■雪風とともに参拝
寒い最中の情景は写真で観返しても若干肌寒さを感じる。
北野天満宮は学問の神様、こう崇敬されているところでして、この大雪の季節は確かに大学受験本番、確かに受験生、というよりもそのご家族の方の参拝を多く感じるところです。大願成就叶い梅花咲き誇るころにはお礼参りができますようわたしも祈ろう。
学問の神様として祀られます菅原道真公、ここ北野天満宮は今出川通に面しているのですが、今出川通を東へ進めば同志社大学とその先に京都大学、そしてすぐ近くにはバス停衣笠校前がありまして西大路通からの立命館大学最寄り。不思議なものなのだなあ。
菅家御伝記、菅原道真公についての伝記によれば道真の師は文章生田口達音であり、その教えを受けた菅原道真公は18歳で文章生となったという、この文章生というのは式部省大学寮にて紀伝道を専攻した学生を示すといい、定員20名、毎年の定員ではない。
文章生は官職で幹部候補生、いまの大学のように毎年20人合格するのではなく定員20名の役職ですので、18歳で任官というのはすごいといいますか、なによりこの18歳というのが高校三年生、つまり大学受験と重なることで信仰へつながったのでしょうか、ねえ。
国家公務員一種試験にあたる対策という、試験対策というと受験に備えるものですが対策試験というものは奈良時代から室町時代まで行われた官吏登用試験にあたります、口頭試問方式なのですが菅原道真公はこれに26歳で合格しまして正六位上の官職を得ます。
学問の神様、こう慕われる背景には、なるほどこうした試験に強く、特に口頭試問での評価というのは短答式以上に深い内容の理解を求められるものですから、ご利益ありますように、と願うところなのでしょうか。しかししかし、歴史というのはその先がある。
藤原基経中納言が、菅原道真公を重用したともいい、出世街道に乗りましたと言いますか従五位下に任じられ兵部少輔をそして民部少輔に補職されました。藤原基経は文才に驚いたという話も残りますが、公文書作成を依頼するなど高い信頼関係にあったという。
藤原時平の陰謀で配流となった、菅原道真はこうした終着点が待っているのですけれども、歴史というのは不思議なものでして藤原基経というのは藤原時平の実父に当たります。もっとも左遷された当時は藤原時平と菅原道真は右大臣と左大臣という関係でしたが。
藤原家は当時勢力を更に伸ばそうとしていた時代、いや、大化の改新のころに大きな頭角を見せました明かですので、そのままでも日本の中枢を担っていたのかもしれませんが、それでは不安定だ、と考えたのでしょう、今の日本以上に当時の世間は狭かったのです。
ただ、これは今風の価値観での認識ですが、藤原氏は官位を独占することにはなるのです、ただ、これもいくつかの偶然というものが影響しているように、例えば奈良時代の天然痘流行での生き残りなど、背景にあるのですから、少し考えてしまうのです、それは。
藤原基経に重用されていた菅原道真を、実子の藤原時平はどのようにみていたのだろうか、と思うのですね。いや日本史におけるイエというものの存在は社会学的にいまのイエというものとは比較にはならないほど比重は高かったのですが、結局は人間なのだと思う。
人間関係というものの大切さを考えさせられる、北野天満宮を見上げますと、天神さんにはふとそんなことも考えるのです。もっとも、配流され左遷されてもなおこの信仰、なるほどあやかりたいというよりも慕いたいとおもい、改めてこうべを垂れた次第です。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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(第二北大路機関: http://harunakurama.blog10.fc2.com/記事補完-投稿応答-時事備忘録をあわせてお読みください)
寒い最中の情景は写真で観返しても若干肌寒さを感じる。
北野天満宮は学問の神様、こう崇敬されているところでして、この大雪の季節は確かに大学受験本番、確かに受験生、というよりもそのご家族の方の参拝を多く感じるところです。大願成就叶い梅花咲き誇るころにはお礼参りができますようわたしも祈ろう。
学問の神様として祀られます菅原道真公、ここ北野天満宮は今出川通に面しているのですが、今出川通を東へ進めば同志社大学とその先に京都大学、そしてすぐ近くにはバス停衣笠校前がありまして西大路通からの立命館大学最寄り。不思議なものなのだなあ。
菅家御伝記、菅原道真公についての伝記によれば道真の師は文章生田口達音であり、その教えを受けた菅原道真公は18歳で文章生となったという、この文章生というのは式部省大学寮にて紀伝道を専攻した学生を示すといい、定員20名、毎年の定員ではない。
文章生は官職で幹部候補生、いまの大学のように毎年20人合格するのではなく定員20名の役職ですので、18歳で任官というのはすごいといいますか、なによりこの18歳というのが高校三年生、つまり大学受験と重なることで信仰へつながったのでしょうか、ねえ。
国家公務員一種試験にあたる対策という、試験対策というと受験に備えるものですが対策試験というものは奈良時代から室町時代まで行われた官吏登用試験にあたります、口頭試問方式なのですが菅原道真公はこれに26歳で合格しまして正六位上の官職を得ます。
学問の神様、こう慕われる背景には、なるほどこうした試験に強く、特に口頭試問での評価というのは短答式以上に深い内容の理解を求められるものですから、ご利益ありますように、と願うところなのでしょうか。しかししかし、歴史というのはその先がある。
藤原基経中納言が、菅原道真公を重用したともいい、出世街道に乗りましたと言いますか従五位下に任じられ兵部少輔をそして民部少輔に補職されました。藤原基経は文才に驚いたという話も残りますが、公文書作成を依頼するなど高い信頼関係にあったという。
藤原時平の陰謀で配流となった、菅原道真はこうした終着点が待っているのですけれども、歴史というのは不思議なものでして藤原基経というのは藤原時平の実父に当たります。もっとも左遷された当時は藤原時平と菅原道真は右大臣と左大臣という関係でしたが。
藤原家は当時勢力を更に伸ばそうとしていた時代、いや、大化の改新のころに大きな頭角を見せました明かですので、そのままでも日本の中枢を担っていたのかもしれませんが、それでは不安定だ、と考えたのでしょう、今の日本以上に当時の世間は狭かったのです。
ただ、これは今風の価値観での認識ですが、藤原氏は官位を独占することにはなるのです、ただ、これもいくつかの偶然というものが影響しているように、例えば奈良時代の天然痘流行での生き残りなど、背景にあるのですから、少し考えてしまうのです、それは。
藤原基経に重用されていた菅原道真を、実子の藤原時平はどのようにみていたのだろうか、と思うのですね。いや日本史におけるイエというものの存在は社会学的にいまのイエというものとは比較にはならないほど比重は高かったのですが、結局は人間なのだと思う。
人間関係というものの大切さを考えさせられる、北野天満宮を見上げますと、天神さんにはふとそんなことも考えるのです。もっとも、配流され左遷されてもなおこの信仰、なるほどあやかりたいというよりも慕いたいとおもい、改めてこうべを垂れた次第です。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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