北大路機関

京都防衛フォーラム:榛名研究室/鞍馬事務室(OCNブログ:2005.07.29~/gooブログ:2014.11.24~)

舞鶴田辺城 京都府北辺にて丹後を治めた城郭の遺構

2009-06-15 17:46:35 | 写真

◆京都最北の城址公園

 山陰本線から舞鶴線で、京都府の日本海側、日本海防衛の要衝舞鶴基地へ向かう途上、西舞鶴駅を発車し終点の東舞鶴へ列車が動き出したところで、注意深く車窓の先を見渡すと、幽かに城郭のようなものがみえる。

Img_6977  この城郭こそ、舞鶴城として親しまれる田辺城の姿である。西舞鶴駅にて特急を降り、そこから歩くこと数分、田辺城の城門が見えてくる。田辺城は、細川藤孝が織田信長からこの地を与えられ、1579年に造営された城郭で、完成したのは1581年、本能寺の変の前年だ。もともとは宮津城を居城としていた細川藤孝が、交通の要衝である田辺に居城を移したことで誕生した。

Img_7039  田辺城は、輪郭式平城として天守閣も有した城郭構造となっていたが、1600年、東軍についた細川氏に対し石田三成隷下の15000名が攻撃を加え、当時の城主細川忠興以下2800名が徳川家康の上杉征伐へ出陣していたことから、城に残った僅か500名が細川藤孝とともに籠城することとなった。この田辺城籠城は、50日間に及び、細川藤孝の身を案じた後陽成天皇の仲介もあり、開城に至った。

Img_7036 その後、江戸時代に入り、細川忠興が小倉に移ったのち、京極氏のもとで舞鶴藩が創立されたが、一国一城令により破壊、舞鶴藩が宮津藩、田辺藩と別れた際、再び田辺城が藩主の居城として再興された。この混乱とともに天守閣などは失われており、京極氏から牧野氏と藩主の変遷を辿りつつ、1874年に廃藩置県とともに廃城となった。

Img_6981  当時の遺構は石垣、堀、庭園などとなっており、加えて1940年に櫓が、1997年に城門が再建され、現在は自由に立ち入ることが出来る公園として市民に開放されている。別名舞鶴城と呼ばれる田辺城だが、舞鶴とは舞鶴市と同じマイヅルではなく、ブガク、と読むのだそうだ。

Img_6982 旧海軍の航空母艦などで瑞鶴をズイカク、翔鶴をショウカクと読むのだから合点は行くのだが、まいづる、と呼び慣れた優美な地名の地に、ぶがく、という威厳を伴ったような響きの別名をを聴くと、ある種新鮮に思えてくる。他方、舞鶴、つまりブカクと呼ぶ空母も、あり得たのかな、と思ったりもしてしまう。

Img_7046  さて、舞鶴という地名は、天橋立を始めとした美しい地形が、舞う鶴の翼を思い起こさせる優美な地名なのだが、宮津、田辺という地名はあったものの、舞鶴という地名が定着したのは、明治時代に入ってのことである。これは、田辺という地名が和歌山にもあり、紀伊田辺との混同を避けるために、明治初期、廃藩置県の直前に舞鶴藩という名前が再興したことが、今日の舞鶴市につながっているともいわれる。

Img_6991  田辺城は、ごく一部が再建されているにとどまり、二層櫓、城門以外は、庭園が往時の様子と時の流れを現代に伝えているのみである。従って、舞鶴線の車窓からは、このような城郭らしい姿は見ることが出来ず、庭園が手前に、そしてその向こう側に二層櫓や城門がみえる、という配置になっている。

Img_6985  城門の銃眼。ここから鉄砲などを突きだしてみると、撮影につきだしたのはカメラとレンズだが、射線に道がしっかりと収まる。この写真を撮ったあたりで雨が降り始めてきた。城門の建築物は、その中が田辺城資料館となっており、こちらも無料で開放されているので、見学することとした。

Img_7010  “いにしへも今もかはらぬ世の中に こころの種を残す言の葉”、舞鶴と田辺城を造営した細川藤孝の言葉である。細川藤孝、またの名を細川幽齋は、古典文学や政治儀礼、能楽に秀でた伝承者で、朝廷との橋渡しとして、足利義昭、織田信長や徳川家康に仕えた安土桃山時代の武将だ。

Img_6996  田辺城資料館は、交通の要衝としての舞鶴の歴史や、田辺城の誕生や、変遷、田辺城籠城などの城の歴史などが展示されている。ちなみに、今日、舞鶴市役所は、東舞鶴に置かれているが、もともと東舞鶴は、旧海軍が舞鶴鎮守府を置くにあたって誕生した軍事都市で、東舞鶴市と西舞鶴市が合併することにより舞鶴市が誕生したとのこと。

Img_7002  歴史などを解説するパネルだけではなく、舞鶴の昔を再現した模型、そして大名行列などの情景の模型に加え、火縄銃や刀、甲冑などといった武具も展示されている。この田辺城資料館は、0900~1700時に開かれており、閉館日は毎週月曜日、月曜日が祝日の場合は、その翌日が閉館日となる。

Img_7044  大きな城郭でもなく、建築物も重文や国宝のようなものはないが、京都府北辺の城郭ということで、楽しむことが出来た。こうして田辺城を一通り見学し、西舞鶴駅に向かう。西舞鶴と東舞鶴はひと駅違いだが約7kmの距離があり、舞鶴線の運行本数が特急を含めても毎時0~2本と、非常に少なく、さらに終電が運行される時間も早いことから、移動には時刻表と時計の確認が必要だ。西舞鶴は、JR西日本と、北近畿タンゴ鉄道が乗り入れている。

Img_7052  田辺城と京都府警舞鶴警察署。庭園とともに親しまれる田辺城、夜の城郭というと、立ち入ることができるとしても、やや怖く感じることもあるが、警察署が隣にあるので、治安は安心だ。場所は、西舞鶴駅から歩いてゆくので基本、町が合うことは無いと思うが、線路から見える道筋を歩いてゆけば迷うことは無い。

Img_70511  田辺城と警察署、そして駅前と駅前に広がる商店街。典型的な城下町としてのつくりとなっている。駅前を歩いてみると、東舞鶴と比べ、西舞鶴の方が商店街の規模もやや大きく、ホテルの数も多いようだ。これは、天橋立に向かう北近畿タンゴ鉄道の始発駅が西舞鶴にあるということで、観光地としての役割がある為だろう。

Img_7161  田辺城最寄の西舞鶴駅へは、JR西日本の特急まいづる号が、京都駅から運行されており便利である。使用される183系特急車は、北陸本線特急雷鳥に使用される485系から改造されたものもあり、設備も含め、古いことは否めないが、言いかえればレトロ感溢れる特急だ。窓が小さいのがやや残念だが、旅情を感じることが出来る特急。

Img_5566  観光特急として、北近畿タンゴ鉄道のタンゴディスカバリー号が運行されている。本数は、まいづる号と比べ少ないが、KTR-8000形気動車は比較的新しく、展望スペースも設けられている。また、新大阪から北近畿タンゴ鉄道線を経由し西舞鶴に向かうタンゴエクスプローラ号には、眺望が素晴らしいハイデッカー構造のKTR001形気動車が使われている。

HARUNA

[本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる]

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする