私はデカルトが好きである。なぜかといえば学問の方法を考え出したということが好きだ。ユークリッドの初等幾何学に座標の考えを導入して、解析幾何学といわれている学問を創設したのでデカルトは特に有名である。
湯川秀樹もこのデカルトが好きであったと思う。一度何故好きなのですかと聞いたのだが、明確な返答はなかった。でもそんなことは答えがなくとも分かっているような気がする。
学者の中には方法とかいわなくとも自分で体の中にすでにもっている人もいる。私が湯川に直接具体的に名を挙げてデカルトと比較して聞いたのはパスカルだが、私にはパスカルは好きになれない。彼は方法とかいうようなことをいわなくとも数学でもなんでも創造的なことが出来る直観的なタイプだったろうと思っている。
湯川は方法とかを考えたりするタイプの学者には見えないが、自分では何らかの方法とか創造に対する意識をもっていたのだろうと思う。それが彼の書いたいくつかの本に現れている。
私が方法ということをしきりに意識したのは大学の受験勉強をしているときであった。劣等生だった私はそういうことを自然に考えるようになった。もっとも中学校のときに英語の教授法について書いた本を中学校の図書館で見ていたりしたからそれ以前からも何かをするときの方法に関心があったかもしれない。
頭のよくないものが頭のいいものになんとか追いつくことができないまでもそれほど遅れないためには方法論を意識する必要があるというのが私の考えである。
これと同じコンテキストからといっていいと思うが、私の先生の一人S先生は頭の悪いものは数学くらいは使わなくてはならないというのが、口癖であった。もっとも私の大学のときの先生にはS先生が3人もいるので、どのS先生かと気になるかもしれないが、3人の中で一番年寄りの先生のことである。もう存命ではない。