■清涼殿落雷事件への道
水墨画のような情景に浮かぶ社殿に向き合うとともにしかし敢えて歴史を見てみますと、なにか日本的だなあと考えてしまいます。
北野天満宮は曼殊院門跡とのかかわりが深いという。いや歩くと曼殊院まではけっこう覚悟がいる距離、だいたい北大路から鞍馬まで行くような覚悟がいる距離なのですが、時をも超える歴史の思索に距離は関係ありません、実は近しい関係があるのですね。
曼殊院門跡、北野天満宮造営当時にあって門跡の門主是算国師が菅原家の出身であった、こういうこともありまして是算が初代北野別当職に任じられた背景がある。菅原道真公は昌泰4年こと西暦901年、昌泰の変において天皇廃位を企んだと疑いを着せられます。
宇多天皇と醍醐天皇の時代に官職にあった菅原道真、宇多天皇にも重用されるところとなるのですけれども、醍醐天皇の時代に昌泰の変が起きました、娘婿を天皇に嫁がせようとした陰謀だとか、その先に醍醐天皇の廃位をたくらんでいたのだとか、研究されている。
昌泰の変、この時点で宇多天皇は宇多上皇、菅原道真はそんなことを企むような人物ではないしそもそも野心を持つような人間ではないと、宇多上皇は醍醐天皇に使者を送るのですが、受け入れられず、結果的に菅原道真とその実子4名が流罪となったのでした。
菅原道真は太宰府にて窮死したのは歴史にある通りですが、実子は別々のところに流されまして、しかし全員学問に秀でていましたので、例えば大津の石山寺など、大切にされていたのですね。すると刑が撤回されても誰も京都に戻ろうとしない、そんな中で落雷が。
清涼殿落雷事件は醍醐天皇の目の前に落雷が起こる、しかも清涼殿という天皇御座所で、という大事件でした。大納言民部卿の藤原清貫が立ったまま天皇の前で即死するなど大変な騒ぎであり、醍醐天皇はショックのあまり三か月後に崩御、北野天満宮が造営される。
しかし、この時代の日本史は、なにしろこの日本国家がそのあと千年以上続くとは思われていない視野狭窄の時代でしたので権力闘争は日常茶飯事だったのです、菅原道真をかわいがったという藤原基経も応天門の変で権力闘争の表舞台にて頑張っている、それは。
応天門の変、貞観8年こと西暦866年に発生しました大納言伴善男を伊豆へ流罪としました大事件でしたが、大伴氏といいますと神武天皇の御世に付き従った天忍日命の子孫という一族ですので、その左遷は古代からの系譜への大きな衝撃を与えた事件ともいえるもの。
藤原基経は当時参議、ただ実父が大納言という。応天門が放火され、その犯人を捜すさなかに有力氏族であった大伴氏を排斥し、そしてこれは歴史研究が完全に結論を出していない事なのです故断言はできないのですが大伴氏の去ったあと藤原氏が勢力を伸ばす。
本能寺の変の黒幕をテレビなどでは定期的に特集するところではありますが、日本史としては応天門の変のほうが一大事でもあり、しかし千年以上前の事件故に結論はおそらくでまいといいますか、さすがに当時の新資料もそれほど出てこないようにおもえるものです。
藤原氏と菅氏との権力闘争の結果、というところなのでしょうけれども、その後味の悪さからこの社殿が造営され、そして今は受験生が拝んでいるという概況をみていますと、日本史は薄気味悪さが神秘性に置き換えられ今に至るのだなあ、慕情を更に深められました。
北野天満宮、歴史の分岐点の一つとして広がるこの社殿へ、大寒波の雪景色の中の参拝、日常の幕間に紅葉の季節と梅花桜花に新緑の季節の幕間には、こうした雪景色を散策しますと、靴なんかが大変ということはさておき、なにか清涼感を感じるものでした。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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水墨画のような情景に浮かぶ社殿に向き合うとともにしかし敢えて歴史を見てみますと、なにか日本的だなあと考えてしまいます。
北野天満宮は曼殊院門跡とのかかわりが深いという。いや歩くと曼殊院まではけっこう覚悟がいる距離、だいたい北大路から鞍馬まで行くような覚悟がいる距離なのですが、時をも超える歴史の思索に距離は関係ありません、実は近しい関係があるのですね。
曼殊院門跡、北野天満宮造営当時にあって門跡の門主是算国師が菅原家の出身であった、こういうこともありまして是算が初代北野別当職に任じられた背景がある。菅原道真公は昌泰4年こと西暦901年、昌泰の変において天皇廃位を企んだと疑いを着せられます。
宇多天皇と醍醐天皇の時代に官職にあった菅原道真、宇多天皇にも重用されるところとなるのですけれども、醍醐天皇の時代に昌泰の変が起きました、娘婿を天皇に嫁がせようとした陰謀だとか、その先に醍醐天皇の廃位をたくらんでいたのだとか、研究されている。
昌泰の変、この時点で宇多天皇は宇多上皇、菅原道真はそんなことを企むような人物ではないしそもそも野心を持つような人間ではないと、宇多上皇は醍醐天皇に使者を送るのですが、受け入れられず、結果的に菅原道真とその実子4名が流罪となったのでした。
菅原道真は太宰府にて窮死したのは歴史にある通りですが、実子は別々のところに流されまして、しかし全員学問に秀でていましたので、例えば大津の石山寺など、大切にされていたのですね。すると刑が撤回されても誰も京都に戻ろうとしない、そんな中で落雷が。
清涼殿落雷事件は醍醐天皇の目の前に落雷が起こる、しかも清涼殿という天皇御座所で、という大事件でした。大納言民部卿の藤原清貫が立ったまま天皇の前で即死するなど大変な騒ぎであり、醍醐天皇はショックのあまり三か月後に崩御、北野天満宮が造営される。
しかし、この時代の日本史は、なにしろこの日本国家がそのあと千年以上続くとは思われていない視野狭窄の時代でしたので権力闘争は日常茶飯事だったのです、菅原道真をかわいがったという藤原基経も応天門の変で権力闘争の表舞台にて頑張っている、それは。
応天門の変、貞観8年こと西暦866年に発生しました大納言伴善男を伊豆へ流罪としました大事件でしたが、大伴氏といいますと神武天皇の御世に付き従った天忍日命の子孫という一族ですので、その左遷は古代からの系譜への大きな衝撃を与えた事件ともいえるもの。
藤原基経は当時参議、ただ実父が大納言という。応天門が放火され、その犯人を捜すさなかに有力氏族であった大伴氏を排斥し、そしてこれは歴史研究が完全に結論を出していない事なのです故断言はできないのですが大伴氏の去ったあと藤原氏が勢力を伸ばす。
本能寺の変の黒幕をテレビなどでは定期的に特集するところではありますが、日本史としては応天門の変のほうが一大事でもあり、しかし千年以上前の事件故に結論はおそらくでまいといいますか、さすがに当時の新資料もそれほど出てこないようにおもえるものです。
藤原氏と菅氏との権力闘争の結果、というところなのでしょうけれども、その後味の悪さからこの社殿が造営され、そして今は受験生が拝んでいるという概況をみていますと、日本史は薄気味悪さが神秘性に置き換えられ今に至るのだなあ、慕情を更に深められました。
北野天満宮、歴史の分岐点の一つとして広がるこの社殿へ、大寒波の雪景色の中の参拝、日常の幕間に紅葉の季節と梅花桜花に新緑の季節の幕間には、こうした雪景色を散策しますと、靴なんかが大変ということはさておき、なにか清涼感を感じるものでした。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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