipedia」に書いてある。
「負担はある程度必要だが、誰もが安心でき、活力のある社会を選ぶか、負担は小さいが、格差が大きくて、多くの人が不安に感じる社会でとどまるのか。私としては、負担はある程度必要だが、誰もが安心でき、活力ある社会を目指す方向で国民の理解を得ていきたい」と村山首相にしても橋本首相にしても言ったかどうかは分からないが、少なくともそういった意思に基づいて国民負担を決定したはずだ。
それでどうなったか。「誰もが安心でき、活力のある社会」が実現できたのか。実現できなくても、そういった社会に向かう予感を国民に与えることができたのだろうか。
消費税3%から5%増税による国の税収増だけではなく、日本は2002年2月から2007年10月まで「戦後最長景気」を迎えることができ、大企業が軒並み記録した戦後最高益による税収増によって国の財政に少しは余裕ができ、「誰もが安心でき、活力のある社会」に向かって少なくとも一歩前に、いやもっと控え目に見たとしても、半歩は前に進んだはずである。
だが、大企業が軒並み戦後最高益を記録した「戦後最長景気」は非正規社員を大量に雇用して賃金を抑制、正社員の賃金も伸びない、当然個人消費が伸びない、低迷した、国民に「誰もが安心でき、活力のある社会」を何ら約束することはなかった、企業のみが利益を吸い上げて独占し、労働者には利益の再配分を怠った「戦後最長景気」とは名ばかりの倒錯した景気だった。
「誰もが安心でき、活力のある社会」どころか、逆に各種格差が拡大していった。正社員と非正規社員の生活格差、収入格差、カネ(=収入)が大部分学歴を保証したことによる学歴格差、都市と地方の格差等々。
いわば「誰もが安心でき、活力のある社会」を約束するはずのこれまでの負担は何もならない負担であったばかりか、逆に多くの国民に犠牲を強いる負担となっていた。
その最大例の一つが、菅首相も6月11日の所信表明演説で、「年間3万人を超える自殺対策の分野で、様々な関係機関や社会資源を結びつけ、支え合いのネットワークから誰一人として排除されることのない社会、すなわち、『一人ひとりを包摂する社会』の実現を目指します」と理想郷を謳っているが、12年連続自殺者3万人突破の経済大国にふさわしい大記録であろう。
現在の格差社会、不公平社会は決して負担が小さかったから生じたわけではなかった。少しずつ、特に低所得層には重荷となる負担を求めてきた中で発生した格差社会、不公平社会であった。
負担の小ささが格差社会、不公平社会成立の条件となるわけではない、また負担が「誰もが安心でき、活力ある社会」を約束する条件とは必ずしもならないとなると、菅首相の発言全体が正当性ある内容とは言えなくなる。
そうであるにも関わらず、ここにきて、「負担はある程度必要だが、誰もが安心でき、活力のある社会を選ぶか」と新たに負担を求める。
この新たな負担が、「誰もが安心でき、活力のある社会」を必ずしも保証するものではないことをこれまでの経緯が証明していることを無視して。
「負担はある程度必要だが、誰もが安心でき、活力のある社会を選ぶか」と、負担に応じれば「誰もが安心でき、活力のある社会」をさも保証するかのようにバカの一つ覚えとなっているセリフをさも真理であるが如くに繰返す。
小賢しさの匂いをさえ感じる。
過去の経緯を振り返って、一筋縄ではいかない余程の覚悟、国家経営の強い危機管理意識で臨まないことには、国民の新たな負担をこれまで同様にドブに捨てることになるに違いない。
昨8月5日の参議院予算委員会の質疑応答で福島社民党党首が普天間基地移設問題を取り上げていた。例の如く「参議院インターネット審議中継」の動画から文字化した。
「国外。最低でも県外」は鳩山前首相の専売特許かと思っていたら、菅首相も共同特許の発言だったようだ。
福島瑞穂「2005年、沖縄の基地問題に関する超党派の勉強会の会長就任の際、普天間移設に関して、『不可能だ、県外、国外に移設すべきだ』と発言をしています。政治家は言葉に責任を持つべきです。このことに向かって実現すべきではないですか」
菅首相「えー、多くの方から、あー、この普天間に関して、まあ、私の、おー過去の発言を含めて、えー、ご指摘いただいております。えー、私は、あー、ま、総理に就任する時点、あるいはその少し前に5月28日のオー、日米合意に、いー、基づく、閣議、いー、決定がありまして、ま、そのときに、福島党首は、あー、それは反対するという形で、えー、政権から、ア、離脱をされたわけでありますが、私は、ア、その日米合意を踏まえた、閣議決定に、署名をし、また、総理大臣に就任してから、えー、この日米合意を、おー、全力を、おー、上げて、図っていくと、そういう姿勢を明確にしました。
ま、過去の発言について、色々言うことは控えたいと思いますが、えー、私なりの、今現在の、おー、日本の要請、あるいは、あー、アジアを巡る情勢、えー、そういったことを含めての、オ、判断であります」
「過去の発言について、色々言うことは控えたいと思います」――
過去に何を発言しても構わないということになる。何を発言しても構わなければ、過去の発言に責任を取らなくてもいいということにもなる。
好きだ、好きだと言って、好きな女にやっとのこと思いを遂げる。ところが他の女が好きになって、あれ程好きだ、好きだと言った女に別れたいと言い出す。女は「今までの好きだ、好きだは何だったのよ」と男の不実を詰る。
男「過去の発言について、色々言うことは控えたいと思います」
本人にとって、「控えた」方が無難だからだろう。菅首相にしても無難を願った自己都合の手控えに過ぎない。
「不可能だ、県外、国外に移設すべきだ」の発言は確固たる信念、最低でも確固たる考えに基づいた自身の主義・主張を形作る内容を備えていたはずだ。そういった内容を備えてもいないにも関わらず、「不可能だ、県外、国外に移設すべきだ」と言ったとしたら、根拠のない軽薄な発言と化すばかりではなく、そういった軽薄な発言をする軽薄な人間と言うことになる。
自身の主義・主張を裏打ちした発言でありながら、それを貫かず、簡単に捨てて、現在の情勢、状況を取った。現在の情勢、状況を実現不可能の障害と看做したこと以外に現在の情勢、状況に身を寄せた理由を見つけることはできない。
自身の主義・主張を貫こうとする場合、困難な戦いが必要となるが、現在の情勢、状況次第の姿勢を取る場合、戦う必要はなく、より楽な調整のみで済ますことができる。
福島「菅さんは市民派って言っています。私も市民運動の出身だと思っています。建設を強行するのではなく、民主的なプロセスを尊重することが必要じゃないんですか。反対、はっきり全会一致で出ているんですよ。その沖縄をどうして踏みにじるんですか。どうして切り捨てるんですか。自民党の手法と変わらないですよ」
沖縄県議会が7月9日、日米両政府に日米合意の共同声明を見直すよう求める意見書と決議を全会一致で可決している。
岡田外相「ま、ですから、沖縄のみなさんの理解が必要であると、いうふうに申し上げているわけでございます。勿論、それを踏みにじることは、ま、そういったことを考えているわけではありません。しかし、それでは全体の、全体としての安全保障の問題、どうなるんでしょうか。一体どうやってこの国を守っていくんでしょうか。国民の生命と財産、どう守るんでしょうか。そのことに対する答がやはりなければ、私はあまりに一方的な話ではないかと、そういうふうに思っております。
まあ、福島委員とはですね、一時期政権を共にしましたが、政権を担っていくということは、やはり重荷を背負っていくことでもあります。私はこの重荷を共に背負えなかったことは非常に残念に思っております」
福島党首は岡田外相の、「一体どうやってこの国を守っていくんでしょうか。国民の生命と財産、どう守るんでしょうか」に答えなければ、県外、もしくは国外への移設の主張は効果を失う。だが、安全保障をどうするかは大事だけどと言ったのみで、沖縄県民の反対意思を訴える従来の主張を繰返し、直接的には岡田外相の問いかけに答えなかった。
福島「安全保障をどうするかっていうのは大事なんです。でも、沖縄の人たちが、あるいはこれにどうして納得しないかと言えば、安全保障の名の元に新たな負担を、新たな基地を造ることは納得できないって言ってるんです。そこを安全保障という名の下に、やっぱり言うことを聞け、っていう形になっているじゃないですか。現に抗議するというのが出ているんですよ。・・・・・」
福島党首よりも前に「どっこいしょ 立ち上がれ日本」の片山虎之助(追及になかなか迫力があった。)を挟んで井上哲士(さとし)共産党参議院議員が質問に立っている。
井上「総理、沖縄の基地の成り立ちというものがあります。これについては、総理、どういう、この歴史について、認識をお持ちでしょうか」
菅首相「ま、沖縄は、ま、戦後長く、うー、米軍の、施政権の元に、あって、えー、そういった中で、えー、戦後を、おー、の、ま、期にまさに地上戦が戦われ、その中で、えー、米軍によって、えー、新たな基地が、ア、沖縄の中に建設をされたと、えー、そして日本に、復帰を――、したのちに、於いて、え――・・・、ま、沖縄以外の地域の、米軍基地、の、エー、返還に比べて、えー、ある意味、え――・・・・、あまり、いー、進むことができない中で、多くの基地が、今日も、沖縄に、えー、あり、それが、ある意味での過大な、沖縄のみなさんへの、オー、負担となっていると。そのように認識をいたしております」
これだけのことを言うのに、次の言葉をスムーズに出すことができず、「えー」、「おー」、「あー」等々、呻かなければならない。この発言を聞いて、沖縄の、本人が言っている「過大な負担」を言葉通りに感じ取ることができた者はどれくらいいただろうか。
「えー」、「おー」、「あー」と呻きながら、記憶にある歴史をなぞりつつやっと思い出したといったところで、自身の心底からの認識となっていないことの証明以外の何ものでもない言葉の一連となっている。
自身の出自を「普通のサラリーマンの息子」だと語るときには言葉は滔々と流れ出す。血肉と化した自身の認識となっているからだ。自慢話は言葉に困ることはない。
心にある認識ではないにも関わらず、「沖縄の過大な負担」を言う。
心にある認識ではないことは一旦は自らの主義・主張とした、「県外、国外に移設すべきだ」を現在の情勢、状況に身を任せて撤回したことからも証明できる。
撤回しないことよって、沖縄への認識は血肉化していく。
1945年(昭和20)4月1日から6月23日までの沖縄戦のたった約3カ月の間に島民約50万人の内10万人以上が犠牲になった。日本軍が住民を守らなかったことが非戦闘員である住民の犠牲をこれ程にまで強いたと言われている。そして戦後は1972年(昭和47)5月15日に日本に施政権が返還されるまでアメリカの占領、及び施政権下に置かれ、現在も全国土の0.6%しかない土地に在日米軍基地の75%が集中。
沖縄戦開始から現在までの、さらにこれからも続く沖縄及び沖縄県民の負担の総量は、気の遠くなるような、不公平なまでの膨大な量になっていると言えないだろうか。
にも関わらず、沖縄の膨大な負担の総量を横に置いたまま、安全保障の観点からも抑止力の観点からも沖縄に基地を置くことは必要だとの前提で、菅首相は口先だけで、「それがある意味での過大な沖縄のみなさんへの負担となっていると。そのように認識をいたしております」と、「過去の発言について、色々言うことは控え」て言い、岡田外相は「一体どうやってこの国を守っていくんでしょうか。国民の生命と財産、どう守るんでしょうか」と、沖縄により多くの負担を負わせようとする。
軍事的な安全保障の観点からの「国民の生命と財産を守る」は、当然のことながら、「生命と財産を守」られる受益者は「国民」自身である。
国民自身が軍事的安全保障の面で「生命と財産を守」られる受益者の立場にあるなら、当然、受益に応じた軍事的安全保障の負担を負う義務を有するはずである。
だが、この点に於いて、二つの種類の国民が存在する。
一つは沖縄県民。全国土の僅か0.6%の沖縄の土地に在日米軍基地の75%が集中しているという軍事的安全保障上の偏った過大な負担のみならず、それと併せた戦前から現在にかけての、そして将来に亘る時間系列の気の遠くなるような膨大な負担を負い、これからも負わされようとしている。
もう一つの国民とは今更言うまでもなく本土の国民である。
果して本土は自分たちの「生命と財産を守る」にふさわしい負担を担ってきただろうか。偏った過大な負担を沖縄及び沖縄県民が背負うに任せて、あるいはそのことに慣れてしまって、無頓着ではなかったろうか。
「国民の生命と財産を守る」軍事的安全保障に関して、守られる対象の受益者として国民一人ひとりが軍事的安全保障体制を可能な限りより公平に負担を負うべく義務意識を持つよう、民主的手段を以って働きかけ、その方向に持っていく責任は政府にある。
「国民の生命と財産を守る」軍事的安全保障に関して、守られる対象の受益者として国民一人ひとりが可能な限りより公平に負担を負うことができる軍事的安全保障体制を構築する責任にしても政府に帰す。
国民自らの生命と財産が守られると言うのに、守るための負担を国民の誰かに過大に押し付けるのは間違っていると言うことである。と同時に、守るための負担を国民の誰かに過大に押し付けたままの体制を放置しておく軍事的安全保障政策は政府の不作為、無責任に当たると言うことである。
昨日NHKテレビで参議院予算委員会の中継をたまたま視ていたら、たまたまと言うのは最近熱心に国会中継を視ることは殆んどなくなったからだが、山本一太自民党議員が朝鮮学校に対する高校の無償化問題を取り上げていた。その追及を終えて、金賢姫来日問題に移って暫くして昼の休憩、そこでNHKの昼のニュースを視ながら私も昼食を食べて、それから昼寝の休憩としゃれ込む。
今朝、昨夕HP「参議院インターネット審議中継」/からダウンロードしておいた動画を開いて文字化。山本一太の追及の内容とその対象化反対姿勢にも疲れたし、川端文科省の答弁の仕方にも疲れた。文字化にも疲れた。但し朝鮮高等学校無償化対象除外は私自身は反対であるから、疲れっ放しというわけにはいかなかった。
山本一太は中井拉致担当相に金賢姫来日の件で追及の予定だったようだが、朝刊記事を見て、急遽質問内容を新たに頭に加え、川端達夫文科省に答弁を求めたようにも見える。
議論を進めていく中で朝日新聞の記事だとわかった。「asahi.com」から参考引用し、予め大体の内容を紹介したいと思う。
《朝鮮学校も無償化へ調整 文科省方針、政権内になお異論》(asahi.com/2010年8月4日3時32分)
記事の言葉を殆んど使って説明すると、今年度から開始の「高校無償化」制度をめぐり文科省が教育の専門家による会議を設置して朝鮮学校に対する制度適用の可否を議論してきたが、「日本の高校に類する教育をしており、区別することなく助成すべきだ」との判断を固め、全国の朝鮮学校の除外措置を解除する方向で最終調整に入ったという内容。
除外解除措置となると、具体的には全国に10校ある朝鮮学校の高校段階(高級学校)の生徒約1900人が適用対象、4月に遡って私立高生と同じく年約12万円、低所得層は倍の約24万円を上限に助成を受けることになる。
〈ただし、朝鮮学校への適用は、中井洽・拉致問題担当相の反対論などでいったん見送られた経緯がある。今回も首相官邸には「政府全体でどう判断するかは別問題」と党内情勢を見極めた上で最終判断すべきだとの声が上がっている。〉と、記事題名で示した通りに〈政権内になお異論〉があることを伝えている。
反対論を受けて4月時点での適用は見送っ際、〈政務三役が「無償化は純粋に教育制度として考えるべきで、朝鮮学校の教育内容を検証して改めて判断する」として5月に専門家による会議を設置。〉、〈会議は委員名や日程などすべてが非公開で進められているが、関係者によると、事務局の文科省職員がすべての朝鮮学校を訪ね、カリキュラムや教科書などに関する資料の提供を受けた。授業風景や施設などもビデオで撮影し、検証材料にしたという。
会議では「朝鮮学校は社会に向けてさらに情報をオープンにすべきだ」との意見が出たといい、文科省は制度適用に合わせ、カリキュラムや財務情報、学校法人の役員名など一般の高校並みの情報開示を求める方向で検討している。仮に今回も適用方針に異論が出た場合は、文科省の政務三役は「専門家が検証した結論だ」として反論するとみられる。(青池学) 〉と最後を結んでいる。
では、山本一太の疲れる追及と同じく疲れる川端文科省の答弁。
山本一太、今朝気になるニュースが飛ぶ込んできたとして取り上げる。「タイトルは『朝鮮学校無償化方針』」
山本「今年始まった高校無償化制度。これ、文科省が全国の朝鮮学校の除外措置を解除する方向で最終調整に入ったと。しかもかなり細かく書いてあって、最初ですね、制度の可否を議論してきたが、日本の教育に類する教育をしており、区別することなく助成すべきだとの判断を固めたという報道、ありますけれども、これは文部科学大臣、先ず、お聞きしたいと思いますが、事実でしょうか」
川端文科相「朝鮮学校を高校無償化の対象にするかどうかは、国会を含めて大きな議論になりました。その論議も踏まえる中で、現在、そのことをご議論いただく専門の方々に対して、どういう判断基準が高校に類する課程を有する教育機関であるかというのは、どういう判断基準を持つのか。そしてそれをどう判定するのかということを今ご議論していただいております。
8月中を目途にお願いをしている途中でございます。今日報道をされておりますが、この件に関して文部科学省が調査をいたしましたけれども、取材は一切受けておりません。そして中身に関しても、全く関与するものでもありません。以上です」
山本「もう一回お聞きしますが、この報道は大臣、事実無根だと、そういうことでしょうか」
川端文科相「現在検討いただいている委員会に於いて、色んな各方面から、先程申し上げましたように、高校の課程に類する課程であるということを判断基準に判断方法をご議論いただいている途中でございます。一切その経過等々は体外的に明らかになっておりませんので、その基準からしてコメントする立場にありません」
山本「川端大臣の記者会見のメモがあるのですが、7月20日だったと思いますが、この検討は新学期まで想定しているとおっしゃっております。で、8月中に結論を出す方針を表明をしたということなんで、で、まあ、こういう話がそろそろ出てくるかなと、私は思っておりました。その中で川端大臣がおっしゃったのはですね、この専門家会議ですね、5月に設置した。一番熱心に研究してもらっており、専門家会議が判断することもあり得るとおっしゃっております。
但し、その後で、文部省の文部大臣の告示なので、最終的には私の責任でやると、述べてますが、これは国の責任で是非を判断すると、大臣の責任でやると、いうことでよろしいでしょうか。確認したいと思います」
川端文科相「お答えいたします。先程来申し上げておりますが、判断基準をどうするか、判断方法をどうするかをご議論いただいておりますが、今日突然のことですので、正確な報道文を持っておりませんけれども、最終的には文部科学大臣告示を以って決めることでありますので、手続き上私の責任で行うことになっております」
山本「この問題は恐らく、与党内でも色々議論があるいうことだと思いますね。これ文部大臣告示だから、文部大臣が最終的に判断して決めるということなんですけれども、中井拉致担当大臣、こういうことでよろしいんでしょうか、高校の無償化は」
中井「権限は文部大臣、あるいは文科省におありだろう、考えております。専門化委員会にどうして僕を呼んでくれくれないのか、疑問に思っております」
山本「文科大臣、専門家委員会に中井大臣を呼んでいただけないでしょうか」
川端文科相「この国会での議論も含めまして、高等学校に類すると看做せる教育機関であるかを判断するということのみで判断をしたいということでございますので、教育に関わる、特に教育制度、あるいは事に精通している先生方に、まさに専門家としての知見を求め、議論をいただくという会議でありますので、そういう人選をしております」
山本「今のは中井大臣が教育に精通していないと、呼ぶ価値はないとおっしゃっているようなもんだと思いますね、全く。私はですね、この件についてもう一つ、大臣、気になっていることがあるんですね。最初この朝鮮学校の論議が始まったときには、私が理解しているところでは、先ず、さっきおっしゃった非公開で、この審査基準というものを、今検討している、この専門家会議、この判定を先ず見て、8月くらいにですね、一回公開するんじゃないかと、それを以てまた別の組織が行う段取りだという、お話もあったんですけども、全くこの専門家会議の議論が外に出てきていません。全く出てこないまま、ある日文部科学大臣が今おっしゃったように、最終権限は私にありますから、これは無償化、朝鮮学校の無償化は決定いたしたと、こういう流れになるんでしょうか。そこちょっと教えていただきたいと思います」
川端文科相「お答えいたします。議論を静謐な環境で技術的、専門的にしっかりやって頂くという意味で結論が出れば、その結論は当然、結論は公開をいたします。それは判定基準と判定方法でございます。その判定方法に基づいて、診査をするということをやる段階では、当然、公開し、その審査結果を踏まえて、私の名前で告示をしたいと思っております」
山本「日本の教育に類する教育をしている、それがどうかというのが一つの大きな判断基準になるんだと思いますね。今日ちょっと、資料を、コピーを持ってきたんです。これはある人がですね、今、全国各地、何校の朝鮮学校、朝鮮高等学校で使っているのか分かりませんが、ここで使われている現代朝鮮歴史、歴史の教科書です。朝鮮高校で使われている歴史の教科書をこの方が翻訳をしたと、それを纏めて出版をされている、その一部のコピーを私は今日持ってきました。
訳が100%確かなのか、かなり正確だと思いますが、訳がどこまで確かなのかは兎も角としてですね、ここに書いてあることをちょっと大臣に聞いていただきたいんですね。今日私が質問していただく金賢姫元死刑囚に関する記述があるんです。この本の中にですね、現代朝鮮歴史、高校3、朝鮮高等学校教科書となっていますが、ここにですね、大韓航空機爆破事件のことが書いてあるんですね。
この中で囲みでこう書いてあります。(南朝鮮当局はこの事件を北朝鮮工作員金賢姫が引き起こしたとデッチ上げ、大々的な反共和騒動を繰り広げ、その女を第13代大統領選挙の前日に南朝鮮に移送することによって、盧泰愚当選に有利な環境を整えた。)
こういう教科書で歴史を勉強しているんですね。まだあります。これは高校2の方なんですけども、ここではですね、全世界のチェチェ思想の共和国人民の闘争という欄がありまして、そこにこう書いてあります。
『新たな段階に入った朝鮮革命の要求をお見抜きになった敬愛する金正日将軍様に於かれては1974年2月19日に全社会をチェチェ思想化することに関する綱領を御示しになさった』
さらにこう書いてあるんですね。『全社会をチェチェ思想化するということはチェチェ思想を指導する指針として革命を前進させ、チェチェ思想に基づいて社会主義社会を建設して完成させることを言う』
これは大臣、教科書の記述としては、極めて不適切だと思いますが、どうお考えでしょうか」
川端文科相「現在専門家会議に於いて、教科がどういう教科か、授業時間数、そして教科書授業の中身、含めて、先程来申し上げておりますように高校の課程に類する課程であると看做せるかどうかということを専門家にご議論をいただいているところでございますので、ご指摘の中身等々、私が今の立場でコメントする立場にはありません」
山本「あのね、大臣、今の立場で私がコメントすることができるんじゃないじゃないですよ。大臣がコメントしなきゃいけないことじゃないですか。だって、この無償化を決定するかってどうかっていうのは、日本の高校に類する教育をしているかどうかが判定基準なんですね。この朝日新聞に書いてあります。
会議は委員会とか日程はこれは非公開で進められていると。静かにしてください、質問中ですから。関係者によると、事務局の文科省の職員がすべての朝鮮学校を訪ね、カリキュラムや教科書などに関する資料の提供を受けたと。これ、きちっとチェックしているということなんですが。大臣はこの朝鮮高校のカリキュラム、今言った歴史の教科書も含めてですね、きちっとご自分で、これをお読みになっているんでしょうか。チェックしているんでしょうか。伺いたいと思います」
川端文科相「現在専門家の委員会がご議論いただき調査していただいている、そのサポートを文科省の職員がすることは当然でありますが、私の立場では最終的な結論を聞かせていただきたいというふうに思っております」
山本「大臣が最終的に判断されるとおっしゃったじゃないですか、大臣告示なんだから。大臣が判断されるとおっしゃったんじゃないですか。その大臣、こういう政策決めるときにですね、その朝鮮高校のカリキュラムが本当に、本当に、日本の高校の基準になっているかどうか、それをきちっと分からないで、どうやって判断されるんでしょうか」
川端文科相「高校の無償化の対象とするために当然ながら日本の高校、これは対象でございます。それ以外に高校の課程に類する課程と看做されるということで、一つは専修学校の高校課程を認定をいたしました。これは専修学校の高等課程というものの枠にはまるものはすべて適用いたしました。
それ以外に、いわゆる外国人学校が高校の課程に類するのではないかという思し召されるところがございます。それで一つは、その国との外交ルートを通じてその本国が自分の国では高校と日本で言える高校のレベルであるかということを言った、保証した高校は認める学校は認める。
もう一つは、いわゆる本国を持たない、いわゆるインターナショナルスクールというものがあります。インターナショナルスクールはインターナショナルスクールを認定する国際機関がいくつかございます。その機関が認めたものは高校と認めるという基準を決めました。
この二つのこと以外に、現にその学校を出て大学に入学している者がいる機関として朝鮮学校が残りました。この二つは高校学校に類するかどうかを客観的に判断することができないので、今の仕組みでは、そういう意味で、どういう中身、どういう基準で認定し、どういう判断方法を持てばいいかと、専門的にご議論をいただいている。それを踏まえて、それが決められた仕組みで、決めることによって、先程申し上げました前二者と同様な扱いをして、高校と認定するということで、最終的に告示をするという方法を採るということでございますので、ご理解をいただきたいと思います」
山本「あの冗長に喋っておりますけど、何をおっしゃっているのか全く分かりません。だって、大臣が最終的責任者としてこれを許可するわけでしょ?これと決めるわけでしょ?その前にきちっと、例えばここは朝鮮高校ですけども、その歴史教科書が高校の授業としてふさわしいがどうかっていう判断をされるわけですよね、大臣。その決定をする前にきちっと、この高校のカリキュラムを、大臣、きちっと読んでいただけますか。そういうことを約束していただきたいと思います」
川端文科相「繰返しみたいになりますけれども、本国、外国人学校で本国を持つ学校は、その本国に確認し、問い合わせをする。インターナショナルスクールは国際的なインターナショナルスクールの評価機関に任せる。そういう意味で今回は、もう一つの、方法として国際機関の、失礼、専門委員会の評価方法に任せるということでございますので、それを手続き上取るということを申す上げてるのでございます」
山本「全く答えになっておりません。全く政治主導働いておりません。よく分かりました。この点についてはあの、大臣ですね、この教科書、他にも、いわゆる金正日将軍様を礼賛している部分が一杯あります。私は別に朝鮮高校で学んでいる高校生の方々、勿論彼らに何の罪もありません。彼らを排除するって言ってるんじゃないんです。
でも、この指針、こんなキム、えー、えー、元工作員のですね、爆破事件をデッチ上げだと言い、拉致を極大化するなんてことを書く、そういう教科書をつくる、こういう歴史教科書で教育している学校なんですよ。で、これは申し上げるまでもないんですけども、北朝鮮は日本の外交安全保障にとって最大の脅威なんです。200あるか300あるか分かりませんけれども、日本全土を射程に収めるノドンミサイルが配備されている。核実験を2回強行している。しかも拉致も彼らがやってるんです。独裁国家なんです。その、あの、独裁者を礼賛する教科書を使っている高校に何で国民の血税を入れなきゃいけないのか。ここに疑義があるってことなんですけども、それについて菅総理、どう思われますか」
菅首相「まあ、今、あの、文科大臣がですね、この問題についてはかなり、丁寧な手続きを持って、判断をするということを言われております。私はその文科大臣の、そういう丁寧な手続きに添った、ある意味の判断をですね、お聞きしたいと、最終的にはですね、そう思っております」
山本「まあ、これ以上やっても文科大臣から同じような官僚答弁みないなものしか返ってこないと思うんで、あの、最後にもう一つだけ文科大臣に申し上げておきます。これ本当に密室で議論が進んでいるんですね。全くどういう議論が行われているかわかりません。これまったくパブリックコメントにも付していません。このままある日、突然、殆んど議論されずに文部科学大臣が、やあ、この朝鮮学校の無償化は決定しましたと、私の責任で決定しましたとおっしゃったら、これは誰が会議で何を発言されて、どうしてそうなったのか、そこは徹底的に国会の議論を通じて追及させていただきますので、そのことをしっかり頭に置いて、私はそのような判断をしていただきたいと思います。もう答弁は結構でございます」
(金賢姫来日問題に移る。)
高校無償化の朝鮮学校排除、日本政府、日本人の度量が試される(2)に続く
川端文科相は自分でも、「8月中を目途にお願いをしている途中でございます」と言っているのだから、新聞には「無償化へ調整」と出ていたとしても、8月末までまだ日数がある、あくまでも結論に至っていない調整段階であって、結論が出次第、議論の全経緯を公開、その判断を尊重して告示に持っていく予定だから、暫くお待ちくださいと言えば片付くものを、専門家会議の判断基準だ何だのとくどいまでに繰返して、誰れをも疲れさせる議論を延々と続ける。
山本太一も朝鮮高等学校の現代歴史教科書を持ち出して、歴史の捏造と金正日将軍様礼賛を根拠に「日本の高校に類する教育」をしていないと非難しているが、朝鮮高等学校の生徒と言えども、その殆んどは日本の社会に巣立ち、日本の社会で生活していくはずである。このことを前提とした教育もなければ、日本の社会では満足に生活できないことになる。
当然日本の高校と同様、日本の社会で生活するに役立つ教育も行われているはずで、すべての授業が金正日礼賛と北朝鮮肯定の歴史の捏造で埋まっているわけではあるまい。
それを山本一太は単細胞だからなのか、朝鮮高等学校のすべての授業が偏った教育ばかりをしているとの前提に立った話となっている。
例え朝鮮高校の授業の殆んどが金正日思想注入一辺倒の偏った教育であったとしても、学生の受ける情報は学校で受け取る情報ばかりではなく、テレビや漫画、映画(北朝鮮の映画は殆んど上映されていないようだが、韓国映画は映画館は勿論、CDとかで簡単に見ることができる。)雑誌、その他のメディア、いたなら日本人の友人からの情報等々を合わせた総量の方が量的には圧倒的であるはずで、一方的に歴史授業からの情報にのみ毒されていると取るのは合理的判断に欠けるのではないのか。
問題はそういった教育を施す側ではなく、受ける側の生徒の問題であるはずだ。だが、山本一太は一方的に教育を施す側を問題としている。
生徒はサッカーのテレビも見るだろうし、プロ野球、大相撲のテレビを見る朝鮮高校の生徒もいるはずである。このような圧倒的な情報量と比較した場合、戦前の日本のように国体思想に囲まれ、生活の細部にまで軍国主義に干渉されていたわけではないから、学校で授業として受ける金正日礼賛の情報、あるいはチェチェ思想に基づいた世界革命とかの情報は僅かな情報であろうし、学校を離れれば、その情報から解放されると受け止める生徒もいるだろうから、両者の情報の相対化作用が働かないことはないはずである。
また相対化作用を働かせなければ、日本の社会では極端に生きにくくなるはずである。
例え情報の相対化作用、文化の相対化作用を働かすだけの能力がなく、金正日に忠実一辺倒の頭がコチコチに固くなった原理主義的・狂信的な人間として社会に出ていくとするなら、既に何らかの問題が発生しているはずである。想定し得ることは北朝鮮を標的として経済制裁を発する日本の政治家に対するテロが容易に考えることができるが、未だに一度も起こっていない。
テロとまでいかなくても、金正日が正しいことを証明する何らかの事件を起こしてよさそうなものだが、それも起きた様子はない。
山本一太は一部の授業内容を取り上げて過剰反応しているだけのことではないのか。
単細胞山本一太は言っている。「私は別に朝鮮高校で学んでいる高校生の方々、勿論彼らに何の罪もありません。彼らを排除するって言ってるんじゃないんです」――
だが、「北朝鮮は日本の外交安全保障にとって最大の脅威なんです。200あるか300あるか分かりませんけれども、日本全土を射程に収めるノドンミサイルが配備されている。核実験を2回強行している。しかも拉致も彼らがやってるんです。独裁国家なんです。その、あの、独裁者を礼賛する教科書を使っている高校に何で国民の血税を入れなきゃいけないのか」と言って、北朝鮮国家の非道に対する懲罰を「何の罪もない」北朝鮮高校生に着せようとしている。
そして結果として、高校無償化の対象から「彼らを排除」しようとキーキー声で躍起となっている。
この矛盾に山本一太は単細胞だからだろう、一切気づかない。
このことに関して中井拉致担当相の発言を取り上げて、2010年2月28日付当ブログ記事――《高校無償化の朝鮮学校排除で終わらない日本社会への影響》に次のように書いた。
〈中井「拉致問題に絡んで制裁措置をしている国の国民だからこれは(無償化は)どうなんだろうと、昨年12月に川端達夫文部科学相に強く申し上げた」
要するに拉致問題で北朝鮮に制裁措置を行っている最中だから、その国の国民が通う朝鮮学校に対しても高校無償化の対象から排除する制裁を施すべきだと主張したと言うことである。
親が殺人犯だからと言って、大人たちが自分の子どもに殺人犯の子どもとは付き合うなと殺人犯に対する制裁をその子どもへの制裁にまで広げる、あるいは殺人犯に対する制裁をその子どもへの制裁で代償させることと似ている。国家公安委員長を務めるだけのことはある。〉――
山本一太が意図している朝鮮高等学校生徒に対する「国民の血税を入れなきゃいけないのか」は、まさしく殺人犯の「何の罪」もない子どもに対する仕打ちと同列の考えであろう。
また次のようにも書いた。
朝鮮高校で北朝鮮独裁思想絶対肯定の思想を受けていたとしても、〈朝鮮学校卒業生を日本社会は順次受け入れていく。中にいるかもしれないが、すべてが卒業後北朝鮮に渡るわけではない。生活の基盤が日本にあるだろうから。彼らが朝鮮学校で植えつけられた反日意識が日本社会の中で凝り固まらせたまま推移するのか、あるいは善悪いずれかの方向へ変化を見せるのかは日本社会の受け入れようにかかっているはずである。
彼らに生き方を教える教師が朝鮮学校の金正日の意を体していたかもしれないた教師から日本社会の構成員たる日本人に変わるからだ。〉
朝鮮高等学校の生徒が授業によって日本及び日本人に対して不信、もしくは敵意を持つに至ったとしても、無償化対象から外すことは不信と敵意を間違っていない、正しいとことだと確信させる根拠となる。逆に無償化対象とすることによって、不信と敵意を和らげる材料の一つとなる可能性を持たせるに至る。不信と敵意を氷解させない者もいるだろうが、無償化対象化が不信と敵意を和らげる材料の一つとなる可能性を考えた場合、彼らを受入れる日本社会にとって何ら役に立たないことがあるだろうか。
また上記ブログには「留美的親美、留日的反日」(アメリカに留学した者は親米派になり、日本に留学した者は反日派になる)という一種の格言となっている事例を例に挙げて、次のようにも書いた。
〈国交がないことを理由としようと、授業内容が反日教育となっていることを理由としようと、高校無償化の朝鮮学校排除は朝鮮学校生や彼らの親や近親者をして、なお一層反日化させ、そういった反日化した者を日本社会は受入れ、抱えることになる。そういった状況に立たされたとき、日本社会が反日化した者たちの反日感情を「留美的親美」の構図を取って和らげるに力となるか、あるいは「留日的反日」の構造のままに悪化の一途を辿らせるか、そこに住む日本人が総体的な教師となって立ち向かう姿勢が決定要因となるが、いわば彼らをどう受け入れるかに影響を受けることになるが、鳩山政府の高校無償化朝鮮学校排除自体が日本社会全体とそこに住む日本人全体に支配的な影響を与えることになるだろうから、在日朝鮮人の高校無償化排除を機会になお悪化させた場合の対日観を良い方向に持っていくことは困難なものにならないだろうか。
勿論、同じ社会に住んで、彼らの反日感情は日本人にも何らかの形で撥ね返ってくることになる。
いわば高校無償化の対象から排除した、ハイ、それで終わりですだけでは済まない日本社会への影響が生じるだろうということである。〉
高校無償化排除はそこまで考えなければならないということを書いた。
日本人の朝鮮高等学校無償化除外か、無償化対象化かの精神と似た出来事がアメリカのニューヨークでも起きている。《モスクの建設 議論巻き起こる》(NHK/10年8月4日 7時59分)
イスラム教徒の市民団体が同時多発テロ事件で崩壊した世界貿易センタービルの跡地からおよそ150メートルの場所に古い建物を取り壊して、「モスク」を建設しようと計画。テロ事件の犠牲者の遺族などが強く反発。
3日、建設予定地にある古い建物の取り壊しを認めるかどうかを審議するニューヨーク市の委員会が開かれ、多数の市民が傍聴に訪れた。
この委員会は朝鮮高等学校の無償化の是非を審査する専門家委員会に当たるだろう。
反対派住民「アメリカ人およそ3000人がテロで命を落とした。モスクの建設は、こうした犠牲者に対する冒とくだ」
結論は取り壊しが認められ、建設が可能となる。
市内に住むイスラム教徒「テロではイスラム教徒も犠牲になっている。今回の決定は信仰の自由を認めるアメリカの精神に沿う判断でよかった」
記事は次のように結んでいる。〈今回の問題は、同時多発テロ事件から9年ちかくがたっても癒えることのないニューヨーク市民の心の傷と、信仰の自由が絡む微妙な問題だけに、アメリカの有力メディアがこぞって伝えるなど、大きな議論が巻き起こっています。〉――
イスラム教及びイスラム教徒に対する不信と反撥と信仰の自由がぶつかり、イスラム教徒に対する不信と反撥に信仰の自由の度量が優った。
《同時テロ跡地のモスク建設にゴーサイン 計画始動へ》( CNN/2010.08.04 13:11)は、〈2008年大統領選で共和党副大統領候補だったペイリン前アラスカ州知事はミニブログのツイッターで、ここにモスクを建てることは「不必要な挑発」であり、癒しの妨げになると呼び掛けた。一方、ブルームバーグ市長らは支持を表明していた。 〉と書いている。
このことを朝鮮高校の無償化対象除外になぞらえるなら、ペイリン前アラスカ州知事はさしずめ日本の山本一太自民党議員といったところだろう。
朝鮮高校生をいずれかは日本社会が受入れる。いや、既に雛の状態で日本社会は既に受け入れている。それを異質な存在として雛の段階で排除することで、恨みや軽蔑を誘導する精神的な打撃とし、日本社会に社会人として巣立ってからも精神的後遺症とさせるか、高校の授業とは別に一個の個人、日本社会で生活を共にする将来的な生活者と考えて受入れるか、日本政府、日本人の度量が試されているのではないだろうか。
普天間問題が相変わらず“先送り”と“変更”の迷走を続けている。移設の二大テーマである「沖縄の負担軽減」と「普天間の危険除去」を偽りとする迷走以外の何ものでもない。口を開けば「一日も早い沖縄の負担軽減」と「一日も早い普天間の危険除去」と言ってきたことが空耳と化す。確か、負担軽減と危険除去は待ったなしだとも言っていたはずだ。
「国外、最低でも県外」がまさかの自民党政権案の辺野古に戻って、その正当化のように環境に負荷を与える埋立て方式ではなく、より環境型の杭打ち桟橋方式だと持ち出した。
だが、米側から杭打ち桟橋方式は敵の攻撃に弱く、一旦桟橋が破壊されたなら修復に時間がかかる、波をかぶると使用不能に陥るといった難点を指摘され撤回。
撤回の理由はただそれだけではない。《辺野古「埋め立て」に回帰 「くい打ち桟橋」方式は断念》(asahi.com/2010年7月15日3時5分)
杭打ち桟橋方式は鳩山前首相が在任中に持ち出した案だが、その建設費を防衛省が試算。従来計画の約4千億円を大きく上回る1兆円超。工期も長期化、14年の完成期限に間に合わず、大幅に遅れる。
要するに建設費・工期とも前以て試算して予算上と期日上の実現性を考慮せずに杭打ち桟橋方式を埋立てよりも環境に優しいからと持ち出した。何という無計画性に立った杭打ち桟橋方式のアイデアだったのだろう。
あくまでも環境優先で金額的には1兆円かかろうと2兆円かかろうと構わなかったとしていたとしも、工期は譲ることのできない条件のはずだ。アイデアは常に実現可能性の検討を加えた確固たる内容を備えていなければならないはずだが、そうではなかった。
結果的に言ってきた環境配慮がすべてウソになり、辺野古案だけが残ることとなった。辺野古に戻すけれども、滑走路建設は環境型とするとした条件が消えたなら、辺野古に戻す理由は大分なくなるはずだが、辺野古だけは残した。
辺野古移設の場合の従来の日米合意の滑走路は「V字案」であった。ここに来て、日本政府は滑走路1本の「Ⅰ(アイ)字案」を持ち出して、「V字案」と共に検討する複数案を日米両国で作成する報告書に併記する方針だと言う。
但し、アメリカ側は従来どおり「V字案」を主張しているそうだが、日本の主張が通れば、滑走路1本の「Ⅰ字案」となる。現在のところ、どちらの案で決着するか当然のことだが、可能性は別にして不明である。
この普天間に代る日米検討の代替施設2案について、日本政府が工事の規模や環境への影響などを比較した試算結果を明らかにしたという。《Ⅰ字案なら埋め立て25%減 政府、辺野古V字案と比較》(asahi.com/2010年8月3日15時2分)
〈日本側が主張する滑走路1本の「Ⅰ字案」は、従来の日米合意の「V字案」に比べて埋め立て面積で25%、必要な土砂量で10%少なくできるという。〉――
埋め立てに伴うサンゴの消失面積
「V字案」――6.9ヘクタール
「Ⅰ字案」――5.5ヘクタール
絶滅危惧種指定のジュゴン生息に必要な藻場の消失面積
「V字案」――78.1ヘクタール
「Ⅰ字案」――67ヘクタール
環境型の杭打ち桟橋方式は断念したものの、環境配慮重視は忘れていなかった。徒に辺野古のみを残しわけではないということなのだろうか。
記事は、〈今回の試算は、日本側が推すⅠ字案の優位性を示す狙いもあるようだ。〉と解説しているが、滑走路2本よりも1本の方が土砂埋立て量も土砂埋め立て面積も少なく済むのは当然である。建設費も安く上がる。工期も短く済む。
但し「V字案」と比較した場合のその実現可能性である。記事は次のように書いている。
〈ただⅠ字案は、工事の規模が比較的小さい一方で、米軍機が視界が悪いときなどに計器飛行で離陸する際の飛行経路が内陸部のリゾート施設の上空を通るため、地元の理解を得るのが難しいとみられている。米側は事故などで片方の滑走路が使えなくなっても離着陸ができるV字案を有力視している。 〉
「Ⅰ字案」の場合、普天間の危険除去が辺野古の危険となって身代わりする危険性が生じることになる。このことに対して環境により優しいのだから、我慢しろと言うのだろうか。万が一、天候不順の悪化した視界の下、墜落事故でも起きたなら、日本政府は言い訳が効かないだろう。
普通の感覚の実現可能性からしたら、「Ⅰ字案」はより環境型と言えたとしても、「V字案」よりも住民に対する危険性の点で見劣りがするように思える。
ではなぜ日本政府は「Ⅰ字案」を持ち出したのだろうか。「V字案」と比較していくら環境型だと言っても、軍事的実用性に欠けるからと断念に追い込まれたなら、杭打ち桟橋方式断念を前科とする、その再犯に当たることになる。
その犯行動機が問題となるが、杭打ち桟橋方式の場合は滑走路建設は埋立てではなく、より環境に優しいことを自民党政権案の辺野古案回帰の正当理由として持ち出し、断念して辺野古案のみを残した。
同じ形式の犯行動機だと考えると、最終的に残るのは「V字案」のみだから、「V字案」を残すためが犯行動機の「Ⅰ字案」であり、その断念と言うことになる。
いわば環境重視、より環境に優しい案を模索したという努力の痕跡を残して、それを以て「V字案」を正当理由とする犯行ではないだろうか。あるいは迷走を繰返した上で自民党案を丸呑みすることの正当理由とする。
色々と努力したが、唯一残されたのが「V字案」しかなかったと最終的に「V字案」を納得させるためのゴマカシなら、自分たちを追い詰めるだけだろう。ゴマカシはいつかは現れるし、ゴマカシからは満足な結果を生まない。
政府は8月末まで決着と日米合意していた滑走路の位置、形式、工法等の決定を「V字案」と「Ⅰ字案」の報告書への両論併記にとどめて、11月の沖縄県知事選以降に先送りする方針でいたということだが、菅首相は8月2日夜、記者団に決着時期の先送りを自ら認めたという。
《普天間決着、期限設けず=先送り認める-首相》(時事ドットコム/2010/08/02-21:21)
菅首相「いつまでにこうする、こうなるということは、誠心誠意やっていくという以上のことは言えない状況だ」――
菅首相「日米での合意を踏まえ、同時に沖縄の負担軽減をできる限り図っていく。この基本姿勢でこの問題に臨んでいく。沖縄の頭越しで決着するようなことは考えていない」――
「誠心誠意やっていく」と言っているが、「いつまでにこうする、こうなるということは」皆目見当がつかない程度の「誠心誠意」にしかなっていない。譬えるなら、誠心誠意おカネはきちんと返すつもりです。しかし「いつまでにこうする、こうなるということは」はっきり言えませんと同じ程度の誠心誠意だということである。
自分から強力に働きかけて望ましい状況をつくり出すのではなく、決着・決定を状況次第の他力本願としているからだろう。11月の沖縄県知事選で辺野古移設容認派の知事が当選するのを淡い期待を抱いて待つ。
だが、反対派の知事当選となったなら、最悪の事態となり、先送りした意味を失う。
また先送りは普天間移設の二大テーマである「沖縄の負担軽減」と「普天間の危険除去」を先送りすることでもあり、「一日も早い沖縄の負担軽減、普天間の危険除去」と盛んに言っていた自分たちの言葉を半ばウソとすることでもある。
菅首相は何も気づかず、何も考えずに、「いつまでにこうする、こうなるということは」云々と自分たちの都合を言っているに過ぎない。
それとも9月の民主党代表選を実際は問題とした先送りなのだろうか。代表選前にゴタゴタが生じて指導力が問題視されたなら、代表選に悪影響を及ぼす。代表選以降なら、2年間は安泰だから、自身の進退に直接の影響はない。
菅首相が「いつまでにこうする、こうなるということは」云々と記者団に話したのは8月2日夜。下地国民新党幹事長が3日午後の記者会見で名護市辺野古周辺への移設は困難と指摘した上で普天間移設の抜本的見直しを求めたと言う。
《普天間移設、抜本見直しを=下地氏》(時事ドットコム/2010/08/03-20:29)
下地幹事長「抜本的に全部を見直すと日米で合意しない限り、この問題の解決はあり得ない」
菅首相が普天間問題の決着を11月の同県知事選以降に先送りする考えを示したことについて――
下地幹事長「選挙後、何かが変わるというのは根拠がない。選挙をして(移設先が)決まることはない」
県知事選で辺野古移設容認派が当選することを、溺れる者藁にも縋る思いで期待しているということもあるに違いない。当選したなら、途端に、「民意だ、民意だ」と鬼の首でも獲ったかのように小躍りすることだろう。名護市長選で反対派が当選したときは、「必ずしも民意ではない」と言ったいたことはケロッと忘れて。
だとしても、普天間の「危険除去」、「沖縄の負担軽減」を半ば偽りとする先送りの連続となっていることに変わりはない。この上最終的に「V字案」で決着となったら、言っていた「環境保護」を丸きりのウソとすることになる。
多分、辺野古で決着がつきさえすれば、政治家にとってはどうでもいいことなのかもしれない。