「怖い」という感情がなかったら?
こんな普段は考えないことを、この2-3日考えていた。遊園地の絶叫マシーンの楽しさが、半減することもあるかもしれないが、今の私には、「怖い」という感情の恩寵といってよい体験を深く感謝している。
進学、就職、結婚、子育て、退職、第二の人生の選択など、今考えるといくつかの人生の重大な選択があったと思う。選択したことがあることは、選択しなかった裏面もあるということだ。
選択しなかったことの理由の中には、「怖い」という感情の存在が大きいように思う。それは、命を守るものであったり、危ない道を避けたりしたと思う。今こうして生きて、ブログを書いているのも、「怖い」という感情の存在のお陰だとも思う。感謝である。
今まで一度「怖い」という感情を持ちながら、敢えて選択したことがあった。サラリーマンをやめるときであった。ただ、今となって考えると良かったと思う。一年考え続けて決行したことは、それなりの重みがあった。人生は、自分以外の何かに賭けるときがあってもいいと思う。
もひとつ、大きな「怖い」感情の効用がある。生き続ける中で、だんだん増大してくる罪障感というものがある。意識のレベルもあるが、無意識のレベルでの罪障感の蓄積があるように思う。
罪障感が高まり、それで局面を打開できないとき、「怖い」の感情・情動は、オセロの最後の一手で全てが白になるように、人をとんでもない平安な世界に引き込むように思う。
それが偏見かもしれないが、宗教的な回心の別の見方かもしれない。
「怖い」という感情。人の生死に絡むような感情でありながら、さらに生死を越えた何かを志向させる感情かもしれない。遊園地の絶叫マシーンの人気も、意外と深い意味があるかもしれない。
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