イキイキと生きる!

縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

命がけの食事!

2007-11-09 | 第十章「今ここでの恩寵」

 モンゴロイドの道(科学朝日編 朝日叢書)という面白い本がある。我々日本人もそうであるが、モンゴロイドがどのように世界に広まって行ったかという人類史の本である。

 その中で、モンゴロイドが最終氷河期にベーリング海峡を渡り、アメリカ大陸から年米まで、当時豊富であった大型獣を追って急激に南下していく話がある。僅か1000年の間に大型獣を食べつくし、そして、当時毒性の強い植物をなんとか食べられるように工夫して生き延びる。

 飢餓の中、生き残るために、いろいろなものを食べたり、食べられるように工夫すること。こんなことを私たちの祖先が命がけで行ったと思うと、何か胸が熱くなる。

 周りを見回しても、毒キノコや河豚などの毒性の強い魚。いろいろなモノを祖先たちは、毒抜き等いろいろ試みて子孫に、様々なノウハウを残している。恐らく、怖いという感情と戦いながら、試したのだろう。中には、大事な家族を残して亡くなった祖先もいただろう。

 生きることの意味。食べることの意味。時には深く考えてみたい。

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「怖い」という感情と脳!

2007-11-08 | 第十章「今ここでの恩寵」

 脳についてのサイエンスは、この数十年で急速に進歩していると良く言われている。宗教体験を脳のサイエンスとして研究する、面白い分野もあるようだ。

 「怖い」という原初的感情は脳とどのように関係しているのだろうか?そんなことをふと思い、先ほどちょっと調べてみた。

 恐怖心は原始的な脳といえる大脳辺縁系の扁桃核を中心に、視床下部、海馬とも関係しているようである。そして、この領域はもうひとつの原初的な、好き嫌いの感情もあるといわれている。さらに宗教体験とも深く関係しているとも言う研究者もいる。驚きである。

 今の世の中は面白い。遺伝子で人類史を研究したり、脳のサイエンスで宗教体験を研究したりする。

 鉄腕アトムが誕生した2003年4月7日も過ぎた今、科学の進歩は信じられないような知識を私たちに与えてくれるようだ。

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(手塚治虫記念館)


「怖い~」の効用!

2007-11-07 | 第十章「今ここでの恩寵」

 「怖い」という感情がなかったら?

 こんな普段は考えないことを、この2-3日考えていた。遊園地の絶叫マシーンの楽しさが、半減することもあるかもしれないが、今の私には、「怖い」という感情の恩寵といってよい体験を深く感謝している。

 進学、就職、結婚、子育て、退職、第二の人生の選択など、今考えるといくつかの人生の重大な選択があったと思う。選択したことがあることは、選択しなかった裏面もあるということだ。

 選択しなかったことの理由の中には、「怖い」という感情の存在が大きいように思う。それは、命を守るものであったり、危ない道を避けたりしたと思う。今こうして生きて、ブログを書いているのも、「怖い」という感情の存在のお陰だとも思う。感謝である。

 今まで一度「怖い」という感情を持ちながら、敢えて選択したことがあった。サラリーマンをやめるときであった。ただ、今となって考えると良かったと思う。一年考え続けて決行したことは、それなりの重みがあった。人生は、自分以外の何かに賭けるときがあってもいいと思う。

 もひとつ、大きな「怖い」感情の効用がある。生き続ける中で、だんだん増大してくる罪障感というものがある。意識のレベルもあるが、無意識のレベルでの罪障感の蓄積があるように思う。

 罪障感が高まり、それで局面を打開できないとき、「怖い」の感情・情動は、オセロの最後の一手で全てが白になるように、人をとんでもない平安な世界に引き込むように思う。

 それが偏見かもしれないが、宗教的な回心の別の見方かもしれない。

 「怖い」という感情。人の生死に絡むような感情でありながら、さらに生死を越えた何かを志向させる感情かもしれない。遊園地の絶叫マシーンの人気も、意外と深い意味があるかもしれない。

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暗い時にも光はあるさ!

2007-11-06 | 第十章「今ここでの恩寵」

 万葉集を昨晩読み始めた。最初は有名な、雄略天皇の「籠もよ み籠持ち ふくしもよ・・・」から始まる。雄略天皇はどんな方のかなと不思議に思い、日本書紀を読んだが、戦争に明け暮れる日々の記述から、決して平和な時代の方ではないことが判る。

 なにか、象徴的な歌であるようだが、良くわからないのが実感である。ただ、若い頃の読後感は明るい単純なイメージの歌であったが、今は反対にどろどろとした背景を感じてしまう。

 歳を重ねてくるうちに、自分の血(DNA等)の中にある、暗い側面を実感し始めてきたように思う。生きるということは、例えば他の生命を食べながら生き続けるということから判るように、居心地が悪い部分がある。それが、例えばキリスト教ではアダムが人の祖として犯した原罪ということになるのだろうか。そそして、50歳台になってからの、万葉集の歌の解釈にも影響を与えるているかもしれない。

 日本という国について考える。最近の不安定な政局を思いつつも、ちょっと視点を変えて考えてみる。今でこそ、GDPは世界で2位10%以上、米国と日本で40パーセント以上のGDPと言われる。人口も1億人をはるかに越え、今の首相は日本の史上有数の富んだ国の長ということになるのだろう。

 縄文時代初期は、日本の人口約2万人、弥生時代で約60万人、奈良時代ですら540万人というデータもある。この歌が読まれたときの、恐らく何百倍の人口と計り知れないほど富んだ日本。その日本も、この歌が読まれたころと同様に、どこか不安定である。人間とは何かを考えさせられる。

 ただ、こうした時代にも、光があることも事実であり、光に導かれて生きていく価値は充分あると信じている。

 雄略天皇が、自分の腕を食おうとした虻を、蜻蛉が食い飛び去ったのを見て喜んだ記述がある。暗い部分に眼が行くのは人の常かもしれないが、明るい部分を見る意思は、健康に生きる上で大切だと思う。

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怨霊と青春!

2007-11-05 | 第十章「今ここでの恩寵」

 大学に入るまで、7歳のときを除けばすべて四谷周辺で生活した。通学もすべて歩きであった。高校は赤坂方面であったが、40分くらい歩いて通った。上智大学の土手もよく歩いた。

 上智大学からニューオタニにかけて、紀伊坂がある。若い頃読んだラフカディオハーンの書いた、のっぺらぼうの舞台でもある。確かにちょっと不気味なところがある。

 高校生になったころから、幼い頃からのカトリックの信仰に疑問を持ち、教会に行かなくなった。そして、何故か日本の怨霊、幽霊に興味を抱くようになる。高校生のころの国語や日本史などで、師に恵まれたことも一因である。師の面影を想い、深く感謝している。

 大学を卒業し、社会人になりたてのころは、当時の人気であった。梅原猛氏の著作を良く読んだ。そして25歳から29歳に関西転勤となったこともあり、嬉々として京都、奈良などの史跡に行った。

 法隆寺が聖徳太子の怨霊鎮魂の寺という説にも興味はあったが、柿本人麻呂論としての「水底の歌」は推理小説を読むように夢中で読んだ記憶がある。

 キリスト教は当時の自分にとっては、自分の深いところでどこか違和感があり、自分の祖先である日本的、東洋的なものに惹かれていったのだと思う。その最たるものが怨霊だったかもしれない。

 先日、日本の怨霊(大森亮尚著 平凡社)を薦められて読ませていただき、感動しつつ読了した。井上内親王、早良親王などの歴史の勉強であまり習わなかった方の生涯を通して、当時の歴史がリアルに紹介されている。万葉集の成り立ちでは、以前読んだ梅原猛氏の柿本人麻呂論を補完し、より良く理解できたと思う。

 今また、カトリックの信仰を持つようになったが、青春時代に惹かれ始めた、人間にとっては余りありがたくない怨霊を考えることで、自分をより知ることになるのではと思い始めている。

 そんな想いもあり、先日鎮魂の書とも言える「万葉集」を購入してしまった。場所をとる積読かもしれないが、死ぬまでに一読したい。

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