■大津駐屯地祭二〇二三
青空の大津駐屯地、ゴールデンウィーク最初の雨天予報はこの青空が天気予報の悲観論を否定しました。
大津駐屯地祭、ゴールデンウィークの前半である4月29日に創設記念行事が行われまして、COVID-19感染拡大以来初めての一般公開を行うとの事、わりとちかくですし、COVID-19収束見通しの証のような行事開催の一つという事で、ちょっと行ってきました。
南滋賀駅という、京阪電鉄石山坂本線の駅が最寄駅となっていまして、JR湖西線の唐崎駅からはシャトルバスが運行されていたようなのですけれども、石山坂本線の小さい京阪電車も道中撮影してゆこう、ということで浜大津経由で駐屯地へと駅から歩き向かいました。
滋賀県大津市際川の、駅から道は南側が歩きやすいのですが北側の細い道を用水路沿いにある非常に細い歩道を歩いてゆかなければ、ちょっと最後は小川というウェットギャップに行き止まりますので遠回りになってしまいます、この当たりの道は慣れが必要なのです。
海軍航空隊の基地が在った、この大津駐屯地には1942年から3年間ではありますが海軍航空隊がおかれた飛行場跡地となっていまして、水上飛行機を発着させるためのスロープがいまも駐屯地に残っています。個人的に水陸機動部隊を置いては、と思う駐屯地という。
強風、後に紫電改となります川西飛行機の水上戦闘機がこの琵琶湖で訓練飛行に当っていまして、滑走路を建設するよりも早く島嶼部に展開して制空権確保に当る、その為にゼロ戦の倍近い強力なエンジンと倍の機関砲を搭載する、そんな飛行機が此処を飛んでいた。
第33師団第136歩兵連隊、終戦後にこの大津海軍飛行場跡地はアメリカ陸軍が進駐することとなります、この第33師団は1968年に、ヴェトナム戦争の一番忙しい時期に、廃止されていますが、第136連隊はミネソタ州兵に移管、日本からアメリカへ戻っています。
アメリカ軍用地として1958年まで維持されていたようですが、その頃、1954年に創設された自衛隊は駐屯地を探し求めており、なにしろ方面総監部を宇治市に置くこととなり、これでは大阪が遠過ぎるとして幕僚がジープで駐屯地適地を探したという話さえある。
第三管区総監部は中部方面総監部となる際に伊丹駐屯地という、これも良く探したものだけれども、大阪第二空港が朝鮮戦争で拡大しそのまま八尾の大阪第一空港に代わり大阪の玄関口となった関係から、兵庫県なのだけれども大阪の玄関口という好立地なのでした。
第109教育大隊、第3衛生大隊、大津駐屯地はアメリカ軍から返還され自衛隊に移管されますと、先ずこの二つの部隊が置かれる事となります。先ずは教育からということで自衛隊は1959年に大久保駐屯地に第2教育団を新編します、いまの中部方面混成団の前身だ。
第2教育団は隷下に信太山駐屯地に第4陸曹教育隊と第108教育大隊、大久保駐屯地に第107教育大隊、ここ大津駐屯地に第109教育大隊、善通寺駐屯地には第110教育大隊、という部隊を置きまして、その後教育大隊の統廃合が行われ、教育大隊は2個となります。
第3対戦車隊が1962年の第3師団創設と共に大津に新編、当時は未だ64式対戦車誘導弾さえありませんので単なる無反動砲部隊ではありましたが、実戦部隊と教育部隊、という駐屯地として地盤を固めてゆく、ただ、この頃教育団本部は善通寺駐屯地にいました。
第2混成団新編、大きな転機となったのは1981年に西日本の配置部隊強化を期して第2混成団が善通寺駐屯地に新編され、これにより手狭となる駐屯地から第2教育団が大津に移駐、これにより中部方面隊の教育訓練部隊中枢としての大津駐屯地が形成されてゆきます。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)
(本ブログ引用時は記事は出典明示・写真は北大路機関ロゴタイプ維持を求め、その他は無断転載と見做す)
(第二北大路機関: http://harunakurama.blog10.fc2.com/記事補完-投稿応答-時事備忘録をあわせてお読みください)
青空の大津駐屯地、ゴールデンウィーク最初の雨天予報はこの青空が天気予報の悲観論を否定しました。
大津駐屯地祭、ゴールデンウィークの前半である4月29日に創設記念行事が行われまして、COVID-19感染拡大以来初めての一般公開を行うとの事、わりとちかくですし、COVID-19収束見通しの証のような行事開催の一つという事で、ちょっと行ってきました。
南滋賀駅という、京阪電鉄石山坂本線の駅が最寄駅となっていまして、JR湖西線の唐崎駅からはシャトルバスが運行されていたようなのですけれども、石山坂本線の小さい京阪電車も道中撮影してゆこう、ということで浜大津経由で駐屯地へと駅から歩き向かいました。
滋賀県大津市際川の、駅から道は南側が歩きやすいのですが北側の細い道を用水路沿いにある非常に細い歩道を歩いてゆかなければ、ちょっと最後は小川というウェットギャップに行き止まりますので遠回りになってしまいます、この当たりの道は慣れが必要なのです。
海軍航空隊の基地が在った、この大津駐屯地には1942年から3年間ではありますが海軍航空隊がおかれた飛行場跡地となっていまして、水上飛行機を発着させるためのスロープがいまも駐屯地に残っています。個人的に水陸機動部隊を置いては、と思う駐屯地という。
強風、後に紫電改となります川西飛行機の水上戦闘機がこの琵琶湖で訓練飛行に当っていまして、滑走路を建設するよりも早く島嶼部に展開して制空権確保に当る、その為にゼロ戦の倍近い強力なエンジンと倍の機関砲を搭載する、そんな飛行機が此処を飛んでいた。
第33師団第136歩兵連隊、終戦後にこの大津海軍飛行場跡地はアメリカ陸軍が進駐することとなります、この第33師団は1968年に、ヴェトナム戦争の一番忙しい時期に、廃止されていますが、第136連隊はミネソタ州兵に移管、日本からアメリカへ戻っています。
アメリカ軍用地として1958年まで維持されていたようですが、その頃、1954年に創設された自衛隊は駐屯地を探し求めており、なにしろ方面総監部を宇治市に置くこととなり、これでは大阪が遠過ぎるとして幕僚がジープで駐屯地適地を探したという話さえある。
第三管区総監部は中部方面総監部となる際に伊丹駐屯地という、これも良く探したものだけれども、大阪第二空港が朝鮮戦争で拡大しそのまま八尾の大阪第一空港に代わり大阪の玄関口となった関係から、兵庫県なのだけれども大阪の玄関口という好立地なのでした。
第109教育大隊、第3衛生大隊、大津駐屯地はアメリカ軍から返還され自衛隊に移管されますと、先ずこの二つの部隊が置かれる事となります。先ずは教育からということで自衛隊は1959年に大久保駐屯地に第2教育団を新編します、いまの中部方面混成団の前身だ。
第2教育団は隷下に信太山駐屯地に第4陸曹教育隊と第108教育大隊、大久保駐屯地に第107教育大隊、ここ大津駐屯地に第109教育大隊、善通寺駐屯地には第110教育大隊、という部隊を置きまして、その後教育大隊の統廃合が行われ、教育大隊は2個となります。
第3対戦車隊が1962年の第3師団創設と共に大津に新編、当時は未だ64式対戦車誘導弾さえありませんので単なる無反動砲部隊ではありましたが、実戦部隊と教育部隊、という駐屯地として地盤を固めてゆく、ただ、この頃教育団本部は善通寺駐屯地にいました。
第2混成団新編、大きな転機となったのは1981年に西日本の配置部隊強化を期して第2混成団が善通寺駐屯地に新編され、これにより手狭となる駐屯地から第2教育団が大津に移駐、これにより中部方面隊の教育訓練部隊中枢としての大津駐屯地が形成されてゆきます。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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