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【京都幕間旅情】寂光院,静けさの大原と平家物語大原御幸は諸行無常という六道語りを今に伝える

2024-10-23 20:00:54 | 写真
■平家物語ゆかりの地
 大原というと京都市内でもはるか北の先という印象が有りますが実際に散策してみますと此処を隠遁の地とした人々のきもちがよくわかる。

 寂光院、京都の奥座敷と言われる大原は左京区大原草生町という、特に奥まった、しかし静けさと共にある立地の尼寺です、山号は清香山、平家物語ゆかりの寺としても知られ、それは平清盛の娘である建礼門院徳子が晩年を過ごした寺院という歴史ゆえ。

 天台宗寺院である寂光院、この一帯の大原は三千院、梶井門跡として長らく洛中近くに位置していました寺院が当地に明治以降遷りまして歌にも謡われたほどなのですけれども、もともと当地は貴人の隠遁の地、という風情をたもっていまして。

 真如覚比丘尼という名に改めた建礼門院徳子は第3代住持として平家滅亡後の、しかし追討命令を発布した後白河法皇にとっても、結局は鎌倉幕府開府による武家社会が始まり、それは七百年にわたり朝廷と皇室は権威だけの世界に留まるところとなる。

 清香山の山号とともに、しかし実のところここ寂光院の寺院はその始まりの歴史がはっきりとわかっておらず、寺伝によればとう山の開基は聖徳太子、その創建は推古天皇2年こと西暦594年、最初の住持は聖徳太子の乳母玉照姫恵善尼とされています。

 声明、融通念仏、音韻により読経を広める大原声明発祥の地とされ、梵唄という大陸伝来の仏教声楽から日本の音楽、とはいいつつも仏教音楽という一つの体系ではあるのですが、その発祥の地でもあることから、日本における独自音楽が確立した地ともいう。

 聖徳太子が開いた、という寺伝は残るものの7世紀から12世紀まで、寂光院がどのような歴史をたどったかについては歴史として確認できるものが無く、建礼門院に仕えて後に出家した阿波内侍を、恵善尼に続く二代の住持として寺伝でも記しています。

 7世紀から12世紀までの空白、といいますと今の感覚では長大な時代の流れのようにも見えるのですが、ただこれも中世以前の時間感覚であり、それは堂宇に至る細いほそい参道を曲がり切った先に漸く庵の気配を感じまる石段を見上げた時間の感覚の違い。

 声明の里、といわれる大原は、いま、そう令和の時代に在っても声明を唱えれば山河にうっすらと透き通るような独特の空気感と共に、なにより今を以て洛中の喧騒は最寄り駅が10㎞以上先という風情立地の通り静けさを保ち、それは山内にあってもおなじ。

 本堂は、残念ながら放火によりご本尊ともども残念なことに2000年全焼してしまった。慶長年間に豊臣秀頼の命を受けた片桐且元が奉行となり造営した堂宇であり、しかし放火犯は今を以て逮捕されておらず、2005年に堂宇のみを再建しいまにいたります。

 旧本尊の木造地蔵菩薩立像は六万体地蔵菩薩とも称されていまして、本堂放火に際して焼損してしまいましたが全焼だけは免れ、美術院国宝修理所により三年間の期間を経て修繕、というよりも新しく彫像される事となりまして、いまにいたります。

 大原御幸、この寂光院を平家物語所縁の寺院としましたが、これは後白河法皇の文治2年こと西暦1186年、大原行幸の史実をもとにしました六道語りという一種の悟りを徳子が語る平家物語の段とともに、諸行無常というものを語る描写の舞台とのものです。

 寂光院はその大団円とは程遠いものの、一つの時代が終わる中で生き延びたことの命を問う、史実の人々のあったかもしれない一情景を描いているのですが。これがいまはアニメーションにより描かれ、印象的な作品があったのですね。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ まや
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