野田首相ビデオメッセージ「社会保障と税の一体改革について」は認識能力不足の大いなる勘違いⅡ

2012-02-19 09:58:32 | Weblog

 ――野田社会保障政策財源は消費税増税で財源不足を追っかけるものとなっている――

 今回は前日の《野田首相ビデオメッセージ「社会保障と税の一体改革について」は認識能力不足の大いなる勘違い》《PARTⅡ》

 野田首相はビデオメッセージで毎年の社会保障給付費自然増の金額を次のように譬えている。 

 野田首相「人類が経験をしたことのない超高齢化が進んでいますので、医療や介護の負担増、今の制度を維持しているだけでも自然と増えていくためにかかるお金が約1兆円です。その1兆円というのは1万円札を平積みすると高さ1万メートルです。エベレストよりも高い高さになります。それぐらい、毎年の自然増で社会保障費が膨らんでいるという状況でございます」

 前日のブログでは、〈言っていることはこれまで言ってきたことの単なる繰返しに過ぎない。裏返して言うと、言っていることに進歩がないことになる。わざわざ時間とカネをかけて、ビデオにして公表にまで持っていく魂胆に釣り合う価値は見い出し難い。〉と書いたが、この社会保障給付費自然増の「エベレスト」の喩えも2月11日に千葉県船橋市で開かれた母校・県立船橋高校同窓会挨拶で使った繰返しである。

 《1兆円は100トン…首相、わかりやすく?説明》YOMIURI ONLINE/2012年2月13日15時41分)

 野田首相「1万円札を平積みにしていくと1兆円の高さは1万メートルになり、エベレストより高い。1万円札は重さ1グラムだが、1兆円集めたら100トンになり、とても持てない」

 違いはビデオメッセージでは1兆円を「100トン」だと重量で譬えていなかった点のみである。

 記事は、〈首相は野党などから「説明不足」と批判されているだけに、首相なりにわかりやすい説明を心がけたようだ。〉と書いているが、1兆円が平積みするとエベレストより高くなるとか、重さが100トンとなるとかいった問題ではなく、問題ではない以上、どうでもいいことで、なぜ毎年恒常的に1兆円ずつ増加していくのか、その原因・根拠こそが問題としなければならないはずだ。

 このことを問題とせずに1兆円自体の高さや重さを言っても意味はない。1兆円には様々な問題を含んでいる。

 だが、野田首相が問題とすべきことを問題とせずに意味もない喩えを持ち出したということは1兆円自然増という現状をそのまま追認する意識に立っていることを証明している。

 1兆円自然増現状追認は年々の社会保障給付経費そのものの現状追認と相互対応していることを物語っている。後者の現状追認によって前者の追認は成り立つ

 現状追認姿勢の上に社会保障政策を成り立たせようとしているということである。

 2009年度(平成21年度)の社会保障給付費を《社会保障給付費 過去最高に》(「NHK NEWS WEB」/2011年10月28日 17時5分)から見てみる。

 年金   ――51兆7246億円
 医療   ――30兆8447億円
 福祉その他――17兆2814億円

 合計 99兆8507億円(過去最高)――前年度+5兆7659億円(+6.1%)

 伸び率は平成8年度以降で最高だそうだ。

 国民1人当たりの給付額――前年度4万6300円増の78万3100円。

 高齢者への支払いは68兆6422億円。前年度5%増。社会保障給付費全体の69%

 前年度+5兆7659億円(+6.1%)は前年のリーマンショックの影響で雇用情勢が悪化、失業給付など雇用関連の給付費が前年度の2倍以上の2兆5243億円に達したことが押し上げ要因だそうだ。

 年金は当然の支払いだとしても、「医療」、「福祉その他」関連の給付に関しては高齢、景気・雇用状況、健康管理等の問題を当然としてはならない多くの問題を含んでいるはずだ。

 例えば健康管理に関しては肥満人口は増減はあるものの全体として増加傾向を辿って、2009年の日本人の肥満割合は欧米程ではないにしても男性30.5%、女性20.8%となっている。平均25%とすると、3千万人以上が肥満で、肥満予備軍も加えると、相当な人数になるはずだ。

 また2011年の日本の糖尿病人口は1,067万4,320人に上り、世界第6位にランクインしていると、「国際糖尿病連合」の統計として伝えている。

 これも予備軍を加えたなら、相当な人数になるはずだ。

 全体的な増加傾向は厚労省などが打つ対策が一定の抑制はできていたとしても、増加に歯止めをかけて減少に持っていくことができていないことの証明でしかない。

 このことも関連した社会保障給付費の年々の増加ということであろう。

 尤も社会保障給付費抑制策の1つとして生活保護受給者の無料となっている医療費から初診料1割負担の議論が行われているが、ここではそういった追加負担やその他の直接的カットを言っているのではなく、あくまでも年金を除いた社会保障給付対象となっている国民自身に可能な限り給付対象回避へ持っていく自助努力、あるいは給付対象となることを遅らせる自助努力の健康管理を求める政策を言っている。

 いずれにしても年を追っても改まることのない健康管理の不備一つ取り上げただけでも、このことに対応して自然増を含めた「医療」、「福祉その他」関連の社会保障給付費総額に影響を与えていく。「福祉その他」関連に含まれる生活保護人口を左右することになるし、介護人口をも左右することになる。

 高齢者に関して言うと、健康な高齢と病気がちな高齢とがあり、それを分ける原因の多くが健康管理に負っていて、年金以外の社会保障給付費の給付対象が病気がちな高齢ということであるはずだ。

 こういったことは野田首相はビデオメセージで一切触れていないから、母校船橋高校同窓会挨拶でも触れなかったに違いない。

 触れなかったということは自然増を含めた社会保障給付費総額についても様々な問題が含まれていて、各問題ごとに有効な解決策を見い出そうという姿勢ではなく、その解決策を消費税増税のみとしているということであり、このことからも野田首相が自然増を含めた社会保障給付費総額に対して現状追認意識に立っていることを証明できる。

 要するに給付対象の本体に対して有効な手を尽くさずに現状のままに放置し、消費税増税を万能の解決策とする意図でいる。少なくともそういった姿勢を取っている。

 この姿勢は安住財務相も野田内閣閣僚としてということからなのか、共有している《消費増税で対話集会 財務相「5%は第一歩」》MSN産経/2012.2.18 13:04)

 昨2月18日(2012年)午前の滋賀県長浜市での「社会保障と税の一体改革」に国民の理解を求めるための全国対話集会での発言。

 安住財務相「5%の増税は第一歩。5%では国の借金を返すところまで行き切れず、借金が増えるペースを減らすだけだ」

 消費税増税は5%では不足で、「借金が増えるペース」に合わせて段階的に増税していくということは消費税増税全面依存の社会保障制度対策の姿勢となっているということであろう。

 要するに野田社会保障政策財源は国の社会保障制度への国民依存を可能な限り減ずる政策を取ることでも生み出そうとするものではなく、消費税増税に全面依存して、消費税増税で財源不足を追っかけるものだということである。
 
 こういった構造の社会保障制度改革である点も、野田首相の認識能力不足の大いなる勘違いと言えるはずだ。

 役に立つかどうか分らないが、参考までに、2010年11月21日記事――《社会保障費圧縮のための全国民対象の健康歴導入を - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》》

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野田首相ビデオメッセージ「社会保障と税の一体改革について」は認識能力不足の大いなる勘違い

2012-02-18 10:44:18 | Weblog





昨2月17日(2012年)野田首相が首相官邸HPに「社会保障と税の一体改革」の理解を訴えるビデオメッセージを載せた。それ程長くないから、全文引用してみる。







 「社会保障と税の一体改革について」
(首相官邸HP/2012年2月17日)

 国民の皆様、内閣総理大臣・野田佳彦です。

 今回は「社会保障と税の一体改革」にかける私の思いを直接皆様にお伝えをしたいと思います。

 昨年の東日本大震災の発災によりまして、我が国は3つのことをやり遂げなければいけません。1つは震災からの復旧復興。2つめは原発事故との戦い。そして、3つめが日本経済の再生です。これらの問題を解決するには、「魔法の杖」はございません。ひとつひとつ丁寧に乗り越えて行きたいと考えます。

 この大震災が発災をする前から、実は日本は様々な課題を抱えておりました。その一番大きな課題が、これからお話しをさせていただきます、「社会保障と税の一体改革」でございます。

【三つの”待ったなし”】

 この一体改革は、3つの点において「待ったなし」です。

社会保障の機能強化”待ったなし”

 第一は、「社会保障の機能強化」という意味において、待ったなしの状況でございます。残念ながら出生率は少し歯止めがかかってまいりましたけれども、この国で子供を産み、そして子供を育てるという雰囲気がまだ十分に出来ておりません。この少子化に、早く歯止めをかけていかなければなりません。そのためにも、子ども・子育て世代に対する支援が必要でございます。

 もう1つは、私は先だって、首都圏のとある郊外の団地をお訪ねしました。その団地の高齢化率は41%でありました。まさに、いま日本においては都市が老いてきている状況であります。医療・介護とまちづくりを一体として進める、「地域包括ケア」が急務でございます。このように若者からお年寄りまで安心出来る、「全世代対応型」の社会保障への転換、これが待ったなしであります。

持続可能な仕組み作り”待ったなし”

 2つめは、「持続可能な仕組み作り」が、待ったなしであります。日本の社会保障の根幹は昭和36年に出来ました。国民皆年金、国民皆保険制度の創設でございます。その頃は、多くの働き盛りの若者が1人のお年寄りを支える、いわば「胴上げ」型の社会でした。今は1人のお年寄りを3人で支える、いわゆる「騎馬戦」型の社会になりました。これから約40年もすると、今度は1人が1人を支える「肩車」の時代になります。「肩車」の社会を、ぜひ皆さん、想像してください。下で支える一人が病気になったり、仕事がなくなったりすればどうなるでしょうか。それは、「およそ40年後」と申し上げました。今の若者たちが40年後には肩の上に乗る世代になるのです。そのことをぜひ十分に念頭に入れていただきたいと思います。

 このように、人類が経験をしたことのない超高齢化が進んでいますので、医療や介護の負担増、今の制度を維持しているだけでも自然と増えていくためにかかるお金が約1兆円です。その1兆円というのは1万円札を平積みすると高さ1万メートルです。エベレストよりも高い高さになります。それぐらい、毎年の自然増で社会保障費が膨らんでいるという状況でございます。

 こうした状況を考えると、働き盛りの保険料を中心に考える時代はもう無理です。将来の世代のポケットに手を突っ込んでお金を借りるというやり方も取るべきではありません。ということは、いまを生きる世代が広く薄く負担を分かち合う消費税を導入して、社会保障を支える安定財源にしなければいけない。これが待ったなしの状況であります。

日本の信用”待ったなし”

 三つ目の待ったなしは、「日本の信用」が待ったなしという状況でございます。欧州債務危機は、「対岸の火事」ではございません。火の粉がいつ日本に及ぶか分かりません。そのことには強い危機感を持っていなければならないと思います。社会保障を維持するために、あるいは強化するためにその財源をしっかりと確保すること、「日本という国は財政規律を守る国なのだ」ということを内外に行動で示すべきだと私は考えています。

【政治がやるべき事・行政がやるべき事】

 「この待ったなしの一体改革を推進する前に、まず政治がやるべきことがあるだろう」あるいは「霞が関がやるべきことがあるだろう」-これが国民の皆様の思いだと思います。その強い思いを私たちはしっかり受け止めてまいります。この国会中に議員定数の削減、国家公務員の人件費の約8%の削減、さらにはこれまで特殊法人と言ってきましたけれども、今は「独立行政法人」と言うようになりました。この独立行政法人を約4割減らすこと、そして、かつて元財務大臣が「一般会計は『母屋』です、特別会計は『離れ』です」と表現をしました。「母屋」ではおかゆをすすりながら切り詰めても、「離れ」ではすき焼きを食べて贅沢放題をしていると言われた特別会計の改革も着手をいたします。「離れ」をなくして「母屋」に集中して、国民の皆様のチェックが効くようにする改革も断行をする決意でございます。

【日本経済の再生】

 こうした政治改革、行政改革はもちろんやらなければなりませんが、あわせて一体改革と同時並行に日本経済の再生もやり遂げなければなりません。日本銀行としっかりと連携をしながら、円高、デフレの克服に全力で努めてまいります。

【各世代の皆様にお願い】

 これらの包括的な改革をするためには、何としても、国民の皆様のご理解が不可欠であります。社会保障は、世代を超えて日本人同士が支え合う仕組みであります。この原則は「負担なくして給付なし」です。誰かが負担をしなければ給付はありません。そのことは是非ご理解をいただきたいと思います。今までは、将来の世代にツケを回すやり方をしてまいりました。でも、「今さえよければいい」という無責任なことは、もうやめるべきだと私は思います。

 そこで、すべての世代の皆様にお願いをしたいと思います。

団塊の世代の皆様へ

 まずは、「団塊の世代」の皆様。皆様におかれましては、これまで日本経済を支え日本社会を支えていただきました。いま皆様はちょうど年金受給世代にさしかかってまいりました。あと10年もすれば皆様が75歳になります。常に日本の世論をリードし、「流行」を作ってきた皆様に改めてお願いをしたいと思います。これから皆様の、皆様の社会保障を支える世代のことも慮って、是非この一体改革についてのご理解、その世論づくりの先頭に立っていただきたいとお願いをしたいと思います。

現役世代、若者の皆様へ

 そして次に、「現役世代」と「若者」の皆様にお願いをしたいと思います。自分達は多くのお年寄りを支えなければいけない、「ツイてない世代だな」と思われる方もいらっしゃるかもしれません。でも、今日の豊かな社会を作ってきたのは、私達の先輩世代、皆さんの親御さんの世代でございます。そのご努力の積み重ねによって、今の日本はあります。その「支え合う」構図のバトンをしっかりと受け継いでいただきたいと思います。もちろん「支える側」に対しても、社会保障の受益を実感できるような改革を私達は成し遂げていく決意であります。

子育て中の皆様、仕事との両立を願う皆様へ

 そして、いま子育てにご奮闘頂いている「お父さん、お母さん」。そして、「子育てとキャリアを両立させたいと強く願っている多くの女性」の皆様にお願いをさせていただきたいというふうに思います。これまでの日本は、残念ながら、子ども、そして子育て世代に対する社会保障という観念が希薄だったと思います。是非、子ども、子育て新システムを作るために、私達も全力を尽くしてまいります。子どもを安心して産める。働こうと思った時に子どもを預ける場所がないということのないような、そういう社会を作るために、皆さんとともに、この改革を成し遂げていきたいと思います。


 国民の皆様の、あらゆる世代の皆様のご理解とご支援が不可欠でございます。私達は不退転の決意で、この「社会保障と税の一体改革」をやり遂げる決意です。皆様の後押しを、最後に改めてお願いを申し上げたいと思います。よろしくお願いをいたします。



 言っていることはこれまで言ってきたことの単なる繰返しに過ぎない。裏返して言うと、旧態依然、言っていることに進歩がないことになる。わざわざ時間とカネをかけて、ビデオにして公表にまで持っていく魂胆に釣り合う価値は見い出し難い。

 この一事を以てしても野田首相の時間やカネ等のムダに対する感覚の程度を窺うことができる。

 国家事業から比べたなら、ごく小さなムダかもしれないが、こういった小さなムダを排除する感覚や姿勢がなければ、大きなムダに立ち向かう徹底したチャレンジ精神は生まれてこないのではないだろうか。

 小さなムダを許さない気持が大きなムダを尚更に許すことができない怒りの気持を生むはずだ。

 逆に小さなムダに無感覚な人間は大きなムダに関しては必要に迫られて役目上立ち向かうことはしても、基本的にはムダに対する感覚を欠いているために徹底した覚悟を貫き通すことが困難に違いない。

 このことは消費税の増税は早々に決めて、「独立行政法人を約4割」減らします、「特別会計の改革も着手をいたします」、「改革も断行をする決意でございます」と自らの身を切る重要事項は後回しの話だとしているところに現れている。

 本来なら議員定数削減や国家公務員人件費の削減、独立行政法人数削減、特別会計改革を先に持ってきて、それらを実現させてから、政府として「政治がやるべきこと」、これだけの務めを果たしました、みなさんに痛みを与えることになりますが、社会保障制度の持続性ある維持のためにその財源として消費税増税をお願いすることになるが、それを以て国民としての務めとしていただきたいという順序を取るべきだったろう。

 だが、実際には逆の順序となっていることから、改革に向けた覚悟と決意の程度が知れる。

 その程度の覚悟と決意であったなら、「1つは震災からの復旧復興。2つめは原発事故との戦い」に関するハコモノとしての外側はカネと時間をかけることによって達成可能となるだろうが、中味の高齢過疎化を排した地域活性、中央と地方の格差を排した一体的な発展、バランスの良い人口配分、あるいはバランスのよい人口構成を伴った社会の進展を常態とした、真の意味での活力ある3つ目の「日本経済の再生」確立は道遠くなる。

 野田首相は自らが改革を目指している新しい社会保障制度を、「子ども・子育て世代に対する支援」となるものだと言い、「医療・介護とまちづくりを一体として進める、『地域包括ケア』」となる社会制度改革だと言い、「若者からお年寄りまで安心出来る、『全世代対応型』の社会保障への転換」となると言い、「社会保障の機能強化」だと言い、「『全世代対応型』の社会保障への転換」だと言い、「持続可能な仕組み作り」だと言い、すべてが「待ったなし」であり、今の日本があるのは親から子・孫へと繰返し循環していく世代から世代を「『支え合う』構図のバトン」があったからで、「社会保障の受益を実感できる」そのような「バトン」が受け継ぎ可能とする社会保障制度改革だと言っている。

 言っている理念は立派である。ケチのつけようがないくらい立派な言葉遣いとなっている。 「いまを生きる世代が広く薄く負担を分かち合う消費税を導入して、社会保障を支える安定財源にしなければいけない」と言っていることも理解できる。

 だが、野田政権が構築した社会保障制度改革と消費税増税が言っている理念を実現可能だと広く国民に認めさせる具体的な証明、各世代間を循環的・持続的に「『支え合う』構図のバトン」となると国民の誰にも納得させる具体的な証明がどこにもない。

 政治家の政策が失敗なしの絶対性を宿命としているなら、いわば絶対的成功を常に予定調和としているなら、理念を並べ立てるだけ、いいこと尽くめを吹聴するだけで、どのような証明も必要としないが、実際にはその逆で、消費税は増税させられた、社会保障制度は満足に機能しない、財政規律も思ったとおりには守れない、当然「日本経済の再生」もままならないことになり、国民にしたら何重にも泣きっ面にハチを見舞われることになる。

 要するに単にうまい話を聞いているだけといった印象しか受けない。野田首相の側から言うと、単にうまい話を尤もらしげにに話しているに過ぎない印象しか浮かばない。

 これにこれだけ投資したなら、二年もしたら二倍にも三倍にもなって返ってくるといったうまい投資話に擬(なぞら)えることができる。投資話には確実に利益が上がるという具体的な論拠を示さなければならない。

 野田首相のうまいだらけの「社会保障と税の一体改革」話には、その論拠の提示が一切ない。

 ここに野田首相の認識能力不足からきている大いなる勘違いがある。

 これでは国民は納得しようがない。納得したいと思っても、納得できないだろう。 

 最初に書いたようにビデオメッセージはムダ遣いで終わる公算大としか言いようがない。今後の世論調査の内閣支持率がこのことを証明してくれるはずだ。

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班目原子力安全委委員長の原発事故調査委「SPEEDI」証言と「記憶ない」証言の真偽

2012-02-17 13:01:50 | Weblog

 2月15日(2012年)午後、衆院東電福島第1原発事故調査委員会で班目春樹原子力安全委員会委員長と寺坂信昭前原子力安全・保安院長が原発事故当時の対応について証言した。その発言をWEB記事から取り上げ、特に班目委員長証言の真偽を検討してみる。

 《2トップ、福島事故で謝罪 「言い訳に時間をかけた」「私は文系で…」》MSN産経/2012.2.15 22:20)

 班目委員長(津波や全電源喪失に備える原発の安全指針について)「瑕疵(かし)があったと認めざるを得ない。おわびしたい。

 (指針が改善されなかった背景について)低い安全基準を事業者が提案し、規制当局がのんでしまう。国がお墨付きを与えたから安全だとなり、事業者が安全性を向上させる努力をしなくなる悪循環に陥っていた。

 わが国は(対策を)やらなくてもいいという言い訳に時間をかけ、抵抗があってもやるという意思決定ができにくいシステムになっている」

 第三者的視点に立った物言いとなっている。原子力行政の渦中に当事者として立っている発言にはとても思えない。

 いわば当事者意識、その危機感を全く感じさせない言葉となっている。 

 官邸への助言等、事故当時の行動に関して。

 班目委員長「1週間以上寝ていないのでほとんど記憶がない。私がいた場所は固定電話が2回線で携帯も通じず、できる助言は限りがあった」

 「ほとんど記憶がない」と言いながら、「できる助言は限りがあった」ことは記憶していて、その理由として「固定電話が2回線」しかないこと、携帯電話が通じないことを挙げている。

 「私がいた場所」とは 内閣府原子力安全委員会事務局がある東京都千代田区霞が関3丁目1番1号中央合同庁舎第4号館6階のことを言っているのだろうが、事故発生1週間やそこらは原子力災害対策本部が設置されていた首相官邸5階に詰めていて、多くの時間を菅首相や海江田経産相、東電関係者と事故収束の検討を重ねつつ、福島第一原発の現場の事故対応の推移を見守っていたはずだ。

 その間、別室で休憩を取ることはあったろうが、例え睡眠中であっても、事故対応の緊急性から比較したら、個人の睡眠の緊急性は無視され、助言の緊急性に応じて呼び出されたはずだから、殆ど官邸5階に常駐していたも同然であったろう。

 事故の全容を一応把握できてからは原子力安全委員会事務局に詰めるようになったとしても、助言が必要とされるときは首相官邸から連絡が入っただろうから、「固定電話が2回線」しかないことや携帯電話が通じないことは問題なかったはずだ。

 大体が重大な原発事故に直面している中で内閣原子力安全委員会委員長として首相及びその他への助言という重大な責務を担っていたのである。当然、必要に応じてメモの類いは取っておかなければならなかった。

 まさか原子力に関してすべて万能で、助言が正しかったかどうかあとで検証する必要もなかったというわけではあるまい。

 いわば、原子力安全委員会委員長という立場上、「ほとんど記憶がない」とすることも、「できる助言は限りがあった」とすることも無責任甚だしく、決して許されることではないはずである。

 また、「発電用軽水型原子炉施設に関する安全設計審査指針」は班目委員長が原子力安全委員会に関わるずっと前の1990年8月30日作成だが、「Wikipedia」によると、2010年に〈東京大学を退職後、内閣府の審議会等のひとつとして設置されている「原子力安全委員会」にて、委員に選任された。〉と書いてあり、殆ど間もない東日本大震災発生約1年前の2010年4月から委員長に就任している。

 例え指針作成に関わっていなかったとしても、自身が所管している「指針」である。原子力安全委員会委員、もしくは委員長に就任してから、その責任上、原子力の専門家としての自らの視点で「安全指針」を把えてみる、検証してみるといったことはしなかったのだろうか。

 もしそういったことを一度もしていなかったとしたら、立場上の責任を何ら果たしていなかったことになる。

 自らの視点で目を通し、検証してみるといったことをしていたとしたら、「瑕疵(かし)があったと認めざるを得ない。おわびしたい」は事故が起きてから気づいたことになるから、原子力の専門家として安全指針が適切か否かの妥当性を判断する見る目、検証に堪え得る責任能力を保持していなかったことになる。

 いわばすべては自身の能力・責任が関わっている事柄でありながら、「低い安全基準を事業者が提案し、規制当局がのんでしまう。国がお墨付きを与えたから安全だとなり、事業者が安全性を向上させる努力をしなくなる悪循環に陥っていた」とか、「わが国は(対策を)やらなくてもいいという言い訳に時間をかけ、抵抗があってもやるという意思決定ができにくいシステムになっている」と、原子力行政に関わる重要問題を自分が関係しない他人事のように言うことができるのは原子力安全委員会委員長としての責任を自覚することができないからだろう。

 本来なら原発事故が起きる起きないに関わらず、立場上、ノーと言わなければならない構造化した悪しき状況のはずだ。

 だが、一度も「ノー」という声を上げなかった。この構造化した悪しき状況に班目委員長もどっぷりと浸って、原発事故が起きるまで何の疑問も感じなかったのだろう。

 要するに言っていることは責任転嫁に過ぎない。

 放射性物質の拡散予測システム(SPEEDI)を避難に活用しなかったと政府事故調などで指摘されていることについては次のように反論している。

 班目委員長「SPEEDIがあればうまく避難できたというのは全くの誤解だ」

 対して寺坂前原子力安全・保安委員長

 寺坂保安委員長「避難方向など何らかの形で有用な情報になったのではないかという思いはある」

 果たしてどちらが正しい証言なのだろうか。

 この点に関する班目発言は《言い訳づくりばかりしていた…班目氏発言の要旨》YOMIURI ONLINE/2012年2月15日21時05分)ではより詳しく伝えている。

 班目委員長「放射性物質拡散予測システム『SPEEDI(スピーディ)』の計算には1時間かかる。今回のような原発事故にはとても間に合わなかった。

 予測計算などに頼った避難計画を立てたのが間違いで、発電所で大変なことになっているという宣言があったら、ただちにすぐそばの方には避難してもらうというルールにしておくべきだった。スピーディが生きていたら、もうちょっとうまく避難できたというのはまったくの誤解だ」

 「『SPEEDI(スピーディ)』の計算には1時間かかる」と言っている。

  だが、菅首相が第1原発半径3キロ圏内避難指示・3キロ~10キロ圏内屋内退避指示を出したのは3月11日14時46分地震発生から6時間39分後の21時23分である。

 そしてこの時間からさらに8時間11分後の3月12日5時44分にベントによる放射性物質放出を受けて第1原発半径10キロ圏内避難指示へと拡大させている。

 いわば「『SPEEDI(スピーディ)』の計算には1時間かか」ったとしても、最初の避難指示・屋内退避指示には十分に間に合った。

 また、計算に1時間かかる間は気象庁に問い合わせて現場周辺の風向きと風速を参考にしてもいいはずだ。飛散した放射性物質が風向きと風速に関係なしに飛散するというなら、気象庁の気象予測も「SPEEDI(スピーディ)」も役に立たないことにはなるが。

 「発電所で大変なことになっているという宣言があったら、ただちにすぐそばの方には避難してもらうというルール」を確立していたとしても、誰が見ても風向きと風速は避難方向・避難場所を決定する重要な要素であることに変わりはないはずだ。飛散方向に殊更好んで逃げることはあるまい。

 だが、それを「まったくの誤解だ」と言う。

 とても原子力安全委員会委員長の発言とは思えない。

 「予測計算などに頼った避難計画を立てたのが間違い」と言っていることにしても事実に反する。昨年5月20日の記者会見で当時の枝野詭弁家官房長官が「SPEEDI(スピーディ)」の試算結果が事故発生翌日の3月12日未明に首相官邸にファクスで届いていたことを明らかにしている。

 だが、首相官邸5階の原子力災害対策本部に届けられず、情報は共有されなかった。

 枝野官房長官「(官邸の)幹部で全く共有されず、担当部局で止まっていた。情報の存在自体が伝えられなかったのは大変遺憾だ。避難指示の時にそういった情報があれば意義があった」

 事実かどうかは分からない。情報を共有しながら、避難に活用することまで思い至らなかったから、責任問題を回避するための情報非共有の口実ということもある。

 だが、「スピーディが生きていたら、もうちょっとうまく避難できたというのはまったくの誤解だ」は常識的に考えて事実に反している。「放射性物質拡散予測システム『SPEEDI(スピーディ)』」は読んで字の如く放射性物質拡散予測を目的として132億円もかけて開発したシステムである。

 開発の目的通りの結果を得ないとしたら、今度はムダ遣いの問題が浮上することになる。

 まさか放射性物質があっちへ飛んだ、こっちへ飛んだと眺めるだけのために開発したわけであはあるまい。高価過ぎる子どものオモチャとなってしまう。

 以上見てきた当事者意識を欠いた第三者的な物言いから窺うことができる発言の無責任さから判断すると、もしかしたら班目委員長も関わっていた「SPEEDI(スピーディ)」の非活用であったために、その責任回避意識が言わせている、事実に反した「誤解」と疑うことができる。

 「誤解」とすることで自身の責任を逃れることができる何らかの経緯があるに違いない。

 上記「MSN産経」記事の次の二つの発言も取り上げておく。

 寺坂前保安院長「私は文系なので、官邸内の対応は理系の次長に任せた」

 原子力発電という物理的機能に対応する立場の人物が原子力の専門家ではなく、なぜ文系なのだろうか。文系を理由に立場上必要とする原発事故対応の議論に加わることができなかったのだから、その適格性の責任問題も問わなければならないことになる。

 黒川事故調委員長(委員会後の記者会見)「安全委員会と保安院は安全を担う使命を持っているが、緊急時の備えができておらず、事故がない前提で原子力行政を推進するなど、国民の安全を守る意識が希薄だ」

 それぞれの責任のなさを批判している。

 最後に班目委員長の「ほとんど記憶がない」がまるきりのウソであることを示す。

 昨年3月12日夕方6時の原子炉冷却の真水から海水への切り替えが菅首相の指示であったどうかで揉めた問題――菅は指示は出していない、班目の助言で海水注水した場合、再臨界の危険性があるということで、その検討に時間がかかっていた間に東電が勝手に始めたことだと言い、その場にいた東電幹部は電話で東電本社に海水注入について首相の了解が得られていないという連絡をしたために福島第一原発の現場は表向きは一旦中止したことにしてそのまま海水注水を続行していたゴタゴタで、班目委員長は再臨界の危険性について発言している。

 《班目氏が政府発表に「名誉毀損だ」と反発 政府は「再臨界の危険」発言を訂正》MSN産経/2011.5.22 20:42)

 政府の班目発言訂正は、「海水注入の場合、再臨界の危険がある」から、「そういう(再臨界の)可能性はゼロではない」への変更である。「可能性はゼロではない」は危険性ゼロを意味していないのだから、単に危険性の程度を弱めたに過ぎない。

 5月22日の内閣府での記者会見。

 記者「政府は海水注入の一時中断は班目委員長が『再臨界のおそれがある』と指摘したからだとするが」

 班目委員長「私が言ったのならば、少なくとも私の原子力専門家としての生命は終わりだ。一般論として温度が下がれば臨界の可能性は高まる。『臨界の可能性はまったくないのか』と聞かれれば、『ゼロではない』と答えるが、私にとって可能性がゼロではないというのは『考えなくてもいい』という意味だ

 記者「そういう発言をしたのか」

 班目委員長「覚えていないが、私が『注水をやめろ』と言ったことは絶対にない」

 記者「政府側は班目氏が指摘したと繰り返し主張している

 班目委員長「私への名誉毀損(きそん)だ。冗談じゃない。私は原子力の専門家だ。一般的に海水に替えたら、不純物が混ざるから臨界の可能性は下がる。淡水を海水に替えて臨界の危険性が高まったと私が言うとは思えない

 記者「当日のことを明確に覚えてはいないか」

 班目委員長「私は海水注入が始まったと聞いて、ほっとして、原子力安全委員会に戻った。一つだけいえることは首相が『注水をやめろ』と言ったとは聞いていない。私が知る限り、当時首相と一緒にいた人が注水を途中でやめるように指示を出した可能性はゼロだ」(以下略)

 地震発生から5カ月以上経過した5月22日の記者会見発言である。「1週間以上寝ていないのでほとんど記憶がない」どころか、地震発生翌日の3月12日のことを、殆ど明快なまでに記憶している。

 「1週間以上寝ていないのでほとんど記憶がない」は自分に責任が及ぶのを極端に恐れていることからの誤魔化しとしか思えない。

 「私にとって可能性がゼロではないというのは『考えなくてもいい』という意味だ」と言っている。

 一般常識では、「『考えなくてもいい』という意味」こそが、「可能性がゼロ」ということを意味するはずだ。

 「考えなくてもいい」と言いながら、「可能性がゼロではない」と言ったなら、まさに矛盾する。

 男が女性に対して、「僕は君を捨てるようなことはしないから、捨てられるかもしれないなんていう心配は考えなくてもいい」と言いながら、「捨てる可能性はゼロではない」と言ったとしたら、どうなるだろう。

 要するに詭弁を用いている。

 また、「可能性がゼロではない」は次の「一般的に海水に替えたら、不純物が混ざるから臨界の可能性は下がる。淡水を海水に替えて臨界の危険性が高まったと私が言うとは思えない」という発言と整合性を保ち得るが、あくまでも“可能性の低下”であって、“可能性ゼロ”を意味するわけではない点で、「考えなくてもいい」という発言とあくまでも矛盾する。

 この5月22日の記者会見の翌日の5月23日の衆院震災復興特別委員会での次のような答弁を行なっている。

 班目委員長「私の方からですね、(菅が真水から海水に変えろと指示したとされる)この6時の会合よりもずうーっと前からですね、格納容器だけは守ってください。そのためには炉心に水を入れることが必要です。真水でないんだったら、海水で結構です。とにかく水を入れることだけは続けてくださいということはずーっと申し上げていた」

 「6時の会合よりもずうーっと前から」注水の必要性をしつこく言い、「真水でないんだったら、海水で結構です」と言った。

 もし「一般的に海水に替えたら、不純物が混ざるから臨界の可能性は下がる」なら、「真水でないんだったら」ではなく、万が一の臨海の危険性回避のためには何が何でも海水を勧めなければならないはずだが、種類は何でもいいという意味で「とにかく水を入れる」という表現を使って真水の選択肢も残していることも矛盾した発言と言える。

 また、「6時の会合よりもずうーっと前から」注水の必要性を訴えて、その中で海水注水を持ち出したなら、その時点で再臨界の可能性・危険性の程度についても助言者として何らかの説明がなければならなかったはずだが、「ずうーっと前」ではなく、海水注入の必要性が生じた3月12日午後6時の時点になってから再臨界の問題が浮上していることも矛盾している。

 原発事故発生時の最も大事な初期対応の場面に於いても満足に責任を果たしていなかった。

 新聞・テレビのマスコミ報道が伝えている班目の過去の発言を紐解いたなら、いくらでも無責任、矛盾、詭弁、ウソだらけだらけの発言を炙り出すことができるに違いない。

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子どものライターの火遊びからの火災・焼死事故を繰返す親の許すことのできない無学習性

2012-02-16 11:20:07 | Weblog

 2月14日(2012年)夕方、東京・板橋区の住宅で3歳と5歳の幼い姉妹が焼死する痛ましい火災事故が起きた。両親とも外出中で、21歳の母親が買い物に外出、約40分後に帰宅した間の出来事だったという。

 鉄筋コンクリート3階建て住宅の火元と見られる3階居間のコタツの上には灰皿に入ったタバコの吸い殻が20本程残されていたほか、そばの床には子どもでも着火できる旧式のライターが落ちていたという。

 親の話では2人は火事の数日前にこのライターで火遊びをしていたとのこと。

 ここまでの状況で、子どもが旧式ライターで火遊びしていて火災を起こしたのだということは消防署や警察の鑑識でなくても、誰でも想像がつく。

 経産相のHPには、「ライターの規制等に係る経過措置期間の終了について」て次のように知らせている。

 〈本件の概要

 経済産業省では、使い捨てライターを使用した子供の火遊びによる火災の発生を受け、消費生活用製品安全法施行令の一部を改正し、平成22年(2010年)12月27日よりライターに係る規制を開始しました。

 経過措置期間が終了する平成23年(2011年)9月27日以降は、安全基準を満たしてPSCマークを表示したライター以外、販売することができなくなりますので、改めてお知らせします。経済産業省では、経過措置期間の終了に先立ち、消費者庁、警察庁、環境省等の関係省庁と連携し、ライター規制に係るリーフレットを作成・配布し、広く広報・周知を図ることとしています。〉――

●平成22年(2010年)12月27日からライターに係る規制を開始。
●平成23年(2011年)9月27日以降は使い捨てライター等の安全基準を満たしていないライタ
 ーの販売禁止。

 新たな「安全基準」とは幼い子どもが容易に着火できない仕組みとなっていることをいう。 

 こういった経過背景は多くがその理由を知っていたはずだ。

 平成22年(2010年)2月17日夕方、東京・練馬の木造アパートから出火。焼け跡から3歳の長男と2歳の長女の焼死体を発見。24歳の父親は仕事外出中。同じ24歳の母親は別室で3カ月の幼児(男子)の世話をしていて、火事に気づくのが遅れたという。

 焼け方が激しかった押入れ付近からは数個のライターが見つかり、母親が「子供がライターで火遊びをしていたかもしれない」と話している。

 そして1カ月半後の平成22年(2010年)4月3日、北海道厚沢部町で24歳の父親が車で実家に戻った際、3歳の長女、2歳の長男、生後7カ月の双子(男児)の計4人が眠っていたので車内に残して自分一人家の中に入っていたほんの30分の間に車が火災、4人とも焼死した。

 車内からライターは見つかっていない。

 父親「子どもはライターを操作して火を付けることができた。点火するのを見てライターを取り上げたこともあった。

 火事の前はタバコは吸っていない。車内にライターはあったと思う」

 特に幼い子どもの生命(いのち)を守るための、子どもが容易に着火可能な旧式ライターの販売禁止を目的とした消費生活用製品安全法施行令一部改正であった。

 にも関わらず、旧式ライターを子どもの周りに放置している親が未だ存在した。放置し、子どもが火遊びするままに任せて火災を引き起こし、焼死させてしまう。

 テレビのワイドショーが散々に取り上げていながら、あるいは国がライター規制に係るリーフレットを作成・配布し、広く広報・周知を図っていながら、それが届かない親が未だ存在した。

 子どもたちの死因はライターの火遊びからの火災と言うよりも、法律を一部改正してまで注意喚起の対象としている親の、その注意喚起からも、テレビ・新聞が報道している過去の事故からも何ら学習することもなく応えることができない親の姿がより直接的な原因となっているはずだ。

 そのような親の姿が結果的に幼い子供の生命(いのち)を奪ってしまっている。

 何と愚かしいことなのだろうか。

 夏の暑い盛りに駐車場の車中に幼い子供を残し、自分たち親がパチンコに夢中になっている間に子どもを40度以上から50度近い高温に達した車の中で熱中症で死なせてしまう、何ら学習もなく跡を絶たない親たちに通じる姿でもある。

 2月14日の住宅火災では子どもがライターで火遊びしていたのを見ていながら、親は防ぐことができなかった。

 このことは何とも言いようのない最悪の事態だが、過去の子どものライターの火遊びからの火災と焼死事故を幼い子どもを持つ親として何ら学習することができていないことが発端となっている最悪の事態であって、そのような親の存在が跡を絶たないところを見ると、再び繰返し起きることの無学習な存在性の示唆にも見えてくる。

 だが、親が愚かにも学習できないからといって、親自体がその命を犠牲にするのは一向に構わないが、幼い子供の生命(いのち)を犠牲にしていいわけではないし、決して許せる無学習性ではない。

 また、このような事態を防ぐために法律で安全基準を満たさないライターの使用禁止だけでは間に合わっていないことも現実が示している以上、親の無学習な存在性、その許すことのできない愚かしさに直接的に警告を発して、その修正により効果を持たせる必要があるのではないだろうか。

 一人の幼い子供の生命(いのち)も犠牲にしてはならないという強い決意が世間一般の通念としてあったなら、このような警告は是非必要になるはずだ。

 この文脈からすると、板橋の事故を伝える各マスコミの記事は決意に添う警告を満たしているとは言えない。

 記事題名を列挙してみる。

 板橋 住宅火災で女児2人死亡(NHK NEWS WEB)

 東京・板橋で住宅火災、幼い姉妹が死亡(TBS News)

 住宅火災 2女児死亡 5歳、3歳 両親外出中(東京新聞)

 火災:姉妹が死亡 5としと3歳、留守番中か--東京・板橋の住宅(毎日jp)

 住宅火災、5歳と3歳の女児死亡 東京・板橋(asahi.com)

 民家火災で2女児死亡=5歳と3歳の姉妹、両親は留守-東京・板橋(時事ドットコム)

 東京・板橋で民家火災 5歳と3歳の姉妹死亡(日経電子版)

 姉妹死亡の住宅火災 「子供がいます!」叫ぶ女性(MSN産経)

 単に事実を表面的に表現しているに過ぎない。犠牲になった子どもの親は当事者として悲嘆にくれ、後悔しているだろうが、世間一般の幼い子供を抱えた親の中で無学習な親には、その無学習性に警告を発するニュアンスも、一人の幼い子供の生命(いのち)も犠牲にしてはならないという決意も窺うことはできない。

 一人の幼い子供の生命(いのち)も犠牲にしてはならないという決意と親の無学習性に対する警告にふさわしい記事題名は次のようなものではないだろうか。

 また愚かな親が現れる

 過去の類似事故から何も学ぶことのできない親が子どもをまたも犠牲にする

 悲嘆にくれている親をムチ打つことになって酷だという意見もあるだろうが、今後同じことを繰返さないとも限らない同列にある無学習な親への前以ての警告であり、一人の幼い子供の生命(いのち)も犠牲にしてはならないという決意の提示である以上、まだ厳しさがなりない表現であるように思える。

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大川小の悲劇と釜石小の奇跡との差を決定づけた教育形式

2012-02-15 10:08:22 | Weblog

 日本の暗記教育は日本人の思考様式・行動様式となっている上が下を従わせ、下が上に従う権威主義性からの派生活動としてある。上に位置する教師の教える知識・情報を下に位置する生徒が上が教えるままに機械的に従ってなぞり、教えた通りの知識・情報として頭に暗記する。

 そこには生徒が自ら考える思考プロセスを介在させない。逆に生徒が自ら考える思考作用は暗記教育の阻害要因となる。

 これが暗記教育である。

 2011年9月17日当ブログ記事――《日本の暗記教育制度から見る大震災大川小学校の悲劇 - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》で、東日本大震災の津波襲来前に宮城県石巻市大川小の教師が子ども避難のために取った行動様式が暗記教育の行動様式であり、権威主義の行動様式であったために児童108名中70名が死亡、4名が行方不明。教職員13名中、校内にいた11名のうち9名が死亡、1名が行方不明(Wikipedia/2011年4月9日現在)という犠牲を出したと書いた。

 この主張が間違っていないことを証明してくれる記事がある。《避難マニュアルは資料のコピー》NHK NEWS WEB/2012年2月11日 19時17分)

 この記事では大川小の災害時の避難マニュアルが実際には周辺に該当する場所が存在しない『近隣の空き地・公園』となっていたとしている。

 要するに避難マニュアルに不備があった。もし学校が実地避難訓練を行っていたら、この不備に気づいたはずだ。不備に気づかずに実地避難訓練を行なっていたとしたら、形式的に行っていたことになり、子どもを預かる学校教師としての役目と責任を果たしていなかったことになる。

 いわば単に授業で生徒を教えるだけの機械と化していた。

 教師としてのこのような不作為・怠慢は量り知れないことになる。

 記事はこの不備から、〈学校や市の教育委員会が「人災の側面もあった」として先月、保護者に謝罪し〉たと書いている。

 今更謝られても子供たちは帰ってこないと思った親も相当いたに違いない。

 NHKが大川小の避難マニュアルの不備を動機として石巻市内のすべての小学校のマニュアルを調査したところ、石巻市が作成し、10年程前に各学校に配布した参考資料をそのままコピー、学校の立地などの個別の事情を全く反映していないケースが相次いでいたことが判明したという。

 しかも1階が浸水した開北小学校の場合はマニュアルに参考資料であることを示す「例」の文字がそのまま残されていたという。

 須藤十三男開北小校長「学校ごとに地理的条件や生徒数など違いがあるので、状況に応じて備えるべきだった。反省しなければならない点もずいぶんとあったと思います」

 石巻市教育委員会「あってはならないことだ。教育委員会としても各学校のマニュアルの確認を怠っていた結果であり、担当者をすべての学校に派遣してマニュアルの見直しを行った。学校と地域が連携した防災体制の確立を急ぎたい」

 校長も教育委員会も、そこに何起きていたのか、何も気づいていない。

 市が作成、配布した、それぞれの学校の立地等の地政学的状況、教師対生徒の構成人員等の状況、これらの個別性を全く考慮・反映していない避難マニュアルを各学校ともそのまま自分たちの学校の避難マニュアルとした。

 この構造は暗記教育形式・権威主義形式の知識・情報の授受にそっくり相当する。市という上に下の学校がそのままなぞり従ったのである。下の学校が各学校の個別の事情を考慮して自分たちの学校に適した避難マニアルとして整備する、考えるプロセスを省いたということであり、この点に関しても暗記教育の構造にそっくり当てはまる。

 大体が「コピー」という動作自体がなぞる行為であって、教師が教える知識・情報を機械的になぞるだけの暗記知識を“コピー知識”と表現できることになる。

 上記当ブログに書いた、2000年から段階的導入の『総合学習』が当初は授業が学校の自由裁量に任されるのは画期的だと持て囃されたものの、自由裁量に反して「何を教えていいのか、示して欲しい」と校長会などから文部省に要望が相次いだため、文部省が「体力増進」、「地域の自然や文化に親しむ」等を例示すると、各学校の実践が殆んどこの枠内に収まる右へ倣えの画一化が全国的に起こったことも、自分たちの考える思考作用を省いて下が上に機械的に従う権威主義性からの暗記教育の構造を取った知識・情報授受であり、『総合学習』段階的導入の2000年から10年以上も経っていながら、同じ構造の知識・情報授受が石巻市から市内の小学校へと立場を変えて何らの変化も受けずに滑稽なことに受け継がれていたことになる。

 ブログにはこう書いた。〈要するに教師自体が第三者に頼らずに(『総合学習』の時間に)何を教えたらいいのか、「自ら課題を見付け、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、よりよく問題を解決する」自己決定性の能力を持ちあわていなかった。考える力がなかった。〉・・・・

 それぞれの学校の立地等の地政学的状況、教師対生徒の構成人員等の状況、これらの個別性を各学校が自ら考え、主体的に判断し、よりよく問題を解決する自己決定性を発揮して各学校に適した避難マニアルを作成する能力を持たなかった。

 暗記教育の思考様式・行動様式に重なる上が下を従わせ、下が上に従う権威主義性の思考様式・行動様式のメカニズムに囚われ、災いされたからこそ、避難マニュアルに関わる知識・情報の単なる機械的な授受――市の避難マニュアルをなぞって自分たちの避難マニュアルとするコピーを許すことになったのだろう。
 
 では、同じ権威主義性に侵され、暗記教育を刷り込まれているはずの釜石小学校の子どもたちは津波に襲われながらどうして奇跡と言われている避難を行い得たのだろう。

 この経緯は1月17日(2012年)放送のWEB記事「NHKクローズアップ現代/子どもが語る大震災(2)」 が答を出してくれる。

 リンクを付けておいたが、一定日時で記事は消去される仕組みになっているようだ。

 海から1キロ程度離れた高台にある釜石小は片田敏孝群馬大学大学院教授によって防災教育が徹底していた。そのため最大6メートルの津波想定のところ15メートルの津波が襲ったが、既に下校していて地震直後100人近い子どもたちが津波浸水地域で遊んでいたものの、子どもたち全員が助かった。

 その理由は片田教授の防災教育が地元にある「津波てんでんこ、てんでんばらばらに自分で責任を持って逃げなさい」という言葉を徹底させたことにあるとしている。

 この「てんでんこ、てんでんばらばら」は自分の命だけが助かることを考える利己主義からの単独行動を意味するのではなく、お互いにお互いが自分の命に責任を持って行動するという、それぞれの責任感が絆となった信頼関係からの単独行動だという。

 片田敏孝教授「つまりですね、僕は釜石の子どもたちにも言ってきたんですね。僕はちゃんと逃げるということをお母さんに言う。

 そうするとお母さんは、うちの子はちゃんと逃げてるんだから、私も逃げられるんだっていう。こういうてんでんこができるような、てんでんばらばらで逃げることができるような、お互いがお互いの命に責任を持つということを信頼関係で結び合ってること。

 これが、てんでんこができるということの背景だと思うんですね」

 ここにあるのは『総合学習』が言うところの自分で考え、自分で判断して、自分で行動する自己決定性の教えであり、避難マニュアル(片田教授は避難マニュアルを「ハザードマップ」と表現している)に関わる知識・情報を暗記教育形式に機械的に授受し、行動する無考えの決定性ではない。

 このことは次の言葉が証明する。

 片田敏孝教授「子どもたちには具体的には、ハザードマップを信じるなとまで言っていたんですね。

 行政が出してるハザードマップ、これを信じるなというわけですから、たぶん、子どもたちも混乱する部分、あったと思うんです。

 でもその真意を言ったんですね。これはあくまで人間が想像したものであると。相手は自然なんだから、どんなことだってありえるよなって。

 だから君がそのときにできる、できるかぎりのことをやれ、こう言っているわけです。だから子どもたちは、ハザードマップ、もちろん知ってました。でもその範囲を越えて、逃げて、逃げて、逃げて。

 そして最後まで逃げきってくれた」

 暗記知識・情報の授受の否定、自己思考・自己判断の自己決定性のススメとなっている。

 いわばハザードマップ(避難マニュアル)に書いてあるとおりをなぞる、あるいはコピーする暗記教育形式の知識・情報の授受を断ち切って、そこに子どもが自ら考え、自ら判断し、自ら決定する思考作用の具体的なプロセスを教え込んだ。

 そして釜石小の子どもたちはこの教えに自ら考え、自ら判断し、自ら決定して具体的に応えた。 

 石巻市の各小学校が石巻市が配布した避難マニュアルを考えもなくそのままコピーして自分たちの学校の避難マニュアルとした暗記教育形式の知識・情報の授受と何と大違いな出来事だろうか。

 釜石小の子どもたちは自分で考え、自分で判断し、自分で決定することの大切さを知ったはずだ。

 現実に起こった津波避難に関わる子どもたちの知識処理・情報処理のこの大きな経験が教訓となって、学校の授業や他者との人間関係に於ける暗記教育形式の知識・情報の授受にも影響を与え、そこからの脱却に資することになるのではないだろうか。

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岡田副総理が持つ原理主義とご都合主義の二面性が醸し出す無責任性

2012-02-14 11:32:22 | Weblog

 無責任な民主党の無責任な社会保障改革 

 2月10日衆院予算委員会で民主党が掲げる年金制度抜本改革の柱の1つとしている「最低保障年金」に関わる鴨下一郎自民党議員の質問に対する岡田副総理の答弁。《岡田副総理、「最低保障年金」撤回の可能性示唆》YOMIURI ONLINE/(2012年2月10日20時32分)

 岡田副総理「各党合意の上で、やっぱり今の年金制度でいく方が弊害が少ないということになれば、そういう選択肢もある」

 記事はこの発言を以って、民主党が2009年の衆院選政権公約(マニフェスト)で掲げた年金抜本改革案の柱の一つである「最低保障年金」についての、与野党協議開始後に於ける撤回能性の示唆だとし、同時に、〈当面の消費税増税を含む社会保障・税一体改革の与野党協議の実現に向け、柔軟に対応する方針を示したものだ。〉と解説している。

 国会終了後の記者会見。

 岡田副総理(国会答弁趣旨を)「協議する時にどちらが駄目とか、どちらがいいと、前提は置くべきではない。二つ並べて議論してもらいたいという趣旨だ」

 そして、〈与野党協議の前に最低保障年金を取り下げる考えはないことも強調した。〉という。

 あくまでも与野党協議で「やっぱり今の年金制度でいく方が弊害が少ないということになれば」、現行制度の手直しでいき、「最低保障年金」撤回という「選択肢もある」ということらしい。

 原理主義者の評判も高く、自身もそのことを自認しているコチコチの原理主義者に相応しくないご都合主義なところを見せている。

 その理由は、マニフェストに掲げる各政策とも、これこれこういう政策を法案化して国民のみなさんの生活を向上させます、経済や社会を活性化しますと公に約束する公約とする前に他党の政策に優る自党の政策の確固たる優越性を基本的な根拠として打ち出した政策でなければならないからだ。

 でなければ、公約とすることはできない。

 各党とも、掲げる政策のテーマは殆ど変わらない。子育て政策、雇用政策、景気政策、農業政策、社会保障政策、少子化政策、教育政策、外交政策、国防政策等々――

 違いは中身であって、その中身は他党の政策に優る自党の政策の確固たる優越性を証明するものでなければならない。

 そのような優越性を備えていなければ、掲げる政策に関してだけではなく、党自体の存在意義を失う。

 このことは選挙の審判の結果としての議席数となって現れる。

 選挙にしても国会論戦にしても、各党の政策の優越性と優越性のぶつかり合いを中身としていて、いずれの優越性が優るか、最終的に国民に選択させることになる。

 マニフェストに掲げたということは他党の政策に優る自党の政策の確固たる優越性を策して掲げたはずだから、そうである以上、自党の政策の他党に優る優越性の信念を堅持していなけれがならないはずだ。

 堅持し、政策の優越性を証明し続ける使命を担っているはずだ。

 もし堅持することを放棄し、証明し続けることをやめた場合、政権担当の資格を失う。野党の政策の前に自らの政策の優越性を投げ出したことになるからだ。

 民主党はそのような信念を持って選挙を闘い、悲願の政権を獲得し、現在、国民に約束した他党の政策に優る自党の政策の優越性を証明する各政策の実現段階に入っている。

 政策の優越性に対する信念は最後まで堅持しなければならないし、その証明にしても自らの使命として最後まで担い続けなければならない。

 だが、岡田副総理の「各党合意の上で、やっぱり今の年金制度でいく方が弊害が少ないということになれば、そういう選択肢もある」という発言は自党の政策の優越性に対する信念とその証明の放棄に当たる。

 「協議する時にどちらが駄目とか、どちらがいいと、前提は置くべきではない。二つ並べて議論してもらいたいという趣旨だ」という発言も同じであろう。

 勿論、政策の実現を通した自党政策の優越性の証明に関して参院与野党逆転が障害になっているという事情はある。

 だとしても、「どちらが駄目とか、どちらがいい」といった優劣に重点を置くのではなく、「二つ並べて議論」する協議方法は自党の政策の優越性の放棄によって可能となる協議であって、政権担当の信念と使命をどこに置いていたか疑わせることになる。

 逆に「どちらが駄目とか、どちらがいい」といった優劣を前提とした議論――与野党お互いにそれぞれの政策の優越性を徹底的に証明する議論を尽くすべきであり、その帰趨としてのよりよい内容への帰着を図るべきであろう。

 記事が伝えている与野党協議の前に最低保障年金を取り下げる考えはないとしていることも、協議しないうちから議論次第で取り下げる意思の表明であって、各発言と合わせると、優越性の放棄以外の何ものでもない。

 岡田副総理が原理主義者であるなら、自党の政策の優越性に対する信念とその証明を自らの使命として最後まで堅持しなければならないはずだが、原理主義は他者からの贈り物をそのまま返す、誰かと飲みに行くと、必ず割り勘とするといった日常不断の生活慣習に関してのみのルールであって、政治に関しては状況次第でルール変える至ってご都合主義者の二面性を見せている。

 ご都合主義とは無責任の言い替えであるはずである。自他ともに原理主義者を任じていながら、状況に応じてご都合主義に変身するから、余計に無責任が際立つことになる。


 岡田副総理の無責任なご都合主義は同じ2月10日の衆院予算委員会で、茂木自民党議員に対する答弁の中でも見い出すことができる。《衆院予算委の質疑要旨》時事ドットコム/2012/02/10-21:17)

 茂木議員「民主党の年金抜本改革案を一体改革の素案から外すことが協議のスタートラインだ」

 この発言は民主党の政策の優越性を自ら否定せよの最後通知に相当する。

 岡田副総理「自民、公明両党は今の制度を改善する路線、われわれは今の制度の延長では無理があるとして新しい制度を提案したが、欠点があることは承知している」

 優越性を競うべき自党の政策に「欠点がある」と自らその優越性を否定し、政権党の立場にありながら、そ存在意義を自ら貶めている。

 原理主義とご都合主義の二面性に敗北主義を加えて三面性としなければならない。そもそもからして、何のために年金抜本改革案を掲げたのだろうか。

 フジテレビとMSN産経の合同世論調査で「首相にふさわしい政治家」として原理主義者とはその実体がご都合主義者に過ぎないこの岡田副総理が10・4%とトップを着けたとは驚きである。

 このような無責任なご都合主義は野田政権内に於いて岡田副総理一人のものではない。野田内閣全体の体質となっている。

 同じ記事から質問者は最初の記事の鴨下自民党議員。

 鴨下議員「最低保障年金はいつもらえるのか」

 小宮山厚労相「40年後だ。マニフェスト(政権公約)の段階で説明できていなかったことは申し訳ない」

 民主党2009年マニフェストの「最低保障年金」の記載は次のようになっている。
 
 〈消費税を財源とする「最低保障年金」を創設し、すべての人が7万円以上の年金を受け取れるようにすることで、誰もが最低限の年金を受給でき、安心して高齢期を迎えられる制度にする。〉・・・・・

 マニフェストは4年間の実現を約束している。それを裏切って、40年後の実現だとさも簡単なことのように言う無責任さは立派である。

 また、「マニフェスト(政権公約)の段階で説明できていなかった」ということはマニフェストに掲げる政策が他党に優る優越性を骨格としていなければならないことに反する無責任、ご都合主義の自己否定そのものであろう。

 民主党歴代内閣のすべてがマニフェストを軽いものにしている。

 最後に野田首相。1月16日(2012年)民主党定期大会挨拶。

 野田首相「マニフェストは状況の変化、現在の到達点を踏まえ、政策選択と優先順位を踏まえ、今後も出来る限り実現を目指していかなければなりません。

 但し、できないことも出てくるかもしれません。できないことはなぜできなかったのか、率直に国民のみなさんに説明していく勇気を持たなければいけないと思います」・・・・

 「できないことも出てくるかもしれません」と言っている。これはマニフェストを「できないことも出てくるかもしれ」ない性格のものと野田首相自ら定義づけたのである。当然、マニフェストに掲げた政策を他党に優る自党の政策の優越性を訴えることはできなくなる。

 例えば民主党の社会保障政策はこんなにも優れています、みなさんを幸せにしますと言いながら、「できないことも出てくるかもしれません」と言ったなら、自己矛盾そのものであろう。

 民主党は今後国政選挙を戦うとき、マニフェストに掲げた政策を訴える際、「できないことも出てくるかもしれません」を枕詞としなければ、「正心誠意」に反することになる。

 あとで約束が約束でなかったことを思い知らせるよりも、最初から約束が約束とならないことを思い知らせておけば、国民は前以てそれなりの覚悟ができるし、失望・落胆の類を回避可能とすることができる。

 どのような政策であっても、マニフェストに掲げた政策で選挙を戦うには他党に優る自党の政策の優越性を信念してからではないと選挙を戦う資格を有しないということである。

 このような信念に対する認識を欠いているから、岡田副総理や小宮山厚労相のご都合主義が存在し得るのであり、野田首相の同じ民主党定期大会挨拶の「私たちは野党の時代にあって、情報や資料を十分に把握できていなかった面があります」とマニフェストの不備を自ら許すご都合主義が横行することになる。

 マニフェストに掲げる以上、その政策は他党の政策に優る優越性を備えていなければならないし、備えていると信念する強固な認識を持って初めて、政党間に政策の切磋琢磨、国会論戦の切磋琢磨を芽生えさせることになる。

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菅直人の原発事故避難指示、自己正当化のための薄汚い情報操作

2012-02-13 09:39:17 | Weblog

 昨2月12日(2012年)「NHK NEWS WEB」記事が、菅が近藤駿介原子力委員会委員長に指示、作成させた、いわゆる「原発事故最悪シナリオ」の内容とその未公表問題について詳しく報道している。《“深刻事態シナリオ”公表せず》(2011年2月12日 19時4分)

 記事を纏めてみる。

●2012年3月22日、菅、近
 藤原子力委員会委員長に最悪事態想定のシナリオ作成要請
●2012年3月22日、近藤原子力委員会委員長、当時の総理大臣補佐官細野原発事故担当大臣に
 提出
●タイトル 「福島第一原子力発電所の不測事態シナリオの素描」
●内容――「今後起こり得る不測の事態とその影響、それらを防ぐためにとるべき対策」
●想定し得る不測事態
 1号機水素爆発発生→原子炉注水不可能→付近の放射線量上昇→作業員退避→4号機燃料プール
 注水不可能→燃料露出と融溶→同時に2号機・3号機注水不可能→格納容器損壊→放射性物質
 の外部大量放出
●不測事態に対する対応措置
  半径170キロ、住民強制的移転 
  半径250キロ、住民任意の移転(福島第1原発~東京220キロ)
●対策
  水素爆発防止のための格納容器への窒素注入
  原子炉冷却手段の多様化、海水注水から淡水注水への切り替え
  水源確保
●提出後の 「福島第一原子力発電所の不測事態シナリオの素描」の扱い

 1.昨年末まで公文書として扱われず、情報公開の対象とされていなかった
 2.総理大臣の任務を補佐する内閣官房や内閣府、文書の存在を把握できず、公文書として管理
   できなかった 
 3.昨年末、情報公開請求をキッカケとして原子力委員会事務局が文書を探した結果、偶然、一
   部見つかり、初めて公文書として扱われる。
 4.内容について菅前仮免が昨年9月、NHKとのインタビューの中で明らかにする。

 関係者の発言。

 細野原発事故担当相今年1月6日記者会見で未公表について)「知っているのは総理と私程度で、そのほかに出していなかった。過度の心配を及ぼす可能性があると考えた」

 内閣官房「総理大臣や補佐官が個人的に受け取った文書については把握しきれず、指示がない場合は管理できない」

 近藤委員長「文書は3月22日に当時の菅総理大臣の要請を受けて作成した。『最悪のシナリオ』を想定するのが目的ではなく、起きうる不測の事態を考え、それを防ぐために検討すべき対策を示すのが目的だった」

 原子力委員会事務局(現在「福島第一原子力発電所の不測事態シナリオの素描」を保管)「委員長が個人的に作成したもので、本来は原子力委員会として保管する文書ではない。今回は偶然事務局で見つかったので保管している」

 「委員長が個人的に作成した」としているが、他の委員に話さずに作成したことを先ず問題としなければならないが、原子力委員会委員長の立場で作成したことと内閣総理大臣の要請ということになれば、政府が関わって作成した文書である以上、公文書の扱いとなるはずである。

 近藤委員長が他の委員の意見も聞かずに一人で作成したということは菅仮免が当初から秘密にしておく意図から、近藤委員長一人の作成としたということなのだろうか。

 国際政治が専門で、政府の公文書管理の実情に詳しいという植村氏の発言。

 植村秀樹流通経済大学教授「公人が公人に提出したもので、本来、内閣官房、原子力委員会の両方で保存すべき公文書だ。アメリカなどでは、このレベルの文書は、出した側、受け取った側の両方が保存している。総理や補佐官に対して提出された文書については、完全な『私信』以外は、すべて公文書であるという認識を持ち、保存・管理してもらいたい」

 記事は昨年9月のNHKとのインタビューで菅仮免がこの文書の内容を明らかにしたことを伝えている。

 だが、当時のNHKインタビュー記事は東電のベント作業の遅れと東電の清水社長との撤退問題についてのみの言及となっている。

 このブログ記事で問題としたいのは住民の避難範囲に関わる指示である。時事通信とのインタビューで菅仮免は触れている。

 その前に細野は2月7日(2012年)の参院予算委で「最悪シナリオ」について荒井広幸新党改革議員の質問に答えている。

 荒井議員「先ずお尋ねいたします。最悪のシナリオ、これについて細野大臣、誰と誰が知っていたんでしょうか」

 細野原発事故担当相「えー、お尋ねのシナリオでございますが、3月25日にですね、えー、菅総理が、えー、近藤原子力委員に対しまして、えー、要請をいたします。それに応える形で提出をされました。

 あのー、この中身でございますが、時間がありませんので、長くは申し上げません。書かれているポイントといたしましては、当面の避難の必要性という意味では、10キロ以上は必要でないと。

 但し、えー、この最悪のシナリオはですね、私の方から近藤委員長に対して、あり得ないと思うようなことを含めて起こってきたという、これまでの経緯がありますから、最悪の最悪は何かということをですね、最悪の最悪ということを考えて、えー、作ってくれということを申し上げました、ので、1号機の原子炉そのものが、そのものの爆発というですね、えー、当時はもう、あのー、誰が見ても、えー、炉が損傷されておりましたから、あり得ないだろうということを、敢えて想定して、作ったものでございました。

 ですので、私が受け取ったとき、一つホッとしましたのは、これだけ最悪のことを想定しても、えー、当面の20キロというところに関しては妥当だという、そういう結果を出したことに関しては、若干ホッとしました。

 しかし一方で、そうなった場合には、えー、4号機についての対応ができなくなると、え、そして時間をかけて、えー、避難をしなければならない範囲が拡大する可能性があるということでございましたので、そのことについては非常に大きな危機感を持ちましたので、そこで、そうならない対応のように全力を尽くしたということでございます。

 え、様々な受動可能性、措置であるとか、万が一に対してきちっと対応できるような備えを含めて、え、そのことを実行する、えー、人間として、総理から馬渕補佐官を任命をしていただいたということでございます。

 従いまして、馬渕大臣補佐官はこのことを承知をされております。ですので、今申し上げました菅総理、そして、え、近藤原子力委員長、馬渕総理補佐官、そして私がこの情報については完全に共有をしておりました。

 そのほか、えー、当時枝野官房長官でしたか、こういうことをしているということについては、シュミレーションとしているということについてはですね、ご報告をしておりましたが、詳しい情報の共有というのはしておりませんので、このようにというのがご答弁になります」

 天下の一大臣である。もう少し簡潔・的確な発言ができないのだろうか。新聞は記事にした場合、発言を纏めるから的確な発言に見えるが、直接接すると、ムダな言葉が目につくことになる。

 言葉は情報伝達の的確性、速度に深く関係してくる。満足な情報伝達が期待できない印象しか浮かばない。

 荒井議員「議事録がない。不都合な真実と言いますか、事実を隠しているのかなと、非常に強く思ってるんです」

 荒井議員は「政府与野党合同実務者会議」の議事録記載問題に質問を変えて、「最悪のシナリオ」に関してはそれ以上の追及はしなかった。

 細野原発担当相は上記「NHK」記事では「最悪のシナリオ」を未公表としたことについて1月6日記者会見で、「過度の心配を及ぼす可能性があると考えた」と言っている。

 だが、この国会答弁では、「私が受け取ったとき、一つホッとしましたのは、これだけ最悪のことを想定しても、えー、当面の20キロというところに関しては妥当だという、そういう結果を出したことに関しては、若干ホッとしました」と言っている。

 当時の避難状況と東電撤退問題を「福島第一原子力発電所の不測事態シナリオの素描」の受領との関係で見てみる。

2011年
 3月11日、第1原発半径3キロ圏内避難指示・3キロ~10キロ圏内屋内退避指示
 3月12日、第1原発半径10キロ圏内避難指示
       第2原発半径3キロ圏内避難指示・3キロ~10キロ圏内屋内退避指示
 3月15日、午前4時過ぎ東電清水社長、首相官邸で菅仮免と撤退問題を話し合う 
 3月15日、午前5時35分東電本社に政府・東電福島事故対策統合対策本部を設置
 3月15日、午前11時00分第1原発半径20キロ~30キロ圏内屋内退避指示

 3月23日、「最悪シナリオ」の作成を近藤原子力委員会委員長に要請
 3月25日、「最悪シナリオ」を細野原発事故相に提出

 4月21日、第1原発半径20キロ圏内警戒区域に設定
       第2原発の避難区域を半径10キロ圏内から8キロ圏内に変更
 
2012年1月6日 
 細野原発事故担当相「知っているのは総理と私程度で、そのほかに出していなかった。過度の心配を及ぼす可能性があると考えた」

 3月25日から4月21日に至る過程で発表があっても然るべきであり、例え警戒を緩める状態でなくても、住民が避難に前以て備えておくためにも3月25日の受領後直ちに発表があって然るべきだったろう。

 備えもなく、住民が知らない最悪想定が実際に最悪事態として突発的に襲来してからではなお一層のパニックを引き起こさない保証はない。

 菅仮免は一国のリーダーとしての情報の扱い・情報共有の的確な方法に無知だったとしか思えない。

 菅前仮免が避難範囲についてインタビューを受けた記事を見てみる。《菅前首相インタビュー要旨》時事ドットコム/2011/09/17-19:58)

 2011年9月17日までのインタビューで、NHKのインタビューは9月11日、時期はほぼ重なる。

 記者「避難区域を半径3キロ、10キロ、20キロと拡大させた対応について」

 菅仮免「複数の原子炉がシビア・アクシデントを起こした経験はどこの国にもない。夜中に、機械的にやっても逃げられるのか。一軒一軒の戸をたたいて、誰が起こすのか。逃げられるような段取りを含め、結果として段階的に広げた。間違っていたとは思わない」

 記者「3月16日に『東日本がつぶれる』と発言したと伝えられた。」

 菅仮免「そんなことは言っていない。最悪のことから考え、シミュレーションはした。(東電が)撤退して六つの原子炉と七つの核燃料プールがそのまま放置されたら放射能が放出され、200キロも300キロも広がる。いろいろなことをいろいろな人に調べさせた。全て十分だったとは思わない。正解もない。初めから避難区域を500キロにすれば、5000万人くらいが逃げなければならない。高齢者の施設、病院もあり、それも含めて考えれば、当時の判断として適切だと思う」・・・・

 段階的避難区域拡大とそれぞれの避難範囲設定を正当化する発言となっている。
 
 「いろいろなことをいろいろな人に調べさせた」は主として近藤原子力委員会委員長を指し、そのことによって知り得た知識の出所は「福島第一原子力発電所の不測事態シナリオの素描」であるはずだ。

 繰返しになるが、「最悪シナリオ」に於ける避難範囲については細野原発事故相は2月7日(2012年)の参院予算委で、「一つホッとしましたのは、これだけ最悪のことを想定しても、えー、当面の20キロというところに関しては妥当だという、そういう結果を出したことに関しては、若干ホッとしました」と証言している。

 3月25日以降の時点で、「当面の20キロ」は妥当な避難指示だと言っている。

 但し不測事態に対する対応措置に関して「最悪シナリオ」とした「福島第一原子力発電所の不測事態シナリオの素描」の「半径170キロ、住民強制的移転」、「半径250キロ、住民任意の移転」という想定は、菅仮免が言っているように「(東電が)撤退して六つの原子炉と七つの核燃料プールがそのまま放置されたら放射能が放出され、200キロも300キロも広がる」「初めから避難区域を500キロにすれば、5000万人くらいが逃げなければならない」といった被害の極端な甚大さを否応もなしに想像させ、聞く者をして恐怖させるような大袈裟な表現で示さなければならなかった想定だったろうか。

 断っておくが、3月15日午前5時35分に東電本社に政府・東電福島事故対策統合対策本部を設置した時点で東電の第一福島原発からの撤退問題は解消していたのである。

 そして統合対策本部設置から約5時間半後の3月15日午前11時00分に20キロ~30キロ圏内屋内退避指示を行なっている。

 これは東電の撤退問題が解消したからこそできた20キロ~30キロ圏内屋内退避指示であろう。

 それを9月になってから、「(東電が)撤退して六つの原子炉と七つの核燃料プールがそのまま放置されたら放射能が放出され、200キロも300キロも広がる」と言っている。

 あくまでも3月25日受領の「福島第一原子力発電所の不測事態シナリオの素描」に根拠をおいた、受領以前は何ら根拠もない、にも関わらず、もはやあり得ない東電撤退を持ち出して大袈裟に表現した、「200キロも300キロも広がる」であり、「初めから避難区域を500キロにすれば、5000万人くらいが逃げなければならない」であった。

 自身の避難指示を正当化するために情報操作・虚偽情報まで用いたのである。

 避難指示正当化を通して、原発事故全対応のすべてを自己正当化したい衝動を働かせていたはずだ。

 このことは大震災の復旧・復興対策及び原発事故対応に関して実態とかけ離れているにも関わらず、「内閣としてやらなければならないことをやってきた」の強弁を国会答弁の常套句としていたことが証明している。

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安住財務相の原発事故因果関係を忘れた不謹慎・無責任な「死んだ町」発言

2012-02-12 09:23:20 | Weblog

 ベビーギャングとかいう有り難いキャラクター名を賜っているらしい安住財務相が一昨日2月10日(2012年)開催の衆院予算委での発言。

 質問者は内山晃新党きづな議員。福島第1原発事故による放射性物質汚染地の活用方法をめぐる質疑で、長期居住制限の土地利用について。

 安住財務相「使えなくなった土地をどのように使うかということを、今、地元で考えている。
 
 死んだ土地を生き返らせるというか、そういう、いわば逆転の発想でやれるような知恵と工夫を出していきたいNHK NEWS WEB

 同じニュースを扱った「MSN産経」記事は、〈居住できない土地を国が買い上げて太陽光発電基地にするよう提案。〉と書いている。

 多分、福島の土地を「生き返らせる」という思いに重点を置いた発言なのだろう。だとしても不謹慎極まる、無責任そのものの発言である。
 
 決して「死んだ土地」ではない。放射能に汚染させられた土地、被曝させられたのであって、放射能の浸透範囲以下の地下では土地としての従来の命を脈々と生きづかせているはずだ。

 また、「生き返らせる」という言葉は常に死の状態を対象とした蘇生作用を言うわけではない。生の状態にありながら活力を喪失した対象や年齢的に衰退した対象、あるいは稼動状態にあるが、長期に亘る運転によって機械的に劣化した対象を様々に工夫を凝らして生き返らせる蘇生作用に関しても言う。

 だが、安住財務相は表面的に把えて、「死んだ土地」だと、死の状態に貶めた対象を「生き返らせる」蘇生作用に使っている。

 もし「死んだ土地」という表現が許されるとしたなら、国が死なせた土地である。

 決して言葉遣いの問題ではない。原発事故に関わる因果関係を一切抜いている認識不足が招いている誤った表現であろう。
 
 言葉遣いの問題としては、「死んだ土地を生き返らせる」ことを「逆転の発想」と言っているが、死を生に変えることは状態の逆転であって、発想の逆転には当たらない。ごく常識的な当たり前となっている発想を破って別の発想に変えることを言うはずだ。

 これも認識不足が招いている言葉遣いの間違いであろう。

 原発事故の直接的な原因は東日本大震災の津波だろうが、間接的原因は国の原子力政策にある。この後者の原因が招いて原発事故を結果とした因果関係がそこにある以上、国の責任が関わることになって、政府の一員が軽々と「死んだ土地」とは言えないはずだ。

 だが、深い認識もなく因果関係を無視し、国の責任を棚に上げて、「死んだ土地」と表現した。このことを以って不謹慎・無責任と言わずに他に表現しようがない。

 既に当ブログに取り上げたことだが、国の原子力政策が原発事故を招いた因果関係を取り上げてみる。

 1990年(平成2年)8月30日原子力安全委員会決定の「発電用軽水型原子炉施設に関する安全設計審査指針」には次のような記載がある。

 〈指針27.電源喪失に対する設計上の考慮

長期間にわたる全交流動力電源喪失は、送電線の復旧又は非常用交流電源設備の修復が期待できるので考慮する必要はない。

非常用交流電源設備の信頼度が、系統構成又は運用(常に稼働状態にしておくことなど)により、十分高い場合においては、設計上全交流動力電源喪失を想定しなくてもよい。〉

 国の原子力政策は全電源喪失しても重大事故に至らないから、「全電源喪失」を想定した備えは必要なしとしていたのである。

 だが、東電福島第1原発では全電源喪失が発生して原子炉の冷却が効かなくなり、最終的に高濃度の放射線漏出に至った。

 国の原子力関係者にしても原子力発電所関係者にしてもはこの指針決定後、「全電源喪失」想定必要なしに従って行動した。

 斑目原子力安全委員長は2007年に浜岡原発差し止め訴訟での被告側の証人となっている。いわば浜岡原発の利害を代弁する立場に立っていた。

 斑目委員長「何でもかんでも、これも可能性ちょっとある、これはちょっと可能性がある。そういうものを全部組み合わせていったら、モノなんて絶対造れません。だから、どっかで割り切るんです」

 「発電用軽水型原子炉施設に関する安全設計審査指針」も原子力発電所も現状のままで安全は保証されると証言したのである。

 2010年5月、衆議院経済産業委員会――

 吉井英勝共産党議員「電源も切断されて、あのー、原発停止となった場合には、最悪で見ますと、どういう事態が起きるとお考えになるのか、伺います」

 原子力安全・保安院長「多重防護の考え方に基づいて、その設計がなされまして、それによって安全性を確保しているというところでございます」

 吉井英勝共産党議員「最悪の場合に炉心溶融ですね。最悪のとき」

 原子力安全・保安院長「あの、最悪と言いますか、あの、まあ、それでも(笑いながら)、そういった事態が起こらないように、あの、設計、工学上の設計、あの、殆んどそういうことはあり得ないだろうというぐらいの安全設計をしているところでありますけども」

 吉井議員は全電源が喪失した場合の最悪事態の危険性を想定していた。対して保安院長は原子力安全神話に立っていた。

 2011年3月22日の参議院予算委員会――

 福島瑞穂社民党党首「割り切った結果が今回の事故ではないですか?」

 斑目原子力安全委員会委員長「確かに、あの、割り切らなければ、あの、設計できないというのは事実でございます。で、その割り切った、あ、割り切り方が正しくなかったということも、あのー、えー、我々は十分反省してございます」

 全電源喪失は想定しなくてもよしとしたことをも含めた“割り切り” を正当としながら、過酷事故(シビアアクシデント)が発生してから、「正しくなかった」と言う。

 原子力安全委員会は内閣府に設置されている国家行政機関である。内閣総理大臣を通じて関係行政機関に勧告する権利を持っている。

 その原子力政策に誤りがあり、「原子力安全神話」を打ち立てるに功績があった。すべての本(もと)は国に責任がある。

 要するに安住財務相が「死んだ土地」などと軽々しく不謹慎・無責任に発言できたということは福島原発事故と放射能汚染に関して国に重大な責任があると認識してはいなかった、責任感も痛感していなかった、国が放射能汚染させた福島の土地でもあるという思いも持っていなかったということに尽きるはずである。

 大震災11か月目の前日の発言とは何かの因縁を感じる。復旧・復興の全体を覆っている国の無責任さと好対照をなす安住財務相の無責任さでもあることからの11か月目という節目がもたらした因縁にみえて仕方がない。

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政治が国民の期待に応えていなことの全体責任は首相以下閣僚の俸給と政党助成金全額返上をムチとすべき

2012-02-11 10:44:43 | Weblog

 政治が国民の期待に応えていないことは衆参ねじれ状況を受けて何も決めることができない事態に陥っていること、政治が何ら機能していないこと、このことの評価として世論調査が示すことになっている二大政党の民主、自民の政党支持率が各20%以下、支持政党なしの無党派が50%前後の政治不信に現れている。

 いわば今の政治は不甲斐ない体たらくを曝している。

 中央政治のこのような体たらくの反動として注目を浴びている橋下大阪市長その他の地域勢力への期待の高さであろう。

 中央政治の情けない姿は何よりも第一番に鳩山・菅・野田の民主党政権の責任とその能力の問題であり、このことに満足に対処することができない国会議員全体の責任とその覇気(進んで事に当たろうとする意気込み)の問題でもあるはずだ。

 何よりも民主党政権に責任はあるが、すべての国会議員を含めた政治全体の問題だということである。

 戦後ほぼ一貫して自民党一党独裁の政治状況が続き、その長期政権化によって政治は利益誘導を実体とする腐臭・腐敗を引き起こし、財政悪化の一途を辿って、その軌道修正が格差社会をつくり出した。

 一党独裁状態に競争原理を取り入れることによって政策を競争させ、相互に向上を図る機会とするために政権交代の必要性を感じて民主党に投票した。

 だが、政権交代は呆気なく幻想と化した。何も解決してくれない状況が続いている。

 このことは競争原理を取り入れるだけでは各政党間の相互利害の剥き出しの衝突を招くだけで効果はなく、国民が政府閣僚や国会議員にしっかりしろと思い知らせる何らかの効果ある、より直接的なムチが必要なことを教えている。

 最も効果てきめんの第一番のムチは選挙で落とすことだが、全員を落とすことは不可能で、国民の期待に応える政治を行なっていない議員であっても、誰かが当選することになる。

 このような当選状況は現在、選挙に当選という形で国会の議席を占めている国会議員の面々が国民の期待に応える政治を行う能力がないままに国会議員のバッジだけはしっかりとつけていることに現れている。

 では、どのような効果的なムチがあるだろうか。

 政府は国民に負担を与える消費税増税に国民の理解を得るためには、「隗より始めよ」(野田首相)と自らが身を切ることになる国家公務員人権費削減や衆議院定数削減を行う方針でいるが、この方法は政治全体の責任を問うものではないゆえに国民の期待に応えることのできない政治は依然として残ることになる。

 あくまでも首相以下の閣僚や全国会議員に直接振るって痛みを思い知らせるムチでなければ、厚顔無恥が多い人種でもあるのだから、国民の期待に応えることのできない政治責任に向けた腹に響くムチとはならない。

 現在、首相報酬30パーセント、各閣僚報酬にあっては20パーセント減額の「国家公務員の給与の臨時特例に関する法律案」を国会に上程、衆議院で審議中だが、これは東日本大震災への対応等のための歳出削減に資することが目的であって、国民の期待に応え得ない政治責任にムチを与える種類のものではなく、政治不信を撒き散らしている責任に直接痛みを思い知らせることに関してはドジョウのツラにショウベン程度の効果しか出てこないはずだ。

 同じカネ責めなら、ムチとしての効果を持たせるために首相の俸給月額2,060,000円、各閣僚俸給1,503,000円を全額返上、国会議員に関しては政党補助金を全額返上、共に議員歳費のみで政治活動を強いるムチこそ、「最善・最強」の方法と言えないだろうか。

 今年度各党に交付される予定の政党助成金額を「NHK NEWS WEB」(2012年1月17日)記事から見てみる。

 ▽民主党     ――165億0400万円
 ▽自民党     ――101億5400万円
 ▽公明党     ―― 22億7900万円
 ▽みんなの党   ―― 11億1800万円
 ▽社民党     ―― 7億6300万円
 ▽国民新党    ―― 4億4200万円
 ▽新党きづな   ―― 2億0700万円
 ▽たちあがれ日本 ―― 1億7300万円
 ▽新党日本    ―― 1億3600万円
 ▽新党改革    ―― 1億1900万円
 ▽新党大地・真民主―― 1億1500万円


 政治が国民の期待に応えていないのである。政治が満足に機能していない。政府の責任として閣僚俸給全額返上、国会議員の責任として政党補助金全額返上といったこれくらいの過激なムチでなければムチとしての効果は出てこまい。

 議員歳費だけの政治活動となれば、国民が日々強いられている遣り繰り算段も学ぶに違いない。

 新人議員、古手議員の区別なく平等を保つために当分の間、政治資金パーティも禁じることにしなければならない。

 ムチを与えるための俸給全額返上、政党補助金全額返上である。個人献金者も同調せざるを得なくなり、暫く献金を中止する状況が出てくるかもしれない。

 痛みを真に痛みとしたとき、口先だけではない閣僚としての、あるいは国会議員としての責任感、覇気が出てくるはずだ。

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復興庁発足による復興加速化は縦割り二重行政がその障害として立ちはだかるのか

2012-02-10 11:18:26 | Weblog

 復興庁の今日2月10日発足を各マスコミが伝えている。殆どの記事が、「縦割り」あるいは「縦割り行政」、「縦割り構造」、「二重行政」といった文字を踊らせ、その打破の可能性を、どちらかと言うと疑問符付きで問うている。

 このような報道姿勢を裏返すと、各省庁の意思決定が依然として縦割り構造で行われ、そこから脱することができず、その延長上に復興庁の意思決定を把えていることを示している。

 いわば意思決定に関して既存の他の省庁の縦割りを引きずって、あるいは影響を受けて、同じ二の舞を繰返すのではないかという危惧からの報道姿勢であろう。

 勿論、各記事ともその根拠を具体的に述べている。

 縦割り行政とその弊害は久しく言われてきた。だが、弊害を抱えたまま、縦割り行政から脱することができないでいる。日本の官僚は優秀であると言われていながらの旧弊呪縛という逆説は何を意味するのだろうか。

 復興庁がどのように位置づけられているのか、《復興庁発足へ 迅速対応が課題》NHK NEWS WEB/2012年2月10日 4時28分))から見てみる。

 発足日
 2012年2月10日

 大臣
 平野達男

 設置期間
 今年度から10年間の時限的設置

 所在
 復興庁――東京(本庁)
 復興局――岩手・宮城・福島の各県庁所在地3箇所
 支 所――沿岸部6カ所と水戸市、青森県八戸市

 復興庁権限
 復興予算の一元的所管
 他の省庁よりも上位に位置。
 政策面に於ける勧告権限を他の閣僚に対して保持

 この記事は直接的には「縦割り」という言葉は使っていないが、記事最後で間接的に触れている。

 〈ただ、高台移転など復興に必要な事業を巡っては、ほかの省庁との調整が必要な案件が多く、被災地の要望を踏まえて迅速な対応ができるのかが課題となりそうです。 〉・・・・

 他の省庁との調整に関して縦割りの壁にぶち当たる懸念を伝える文言となっている。

 では、縦割りとその弊害に関わる懸念報道の代表的な記事を一つ取り上げてみる。《二重行政懸念の声=ワンストップ実現に縦割りの壁-復興庁、10日に発足》時事ドットコム/2012/02/08-14:47)

 先ず復興局について。

 〈被災自治体の要望を一元的に受け付けて対応するワンストップサービスの受け皿となる。〉

 野田首相「ワンストップで被災地の要望を受けて迅速に取り組む」

 マスコミの懸念どこ吹く風の発言となっている。これがドジョウのツラにショウベンなのかどうかは暫く様子を見ないことにははっきりとしない。

 被災自治体「他の府省にも陳情しないと予算が付かないのでは」

 〈二重行政を懸念する声が出ている。〉
 
 〈中央省庁の縦割り構造を打破して「市町村の良き相談相手」(平野達男復興担当相)になれるのか、課題を抱えたままのスタートとなる。〉

 宮城県沿岸部の自治体職員(復興局前身の現地対策本部について)「現地本部は東京に伝えるだけ。何も決められない」

 須田善明宮城県女川町長「復興局ができても意思決定は東京となると、被災地の望むテンポに合わない」

 縦割り構造による二重行政の懸念を伝えている。

 財源
 復興交付金――2011年度、12年度併せて計1兆8000億円

 配分権限
 復興庁が国土交通省等5省所管の40事業を束ねて一括配分

 交付金対象事業決定権限
 復興庁になし
 国土交通省等5省が握る

 記事は、〈被災自治体は、申請は復興庁、問い合わせは各省と二度手間を強いられる。〉と書き、次いでこれだけの縦割りにとどまらない危険性を伝えている。

 〈各府省からの出向職員による寄り合い所帯の復興庁は、縦割り行政がそのまま持ち込まれる。同庁は、各府省が実施する復興関連事業の予算配分額を決める「箇所付け」作業を担うが、実態はそれぞれの府省の担当職員が復興庁の箇所付けポストを兼務するだけで現状と変わらない。〉・・・・・

 復興庁がいくら各復興事業を束ねて予算の配分権限も握っていても、自らは復興事業を決定する権限がなく、他の省庁が握っていて決定する関係から、配分する予算規模も他の省庁の決定に対応した配分権限となるということを伝えている。

 当然、復興庁は他の省庁の操り人形になりかねない懸念が生じる。

 奥山恵美子仙台市長「復興事業推進のスピードを加速させる役割を果たしてほしい」

 国会議員(復興庁設置法作成に携わっている)「復興局に予算、権限をどれだけ東京から下ろすことができるかが成否のカギ」

 各府省からの出向職員が出身本省の意向を各自反映して縦割り構造に支配されていたなら、本体の復興庁自体が縦割り発信体となって復興局の決定を左右しかねないことになり、縦割り構造は各府省から復興庁を通じて復興局にまで伝染し、蔓延することになる。

 要は平野大臣が他の省庁に対して上位に位置づけられている優越的権限を如何に有効に駆使し、被災自治体の要望を自らの意思に代えて実現に向けた強力な指示を発揮できるかどうかのリーダーシップ(=指導力)にかかってくることになる。

 政府に関しても同じことが言えるが、最終的にはリーダーのリーダーシップ(=指導力)がすべてを決定する。

 管もなし、野田もなし。平野復興相をバックアップする野田首相にリーダーシップ(=指導力)がなければ、平野首相が逆立ちしても縦割りに抗することは難しくなる。

 縦割りに抗し切れずに各省庁の顔も立ててといった馴れ合いを生じせしめた途端に縦割り行政という怪物の活躍の余地を好き勝手につくり出すことになる恐れが出てくる。

 縦割りを構造とした二重行政は時間と手間とカネのムダ遣いを生じせしめる。そこに各省益が絡んできたら、各事業に配分する財源上のムダも加わって、民主党が掲げる「ムダ削減」を有名無実化する。

 このことを裏返すと、縦割り行政の打破、二重行政の解消も「ムダ削減」の対象としなければならないということである。

 だが、打破も解消もできずに生き永らえさせている。

 なぜ縦割り構造、縦割り行政を打破できないのか。日本人の思考様式・行動様式となっている権威主義性から出ている組織構造だからであろうことは、大分前のことになるが、2006年7月29日当ブログ記事――《縦割りとセクショナリズムに寛容であろう - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》に書いた。

 〈組織・社会に於いて各権威は常にピラミッド型を形成するが、権威主義を行動原理とした組織・社会の場合は権威関係は上下の一方向により強く働き、そのことが各権威関係間の水平方向への力を弱める。権威主義の上が下を従わせ・下が上に従うメカニズムが上は従わせる下を固定化し、下は従う上を固定化する方向性を支配的とするからだろう。

 権威主義に於けるそのような上下関係の固定化が〝縦割り〟業務となって現れ、意識の面でセクショナリズム(縄張り意識)を生じせしめる。いわば権威主義は〝縦割り〟とセクショナリズムを常に常態化し、両者は相互補完し合う運命共同体の関係にあると言える。

 日本人は歴史・伝統・文化的に権威主義を自らの行動原理としてきた。その関係からして、日本の社会、あるいは各組織が縦割りとセクショナリズムを制度・慣習としているのは何の不思議もないごく当たり前の光景である。権威主義を行動原理としていながら、縦割り・セクショナリズムを組織運営上の習わしとしていなければ、矛盾が生じて日本社会とは言えない。言い換えるなら、縦割り・セクショナリズムは日本人にとってごく自然な血としてある。〉云々・・・・・

 縦割り構造は何も官庁のみではない。民間企業も教育機関も、その他ありとあらゆる日本の組織を支配する構造となっている。同じく権威主義の思考様式・行動様式を基本としているからだ。

 現地アメリカ企業が在米日本企業に商談を持ち込むと、本社に相談の上決めると言われることが多く、在米日本企業には決定権がないことを思い知らされるばかりか、時間がかかることを嘆かなければならないという。

 このことは先に触れた宮城県沿岸部の自治体職員が復興局前身の現地対策本部について言っていた、「現地本部は東京に伝えるだけ。何も決められない」という言葉、須田善明宮城県女川町長が言っていた、「復興局ができても意思決定は東京となると、被災地の望むテンポに合わない」という言葉と重なる二重行政ならぬ縦割り構造の二重決定ということであろう。

 ただ、官公庁よりも民間企業が少しましなのは、同じ縦割りの意思決定構造となっていても、民間は成績という監視が効いているために成績に尻を叩かれて業績だけは上げる点である。

 このことは民間のホワイトカラーよりも公務員の生産性が高いことが証明している。

 意思決定に関して他国に伍していくためには縦割り構造を廃しなければならないはずだ。

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