小学校の高学年のころであった。どういうわけか、ミレーの少年少女用の伝記を読んで感動した。ミレーの真実を求めるストイックな姿勢に惹かれたのだと思う。その本の中に、確か晩鐘の絵があった。タイトルが「アンジェラスの鐘」となっていて、その絵は「アンジェラスの鐘」と覚えてしまった。
そして、ある日、小学校の道徳の時間か何かで、ミレーが話題になった。有名な絵画の名前を知っている人は?との先生の問いに、勇んで「アンジェラスの鐘」と回答したが、正解は「晩鐘」といわれがっかりした記憶がある。
同じような経験は、それだけでなく、別のところでもあった。当時地学部で宇宙の知識がある程度詳しかったが、それに関することだった。
世の中には回答が一つとは限らない。また、いくら正解を言っても報われないときがある、そんなことを学んだのだった。
さて、大人になると、さまざまな問題の回答は見方によって変わり、どれが正解かはなかなか判らないことを知る。そして、自分の様々な問題に直面すると、人に頼ったり、深く考えないで刷り込まれた見方で回答を得ても、何か腑に落ちない・・・と気付くようになる。自分のことは最終的には自分で決める。
様々な現象の中で、自分の問題は当事者である自分の中に最適解がある(隠れている)という知見は、生き甲斐の心理学に限らず、現代の心理学の常識ではないかと思う。
今、自分の中にある停滞感。それと、無理をしない範囲で向き合う。そこから何かが始まると思う。人のせい(感情転移の防衛機制)にするのではなく、他人の問題をおせっかいにも追いかける(これも防衛機制か)のではなく・・・ちょっとは自分の問題として考え直すのが悔いを残さない道のようだ。
2011年。東日本大震災があり、福島原発問題があり、そして私にとっては還暦。NPO等の仕事にも、大きな時代の流れのなかで変化が求められている。
中年の危機と世話 3/10