会社を8年前に辞めてから、≪生き甲斐の心理学≫というこころの学問を応用しようと、一時グループリビング立ち上げの仕事をしようと修行をはじめた。実際にフルで介護・福祉の仕事をしたのは二年程度で残り二年はパートタイマー的な仕事をし続けた。
その中でバリバリの障がい者の当事者団体のNPOで働いたり、有料老人ホームで認知症の方のケアを行うなど、さまざまな経験をさせていただいた。
素晴らしい人との出会いもあり、一時はずっと働きたかったが、途中で今の≪生き甲斐の心理学≫普及の道に的を絞ったため、残念ながらボランティアを除き、福祉・介護の仕事を辞めざるを得なかった。
ただ、4年たって不思議なことに、今度は自分の問題として介護を考えざるを得ないようになってきた。
最近同年齢の人とも話すが、やはり両親の介護などの話題が多い。どうも、私だけでなく多くの日本人の問題だとつくづく思う。
ただ、受け止め方が結構人によって違うようだ。介護や介助を果てしなく暗い苦役と考える人がいる一方、一時的な通過儀礼のように考えていて楽観的な人もいる(大変は大変でも明るい)。私は、後者のほうだが、このあたりの受け止め方は心理学的に考えるとどうなのだろうか。
自分の場合は、カトリックの死生観に負うところだと思う。ただ、恐らく他の伝統宗教等でも共通のところがある(比較宗教学をベースにした心理学の研究で、信じて見える世界と見えない世界の研究がある。神仏を信じる人は、どうも基本的にどんな場合でも楽観的なようだ)。
人間は自分を含め極めて弱いと思う。ある日、身体にハンディキャップを背負ったり、精神を病んだり、そういうことは世の中に満ち溢いて、いつ自分の身に降りかかってきてもおかしくないと思う。
その中で、身の丈にあった、介護をしたり、時にはされたり。これは、本質的に決してネガティブなことではない。なぜなら、この世ですべては終るのではなくあの世の存在(天国・・・めでたいかな?)を信じているからである(もちろん、あの世を信じないというスタンスがあることを知ってはいる。ただ、あの世については、残念ながら科学等も含め、真理は誰も解明されていない。)
エリクソンではないが、世話をすることによって得られる精神的な平安は大きい(停滞感など、何処かに飛ぶような)。上から目線の話では決してなく、世話することで、人はどこからか世話されるようだ(信じて見える世界かもしれない)。
先日は、奈良で新薬師寺に行ったが、日本の福祉の原点のような光明皇后のやさしさをほうふつするような薬師如来が鎮座していた。古代から日本人の中にも脈々として≪世話≫の伝統が流れているようだ。
中年の危機と世話 7/10